紀貫之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 時代 | 平安時代前期 - 中期 |
|---|---|
| 生誕 | 貞観8年(866年)または貞観14年(872年)頃? |
| 死没 | 天慶9年5月18日(945年6月19日)? |
| 改名 | 阿古屎、貫之 |
| 官位 | 越前権少掾、内膳典膳、少内記、大内記 従五位下加賀介、美濃介、大監物、右京亮 土佐守、玄蕃頭、従五位上、木工権頭 贈従二位 |
| 主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇 |
| 氏族 | 紀氏 |
| 父母 | 父:紀望行 |
| 子 | 時文 |
| 文学 |
|---|
![]() |
| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 |
| 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
| お知らせ |
| このテンプレートの解説ページができました。使用されるべき記事が決まりましたので一度ご確認ください。 |
紀 貫之(き の つらゆき)は、歌人・随筆家。三十六歌仙の1人。紀友則は従兄弟にあたる。幼名は阿古屎(あこくそ)[1]。
目次 |
[編集] 概略
延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂し、仮名による序文である仮名序[2]を執筆した。「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。
また、『小倉百人一首』にも和歌が収録されている(人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける)。
随筆家としては『土佐日記』の著者として有名である。日本文学史上、おそらく初めての仮名による優れた散文であり、その後の日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。
貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」(さくらまち)と称されたという。その遺址は、現在の京都御所富小路広場に当たる。
[編集] 年譜
※日付=明治5年12月2日までは旧暦。
- 貞観8年(866年)または貞観14年(872年)? - この頃生まれる?
- 延喜5年(905年)4月 - 醍醐天皇の勅命により『古今和歌集』を選者の1人として編纂。
- 延喜6年(906年)2月 - 越前権少掾に任官。
- 延喜7年(907年)
- 延喜10年(910年)2月 - 少内記に遷任。
- 延喜13年(913年) - 『亭子院歌合』に参加。屏風画などを作る。
- 4月 - 大内記に転任。
- 延喜17年(917年)1月7日 - 従五位下に叙位。大内記如元。加賀介兼任。
- 延喜18年(918年)2月 - 美濃介兼任。加賀介任替。
- 延喜23年(923年)2月 - 大監物に遷任。
- 延長7年(929年)9月 - 右京亮に転任。
- 延長8年(930年)1月 - 土佐守に遷任。
- 醍醐天皇の勅命により『新選和歌集』を編纂。
- 承平5年(935年)2月 - 土佐守の任を終え、帰洛。後にこの紀行を参考に、『土佐日記』を書く。
- 天慶3年(940年)3月 - 玄蕃頭に任官。
- 天慶6年(943年)1月7日 - 従五位上に昇叙。玄蕃頭如元。
- 天慶8年(945年)
- 3月28日 - 木工権頭に遷任。
- 5月18日? - 没。
- 明治37年(1904年)4月18日 - 贈従二位。
[編集] 代表歌
紀貫之(百人一首より)
- 霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける(古今9)
- 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん(古今2)
- 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(百人一首35)
- 吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(古今471)
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 荒俣宏 『日本仰天起源』集英社<集英社文庫>1994.9、ISBN 4-08-748219-7
- 神田竜身 『紀貫之 あるかなきかの世にこそありけれ』(日本評伝選 ミネルヴァ書房 2009年)


