在原業平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
在原業平
在原業平(狩野探幽『三十六歌仙額』)

在原 業平(ありわら の なりひら、825年天長2年) - 880年7月9日元慶4年5月28日))は、平安時代初期の貴族歌人平城天皇の孫。一品阿保親王の五男。官位従四位上蔵人頭右近衛権中将

六歌仙三十六歌仙の一人。別称の在五中将在原氏の五男であったことによる。

全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。

出自[編集]

父は平城天皇の第一皇子阿保親王、母は桓武天皇皇女伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。

経歴[編集]

仁明天皇蔵人となり、849年嘉祥2年)従五位下叙爵されるが、文徳天皇の代になると全く昇進が止まり不遇な時期を過ごした。清和天皇のもとで再び昇進し、862年貞観4年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、873年(貞観15年)には従四位下に昇叙される。陽成朝でも順調に昇進し、877年元慶元年)従四位上、879年(元慶3年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇皇子惟喬親王に仕え、和歌を奉りなどしている。 880年7月9日元慶4年5月28日)卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。

人物[編集]

在原業平像(愛知県知立市 無量寿寺)
在原業平と二条后(月岡芳年画)

業平は『日本三代実録』の卒伝(元慶4年5月28日条)に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞のようにいわれる。この後に「略無才学 善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。[1]

早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。なお『伊勢物語』成立以降、恬子内親王との間には密通によって高階師尚が生まれたという説が派生し、以後高階氏は業平の子孫ではないかと噂された。

歌人としては『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している[2]。子の棟梁滋春、棟梁の子・元方はみな歌人として知られる。鷹狩に執着した桓武天皇の子孫だけあり、兄・行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる。

紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。しかし一方で、藤原基経の四十の賀で和歌を献じた。[注釈 1]また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・藤原国経の妻となったのち、基経の嫡男時平の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。また業平自身、晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により廃太子させられた叔父の高岳親王など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。

なお、上引の『日本三代実録』の業平卒伝は、阿保親王の品位を四品と誤記している。

官歴[編集]

系譜[編集]

短歌[編集]

勅撰和歌集に80首以上入撰した、六歌仙三十六歌仙の一人ではあるが、自撰の私家集は存在しない。現在伝わる『業平集』と呼ばれるものは、『後撰和歌集』成立以降に業平作とされる短歌を集めたものとされている。業平の歌が採首された歌集で業平が生きた時代に最も近いのは『古今和歌集』である。また『伊勢物語』は業平の歌を多く使った歌物語であり、業平像にも大きく影響してきた。以下の歌の中にも伊勢物語の中でも重要な段で登場するものも多い。しかしさほど成立時期に隔たりはないと思われる『古今和歌集』と『伊勢物語』の双方に採首された歌のなかには、背景を説明する詞書の内容がそれぞれで違っているものや、歌自体が微妙に変わっているものがある。『伊勢物語』より成立も早く勅撰和歌集である『古今和歌集』が正しいのか、あるいは時代が下るにつれて『伊勢物語』の内容が書写の段階で書き換えられてしまったのか、現時点では不明である。ちなみに勅撰の『古今和歌集』においてさえ、業平の和歌は他の歌人に比べて詞書が異様に長いものが多く、その扱いは不自然で作為的である。

代表歌[編集]

  • ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌。落語「千早振る」も参照。
  • 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』撰歌。
  • 忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは — 『古今和歌集』巻十八、雑歌下。
  • から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ — 『古今和歌集』撰歌。
  • 名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと — 『古今和歌集』撰歌。
  • 月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして —『古今和歌集』巻十五、恋歌五。

ゆかりの地[編集]

在原業平邸址、京都市中京区

業平がモデルと言われる人物はさまざまな物語や文献に登場している。 業平に関連した伝説は各地に伝わっている。

奈良県奈良市
奈良市法蓮町にある不退寺は、仁明天皇の勅願を受け在原業平が開基した。寺伝によれば不退寺は、元は祖父・平城天皇薬子の変のあと剃髪したのち隠棲した「萱の御所」であったと言われる。平城天皇の皇子・阿保親王やその息子である業平もこの地に住んでいたと言われている。
奈良県天理市斑鳩町大阪府八尾市
天理市櫟本町の在原神社は業平生誕の地とされ、『伊勢物語』の23段「筒井筒」のゆかりの地でもある。境内には筒井筒で業平(と同一視される男)が幼少期に妻と遊んだとされる井戸があり、在原神社の西には業平が高安の地に住む女性のもとへかよった際に通ったとされる業平道横大路竜田道)が伸びている。ただしこの高安が何処を指すかについては、奈良県生駒郡斑鳩町高安大阪府八尾市高安の2説がある。また、龍田から河内国高安郡への道筋については、大県郡(大阪府柏原市)を経由したとする説と、平群町十三峠を越えたとする説がある。俊徳街道・十三街道も参照。
愛知県知立市八橋
伊勢物語に登場する地名。現在の知立市八橋町。
無量寿寺から10分ほど離れた落田中の一本松でかきつばたの歌を詠んだと伝えられている。在原寺は在原業平の骨を分け寛平年間に築いたと伝わる在原塚を守るため建立された。後の鎌倉末期頃に供養塔も建立された。
業平橋東京都墨田区埼玉県春日部市兵庫県芦屋市、斑鳩町)、言問橋
墨田区と春日部に業平橋という橋が架かっている。墨田区の橋については業平橋 (墨田区)を参照。
墨田区には言問橋という橋があるが、これも前述の伊勢物語9段が由来で、業平の詠んだ歌に「いざこと問はむ」という言葉が入っている事にちなむ。
芦屋市の芦屋川業平橋、斑鳩町の富雄川業平橋もある。
浅草通りにある業平橋に隣接する東武鉄道の駅はかつて「業平橋駅」(現とうきょうスカイツリー駅)と呼ばれていた。
京都府京都市
京都市西京区にある十輪寺は在原業平が晩年住んだといわれる寺で、業平寺とも言われる。
滋賀県高島市
高島市マキノ町在原には、在原業平が晩年に隠遁したという伝説があり、業平の墓と伝えられる塔がある。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「桜花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道紛ふがに」『古今和歌集』巻七、賀歌。但し「桜花散りかい曇れ」といった不吉な歌い出しではじまるなど、純粋な言祝ぎの歌と単純に解釈すべきか、微妙な一首ではあったのかもしれない。
  2. ^ 『伊勢物語注冷泉家流』では滋春の母を染殿内侍としている。また、『本朝皇胤紹運録』によると、滋春及び高階師尚を在原業平と恬子内親王の子とするが、真実性には疑問がある。

出典[編集]

  1. ^ 谷口榮「在原業平」 / 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 21ページ
  2. ^ 勅撰作者部類
  3. ^ 系図纂要

参考文献[編集]

  • 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 下巻』戎光祥出版、2009年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]