床次竹二郎
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とこなみ たけじろう
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政友本党総裁時代
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| 生年月日 | 1867年1月6日 |
| 出生地 | 薩摩国鹿児島城下新照院通町 |
| 没年月日 | 1935年9月8日(満68歳没) |
| 死没地 | 東京市淀橋区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
| 前職 | 内務官僚 |
| 所属政党 | (立憲政友会→) (政友本党→) (立憲民政党→) (新党倶楽部→) (立憲政友会→) 無所属 |
| 称号 | 正三位 勲一等旭日桐花大綬章 |
| 親族 | 次男・床次徳二(衆議院議員) 娘婿・佐藤重遠(衆議院議員) |
| 配偶者 | 床次清子(初婚) 床次恭子(再婚) |
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| 内閣 | 岡田内閣 |
| 任期 | 1934年7月8日 - 1935年9月8日 |
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| 内閣 | 犬養内閣 |
| 任期 | 1931年12月13日 - 1932年5月26日 |
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| 内閣 | 原内閣 高橋内閣 |
| 任期 | 1918年9月29日 - 1922年6月21日 |
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| 選挙区 | (鹿児島県郡部区→) 鹿児島県第1区 |
| 当選回数 | 8回 |
| 任期 | 1915年3月26日 - 1935年9月8日 |
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| 任期 | 1924年1月29日 - 1927年6月1日 |
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その他の職歴
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(1908年4月24日 - 1908年6月12日) |
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| 第16代 秋田県知事(未赴任) (1905年12月31日 - 1906年1月17日) |
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| 第19代 徳島県知事 (1904年1月25日 - 1905年12月31日) |
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床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、慶応2年12月1日(1867年1月6日) - 昭和10年(1935年)9月8日)は、日本の官僚、政治家。元衆議院議員。鹿児島県士族[1]。
目次 |
来歴・人物 [編集]
慶応2年12月1日(1867年1月6日)、薩摩藩士の床次正精・友子の長男として、現在の鹿児島県鹿児島市新照院町に生まれる。幼名は竹熊。父・正精は薩摩藩主の一門・宮之城領主島津久治に仕えた武士で御納戸役を勤め、明治維新後は司法省に入省し判事となった。また独学で油絵を学んで、伊藤博文らの肖像や大日本帝国憲法発布式典の絵などを描いている。
竹二郎は第一高等中学校を経て、東京帝国大学法科大学政治科に入学。大学の同期生に山之内一次、伊集院彦吉、原嘉道、一級下に後に竹二郎の政治顧問を務めることとなる佐々木多門らがいる。明治23年(1890年)に大学を卒業後、大蔵省に入省しその後内務省に転ずる。宮城県参事官、岡山県警察部長、東京府書記官、徳島県知事、秋田県知事(未赴任)などを歴任し、1906年(明治39年)、第1次西園寺内閣で内務省地方局長に就任。内務大臣だった原敬に重用され、立憲政友会との関係を深めていく。原内相のもと、郡制廃止に努力するも貴族院の反対で頓挫した。明治41年(1908年)、樺太庁長官。明治44年(1911年)、内務次官。大正元年(1912年)、第2次西園寺内閣の総辞職に伴い次官を辞任。大正2年(1913年)の第1次山本内閣の成立時には、薩派と政友会の提携に奔走。山本内閣では鉄道院総裁に就任。鉄道幹線広軌化計画の中止と地方路線拡張方針を打ち出した。
詳細は「日本の改軌論争」を参照
大正2年(1913年)11月に政友会に入党。大正3年(1914年)、山本内閣総辞職を受けて辞任。郷里の鹿児島県から衆議院議員補欠選挙に立候補し当選する。以後、昭和7年(1932年)の総選挙まで連続8期当選。政友会院内総務、大正7年(1918年)の原内閣で内務大臣兼鉄道院総裁。長年の懸案であった郡制廃止、選挙法改正による選挙権拡張と小選挙区制の導入を実現した。また内務省内に社会局を新設したほか、協調会を設立し社会政策に取り組んだ。原内閣期には貴族院勢力とのバイブを築いた。大正10年(1921年)に原が暗殺され、後継の高橋内閣でも内相に留任したが原の死後、政友会は党内における内紛が激化し原の有力な後継者に目されていた床次も党内改革派に同調し高橋是清総裁を担ぐ横田千之助らと主導権をめぐって対立するようになっていった。
「原敬暗殺事件」も参照
大正13年(1924年)1月、清浦内閣が成立すると高橋総裁が憲政擁護の立場から清浦内閣打倒を唱えたが、竹二郎は清浦内閣支持に回り腹心・榊田清兵衛らと共に政友会を脱党、政友本党を結成し総裁に就任した。清浦内閣では与党となったが、九州地方の地縁を主体としていた党勢は次第に振るわなくなり、大正14年(1925年)に政友会との合同には反対しながらも政友会との提携を図った。その後、政友本党内部に憲政会に接近する動きが進行し竹二郎自身は消極的ではあったものの後藤新平の仲介によって昭和2年(1927年)、憲政会・政友本党が合同して立憲民政党が結成され竹二郎は党顧問に就任した。しかし民政党の対中国不干渉政策に反対し昭和3年(1928年)8月に民政党を脱党、新党倶楽部を結党した。政友会と新党倶楽部は共同で衆議院議員選挙法改正案を提出した。導入されたばかりの中選挙区制から小選挙区制への復帰を狙った内容だったが、政友会・新党倶楽部両党に露骨に有利な選挙区割りであるとして「床マンダー」との罵声を浴び民政党や無産政党の激しい抵抗を受け失敗した。
昭和4年(1929年)7月に政友会へ復党し、昭和6年(1931年)12月に犬養内閣の鉄道大臣に就任。犬養毅首相が五・一五事件で暗殺された後、再び政友会の後継総裁候補となったが、鈴木喜三郎と争い敗れた。昭和9年(1934年)7月、岡田内閣成立に当たっては党内の反対を押し切り逓信大臣として入閣し政友会を除名された。
昭和10年(1935年)1月23日の衆議院本会議で、政友会の山口義一が、昭和3年(1928年)に満洲軍閥の張学良が50万元を前奉天領事赤塚正助、政友会代議士鶴岡和文に献金し、この金が床次に渡っていたと追及した。これは、昭和6年(1931年、民国20年)に関東軍が起こした満洲事変で、関東軍が張作霖(学良の父で関東軍に暗殺された)の旧宅を捜索した際に、張学良の受領証を発見したことで明るみに出た。荒木貞夫陸相は、政治不介入を理由に非公開にしようとしたが、岡田内閣倒閣を狙う永田鉄山、田中清、片倉衷らによって、「皇国同志会」を名乗った怪文書として張からの献金が流布された。怪文書では、床次は献金の見返りに満蒙権益の放棄を約束した売国奴と糾弾された。山口は、この怪文書を根拠に質問したものである。岡田啓介首相は、床次に関係の無いことだとして床次を擁護した。一方、張によると献金したことは事実で、総理の野心を持つ床次は、2000万元の献金を望み、まず手付け代わりに50万元を献金した。しかし、床次が民政党を離党し、総理の目が無くなったため、以降は献金を要求してこなかったのだという。
詳細は「50万元事件」を参照
在任中の昭和10年(1935年)9月8日、心臓病により東京市淀橋区西大久保(現:東京都新宿区大久保)の自宅で死去。68歳没。東京多磨墓地(多磨霊園)、鹿児島市新照院町徳大寺に分けて葬られた。
「万年首相候補」と呼ばれ首相候補と目されるも余人の不評を買い、政権獲得の夢を遂に果たせなかった。一方で鉄道員の福利厚生に意を用い、公傷退職者を救済するため鉄道弘済会の創設に尽力した。発会に当たっては、5,000円という多額の寄付をしている。
家族・親族 [編集]
床次家 [編集]
- 妻
- 男・正一[1]
- 女・夏[1]
- 女・秋[1]
関連項目 [編集]
脚注 [編集]
外部リンク [編集]
- 歴史が眠る多磨霊園 床次竹二郎
- 床次竹二郎/クリック20世紀
- 思文閣 美術人名辞典 - 床次竹二郎
- 床次竹二郎|近代日本人の肖像 (国立国会図書館) - 肖像写真及び略歴
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 南弘 |
第36代:1934年 - 1935年 |
次代: 岡田啓介 |
| 先代: 原脩次郎 |
第10代:1931年 - 1932年 |
次代: 三土忠造 |
| 先代: 水野錬太郎 |
第36-37代:1918年 - 1922年 |
次代: 水野錬太郎 |
| 先代: 一木喜徳郎 |
第16代:1911年 - 1912年 |
次代: 押川則吉 |
| 先代: 楠瀬幸彦 |
第2代:1908年 |
次代: 平岡定太郎 |
| 先代: 岡喜七郎 |
未赴任 官選第16代:1905年 - 1906年 |
次代: 清野長太郎 |
| 先代: 亀井英三郎 |
官選第19代:1904年 - 1905年 |
次代: 岩男三郎 |
| 党職 | ||
| 先代: (結党) |
政友本党総裁 初代:1924年 - 1927年 |
次代: (解党) |
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