不退寺
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| 不退寺 | |
|---|---|
本堂(重要文化財) |
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| 所在地 | 奈良県奈良市法蓮東垣内町517 |
| 位置 | 北緯34度41分41.22秒 東経135度48分45.08秒 |
| 山号 | 金龍山 |
| 宗派 | 真言律宗 |
| 本尊 | 聖観音(重要文化財) |
| 創建年 | 伝・承和12年(845年) |
| 開基 | 伝・在原業平 |
| 正式名 | 金龍山 不退転法輪寺 |
| 別称 | 業平寺 |
| 文化財 | 本堂、木造聖観世音菩薩立像ほか(重要文化財) |
不退寺(ふたいじ)は、奈良市法蓮町にある真言律宗の寺院。本尊は聖観世音菩薩(業平観音とも呼ばれる)。山号は金龍山。寺号は詳しくは不退転法輪寺と称する。
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概要[編集]
仁明天皇の勅願を受け、在原業平が開基したとの由緒から「業平寺」とも呼ばれる。
奈良市街北部に位置し、南方を関西本線が斜めによぎる。境内には四季折々、レンギョウ、椿、カキツバタ、菊などが咲き乱れ、晩秋には紅葉、ナンテンなどが見られる。
歴史[編集]
近世の地誌類が伝える縁起によれば、大同4年(809年)、平城天皇が譲位してのち隠棲し「萱の御所」と称したのが始まりとされ、その後平城天皇の皇子である阿保親王、更に阿保親王の5男である在原業平が暮らしたという。伊勢神宮参詣時に受けた神勅を機に、業平が自ら聖観音像を刻み、「不退転法輪寺」と号して阿保親王の菩提を弔ったのが、寺院としての始まりと伝えられている。
寺の近辺からは平安時代前期の古瓦や木簡が出土しており、創建がその頃までさかのぼることは認められるが、中世以前の沿革はあまり明らかでない。
確実な史料における不退寺の初見は『三代実録』に、貞観2年(860年)10月15日、真如親王が平城京内の田地を不退寺に施入したとみえるものである。真如親王(法親王)は出家前の名を高岳親王といい、平城天皇の皇子、阿保親王の弟にあたる。このことから、不退寺は伝承どおり平城天皇所縁の寺であると推定される。
境内[編集]
- 南門-鎌倉時代末期、正和6年(1317年)の建立で、切妻造・本瓦葺。冠木上には笈形調の装飾が見られる。1934年(昭和9年)の修理時、多くの墨書銘が確認された。
- 本堂-南北朝時代から室町時代前期の建立。正面5間、側面4間。寄棟造・本瓦葺。正面3間、側面2間の身舎(もや)の周囲に1間の庇をめぐらした(三間四面)古代以来の平面形式をもつが、堂内に入ると、奥の内陣と手前の外陣(礼堂)に区画された中世仏堂に一般的な形式となっている。正面と背面の頭貫(かしらぬき)は、中央の柱間の部分のみ、ゆるいカーブを付けて虹梁形としており、この形式の早い例とされる。
- 多宝塔-鎌倉時代のもの。現状は宝形造単層の仏堂にみえるが、元は二層の多宝塔であった。「大和名所図会」によれば、寛政年間には檜皮葺きの上層部があったが、江戸時代末期か明治時代初期に取り払われ、現在は初層のみが残っている。
文化財[編集]
重要文化財[編集]
- 南門
- 本堂
- 多宝塔
- 木造聖観世音菩薩立像-本堂安置。寺伝に在原業平の作というが、様式的には平安時代中期、11世紀頃の作と思われる。一木彫で、胡粉地に極彩装飾を施す。右腕、左腕の肘から先、足先などは後補である。
- 木造五大明王像-本堂安置。不動明王像と他の四明王像(降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)とでは作風が異なり、前者は鎌倉時代後期、後者は平安時代後期の作である。五大明王像は激しい忿怒の相を表すのが一般的だが、不退寺像は表情、ポーズともに穏やかにつくられている。
- 舎利厨子-奈良国立博物館に寄託。厨子内に安置されていた五輪塔形舎利容器は1952年に盗難に遭って行方不明である。
その他[編集]
アクセス[編集]
- JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)「一条高校前(不退寺口)」下車、徒歩7分
- 近鉄大和西大寺駅より奈良交通バス(JR奈良駅・白土町行き)「不退寺口」下車、徒歩7分
拝観は午前9時~午後5時、拝観料は大人・中・高生500円、小学生300円。