右大臣
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右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。
左大臣とともに太政官における最高位であるが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。明治18年(1885年)内閣制度の発足に伴い廃止。
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[編集] 右大臣の一覧
[編集] 贈右大臣の一覧
死後、右大臣を追贈された人物。
- 大伴御行 - 文武天皇5年1月15日(701年2月27日)追贈
- 藤原百川 - 延暦2年2月5日(783年3月12日)追贈
- 紀船守 - 延暦11年4月2日(792年4月27日)追贈
- 藤原済時 - 寛弘9年4月(1012年-月)追贈
- 北畠顕家 - 正平7年(1352年)以前[5]追贈(南朝)
- 勧修寺尹豊 - 慶長4年12月13日(1600年1月28日)追贈
- 三条実万 - 文久2年8月9日(1862年9月2日)追贈
- 大久保利通 - 明治11年(1878年)5月15日追贈
[編集] 脚注
- ^ 在職期間は『扶桑略記』による。『日本書紀』・『公卿補任』にはただ「大臣」とあるのみで、左右の区別をしていないが、本来はこの方が正確か。なお、『続日本紀』天平宝字6年(762年)9月乙巳条の石川年足薨伝に「後岡本朝大臣大紫蘇我臣牟羅志」と見えることから、斉明朝にはすでに「大臣」の任に就いていたものと推測される。
- ^ 異説として、2月8日(1333年2月22日)説がある。
- ^ 異説として、7月25日(1462年8月20日)説や同月27日説がある。
- ^ 『公卿補任』・『諸家伝』はこの月に左大臣へ転任したとするが、実際はそのまま右大臣に留任していたと考えられる。詳細は左大臣#脚注を参照。
- ^ 『南朝編年紀略』は延元3年6月21日(1338年7月9日)とする。
[編集] 参考文献
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第1篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003568
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003576
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003584
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003592
- 『新訂増補国史大系・公卿補任 第5篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)ISBN 4642003606