藤原伊尹
| 藤原伊尹 | |
|---|---|
| 時代 | 平安時代中期 |
| 生誕 | 延長2年(924年) |
| 死没 | 天禄3年11月1日(972年12月9日) |
| 別名 | 一条摂政 |
| 諡号 | 謙徳公(漢風諡号)、三河公(国公) |
| 官位 | 正二位、摂政、太政大臣 贈正一位 |
| 氏族 | 藤原北家九条流 |
| 父母 | 父:藤原師輔、母:藤原盛子(藤原経邦の娘) |
| 兄弟 | 伊尹、兼通、安子、兼家、遠量、忠君、遠度、遠基、高光、尋禅、愛宮、公季 |
| 妻 | 惠子女王(代明親王の娘) 井殿(源信明の娘) |
| 子 | 親賢、惟賢、懐子、挙賢、義孝、光昭、義懐、周挙 |
藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)は、平安時代中期の公卿。
右大臣藤原師輔の長男で、妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めた。しかし、その翌年に早逝。子孫は振るわず、権勢は弟の兼家の家系に移る。
目次 |
生涯 [編集]
父の師輔は右大臣として村上天皇の天暦の治を指導した実力者だった。妹の中宮安子が村上天皇の後宮に入り、東宮憲平親王、為平親王、守平親王といった有力な皇子を生んでいる。
天慶4年(941年)従五位下に叙される。 村上天皇の時代の天暦・天徳年間に蔵人に補任され、美濃介・伊予守など地方官を兼任した。ところが天徳4年(960年)に父・師輔が急死する。この時、伊尹は従四位上蔵人頭兼春宮権亮兼左近衛権中将であり、弟の兼通・兼家もともに従四位下中宮権大夫、正五位下少納言に過ぎず、九条流は存亡の危機を迎えた。だが、憲平親王を皇太子と定めた村上天皇の強い意向で、同年の除目で参議に進み、康保4年(967年)に従三位に昇り、続いて上臈4名[1]を飛び越して権中納言に転じる。その間に弟の兼通・兼家を相次いで蔵人頭に送り込むことに成功して、村上天皇との関係を維持した。
同年、村上天皇が崩じて安子所生の皇子憲平親王が即位(冷泉天皇)。父の師輔は既になく、伯父の実頼が関白太政大臣となったが、天皇との外戚関係がなく力が弱かった。一方、伊尹は天皇の外伯父として、権大納言に任じられ、翌安和元年(968年)正三位に昇る。伊尹は冷泉天皇に娘の懐子を女御として入内させ、師貞親王が生まれている。
冷泉天皇は狂気の病があり、長い在位は望まれず、東宮には同母弟の為平親王、守平親王が有力だったが、年少の守平親王が東宮に選ばれた。これは為平親王の妃が左大臣源高明の娘であり、将来源氏が外戚となることを藤原氏が恐れたためだった。さらに、安和2年(969年)、源満仲が謀反の密告をし、突如高明は失脚して大宰府へ左遷されてしまった(安和の変)。この陰謀の首謀者は諸説あるが伊尹が仕組んだという説もある。同年、冷泉天皇は譲位し、守平親王が即位する(円融天皇)。東宮には師貞親王が立てられた。
天禄元年(970年)右大臣に拝せられ、同年、摂政太政大臣だった伯父の実頼が薨去し、天皇の外伯父の伊尹は摂政・氏長者となる。天禄2年(971年)太政大臣に任ぜられ、正二位に進む。伊尹は名実ともに政権を掌握したが、それから程ない翌天禄3年(972年)病に倒れ、上表して摂政を辞め、まもなく薨去した。享年49。正一位を贈られ、謙徳公と諡された。死因は糖尿病だったとする説が有力である。
伊尹の後任の関白には兼家が有力だったが、中宮安子の遺言によってその兄の兼通が任じられた。永観2年(984年)、円融天皇が譲位して師貞親王が即位した(花山天皇)。外伯父となった伊尹の子の中納言義懐が朝政を執るが、花山天皇は兼家の策謀によって出家退位させられ、一条天皇が即位し、外戚の兼家が摂政となった(寛和の変)。絶望した義懐は出家してしまい、以降、伊尹の系統は振るわなくなる。
人物 [編集]
性格は豪奢を好み、大饗の日に寝殿の壁が少し黒かったので、非常に高価な陸奥紙で張り替えさせたことがある[2]。父の師輔は子孫に節倹を遺訓していたが、伊尹はこの点は守らなかった[3]。
和歌に優れ、天暦5年(951年)梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰和歌集』の編纂に深く関与した。『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に38首が入首[4]。家集『一条摂政御集』(『豊蔭集』)がある。書家として名高い藤原行成は孫であり、そこから世尊寺家を輩出した。
逸話 [編集]
『大鏡』において、伊尹の若死についての以下の逸話がある。
- 伊尹が若年の頃の除目で藤原朝成とともに蔵人頭の候補になった。朝成は伊尹がまだ若く、家柄もよいのだから、これからも機会はあろうが、自分はこれが最後の機会だから譲ってくれと頼み込んだ。伊尹はこれを承知するが、結局、蔵人頭には伊尹がなった。朝成は生霊となって祟りをなし、摂政になって程ない伊尹を殺し、その子たちにも祟りをなしたという。なお、記録上両者が官職を競合したとする証拠は無く、伊尹は朝成よりも先に亡くなっている[5]。
系譜 [編集]
官歴 [編集]
※日付=旧暦
- 941年(天慶4)2月7日、従五位下に叙位。4月12日、昇殿を許される。
- 942年(天慶5)12月17日、侍従に任官。
- 946年(天慶9)3月7日、右兵衛佐に遷任。
- 948年(天暦2)1月7日、従五位上に昇叙。1月30日、左近衛少将に任官。10月9日、蔵人を兼帯(2月補任の説あり)。
- 949年(天暦3)1月24日、美濃介を兼任。
- 951年(天暦5)1月30日、紀伊権介を兼任し、美濃介を去る。月日不詳、撰和歌所別当を兼帯。
- 952年(天暦6)1月7日、正五位下に昇叙し、蔵人・左近衛少将如元。
- 955年(天暦9)1月7日、従四位下に昇叙し、左近衛少将如元。1月17日、昇殿を許される。7月27日、左近衛権中将に転任。8月7日、蔵人頭を兼帯。
- 956年(天暦10)3月24日、春宮(のちの冷泉天皇こと、憲平親王)権亮を兼任。
- 958年(天徳2)1月30日、伊予権守を兼任。
- 960年(天徳4)1月7日、従四位上に昇叙し、左近衛権中将・春宮権亮如元。8月9日、伊予守を兼任。8月22日、参議に補任し、左近衛権中将如元。
- 961年(天徳5)1月25日、伊予守を兼任(紀伊権守を兼任の説あり。また、3月25日兼任の説もある)
- 963年(応和3)1月22日、備中守を兼任し、伊予守を去る。
- 965年(康保2)1月7日、正四位下に昇叙し、参議・左近衛権中将・備中守如元。
- 967年(康保4)1月20日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。12月13日、権大納言に転任。
- 968年(安和元)11月23日、正三位に昇叙し、権大納言如元。
- 969年(安和2)3月26日、大納言に転任し、右近衛大将を兼任。11月11日、左近衛大将を兼任し、右近衛大将を去る。
- 970年(安和3)1月27日、右大臣に転任。2月2日、左近衛大将如元。5月20日、摂政宣下。右大臣・左近衛大将如元。7月13日、従二位に昇叙し、摂政・右大臣・左近衛大将如元。7月28日、左近衛大将を辞任。10月20日、蔵人所別当を兼帯。
- 971年(天禄2)11月2日、正二位に昇叙し、太政大臣宣下。摂政如元。
- 972年(天禄3)10月23日、摂政と太政大臣を辞す。11月1日、薨去。享年49。11月5日、贈正一位。三河国に封ぜられる。諡号は謙徳公
脚注 [編集]
関連項目 [編集]
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