陽成天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
陽成天皇
第57代天皇
江戸時代の百人一首より
元号 貞観
元慶
先代 清和天皇
次代 光孝天皇

誕生 869年1月2日
染殿第
崩御 949年10月23日
冷然院
陵所 神楽岡東陵
御名 貞明
異称 持明院殿
父親 清和天皇
母親 藤原高子
子女 元長親王
元利親王
長子内親王
元良親王
元平親王
皇居 平安宮
テンプレートを表示

陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日869年1月2日) - 天暦3年9月29日949年10月23日)、在位:貞観18年11月29日876年12月18日) - 元慶8年2月4日884年3月4日))は第57代天皇貞明(さだあきら)。

目次

[編集] 系譜

第56代清和天皇の第一皇子。母は権中納言藤原長良〔ふじわらのながら〕の娘、女御藤原高子(二条后)。子に歌人として優れた元良親王元平親王らがいる。元平親王は陽成源氏の祖であるが、のちに武家の棟梁となる清和源氏は実際は陽成源氏で、この元平親王を先祖とするが、後述するとおり陽成帝には暴君との評判があり、それを嫌って一代前の清和天皇に祖を求めたのだとの説が近年提示されている[1]

[編集] 系図

 
(54)仁明天皇
 
(55)文徳天皇
 
(56)清和天皇
 
(57)陽成天皇
 
元良親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟喬親王
 
 
貞純親王
 
(源)経基清和源氏へ〕
 
 
 
 
 
(58)光孝天皇
 
(59)宇多天皇
 
(60)醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
人康親王
 
操子女王
(藤原基経妻)
 
 
真寂法親王
(斉世親王)
 
 
 
 
 
敦実親王
 
(源)雅信宇多源氏へ〕
 
 


[編集] 略歴

生後3ヶ月足らずで立太子。9歳で清和天皇から譲位され帝位に就く。在位の初めは父上皇、母高子、摂政藤原基経(天皇の伯父)が協力して政務を見た。が、父清和上皇の死後、基経との関係が悪化したらしく、元慶7年(883年)8月より、基経は出仕を拒否するようになる。清和天皇に二人の娘を入内させたのに続き、陽成天皇の元服に際し、さらに娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、母后の高子が拒否したためではないかというのが、近年の説[2]である。ただし、清和天皇の譲位の詔が基経の摂政を陽成天皇の親政開始までとしている以上、基経が元慶6年(882年)の天皇の元服を機に、親政への準備期間を経た後に摂政を一旦辞することは不自然ではなく、関係悪化の証拠にはならないという反論[3]もあるが、それ以前の元慶4年(880年)12月の清和上皇の臨終時の太政大臣任命にも、基経は、単なる慣例的儀礼的行為以上に5回もの上表を繰り返したうえ、さらに摂政でありながら、翌年2月まで私邸に引きこもって一切政務を執らず(『日本三代実録』元慶5年2月9日条)、政局を混乱させている。なお陽成天皇にはその在位中、一人も正式な妃は入内していない。

元慶7年11月になると、宮中で天皇の乳母であった紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)が殴殺されるという事件が起きる(『日本三代実録』元慶7年11月10日条)[4]。宮中での殺人事件という未曾有の異常事に、ついに基経によって退位を迫られ、翌年2月に退位(ただし、表面的には病気による自発的退位である)。

陽成天皇の暴君説については退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、また上記の経緯のように疑問点も多く、天皇を廃位し、自身の意向に沿う光孝宇多帝を擁立した基経の罪を抹消するための作為だともいわれる[5]。また、退位後も光孝・宇多・醍醐の諸帝の警戒感は強く、『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成上皇に対して自己の皇統の正当性を主張するための史書作成であったとする説[6]がある。

退位後に幾度か歌合を催す[7]など、歌才があったようだが、自身の歌として伝わるのは『後撰和歌集』に入撰し、のちに『小倉百人一首』にも採録された[8]下記一首のみである。

つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」 (百人一首では「淵となりぬる」)

上皇歴65年は2位の冷泉天皇の42年を大きく凌ぐ1位である。『大鏡』には、いったん臣籍降下したにもかかわらず、父、光孝天皇の後をうけ即位した元侍従であった宇多天皇のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っている[9]。その皇子で再従兄弟でもあった敦仁親王(醍醐天皇)よりも長生きし、更に朱雀天皇村上天皇と、大叔父の光孝系の皇統継承を見届けたのもまた、皮肉な事であった。ちなみに唯一現代まで伝わる上記の歌は宇多天皇の妹にあたる妃の一人、釣殿宮綏子内親王にあてた歌である。

[編集] 后妃・皇子女

[編集] 在位中の元号

[編集] 陵墓・霊廟

陽成天皇陵

京都市左京区浄土寺真如町にある神楽岡東陵(かぐらおかのひがしのみささぎ)に葬られた。

[編集]

  1. ^ 清和源氏 参照
  2. ^ 『王朝の映像-平安時代史の研究』所収「陽成天皇の退位」,角田文衞, 東京堂出版,1970, 他
  3. ^ 『古代政治史における天皇制の論理』所収「陽成退位の事情」,河内祥輔, 吉川弘文館,1986,
  4. ^ 事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、それが事故であれ故意であれ、天皇自身が起こしたか、少なくとも何らかの関与はしていたのであろうというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。
  5. ^ 前掲,角田文衞 著書
  6. ^ 遠藤慶太細井浩志
  7. ^ 延喜12-13年夏(推定) 歌題・夏虫恋、 延喜13年9月9日 歌題・惜秋意 他 参考文献『平安朝歌合大成』,萩谷朴,同朋舎出版,1995,
  8. ^ 後撰,777番 百人一首,13番
  9. ^ 帝紀,五十九代 宇多天皇


個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語