藤原実方
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藤原 実方(ふじわら の さねかた、生年不詳 - 長徳4年12月12日(999年1月2日))は、平安時代中期の貴族・歌人。藤原北家小一条流。左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。大納言・藤原済時の養子。官位は従四位上[1]・左近衛中将。中古三十六歌仙の一人。
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[編集] 経歴
父・藤原定時が早逝したため、伯父の藤原済時の養子となる。花山・一条両天皇に仕え、従四位上・左中将に至った。しかし、長徳元年(995年)に一条天皇の面前で藤原行成と歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生する。行成は取り乱さず、主殿司に冠を拾わせ事を荒立てなかった。これが原因で天皇の怒りをかい、「歌枕を見てまいれ」と命じられ[2]、実方は陸奥守に左遷[3]され現地に下向。一方の行成は蔵人頭に抜擢された[4]。
『今昔物語集』[5]にある、鎮守府将軍平維茂と藤原諸任との合戦は、実方が陸奥守在任中のこととされる[6]。
長徳4年12月(999年1月)、任国で実方が馬に乗り笠島道祖神前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって没した(名取市愛島に墓がある)。年齢は40歳ほどだったという。また横浜市戸塚区にも伝墓所がある。
『拾遺和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に64首が入集[7]。家集に『実方朝臣集』がある。
[編集] 逸話・説話
- 藤原公任・源重之・藤原道信などと親しかった。風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもある。
- 当時、五月の節句には菖蒲を葺く風習があった。実方が陸奥守として下向した際、人々が節句にもかかわらず菖蒲を葺かないのを見て、国府の役人に理由を尋ねたところ、陸奥国にはそのような習慣はなく、菖蒲も生えていないとのことであった。すると実方は、浅香の沼[8]の花かつみというものがあるのでそれを葺くように命じたことから、陸奥国では節句に菰を葺くようになったという[9]。
- 死後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没するとの噂が流れたとされる[10]。また、死後、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念によりスズメへ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという[11]。
[編集] 系譜
[編集] 脚注
- ^ 『尊卑分脈』では正四位下とする。
- ^ 『古事談』による。陸奥国府・多賀城近辺を初め、陸奥国に歌枕が多くあるため、「歌枕」が陸奥国の代名詞となっている(『仙台市史』通史編2 古代中世)。
- ^ ただし、実方は陸奥下向の際に天皇から多大な餞別を受けた事が、当の口論相手の行成の日記『権記』に克明に記されている事から、左遷とは言えないとの説もある。
- ^ 実方が陸奥守に任ぜられたのは995年(長徳元年)正月13日、一方で行成が蔵人頭に任ぜられたのは同年8月29日と任官時期に8ヶ月も開きがあり、さらにその任官理由は源俊賢の推挙によるものとされる(『大鏡』第3巻24)ことから、この行成との逸話については事実と相違する。都人の間に辺境の地で客死した実方への同情があり、このような説話(後述の死後亡霊となった噂や、スズメに転生した話も含め)の形成につながったと考えられる。(竹鼻績『今鏡 (下)』講談社学術文庫、1984年、530頁)
- ^ 『今昔物語集』巻第25第5
- ^ a b c 『尊卑分脈』による。
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ 岩代国安積郡にあった沼で、歌枕であった。
- ^ 『今鏡』第10 363段、『無名抄』、『和歌童蒙抄』など。
- ^ 『枕草子』
- ^ 『今鏡』第10 364段、『古事談』第2 臣説、『十訓抄』第8など。
- ^ 『熊野別当系図』による。
- ^ a b 熊野別当家は熊野別当職を重代職とすることの正統性を示すため、熊野別当家を貴種につらなる家系である主張する「熊野別当代々次第」なる系譜図を作成した。しかし、そうした主張は同時代には受けいれられたわけではなかった(宮家 準、1992、『熊野修験』〈吉川弘文館(日本歴史叢書) ISBN 4642066497〉、pp.18-19)。