聖徳太子
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聖徳太子
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| 時代 | 飛鳥時代 |
| 生誕 | 574年2月7日(敏達天皇3年1月1日) |
| 死没 | 622年4月8日(推古天皇30年2月22日) |
| 改名 | 上宮厩戸、厩戸皇子、厩戸皇太子、摂政太子 |
| 別名 | 厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、 上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖 徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、 厩戸豊聰耳聖徳法王 |
| 諡号 | 聖徳太子 |
| 墓所 | 叡福寺北古墳 |
| 官位 | 摂政、皇太子 |
| 主君 | 用明天皇、崇峻天皇、推古天皇 |
| 氏族 | 皇族、上宮王家 |
| 父母 | 用明天皇、穴穂部間人皇女 |
| 兄弟 | 聖徳太子(厩戸皇子)、来目皇子、殖栗皇子 茨田皇子、田目皇子、麻呂子皇子 酸香手姫皇女 |
| 妻 | 菟道貝蛸皇女、刀自古郎女、橘大郎女、 膳大郎女 |
| 子 | 山背大兄王、財王、日置王、白髪部王 長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王 片岡女王、手島女王、春米女王、 久波太女王、波止利女王、馬屋古女王 |
| 特記 事項 |
物部守屋討伐戦を元服と、また便宜上 天皇を主君とみなす。 |
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代の皇族。
用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。また、『上宮聖徳法王帝説』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるという。
本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。また母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が実母(小姉君)の実家で出産したため、つまり叔父・蘇我馬子の家で生まれたことから馬子屋敷が転じて厩戸(うまやど)と付けられたという説もあるが、現在のところ生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。別名・豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。 『古事記』(こじき)では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。 『日本書紀』(にほんしょき)では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「厩戸王」の称に変更している教科書もある。詳細は#名称関連の節を参照。
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と言われている[1]。
近年の歴史学研究において、太子の事績と言われてきたことや資料を否定する研究があることから、厩戸皇子の存在は認めるものの、『日本書紀』等の伝える聖徳太子像を虚構とする説もある。詳細は#聖徳太子虚構説の節を参照。
目次 |
[編集] 生涯
- ※本節の記述は『日本書紀』等によるものである(日本書紀の信頼性については当該項目を参照)。
敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した[2]。
同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。[3]
推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。
推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法[4]を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。
推古天皇13年(605年)、斑鳩宮へ移り住んだ。
推古天皇15年(607年)、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書[5]を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。[6]
日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)[7]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」[8]としている。
厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。
推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。
厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。
[編集] 名称関連
- 聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した以下の史料が初出と言われる。
- 他にも厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳、上宮王、『上宮聖徳法王帝説』での厩戸豊聰耳聖徳法王、上宮聖徳法王、万葉集巻三の上宮聖徳皇子 など、様々な名前で呼ばれる。
- 平安時代に成立した史書である『日本三代実録[10]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載され、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期にはすでに「聖徳太子」の名が広く用いられていたことが伺える。
- 一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように「存命中に用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更された[11]。
- 聖徳太子の肖像画は過去に紙幣(日本銀行券)の絵柄として何度か使用されている。特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されていた。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。
[編集] 聖徳太子にまつわる伝説
以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。
なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。 また、各地に聖徳太子が建てたという寺院が多いが、後世になって縁起で創作されたものが多いと思われる。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。
[編集] 豊聡耳
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった[12]。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。
『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。 また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。
一方「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。
なお一説には、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」(とよとみ)はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。
[編集] 兼知未然
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。
[編集] 四天王寺
蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てた。
[編集] 南嶽慧思の生まれ変わり
「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(=『七代記』)』、『上宮皇太子菩薩伝』、『聖徳太子伝暦』などに記述がある。
中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある[13]。
[編集] 出生の伝説について
「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠もった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる[14]。 しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。
[編集] 片岡飢人(者)伝説
『日本書紀』によると次のようなものである。
推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。
「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。
『万葉集』には上宮聖德皇子作として次の歌がある。
上宮聖德皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古)
「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人[立心偏+可]怜」
家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ
また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある。[16]
しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし
後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている[17]。
[編集] 墓所
詳細は「叡福寺#叡福寺北古墳」を参照
墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟。後世に定められたものとする説もある。
直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている[18][19]。
[編集] 河内三太子
聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺、野中寺(やちゅうじ)、大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、河内三太子と総称されている[20]。
[編集] 聖徳太子の著作
- 『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)。このうち『法華義疏』は聖徳太子の真筆と伝えられるものが御物となっており、現存する書跡では最も古く、書道史においても重要な筆跡である。
- 『四天王寺縁起』は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。
- 『十七条憲法』は、『日本書紀』中に全文引用されているものが初出。
- 『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』は、『日本書紀』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。
- 『先代旧事本紀』は、序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。
- 『未来記』は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。
この他にも聖徳太子の名を借りた(仮託)偽書は多い[21]。
[編集] 聖徳太子についての諸説
[編集] 聖徳太子虚構説
聖徳太子が実在したこと自体を否定する説がある。
大山誠一は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする[22]。
大山は、飛鳥時代にたぶん斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする[23]。
大山説は近年マスコミにも取り上げられ話題となった。従来の論者とは違い、大山は古代史分野において実績のある大学教授であったことから大きな反響を呼んだとも考えられる[24][25]。
ただし、これ以前にもこうした虚構説あるいは架空説は存在しなかった訳ではなかった。例えば高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)では、聖徳太子と厩戸皇子は別人で実は蘇我馬子の子・善徳こそが真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った残虐非道な架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。
さらにさかのぼれば、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者に始まる。また、津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において太子作ではないとしている(『日本上代史研究』ほか著書四冊は発禁となり、津田左右吉は早稲田大学を辞職した)。井上光貞、坂本太郎らは津田説に反論している[26]。また関晃は狩谷鍵斎、津田左右吉などの偽作説について、「その根拠はあまり有力とはいえない」とする[27]。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている[28]。
聖徳太子虚構説に対する反論としては、遠山美都男 『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(2000年)、上原和『世界史上の聖徳太子-東洋の愛と智慧』(2002年)、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(2007年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)などがある。
聖徳太子については『日本書紀(巻22推古紀)』、「三経義疏」、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。)」、「法起寺塔露盤銘」、『上宮記』、『上宮聖徳法王帝説』などの歴史的資料がある。これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。
法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする[29]。一方、志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする[30]。
大山説では道後湯岡碑銘文[31][32][33]は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年~1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年~正安3年頃(1274年~1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は前掲二書に引用された伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)の官命で編纂された古風土記)の一部としている[34]。牧野謙次郎は「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるものである。」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた。」と述べている[35]。
「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたものであるとする[36]。「法華経義疏」巻頭の題箋(貼り紙)について、大山説は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(「是」、「非」など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。王勇(浙江工商大学日本文化研究所所長)は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする[37]。また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している[38]。
「天寿国繍帳」について大山説では天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている[39]。義江明子は天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみて良いとする[40]。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。
慶雲3年(706年)に彫られたとされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では法起寺塔露盤銘は暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記(古今目録抄〔法隆寺本〕)』にしか見出せないことなどから偽作とする。但し、全文の引用は無いものの、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている[41]。 また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではないと考える」とする[42]。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」とする[43]。
日本書紀における聖徳太子像について、大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武朝(697年~707年)に文章博士の山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の述作を開始したとする[44]。
『播磨国風土記』(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿(石宝殿)」についての記述に、「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子[45]と考えられることから、『日本書紀』(養老4年、720年)が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子(厩戸皇子)の諡号を聖徳王としたとある。
- 『播磨国風土記』二鄉里驛家 大國里 「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 廄戶 弓削大連 守屋 所造之石也」
『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は『おそくとも大宝(701~704)までは下らぬ時期に成立した』として、記紀成立よりも古い資料によるとしている[46]。
[編集] 聖徳太子即位説
「聖徳太子は即位して天皇となった」とする説もある。
[編集] 系譜
- 先祖
- 兄弟姉妹
- 妻子
[編集] 太子信仰
「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」として、太子自身を信仰対象にした例は古くからあるが、特に室町時代の終わり頃から、太子の忌日と言われる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった[47]。
[編集] 聖徳太子が登場する作品
[編集] 小説
- 黒岩重吾『聖徳太子 日と影の王子』上・下(文藝春秋、1987年)
- 黒岩重吾『斑鳩王の慟哭』(中央公論社、1995年)
- 町井登志夫『爆撃聖徳太子』(角川春樹事務所/ハルキ・ノベルス、2004年)
- 豊田有恒『崇峻天皇暗殺事件』(1987年、講談社)
- 豊田有恒『聖徳太子の叛乱』(1991年、コーエー)
[編集] 漫画
- ムロタニツネ象『聖徳太子 仏教伝来と法隆寺』(学習研究社/図解まんが日本史、1978年)- 厩戸皇子の死後、蘇我氏の専横などを経て、蘇我入鹿が暗殺される所で完結する。
- 山岸凉子『日出処の天子』(白泉社/花とゆめコミックス、1981年)- 推古天皇の摂政となり、遣隋使構想を立てる所までを描く。「聖徳太子にまつわる伝説」をストーリーに織り込んでいる。『馬屋古女王』(短編)は続編に当たる。
- 池田理代子『聖徳太子』(創隆社、1992年-1994年)- 厩戸皇子像は『日本書紀』に描かれる史実に近い。ムロタニ作品同様、蘇我氏本家の滅亡で完結する。
- 滝沢解原作、ふくしま政美劇画『超劇画聖徳太子』(太田出版/QJマンガ選書、1999年)-所謂「カルト劇画」の一つ。
- 荻野真『夜叉鴉』(集英社/ヤングジャンプ・コミックス、1997年)
- 増田こうすけ『増田こうすけ劇場 ギャグマンガ日和』(集英社/ジャンプ・コミックス、2000年-)現在ジャンプスクエアにて連載中。ジャージ姿の聖徳太子と小野妹子を中心にストーリーが進むギャグ漫画である。
[編集] ドラマ
- 『聖徳太子』(NHK、2001年) - 脚本 : 池端俊策、厩戸皇子:本木雅弘)- 太子の青年時代を中心とした政治劇で、太子を人並み外れた聴力や記憶力をもち唐言葉(朝鮮語)をも操る超人的人物として描きつつも、人間的弱みのある人物として描くドラマ。
- 『聖徳太子の超改革』(テレビ朝日、2007年)-原案:堺屋太一、ナビゲーター:北大路欣也、聖徳太子:武田真治 ほか
[編集] 脚注
- ^ 関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成, 遣隋使の派遣,天皇記 国記 以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。(『世界大百科事典第二版』平凡社)」また、田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである(『日本大百科全書』小学館」)」また、内藤湖南は「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言について聖徳太子の創作と推定している。「それに國書の如きも隋書に載れる 日出處天子致書日沒處天子無恙云々 の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。」「聖徳太子」『内藤湖南全集第九巻』(筑摩書房 1976年)
- ^ 荒木敏夫は皇太子制を飛鳥浄御原令の成立として厩戸皇子の立太子に疑問を呈する(『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、1985年))が、河内祥輔は皇太子の称の有無とは別に、厩戸皇子の父・用明天皇は非皇族(蘇我氏)を母に持った皇族であったため、敏達天皇の后からの所生である竹田皇子の成人までの「中継ぎ」の天皇の地位に留まり、本来ならば厩戸皇子ら子孫への直系継承権を有していなかった。だが、竹田皇子の急逝後に竹田皇子の母后(推古天皇)が自己に最も近い皇族であった甥の厩戸皇子を新たな後継者とするために、自ら即位して厩戸皇子を後継者に指名(後世の立太子に相当)する必要があったとする。これによって用明天皇系である厩戸皇子(聖徳太子)は直系(敏達天皇系)に準じる者として皇位継承権を得たが、指名者である推古天皇が没するまでその地位に留まらざるを得なくなった(結果として即位することなく死去した)とする。(『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年))
- ^ 開皇20年(600年)『隋書』に、俀國の「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」から初めて遣隋使がきた記事がある。なお『日本書紀』には同記事はない。「倭」を誤って「俀」と表記したとする説が有力である。)
- ^ 日本書紀では十七条憲法の直後の記事に「推古天皇十二年(604年)秋九月 改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則立行」とある。日本書紀は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている。
- ^ 日本書紀は随を大唐国としている。また、日本書紀には国書の内容(「日出る処・・・」)の記述はない。
- ^ 『日本書紀』には遣隋使、隋という文字はない。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)」との文言があり、隋の煬帝(開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた(煬帝が立腹したのは俀國王が隋の皇帝と同位の立場である「天子」を名乗ったことについてであり、「日出處」「日沒處」との記述にではないとする説がある。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする。)。この国書は俀國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の俀國と結ぶ必要があった。
- ^ 『隋書』にこの記述はない。
- ^ どの時代から「天皇」という語が使用されているかについては諸説ある。
- ^ 読み方の例として「かみつみやのたいし しょうとくのすめら」
- ^ 巻二貞観元年(859年)五月十九日甲戌条、巻八貞観6年(864年)正月十四日辛丑条、巻卅八元慶4年(880年)十月廿日庚子条など。
- ^ 「厩戸王」は大山説でも使用されているが、歴史的資料には見られない。日本書紀は「厩戸皇子」。日本書籍の教科書を執筆した吉村武彦は「皇子を表記するに当たっては生存中の名前を使うのが一般的。『聖徳太子の時代』という表現にも違和感があり、『蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう』と表記した」とする(2004年1月10日日本経済新聞)。
- ^ 妙法蓮華経法師功徳品(ほっしくどくほん)は「千二百の耳の功徳」について説いている。(爾時仏告常精進菩薩摩訶薩。若善男子善女人。受持是法華経。若讀若誦若解説若書寫。是人当得八百眼功徳。千二百耳功徳。八百鼻功徳。千二百舌功徳。八百身功徳。千二百意功徳。以是功徳荘厳六根皆令清浄。是善男子善女人。父母所生清浄肉眼。見於三千大千世界。内外所有山林河海。下至阿鼻地獄上至有頂。亦見其中一切衆生。及業因縁果報生処。悉見悉知。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。)(無数種人聲。聞悉能解了。)
- ^ 『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』王勇 大修館書店、1994年
- ^ 久米邦武は、学僧が日本に持ち帰った景教(ネストリウス派)の知識が太子誕生説話に付会されたのだろうと推定している。佐伯好朗は、1908年に論文「太秦を論ず」において聖徳太子と関係の深い秦氏と景教とユダヤ人の関わりについて論じ景教博士と呼ばれた。さらに空想をたくましくして秦氏と古代イスラエル民族と直接に関連するという日ユ同祖論を唱える極端な仮説(手島郁郎『太秦の神-八幡信仰とキリスト景教』(1971年)が代表例)も存在する。
- ^ (『萬葉集』巻三 415) 万葉集では片岡山ではなく龍田山とある。
- ^ 拾遺和歌集巻20哀傷1350 この歌と返し歌をもって『拾遺和歌集』最終巻は終わる。『源氏物語』 第20帖 朝顔(あさかほ)にて、光源氏が老婆となった今も衰えぬ源典侍にかけた言葉「その世のことは みな昔語りになりゆくを はるかに思ひ出づるも 心細きに うれしき御声かな 親なしに臥せる旅人と 育みたまへかし(あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに臥(ふ)せる旅人』と思ってください 與謝野晶子訳)」はこの歌をふまえたものである。返し歌は「いかるがや富緒河の(とみの小川の)絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ」
- ^ 『日本書紀』編纂当時は、死穢・触穢を忌避する観念、風習は未発達であると考えられるが(『日本書紀』皇極天皇元年五月乙亥日条参照)、疫病は恐れられていた。『荘子 (書物)』大宗師篇第六に「真人」について詳説する部分がある。また、遺体の消滅は仙人の尸解仙(しかいせん)にも類似し、『新約聖書』も想起させる。大山誠一は、『日本書紀』の推古紀と道教に関心が深かった長屋王や道慈との関係について仮説を提示している。
- ^ 「聖徳太子墓はやや小さめ 宮内庁が研究者に公開」 共同通信 2002年11月14日、「「聖徳太子墓」を初めて研究者に公開 宮内庁」 asahi.com 2002年11月15日
- ^ 徒然草第六段に次の一文がある。「聖徳太子の御墓(みはか)を、かねて築(つ)かせ給(たま)ひける時も、「ここをきれ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり。」と侍(はべ)りけるとかや。」
- ^ 叡福寺の「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)」七幅(南北朝~室町時代に制作された)は2008年に修復が完成した。
- ^ 1675年(延宝3年)、聖徳太子の憲法には「通蒙憲法」「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」「神職憲法」の五憲法が存在し、「通蒙憲法」が十七条憲法であると説く『聖徳太子五憲法』と称する書が現れた。『聖徳太子五憲法』は1679年(延宝7年)に現れた偽書『先代旧事本紀大成経』巻七十「憲法本紀」と同じ内容である。
- ^ 蘇我馬子の王権が存在したとして、用明、祟峻、推古の王朝を否定する仮説(蘇我王権説)を提示している
- ^ 遠山美都男は大山説について次のように述べる。「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみのことである。」「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だったのである。(遠山美都男『天皇と日本の起源』講談社 2003年)」和田萃は大山説について、厩戸王と(脚色が加わった)聖徳太子を分けて考えるべきとする指摘は重要としながらも、そのことが「聖徳太子虚構説」や「蘇我王権説」につながるわけではないとする(2004年1月10日日本経済新聞)。曽根正人は「後世に造形され、肥大化した聖徳太子がいなかったという点では大山説に反対しない。厩戸王の実像をどう考えるかでは見解が違う。歴史物語の研究によれば、全くのゼロから記事がつくられた例がない。素材となった記録・記事が何であるかは今後の課題だが、皆無とは考えにくい。」とする(2007年6月4日毎日新聞東京夕刊)。仁藤敦史は次のように述べる。「「聖徳太子像」の変遷と実証的な研究動向を総括するならば、近年の「虚像」としての「聖徳太子」を否定する議論は、戦後においても十分払拭されていない『日本書紀』の拡大解釈にもとづく「偉大な宗教家・政治家」としての位置づけに対して根本的な批判を加えたものと考えられる。」「けれども、その史料批判の方法にも問題がないわけではない。すでに、奈良時代の前半には上宮太子を「聖徳」と称するのは死後に与える諡(おくりな)とする理解があり、さらに、慶雲3(706)年以前に「聖徳皇」と呼ばれていたとする金石文もある。加えて『古事記』には没後の名前と考えられる「豊聡耳」の称号、および「王」号ではなく後に即位した王子にのみ与えられる「命」表記を含む「上宮の厩戸豊聡耳命」の記載があり、遅くとも『日本書紀』成立以前の天武朝までには偉人化が開始されていたことは明らかとなる。このように『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認されるので、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると考えられる。推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題となる。(仁藤敦史 「聖徳太子は実在したのか」『中学校 歴史のしおり』 帝国書院 2005年 9月号)[1]」
- ^ 『東アジアの古代文化』102号では特集が組まれた。102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房 2001年) にまとめられている。
- ^ 石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している。
- ^ 井上光貞『飛鳥の朝廷』(講談社学術文庫 1974年)、坂本太郎『聖徳太子』(吉川弘文館 1979年)
- ^ 『世界大百科事典第二版』平凡社
- ^ 森博達『日本書紀の謎を解く—述作者は誰か』(中公新書 1999年)
- ^ 福山敏男「法隆寺金石文に関する二、三の問題 金堂薬師像・釋迦像・同寺小釋迦像の光背銘」(夢殿第13册 法隆寺の銘文 1935年)
- ^ 志水正司『古代寺院の成立』(六興出版 1979年)
- ^ 伊予国風土記逸文による道後湯岡碑銘文(駢儷体の詩文)を梅原猛は次のように解釈、現代語訳している。「法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の温泉は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。全ての政事は、このように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って、ひそかに動いているのである。かの太陽が、すべてのものを平等に照らして、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりするようなものである。神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちょうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうど『法華経』にある五百の羅漢が、五百の衣傘をさしているように思われる。朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、ゆったりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか。私の詩才はとぼしくて、魏の曹植のように、七歩歩く間に詩をつくることができないのを恥としている。後に出た学識人よ、どうかあざわらわないでほしい。」(梅原猛『聖徳太子』集英社 1993年)原文は外部リンク日本漢學史 道後温泉碑。法興は日本書紀に現れない年号(逸年号、私年号)とされ、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されている。「法王大王」は聖徳太子を指す。万葉集巻三239 柿本人麻呂の詠める「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而・・」のように大王は皇子に使用される例がある。
- ^ 外部リンク伊予湯岡碑文の考察
- ^ 山部赤人が伊豫温泉(道後温泉)を訪れて詠んだ歌(万葉集巻三 322)について、道後湯岡碑銘文または伊予国風土記の内容を踏まえたものとする説がある。
- ^ 荊木美行『風土記逸文の文献学的研究』(皇學館出版部 2002年)
- ^ 牧野謙次郎 述/三浦叶 筆記『日本漢學史』(世界堂書店 1938年)
- ^ 藤枝晃「勝鬘経義疏」『聖徳太子集』(岩波書店 1975年)
- ^ 王勇「東アジアにおける「三経義疏」の流伝」『中国の日本研究』第2号(浙江大学日本文化研究所 2000年)
- ^ 『大日本仏教全書』(鈴木学術財団)、花山信勝『法華義疏の研究―聖徳太子御製』(東洋文庫)
- ^ 大橋一章『天寿国繍帳の研究』(吉川弘文館 1995年)
- ^ 義江明子「天寿國繍帳銘系譜の一考察」『日本史研究』325号 1989年
- ^ 大橋一章「法起寺の発願と造営」早稲田大学大学院文学研究科紀要 2003年「法起寺の発願と造営」
- ^ 直木孝次郎「万葉集と木簡に見える「皇」」『東アジアの古代文化』 108号(大和書房 2001)
- ^ 2004年1月10日日本経済新聞
- ^ 森博達『日本書紀の謎を解く—述作者は誰か』(中公新書 1999年)、謎解き日本史
- ^ 『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店 1977年)、間壁忠彦 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』 (神戸新聞総合出版センター 1996年)
- ^ 『日本思想大系2 聖徳太子集』 (岩波書店 1975年)
- ^ 能門伊都子「特定の職業・人に信仰される神々」、『大法輪』第72巻1号、法藏館、2005年
[編集] 参考文献
- 新川登亀男『聖徳太子の歴史学』2007 講談社 ISBN 4062583828
- 家永三郎 ほか『聖徳太子論争』2006 新泉社 ISBN 4787706055
- 石田尚豊『聖徳太子辞典』 柏書房 ISBN 4760115404
- 梅原猛『聖徳太子』2003 小学館、1993 集英社文庫
- 梅原猛『隠された十字架 法隆寺論』1986 新潮社 ISBN 4101244014
- 恵美嘉樹『図説 最新日本古代史』 2008 学習研究社 ISBN 4054038344
- 大山誠一『長屋王家木簡と金石文』 ISBN 4642023259
- 大山誠一『長屋王家木簡と奈良朝政治史』1992 吉川弘文館 ISBN 4642021671
- 大山誠一『「聖徳太子」の誕生 歴史文化ライブラリー』1999 吉川弘文館 ISBN 4642054650
- 大山誠一『聖徳太子と日本人』2001 風媒社 ISBN 4833105209
- 大山誠一(編集・共著) 『聖徳太子の真実』2003 平凡社 ISBN 4582469043
- 大山誠一『聖徳太子と日本人 ― 天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像』2005 角川書店 ISBN 4043782012
- 坂本太郎『聖徳太子』1985 吉川弘文館 ISBN 4642050019
- 曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』2007 吉川弘文館 ISBN 4642056289
- 瀧藤尊教『聖徳太子』
- 田中英道『聖徳太子虚構説を排す』2004 PHP ISBN 4569638279
- 谷沢永一『聖徳太子はいなかった』2004 新潮新書062 新潮社
- 遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』2000 角川書店 ISBN 4043551010
- 森田悌『推古朝と聖徳太子』2005 岩田書院 ISBN 4872943910
- 吉村武彦『聖徳太子』2002 岩波新書769 岩波書店 ISBN 4004307694
- 王勇『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』1994 大修館書店 ISBN 4469290696
- 梅原猛・黒岩重吾・上田正昭ほか『聖徳太子の実像と幻像』2001 大和書房 ISBN 4479840591
- 小林惠子『聖徳太子の正体 英雄は海を渡ってやってきた』1990 文藝春秋 ISBN 4163447202
[編集] 関連項目
- 日本書紀
- 白河本旧事紀
- 七星剣 - 聖徳太子が佩刀していたと言われる
- 丙子椒林剣 - 上記に同じ
- 先代旧事本紀(先代舊事本紀)
- 聖徳太子の地球儀
- 三経義疏
- 慧慈
- 太子堂
- 斑鳩町 次の寺がある
- 法隆寺、中宮寺、法起寺、 法輪寺
- 広隆寺 京都太秦にある
- 四天王寺
- 橘寺 飛鳥にある
- 叡福寺(上之太子)
- 野中寺(中之太子)
- 大聖勝軍寺(下之太子)
- 斑鳩寺
- 西方院
- 親鸞 『皇太子聖徳奉讃』、「正像末和讃」他より百数十首に上る太子和讃がある。
- 甲斐の黒駒
- 日本の仏教
- 日本の書道史
- 日本の書家一覧
- 日本銀行券 - 過去7回と最も多く肖像が使われている。
- 大阪府立近つ飛鳥博物館 - 聖徳太子の墓の復元模型がある
[編集] 外部リンク
- 日本書紀 推古天皇
- 先代舊事本紀 卷第九帝皇本紀
- 上宮聖徳法王帝説
- 聖徳太子の兄弟・子供・孫の古典の記載状況表
- 和宗総本山 四天王寺
- 隋書倭国伝
- 隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國
- 新唐書卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
- 皇太子未来記 未然本記
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