崇徳天皇

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崇徳天皇
第75代天皇
在位 1123年 - 1142年
在位中の時代 平安時代
在位中の年号 天治
大治
天承
長承
保延
永治
在位中の首都 京都
別名 新院
讃岐院
出生 1119年7月7日
死去 1164年9月14日
讃岐国
陵墓 白峯陵
先代 鳥羽天皇
次代 近衛天皇
中宮 藤原聖子
子女 重仁親王
覚恵
父親 鳥羽天皇
母親 藤原璋子
  
文学
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崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日1119年7月7日) - 長寛2年8月26日1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。退位後は新院讃岐院とも呼ばれた。顕仁(あきひと)という。

目次

[編集] 系譜

父は鳥羽天皇。母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)。鳥羽天皇の第一皇子だが父には疎んぜられた。古書『古事談』には、これは崇徳天皇が鳥羽天皇の実子でなく、鳥羽天皇の祖父白河法皇と、白河が後に鳥羽に与えた待賢門院との間にできた子であったためとある。父・鳥羽がそれを知ったため、崇徳を「わが子にして祖父の息子(自分の叔父)」と言う意味で「叔父子(おじご)」と呼んだという。ただし、これは『古事談』のみの記述であり、信憑性には疑問も残る。

[編集] 系図

 
(71)後三条天皇
 
(72)白河天皇
 
(73)堀河天皇
 
(74)鳥羽天皇
 
(75)崇徳天皇
 
重仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覚行法親王
 
 
最雲法親王
 
 
(77)後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実仁親王
 
 
覚法法親王
 
 
(76)近衛天皇
 
 
 
 
 
 
 
媞子内親王
(郁芳門院)
 
 
 
輔仁親王
 
(源)有仁
 
 


[編集] 略歴

[編集] 幼き帝

保安4年(1123年)に白河法皇の影響の下、鳥羽天皇に譲位され、5歳で皇位につく。白河法皇の死後治天の君となった父、鳥羽上皇に疎んじられ、永治2年(1142年4月28日、異母弟である近衛天皇に譲位する。新帝は崇徳上皇の中宮藤原聖子の養子となっており、当初、崇徳上皇は自身による院政を期待していたのであるが、鳥羽法皇によって発布された譲位の宣命には「皇太弟」と明記されていたため、崇徳上皇は父院としての立場を喪失し、巧みにその院政を封印されてしまったという。

[編集] 実権無き上皇

こうして上皇となったあとも、実権は治天の君である鳥羽法皇が握っており、その不満は募っていった。近衛天皇の母である美福門院は崇徳上皇を宥めるために、彼の長男である重仁親王を自分の養子として迎え入れた。これにより近衛天皇が継嗣のないまま崩御した場合には重仁親王への皇位継承が可能となったが、その後、崇徳上皇の同母弟雅仁親王の王子守仁親王をも養子としたために、後年の保元の乱の原因となる跡目争いへの種が蒔かれてしまった。

久寿2年(1155年)に近衛天皇が死去すると、皇位継承者を決定する王者議定は、鳥羽法皇、美福門院、藤原忠通信西らの主導の下、重仁親王と守仁親王を候補者として審議されることとなった。だが、あくまでも崇徳上皇を忌避する鳥羽法皇、不仲である崇徳上皇の院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、崇徳上皇の側近であった実弟頼長を牽制したい忠通、そして自身が乳母夫を勤める雅仁親王の即位による台頭をめざした信西らの合意によって、次代の守仁親王の即位を前提として、その父王雅仁が中継ぎとして即位することとなった。後白河天皇である。

[編集] 保元の乱

保元元年(1156年7月2日の鳥羽の崩御ごろから後白河天皇側は、崇徳上皇と鳥羽法皇との末期の対面を拒否(ただし、後白河天皇も鳥羽法皇との末期の対面をしておらず、崇徳上皇に対する意図的なものではないとする説もある)し、検非違使を召集して京中を警備させ崇徳に対する警戒の念をあからさまにしてみせ、鳥羽法皇の初七日を崇徳上皇の臨幸もないうちに実施するなどして、崇徳上皇への露骨な挑発と追い込みを行い始めた。

7月10日、追い詰められた崇徳上皇は藤原頼長とともに白河殿に移り、平忠正平家弘源為義武士を召集して、生き残りを図るために武力で天皇方を倒そうとした(保元の乱)。しかし、鳥羽法皇は生前すでに有事に備えて、有力な武士らに後白河天皇を守るよう命じており、7月11日には平清盛源義朝源義康らの白河殿への夜陰に乗じた奇襲攻撃により、崇徳院方は敗走した。頼長は矢傷によって六日後に死亡、忠正・家弘・為義は捕縛の後に処刑され、崇徳上皇は仁和寺に入って髪を下ろし、後白河天皇の下に出頭したものの許されず、讃岐国に流刑に処された。このため、その後の崇徳上皇は「讃岐院」と呼ばれた。

[編集] 流罪

讃岐での軟禁生活の中で、仏教に深く傾倒して極楽往生を願うようになっていった。五部大乗経(法華経華厳経涅槃経大集経大品般若経)の写本作りに専念して、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、治天の君となっていた後白河法皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、影響下にある朝廷は写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳上皇は、自分のを噛み切って、その血でせっかくの五つの写本全てに「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き込んだ。爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になった、とすら言われた。長寛2年8月26日(1164年9月14日)に讃岐で崩御する。一説には、三木近安によって暗殺されたともされる。遺骸を火葬にした際、その煙は都の方角にたなびいたと伝えられる。

[編集] 怨霊伝説

讃岐に流された崇徳上皇。
歌川国芳による百人一首を題材にした浮世絵
白峯神宮(京都市)

哀れな死を遂げた崇徳天皇には、古くから怨霊伝説が囁かれるようになった。

崇徳天皇の死後すぐに武士である平氏が権力を振るうがその間に太郎焼亡次郎焼亡といった大火事が起こり、末期には叛乱が相次ぎ(下記の諡号制定はこの時期であり、既に怨霊と深く認識されていた)、更には養和の飢饉が起こる。そして平家の都落ち後の木曾義仲による暴虐と、京には凶事が連続した。やがて源平争乱を経て鎌倉幕府が成立、承久の乱後鳥羽上皇を流刑に処するに至ると、朝廷ではいよいよ崇徳の祟りが起こったと恐れたと言う(御霊信仰)。

治承元年7月29日、中宮平徳子の懐妊に伴い怨霊の鎮魂によって安産祈願すべく、「崇徳」の諡号が定められて、同日に藤原頼長に従一位太政大臣を追贈した。寿永2年には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳天皇廟」(のちの粟田宮)が設置された。だが、応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また、崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。

『保元物語』に記される崇徳院怨霊譚は、後鳥羽院怨霊をもとに創作されたと考えられる。

その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている。

後の明治天皇は即位に際して使者を讃岐に送り、崇徳の霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。更に東京オリンピックに際しても使者を派遣している。

[編集]

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ(崇徳院)

滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。
この歌を題材に取った古典落語の演目に「崇徳院」というものがある。なおこの歌と保元の乱との因果関係はない。

[編集] 后妃・皇子女

[編集] 在位中の元号

[編集] 陵墓

香川県坂出市青海町の白峯陵(しらみねのみささぎ)に葬られる。

[編集] 登場作品

崇徳上皇が讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた浮世絵。『椿説弓張月』の一場面。歌川国芳画。
ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献

  • 山田雄司 『崇徳院怨霊の研究』思文閣出版 2001

[編集] 関連項目


先代:
鳥羽天皇
天皇
第75代: 1123年 - 1142年
次代:
近衛天皇