水野錬太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
日本の旗 日本の政治家
水野錬太郎
みずの れんたろう
Mizuno Rentaro.jpg
生年月日 1868年2月3日
慶応4年1月10日
出生地 現在の台東区鳥越町
没年月日 1949年11月25日(満81歳没)
出身校 帝国大学法科大学
所属政党 交友倶楽部
称号 正三位
勲一等旭日桐花大綬章

日本の旗 第46代文部大臣
内閣 田中義一内閣
任期 1927年6月3日 - 1928年5月25日

日本の旗 第35・38・40代内務大臣
内閣 寺内内閣
加藤友三郎内閣
清浦内閣

選挙区 勅選議員
テンプレートを表示
水野錬太郎(1932年)

水野 錬太郎(みずの れんたろう、慶応4年1月10日1868年2月3日) - 昭和24年(1949年11月25日)は、日本の内務官僚政治家勲等勲一等内務大臣朝鮮総督府政務総監文部大臣貴族院議員などを歴任した。

来歴[編集]

江戸詰の秋田藩士水野立三郎の子として1868年(慶應4年)1月10日、江戸浅草鳥越町の秋田藩邸で生まれた。立三郎は秋田の出でなく埼玉の出で、江戸で取り立てられた武士である。立三郎は、秋田藩主佐竹義堯の弟佐竹義諶(よしつま)に仕えた。佐竹義諶は秋田藩の支藩岩崎藩主で、1869年(明治2年)義諶(1870年死去)、13歳の佐竹義理(よしただ)が継いだ。

すなわち、立三郎は、戊辰戦争で官軍についた秋田藩のために妻、生後間もない錬太郎、錬太郎の2人の姉をつれて、現在の秋田県湯沢市岩崎に住み、奥羽同盟に勝利し、佐竹義理は、2万石の岩崎藩主になり、立三郎は公議人になる。

1871年(明治4年)廃藩置県により、1874年(明治7年)一家は東京に戻る。1882年(明治15年)頃、錬太郎は両親を失う。神田の共立学校を経て、大学予備門(のちの一髙)に入学、帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を明治25年に卒業、穂積陳重教授の推薦で渋沢栄一の第一銀行に就職するが、明治26年梅謙次郎教授の勧誘により農商務省鉱山局に入る。明治27年、当時、内務省土木局長の都筑馨六(1861-1923)(貴族院議員、男爵、枢密顧問官)から招かれ、内務省に入る。社寺局長、地方局長などを歴任、内務の大御所と言われる。

中でも有名なのは、1899年(明治32年)、文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約(ベルヌ条約)加盟にあわせ、水野錬太郎がベルリン会議に出席、日本は条約に加盟する事となり、水野が起草した著作権法(明治32年3月4日法律第39号、旧著作権法)が制定された。

原敬の知遇を得て、立憲政友会の党員になり、1912年12月5日、貴族院議員になる[1]1914年4月21日、錦鶏間祗候に任じられる[2]後藤新平からの慫慂で寺内正毅内閣内務大臣となる。帝大(東京帝大)卒の学士ではじめての内務大臣であった。在任中の1918年(大正7年)、米騒動が起きる。

1919年(大正8年)、原敬内閣の時、朝鮮総督府政務総監になり、文治政治を行う。

1922年(大正11年)に成立した加藤友三郎内閣でも内相を務めた。1923年(大正12年)8月26日、加藤友三郎首相が死去し、9月1日に関東大震災があったため、後任の内相(後藤新平)が決まるまで(9月2日)、陣頭指揮をした。

1924年(大正13年)、清浦奎吾内閣が成立すると、再び内相となり、帝都復興院総裁も兼任した。

1927年(昭和2年)、田中義一田中義一内閣で、高橋是清蔵相が辞任した後、三土忠造文相が蔵相に転任、そのあと水野錬太郎が文部大臣についた。1828年(昭和3年)、田中首相は、久原房之助を入閣させようとし、水野錬太郎は反対し自分は辞任するとした。このことが世間に知られた。

田中は水野に対し、辞表の撤回を迫り「昭和天皇へは、水野を留任させた、と伝えた。」と言ったため、水野は、了承、辞表を撤回した。水野は、昭和天皇に拝謁し、「総理に対し辞表をお下げ渡しに相成りたること誠に恐懼に堪えざる」旨を申し上げた。天皇は、国務の為に尽瘁せよ、との言葉を贈った。しかし、新聞は、総理は水野の勅諚降下を奏請し、水野は勅諚降下によりて留任した。天皇が留任せよ、といわれたから辞任を撤回した、つまり「天皇を政治利用した」と非難した。これにより、結局、水野は辞任した。これを優諚事件という。

田中内閣の総辞職後、水野は大臣になることはなかった。しかし、大日本音楽著作権協会会長、大日本興亜同盟副総裁など多くの役職についた。

敗戦後、水野は大日本興亜同盟副総裁になっていたことなどを理由に、1945年(昭和20年)12月、A級戦犯の容疑者とされたが、起訴されず、1947年(昭和22年)9月1日、監視が解かれた。水野は病臥中であったため、収監されなかった。1949年(昭和24年)11月25日死去した。81歳。

人物[編集]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第106号、大正元年12月6日。
  2. ^ 『官報』第517号、大正3年4月22日。

参考文献[編集]

  • 藤本頼生「内務官僚水野錬太郎の神社観と神祇行政官僚の系譜」『神道と社会事業の近代史』弘文堂、2009年、所収。
  • 大家重夫「水野錬太郎博士と旧著作権法」『久留米大学法学』第58号、175頁-244頁、2007年12月。
  • 大家重夫「著作権法を確立した人々 第二版」『旧著作権法を立案した水野錬太郎』成文堂、2004年3月、97頁-135頁所収。
  • 尚友倶楽部・西尾林太郎 編『水野錬太郎回顧録・関係文書』山川出版社、1999年1月。
  • 水野錬太郎『他山之石』清水書店、1909年。
  • 松波仁次郎『水野博士古希記念 論策と随筆』水野錬太郎先生古希祝賀会事務所、1937年。

外部リンク[編集]


公職
先代:
押川則吉
久保田政周
日本の旗 内務次官
第18代:1913年 - 1914年
第21代:1916年 - 1918年
次代:
下岡忠治
小橋一太
先代:
後藤新平
床次竹二郎
後藤新平
日本の旗 内務大臣
第35代:1918年 - 1918年
第38代:1922年 - 1923年
第40代:1924年 - 1924年
次代:
床次竹二郎
後藤新平
若槻禮次郎
先代:
山縣伊三郎
日本の旗 朝鮮総督府政務総監
第2代:1919年 - 1922年
次代:
有吉忠一
先代:
三土忠造
日本の旗 文部大臣
第36代:1927年 - 1928年
次代:
勝田主計