源扶義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
源扶義
時代 平安時代中期
生誕 天暦5年(951年
死没 長徳4年7月25日998年8月19日
別名 源叔(字)
官位 正四位下参議
主君 円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:源雅信
母:藤原元方の娘
源是輔の娘
成頼経頼延尋簾子源明理室、後藤原道長妾)、藤原兼隆室、女子
テンプレートを表示

源 扶義(みなもと の すけのり)は、平安時代貴族官位正四位下参議。字は源叔

経歴[編集]

一般の上流貴族子弟の昇進過程とは異なり、学問を志して大学寮に入り、25歳であった天延3年(975年)に文章生として記録に登場する。その2年後に蔵人として仕官。同年12月図書助に任ぜられる。式部少丞を経て、天元3年(980年従五位下遠江権守に叙任される。天元4年12月(982年1月)に円融天皇昇殿を許される。天元5年(982年安芸権守、翌年には河内守を務める。永観2年(984年)に従五位上に叙され、朱雀院殿上となる。寛和2年(986年正五位下に昇る。6月に寛和の変により一条天皇が即位すると再び昇殿を許され、永延元年(987年)4月に円融院別当に任ぜられ[1]五位蔵人右少弁に進む。

その後も順調に出世し、左少弁蔵人頭左中弁頭弁)を歴任。正暦4年(993年敦道親王元服の際には秉燭を同じく頭弁の源俊賢とともに務めた[2]。正暦5年(994年)には参議右大弁に任ぜられ公卿に列し、一条天皇の九卿の一人と呼ばれるようになる。正暦6年(995年美作守長徳2年(996年)には左大弁に任ぜられ、長徳3年(997年大蔵卿となるが、長徳4年(998年)7月25日に卒去享年48。死の10日前には仁王会に参じている[3]。なお、寛弘7年(1010年)10月15日に扶義の邸宅が焼失している[4]

官歴[編集]

※以下、『公卿補任』の記載に従う。

  • 天延3年(975年)12月:文章生
  • 貞元2年(977年)8月11日:蔵人、12月14日(978年1月25日):図書助
  • 貞元3年(977年)2月4日:式部少丞
  • 天元3年(980年)正月7日:従五位下(氏)、正月29日:遠江権守
  • 天元4年12月14日(982年1月11日):昇殿
  • 天元5年(982年)正月30日:安芸権守(式部)、12月:昇殿
  • 天元6年(983年)2月26日:河内守(與祐忠朝臣所相替也)
  • 永観2年(984年)8月9日:従五位上(造宮賞)、8月28日:朱雀院殿上
  • 寛和2年(986年)11月18日:正五位下(造豊楽院功)、11月26日:昇殿
  • 永延元年(987年)7月7日:五位蔵人、11月11日:右少弁
  • 永延2年(988年)正月29日:左少弁
  • 永祚2年(990年)8月30日:従四位下(造宮行事賞)、左中弁、9月1日:昇殿、10月5日:中宮権亮
  • 正暦2年(991年)正月27日:播磨権守、3月25日:蔵人頭、4月26日:従四位上(治国)
  • 正暦3年(992年)8月28日:内蔵頭、12月7日(993年1月2日):正四位下(中宮三條新宮渡御。以宮司有此賞)
  • 正暦4年(993年)7月8日:中宮権大夫
  • 正暦5年(994年)8月28日:参議(中宮権大夫如元)、9月8日:右大弁
  • 正暦6年(995年)正月13日:美作守
  • 長徳2年(996年)8月28日:左大弁
  • 長徳3年(997年)7月9日:大蔵卿

系譜[編集]

近江源氏佐々木氏は成頼の子孫を称した。

脚注[編集]

  1. ^ 小右記永延元年4月29日条
  2. ^ 権記正暦4年2月22日条
  3. ^ 『権記』長徳4年7月10日条
  4. ^ 御堂関白記寛弘7年10月15日条
  5. ^ 一説では源時通の娘。