伊達宗城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊達 宗城(だて むねなり、文政元年8月1日(1818年9月1日) - 明治25年(1892年)12月20日)は、幕末の大名、宇和島藩8代藩主(在任:天保15年(1844年) - 安政5年(1858年))。明治時代の政治家。官位は従四位下・遠江守・侍従。爵位は伯爵のち侯爵。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
旗本・山口直勝の次男として江戸に生まれる。祖父・山口直清は宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男で山口家の養嗣子となった人物である。幼名を亀三郎と称した。
文政10年(1827年)4月、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となる。文政11年(1828年)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となったが、翌文政12年4月11日、なかなか嗣子となり得る男子に恵まれない藩主宗紀の養子となる。宗紀の五女貞と婚約し、婿養子の形をとったが、貞は早世してしまい、結婚はしなかった。
[編集] 藩政時代
天保15年(1844年)宗紀の隠居に伴い藩主に就任する。宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。
宗城は福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「幕末の四賢侯」と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。
阿部正弘死去後、安政5年(1858年)大老に就いた井伊直弼と将軍世継問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福(とくがわ よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用し強権を発動する。結局、慶福が14代将軍・家茂となることになり、一橋派は排除された。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。
先代の宗紀は隠居後に実子宗徳を儲けており、宗城は宗徳を養子として藩主の座を譲ったが、隠居の後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を許されて後は再び幕政に関与するようになり、文久2年(1862年)には生麦事件の賠償金支払いに反対している。また、島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進した。
[編集] 明治維新以後
慶応3年(1867年)12月王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし明治元年(1868年)戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏寄りであったので薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任した。
明治2年(1869年)民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。明治4年(1871年)には欽差全権大臣として清との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退している。
宇和島伊達家は明治17年(1884年)華族令によって伯爵を授けられた。明治24年(1891年)、宗城の維新時の功によって侯爵に陞爵された。明治25年(1892年)、東京の今戸屋敷で病没。享年75。
[編集] 系譜
[編集] 関連書籍
- 史料
- 『藍山公記』
- 『伊達宗城在京日記』(伊達宗城)
- 『徳川斉昭・伊達宗城往復書翰集』(徳川斉昭、伊達宗城、河内八郎)
- 『宗城公御事蹟 鶴鳴餘韻 下巻』(伊達宗陳)
- 『松根図書関係文書』(松根図書)
- 『前原巧山一代噺』(前原巧山)
- 『伊達宗城公傳』(兵頭賢一)
- 小説等
- 『伊達宗城』(神川武利)
- 『列伝・日本近代史―伊達宗城から岸信介まで』(楠精一郎)
[編集] 伊達宗城を演じた俳優
[編集] 関連項目
|
|
|

