近衛忠煕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

近衛 忠煕(このえ ただひろ、文化5年7月14日1808年9月4日) - 明治31年(1898年3月18日)は、幕末公卿公武合体派として活動した。翠山と号す。

経歴[編集]

父は近衛基前安政4年(1857年)、左大臣となるが、将軍継嗣問題一橋派に属し、戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し、落飾謹慎する。

文久2年(1862年)に復帰して九条尚忠に代わり関白内覧を務めるが、翌年関白職を辞し、鷹司輔煕が後任となった。東京遷都後、ほとんどの公家が東京に移住した後も京都に居住、孫の篤麿を引き取り養育に専念した。明治天皇の度重なる要請に折れ東京に移ったのは、息子の忠房が死んだ後の明治11年(1878年)のことである、[1]

死後6年経った明治37年(1904年)に正一位を追叙された。

官歴[編集]

※日付=明治5年までは旧暦

栄典[編集]

家族[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 大久保利謙編『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム 九』、毎日新聞社
  2. ^ 『官報』第3976号、「叙任及辞令」1896年09月28日。

関連項目[編集]