井筒 (能)

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井筒
Noh a.jpg
作者(年代)
世阿弥(室町時代)
形式
複式夢幻能
能柄<上演時の分類>
紅入り鬘物、三番目物
現行上演流派
観世宝生金春金剛喜多
異称
なし
シテ<主人公>
井筒の女の霊
その他おもな登場人物
旅の僧(ワキ)、付近に住む男(間狂言)
季節
秋(9月)
場所
大和国石上、在原寺跡
本説<典拠となる作品>
伊勢物語の23段「筒井筒
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井筒』 (いづつ) は、を代表する曲の一つである。世阿弥作と考えられ[1]、世阿弥自身が申楽談儀でこの曲を「上花也」(最上級の作品である)と自賛するほどの自信作であった。若い女性をシテとした鬘能で、序ノ舞を舞う大小ものである。

概略[編集]

本作は帰らぬ夫を待ち続ける女の霊を描いたもので、寂しさと喪失感に耐えながらなおも夫を待ち続ける美しい愛情が主題である。

伊勢物語の23段「筒井筒」を元に構成されており、前段で伊勢物語で描かれた夫との恋が懐かしく回想される。後段では寂しさの高じた女が夫の形見の衣装を身にまとい、夫への思いを募らせながら舞を舞う。これは(多くの場合)男性が女装して演ずる主人公が、更に男装する事を意味し、この男女一体の舞が本作の特徴である。なお、題名の「井筒」とは井戸の周りの枠のことで、主人公の女にとっては子供の頃に夫と遊んだ思い出の井戸である。

伊勢物語の各段の主人公は在原業平と同一視される事が多いが、本作でもこれを踏襲し、主人公夫婦を業平とその妻(紀有常女)と同一視している。

登場人物[編集]

  • 前シテ: 里の女(化身)
  • 後シテ: 井筒の女(霊)
  • ワキ: 旅の僧
  • アイ: 里の男
  • 正面先に井筒の作リ物。薄の穂が植えてある。

物語[編集]

前段[編集]

シテは若女や小面などの面をつける

それは物寂しい秋の日の事だった。旅の僧が大和国石上[2]にある在原寺に立ち寄った。そこは昔、在原業平とその妻が住んでいた所だったが、今はもうその面影は無く、あたりには草が茫々と生えていた。在原寺はすでに廃寺になっており、業平とその妻との名残の井筒からも一叢のすすきがのびていた。

僧が業平夫婦を弔っていると、どこからともなく里の女(実は業平の妻の霊)が現れ、業平の古塚に花水を手向ける。 僧が彼女に話しかけると、彼女は業平の妻である事を隠しつつも、想い出の井筒を見つめ、僧に促されるまま、業平と過ごした日々を語りだす。

彼女が言うには、業平は妻と仲むつまじく暮らしながらも他の女のもとにも通っていた[3]のだが、ひたむきに彼を待ち続ける妻の心根にうたれ、女のもとへは通わなくなったのだという(詳細は筒井筒参照)。 「もっと業平の事を教えてください」、僧にそう促されると、彼女は業平との馴れ初めを語りだした。

「昔この国には幼なじみの男女がいました。二人は井筒のまわりで仲良く語り合ったり、水面に姿を移して遊んだりしていましたが、年頃になると、互いに恥ずかしくなり疎遠になってしまいました。しかしあるとき、男がこんな歌を女に送ったのです。

筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生いにけりしな 妹見ざるまに
昔あなたと遊んでいた幼い日に、井筒と背比べした私の背丈はずっと高くなりましたよ。あなたと会わずに過ごしているうちに[4]

女は男に歌を返しました。

くらべこし 振分髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき
あなたと比べあった、振り分け髪も肩を過ぎてすっかり長くなりました。その髪を妻として結い上げるのはあなたをおいてはありえません。[5]

こうして二人は結ばれたのだという。 最後に彼女は自分が業平の妻(の霊)である事をあかし、どこへともなく去ってゆく。

(ここで片幕で舞台に登場していたアイの居語(いがたり)となる。間狂言の口から同様の物語が語られる。)

後段[編集]

その晩、僧が床につくと、夢の中に先の女が現れる。 夢の中で彼女は、夫・業平の形見の衣装を着ていた。当時は形見を身に着ける事で、その人と一体になれると信じられていたのだ。そして在りし日の業平をまねて静かに舞(序の舞)を舞う。

業平を想い舞を舞うシテ
「能楽図絵二百五十番」月岡耕漁

「昔あの人と暮らした在原寺で、こうして昔を今に返すように舞っていると、井筒に映る月影のさやかな事…」そうつぶやいた彼女の思いは次第に過去へと遡っていった。

「月はあなたのいらした頃の月と同じでしょうか、春はあなたのいらした頃の春と同じでしょうか…、そう詠みながらあなたを待ち続けたのはいつの事だったでしょうか…」

「筒井筒…」彼女は思い出の歌をくちずさむ。

「…井筒にかけしまろがたけ、生(お)いにけらしな…」そう詠んだ彼女は、自分がいつの間にか老(お)いてしまった事に気づかされる。

思い出の井筒に姿をうつす

彼女の足は、自然に思い出の井筒へと向かう。そして業平の直衣を身に着けたその姿で、子供の頃業平としたように、自分の姿を水面にうつす。そこに映るのは、女の姿とは思えない、男そのもの、業平の面影だった。

舞台は一瞬静寂につつまれる。

「なんて懐かしい…」そう呟いて、彼女は泣きくずれる。そして萎む花が匂いだけを残すかのように彼女は消え、夜明けの鐘とともに僧は目覚めるのだった。

観賞[編集]

井筒の謡本

伊勢物語の筒井筒の物語で、女は縁談を断って愛する男を待ち続け、結婚後も浮気する夫の帰りを待ち続けている。 それゆえ能の井筒では筒井筒の物語を、愛する夫を待ち続ける物語として再解釈しており[6]、待ち続ける辛さや喪失感を詠った和歌がいくつか追加されている。(和歌の節参照)

また井筒は時間の流れと逆順に構成されており、夫の死後の弔いから始まり、浮気する夫を待ち続けた話へと向かい、そして最後に物語の核心である夫との馴れ初めへと向かう。 これにより物語は「夫への一途で純粋な恋の思いへと集中」[7]してゆく。

伊勢物語では「筒井筒、井筒にかけしまろがたけ、過ぎにけらしな」と詠われていたところが「生(お)いにけらしな」に改編されている。 これは物語後半への伏線になっており[8]、「筒井筒」を口ずさんだシテは「生(お)いにけらしな」という言葉から自分が老(お)いてしまった事に気づく。

井筒では伊勢物語24段から「真弓槻弓…」の歌の一部が引用されており、それゆえシテの女を24段の女と同一視する解釈がある[9]。 この解釈に従えば、竜田山の件があった後、夫は宮廷勤めの為都にいってしまい、そのまま音沙汰がなくなる。 女は帰らぬ夫を待ち続けたが、3年後、ついに諦めて別の男の元へと嫁ぐ事にする。 しかし嫁ぐ事が決まった日に夫が帰ってくる。事情を察した夫は身を引いて去ってしまった為、 女は夫を追いかけるが、追いつく事ができないまま力尽きて死んでしまう。

またシテが業平をまねて舞う事に関して、「業平を恋慕う表現として、その形見を身につけることにより、業平が憑依するような、あるいはふしぎな一体化をとげたような充足感が生れて、二人の愛が全き姿であった日に遡りつつ一つの陶酔を生むことが可能だと考えられた」[10]とする意見がある。

和歌[編集]

井筒では数々の和歌が引用されている。 まず前段、シテの女が僧に夫との想い出を話す中、女はむかし夫に詠んだ歌を回想する

伊勢物語23段「筒井筒
風吹けば 沖つ白浪 竜田山 夜半にや君が ひとりこゆらん
風が吹くと沖の白波が立つ、ではないがその龍田山を越えて、夜道をあの人が一人でいくのが心配だなあ。[11]

そして「筒井筒」と「くらべこし」が詠まれたあと、女は去ってゆく。 後段、夫の直衣を身に着けて女が僧の夢の中に現れたとき、帰らぬ夫を待ち続けた頃に詠んだ歌を思い出す

伊勢物語17段
徒なりと 名にこそ立てれ 櫻花 年に稀なる 人も待ちけり
風にすぐ散ってしまう桜は不実だと言われていますが、一年のうち滅多に来ないあなたをもちゃんと待ってこのようにきれいに咲いているのですよ。私の事を不実だとおっしゃるけれど、あなたのほうがよほどそうです。[12]

こう詠んだ為、自分は「人待つ女」とも呼ばれたのだと語る。 そして「筒井筒の昔から「真弓槻弓年を経」た今、夫の真似をして舞いを舞ってみよう」と呟いて舞いはじめる。(24段の物語の詳細は「観賞」を参照)

伊勢物語24段
梓弓 真弓槻弓年を経て 我がせしがごと うるはしみせよ
誰が夫でもよい。その人と長い年月連れ添って、わたしがあなたをいとしんだように、新しい夫と仲よくしなさい[13]

月の光に照らされながら舞っているうちに女は「「月やあらぬ 春や昔」と詠んだのはいつのことだろうか」と呟く。

古今和歌集巻十五 恋歌五 747
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして
月は昔と同じ月ではないのだろうか、春は昔と同じ春ではないのだろうか。あの方のいらっしゃらない今、一人で眺める月も過ごす春も、去年とは違うように感じられるが、私だけは今もあなたを想い続けている[14]

こうして待つ事の辛さを詠んだ歌が回想された後、 最後に再び「筒井筒」の歌が詠まれ、「生(お)いにけらしな」という言葉から自分が老いてしまった事に気付く。 そして彼女が想い出の井筒をのぞきこむと、そこに夫の面影を見出し、泣きくずれるのである。

演じ方[編集]

いずれも「読んで楽しむ能の世界」からの重引。

  • 慶長期の能役者・下間少進の『童舞抄』
    • 「名ばかりは在原寺の跡古りて」のところは「古跡を恋慕するこころを外想に顕すべし」
    • 移り舞(=(業平を)まねて舞う事)は「男はかせ」の舞であり、「此キリ(=終末部分)男博士、女博士まじれり」
    • 井筒をのぞきこむ部分に関して、「みればなつかしや我ながらなつかしやと云所に陰陽の見樣といふ事あり」
  • 紀州藩の能役者・徳田隣忠(1679-?)の『隣忠秘抄』
    • 移り舞に関して、「男博士にする女博士なれども、跡の出羽(=囃子の名前)より男博士にするは、昔男に移り舞といふ事なり」
    • 井筒をのぞきこむ部分に関して、「作り物の前へ行き立ち、扇を笏のやうに立て、両手に持ちて、見ればなつかしやと井の内みる」

また、名人喜田六平太(十四世)は井筒に関して「ありゃぁ、祝言の舞いだよ」と述べていた。

その他[編集]

ワキの名ノリののち、「上歌」、「着きゼリフ」がなく、脇能に比べ略式になっている。[15]

参考文献[編集]

  • 岩波書店 日本古典文学大系 「謡曲集」上 「世阿弥の能」(初版第四刷)
  • 檜書房「対訳でたのしむ能 井筒」三宅晶子河村晴久
  • 學燈社「現代語訳 竹取物語 伊勢物語」、吉岡曠
  • 淡交社「能へのいざない」味方玄
  • 淡交社「読んで楽しむ能の世界」馬場あき子
  • 小学館「日本古典文学全集、謡曲集(1)」

注釈[編集]

  1. ^ 『五音』に作者名なしで挙げられている為。『能本作者註文』、『いろは作者註文』、『歌謡作者考』、『自家伝抄』、『二百番謡曲目録』にも全て世阿弥作とある。(参考:日本古典文学全集、『謡曲集(1)』)
  2. ^ 読みは「いそのかみ」。現在の奈良県天理市
  3. ^ 当時は妻問婚だった為、これは普通の事であった。
  4. ^ 現代語訳は檜書房「対訳でたのしむ能 井筒」より
  5. ^ 現代語訳は檜書房「対訳でたのしむ能 井筒」より
  6. ^ 「能へのいざない」
  7. ^ 「対訳でたのしむ能 井筒」
  8. ^ 「対訳でたのしむ能 井筒」
  9. ^ 「能へのいざない」
  10. ^ 「読んで楽しむ能の世界」
  11. ^ 現代語訳は「対訳で楽しむ能 井筒」
  12. ^ 現代語訳は「対訳で楽しむ能 井筒」
  13. ^ 現代語訳は「現代語訳 竹取物語 伊勢物語」より。
  14. ^ 現代語訳は「対訳で楽しむ能 井筒」より
  15. ^ 「日本古典文学全集、謡曲集(1)」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]