1918年米騒動
1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)は、1918年(大正7年)に日本で発生した、米の価格急騰に伴う暴動事件。
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米騒動の発生 [編集]
1918年(大正7年)7月22日の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うため「伊吹丸」が寄航していたという。荷積みを行っていたのは十二銀行(北陸銀行の前身)で、その倉庫[3]前へ魚津町の女性労働者ら[4]十数人が集まり、米の船積みを中止し、住民に販売するよう求め、嘆願した[5]。
この時は巡回中の警官の説諭によって解散させられたが、住民らは集会を始めるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月3日には当時の中新川郡西水橋町(現・富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。
8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。
これが地方新聞(8月9日高岡新報)[6]の記事から始まり、全国の新聞に「越中女一揆」として報道されることとなった米騒動の始まりといわれている[7]。
ちなみに、魚津では阻止する動きはあったものの、暴動は一切起こっていない。
背景 [編集]
米価の暴騰 [編集]
1914年(大正3年)の第一次世界大戦開始の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年(大正7年)の中頃から急激に上昇し始めた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年(大正7年)の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円 - 25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。
この背景には資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。このように、農業界からの人材流出と米の消費量の増加が続いた事に加え、大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり[8]、米価暴騰の原因となった。
国の対応 [編集]
米価格が高騰することにより、地主や商人は米を米穀投機へ回すようになり、次第に売り惜しみや買い占めが発生し始めた。事態を重く見た仲小路廉農商務大臣は、1917年(大正6年)9月1日に「暴利取締令」を出し、米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品の買い占めや売り惜しみを禁止したが、効果はなかった。常軌を逸した商魂を表す口語の動詞「ぼる」「ぼられる」「ぼったくる」(暴る、暴られる、暴ったくる)は、この「暴利取締令」の「暴利」に由来する[9]。
1918年(大正7年)4月には「外米管理令」が公布され、三井物産や鈴木商店など指定七社による外国米の大量輸入が実施されたが、米価引下げには至らなかった。
社会不安 [編集]
米価の暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米の価格高騰を知らせ煽った事もあり、社会不安を増大させた。寺内正毅内閣総理大臣は1918年(大正7年)5月の地方長官会議にて国民生活難に関して言及したが、その年の予算編成において、救済事業奨励費はわずか35,000円のみであり、寺内の憂慮を反映した予算編成になっているとは言えなかった。
この為、警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針が取られ、巡査を増員するという措置が取られた[10]。
労働者の団結権すらなかったこの時代、厳しい抑圧と、苦しい生活に喘ぐ一般庶民の怒りの矛先は、次第に高所得者、特に米問屋や商人に向けられるようになっていった。
シベリア出兵 [編集]
米価が徐々に上昇していく中、寺内内閣は1918年(大正7年)8月2日、対外政策としてシベリア出兵を宣言した。この宣言は流通業者や商人などが戦争特需における物資高騰を狙い、売り惜しみをさらに加速させていくという状況を発生させた。事実、神戸米会所における相場では、7月2日に1升34銭3厘だった相場が、8月1日には40銭5厘、8月9日には60銭8厘と急騰している[11]。また、時を前後して富山県での騒動が発生していることなどから、シベリア出兵と米騒動の直接的な因果関係を指摘するものもある[12]。
騒動の広がり [編集]
第一次世界大戦による好景気がまだ続いていた1918年(大正7年)に伊勢の福寅一派の相場師の買いあおりにより米穀取引所における期米相場は遂に50円(1石あたり)に迫り、小売価格も1升30銭から50銭を超すに至り世の中は物情騒然となった[13]。
米価の暴騰はとどまりを見せず、1918年(大正7年)8月1日には1石35円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)とのねつ造記事を書かれた事により焼き打ちにあった。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約20,000人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ちこわすなどして1升30銭での販売を強要した。
こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日頃からは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、9月12日の三池炭坑の騒動終了まで、50日間を数えた。
炭坑への飛び火 [編集]
8月17日以降には、米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火する。山口県沖の山炭坑、福岡県峰地炭坑などにおいて、炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化した。沖の山炭坑の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ちこわしや遊郭への放火などが起こった。出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど、死者13名を数える惨事となった。
騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇 [編集]
「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間に渡る一連の騒動は最終的に、1道3府37県の計369か所にのぼり、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された[14]。呉市では、海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙する中、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。検挙された人員は25,000人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴[15]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。
被差別部落との関わり [編集]
米騒動での刑事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった[16]。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。京都市の米騒動も、市内最大の部落である柳原(現・崇仁地区)から始まっており、同地区では50人以上の部落民が逮捕されている[17]。処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。
1920年(大正9年)、事態を重く見た原敬内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。
軍人の参加、警官による暴動への加担 [編集]
呉市では、水兵が騒動に参加して検挙された。また、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した。
政府対応 [編集]
政府は8月13日に1000万円の国費を米価対策資金として支出する事を発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。
全国中等学校優勝野球大会の中止 [編集]
この騒動は、全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会)にも影響を及ぼした。8月11日に神戸市で始まった騒動により、当時の会場だった鳴尾球場に程近い鈴木商店で焼き打ち事件が発生。周辺の治安も大幅に悪化し、8月14日からの開催予定だった第4回全国中等学校優勝野球大会は一旦延期された。その後も治安改善の見通しが立たなかったため、8月16日に大会の中止が決定された。
騒動の起こった都市 [編集]
『米騒動の研究』 - 井上清、渡部徹編より、発生した都市を日付順に並べた。
- 8月11日
- 大阪市、神戸市
- 8月13日
- 東京市、福島市、豊橋市、岐阜市、大津市、富山市、高岡市、金沢市、福井市、和歌山市、堺市、尼崎市、姫路市、岡山市、尾道市、呉市、広島市、鳥取市、高松市、丸亀市、高知市
- 8月14日
- 浜松市、岡崎市、奈良市、福山市
- 8月15日
- 仙台市、若松市、横浜市、横須賀市、甲府市、津市、松山市、門司市
- 8月16日
- 下関市、小倉市
- 8月17日
- 新潟市、長岡市、長野市
- 8月20日
- 佐世保市、熊本市、松江市、大垣市
言論弾圧 [編集]
米騒動の報道に際し、各種新聞は民衆の行動を好意的に報じると共に、根本的な原因は民衆の要求を無視し続けた政府にあるとした。一方政府は事件が広がったのは新聞が誇大に報道したためであるとし、8月7日に『高岡新報』を発禁処分にしたのを始め、8月14日には米騒動に関する一切の報道を禁じる記事差止命令を報道各社へ通達した。
東京春秋会(新聞社複数社で結成された連合)はこのような政府の処分に対し取り消しを要求し、水野錬太郎内務大臣は「内務省発表の公報情報のみ掲載を認める」と柔化させた。しかし、政府発表情報があまりに事実と反していた事から、春秋会はさらに抗議を続け、報道禁止令を撤廃させる事に成功している。
一連の寺内内閣の言論弾圧に対し、新聞社は激しく抗議し、言論報道の自由に関する運動に発展していった。
平民宰相の誕生 [編集]
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。寺内は8月31日に山縣有朋に辞意を告げ、9月21日に正式に辞表を提出した。山県は西園寺公望に組閣を命じたが、西園寺はこれを固辞し、原敬を推薦した。そして9月27日に原に組閣が命じられ、日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。爵位を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。
米騒動の意義 [編集]
米騒動に触れた作品 [編集]
- 映画
- 『関東やくざ者』(東映、1965年)
- 『日本侠花伝』(東宝、1973年)
- 『四畳半襖の裏張り』(日活、1973年)
- 『青春の門』(東宝、1975年)
脚注 [編集]
- ^ 中央に見える鉄扉のある場所が通路で目前の海岸から小船で米を積み出し、沖の貨物船に積み込んだ。
- ^ 外壁は石積みにモルタルであったが後年塗られた可能性が高く、後世に新資料が出てもすぐ修復できる様に一時的に板張りとした。
- ^ 「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」によりこの場所には米騒動発祥の地の記念碑が建立されている。
- ^ 地元の言葉で「おっかどま」(女房たち)で、荷積みに携り、「女仲士」と富山日報の記事にある。
- ^ 当時、肉体労働のためには一日米一升を食べたという。
- ^ この最初の新聞記事は、北日本新聞社(富山市)一階に展示してある。また、高岡市立中央図書館で閲覧可。
- ^ このような騒動は、この夏に各地で勃発したが、全国に波及したきっかけはこの記事とされる。
- ^ 1914年(大正3年)に約200万石あった輸入額が、1915年(大正4年)に45万石、1916年(大正5年)には31万石に減じている(米穀統計より)。
- ^ 広辞苑による。
- ^ 洛南タイムス連載シリーズ『南山城の光芒」』
- ^ 読売新聞神戸支局編『神戸開港百年』
- ^ 『大正時代』 - (永沢道雄、2005年、光人社)など
- ^ 兵庫穀肥物語 神戸穀物商品取引所十周年記念(昭和37年10月8日神戸穀物商品取引所発行)
- ^ 『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』 - 今井清一の調査より。書籍によって本値には若干のばらつきがある。例えば小学館の『日本大百科全書』では1道3府38県の計368か所としている。
- ^ うち700余名が騒乱罪によるもので起訴されている。
- ^ 三谷秀治『火の鎖 和島為太郎伝』p.82(草土文化、1985年)
- ^ 三谷秀治『火の鎖 和島為太郎伝』p.74-75(草土文化、1985年)
参考文献 [編集]
- 『米騒動の研究』 - 井上清、渡部徹(1962年、ASIN B000JAL1R2)
- 『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』 - 今井清一(2006年、ISBN 978-4-12-204717-4)
- 『大正デモクラシーと米騒動』 - 仲村哲郎(2002年、ISBN 978-4-89757-646-6)
- 『米がつくった明治国家』 - 山内景樹(2004年、ISBN 978-4-900277-57-1)