爵位

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爵位(しゃくい、英語:Royal and noble ranks、Title)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである。別称として勲爵爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある[1]

概要[編集]

爵位とは貴族の称号を序列化したものであり、国家が賦与する特権や栄典の制度である[2]

中国およびその影響圏における爵位は古くは中国のにさかのぼり諸侯封号として爵位が授けられ、その慣行は代まで続いた。また近代の日本華族でも用いられ、あるいは西欧の貴族称号の訳語としてヨーロッパロシアの貴族についても用いられた。五爵(ごしゃく)あるいは五等爵(ごとうしゃく)、公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)などともいう。なお、タイの爵位制度に関してはラーチャウォンを参照。有爵者への敬称は「閣下」または「」。天から授かった徳を天爵というのに対して、爵位や位階官禄のことを人爵という。

君主の称号を爵位とみなすかどうかについては、その国の伝統や文化、さらに爵位に対する考え方の違いによって、差異がある。

  • 日本の天皇の場合、天皇は爵位を与える(または認定する)主体であり、爵位を受ける側ではない。の九等爵の場合、その筆頭は「国王」であるがそれを与える者は隋の皇帝であり、皇帝は爵位を受ける側ではない。
  • 一方、「王爵」「帝爵」という言葉が使われることもあり、「」といった君主の称号即ち君主号も広義では爵位の一種とみなすこともある。中国の場合、上位の君主である皇帝が下位の君主である「王」を認定することがあり、その場合には「王」もまた皇帝の下にある爵位のひとつとみなされる。
  • ヨーロッパの国においては歴史的な成立事情から公国大公国侯国といった名称を名乗るものがあり、そこでは有爵者を君主国家元首とされている。このように、爵位が君主号の役割を果たしている場合もある。

今日、君主制ではない、いわゆる共和国ではもちろんのことであるが君主国の系譜を引くフランスや現在も君主国である日本などでも貴族制度、華族制度が廃止となるなど公式に爵位を定めない国もある。その場合においても特にフランスなどに代表されるように一部では慣習として爵位を私称し続けたり、その私称を継承し続けている旧貴族層も存在している。なお君主制あるいは自国に爵位制度が存在するかに関わらず外国の爵位が贈呈されることも少なくなく、国際親善や特定の国に利益をもたらした人物にその国から爵位が贈呈される場合もある。また一部には寄付により爵位を贈呈する国や自称国家もあるが、それらの中には詐欺まがいのものもあるのが現状である。

爵位等級[編集]

序列は以下のとおりとなる(英語名は青色が男性、赤色が女性)。

称号 英語名
皇帝
天皇
Emperor, Empress
国王
天王
King, Queen
親王 Prince, Princess
称号 英語名
大公 Archduke, Archduchess

Grand duke, Grand Duchess

公爵 Duke, Duchess
侯爵 Marquess/Marquis, Marchioness
伯爵 Earl/Count, Countess
子爵 Viscount, Viscountess
男爵 Baron, Baroness

法王カリフなどはその宗教的性格、および複数の王国の長という意味がないことなどから別格とされる。またprinceは王子と訳されることが多いが女王の夫(王配)をprince、姉妹をprincessと呼ぶなど、親王が完全に対応するわけではないが近い訳である。

東洋の爵位[編集]

中国における爵位[編集]

秦以前の爵位[編集]

中国語における爵とは中国古代の温酒器を意味し、三本足の青銅器であり中国の古代王朝ではこの爵を人物の徳や身分を指す概念として用いるようになった。その起源は氏族制の時代に宴席での席次を定める習俗にあるとされる[2]。『孟子』(告上篇)には「天爵なる者有り、人爵なる者有り」といい、孟子は忠・孝・仁・義などの人徳を指し天爵と呼び、社会的地位である通常の爵位を人爵と呼んで、制度としての爵位(人爵)を精神的な価値(天爵)の下に置く思想を唱導した。儒教の経典の主張するところによると王朝にはの五等があり、それが代にはの三等となり周代には再び五等となったとされる。また『書経』(王制篇)によると公侯伯子男の5位はその領地の大小広狭によって5段階に分けたものである。ただし、例外事項が少なくとも二つあり、第一に諸侯は爵位の上下にかかわらず自国の領内ではすべてと自称・呼称されるのが礼とされた(爵位はあくまでも周王朝の朝廷における順位にすぎないのに対し、ここでいうは爵位ではなく「領主」とか「殿様」ぐらいの意味)。第二に周礼によると異民族の国々の首長は領地面積の大小にかかわらずすべての爵位しか与えられなかったとされる(これも周王朝内部の建前であり、自国内ではまたは王を自称した)。この二項は現在残る歴史書の記述にも合致している(ただし異民族の首長が子爵を与えられていると自認していたという考古学的証拠はない)。さらに爵位とは別に「禄位」というものがあり、爵位と禄位が並行されていた。禄位とは大夫であるが、これは仕える君主(諸侯)が五等爵位のどれであるかによって例えば同じ「大夫」であっても相互の地位の高さに違いがあったり、さらに細かく(例えば上大夫・下大夫のように)別れたりした。

しかし甲骨文金文等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究によりこれらの時代に実在した都市国家支配層や共同体の成員には爵位の原型とされる称号はあったものの五等爵のようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。きれいに序列化された五等爵は戦国時代に過去の時代のありかたをもって当時の政権に正当性を与えるために諸子百家により整理され、序列化されたものではないかとする説が有力になってきている[2]

実際の爵位については、制度としてどこまで整理されたものかは不明だが、所謂爵位に該当または類似したものとして、

  • (女性の爵位で巫女的な存在。最高位だったが周代では格下げされ階層の配偶女性をさす言葉になった)
  • (王族(王子)の意味で婦に次ぐ高位の都市の領主。周代には格下げされ都市共同体の大夫階層をさした)
  • (周代、侯の中の特別に格付けされたもの。公と侯の字は当時も発音が同じだったと考えられる)
  • 都市国家の首長)
  • (殷代、王権の親衛隊的存在だったが、周では都市国家に従属する小都市の長)
  • (諸侯の兄弟の意で、周代の都市国家に従属する小都市や村の長)
  • (亜の字は王を取り囲む者の意味で、殷王の親衛隊的存在。周王朝には無い)
  • (殷の下層首長を管理する徴税官的存在。周では都市共同体の大夫階層)
  • (殷代、下層の首長層。周王朝には存在せず)
  • (「邦」の語源で、殷代には外国の王や異民族の首長をいう。『周礼』における子爵に該当)

の存在が知られている。

秦・漢の爵位[編集]

では商鞅の第一次変法により軍功褒賞制と爵位制が設けられ、二十等爵制として軍功により爵位を与えた。その爵位により、土地の保有量や奴婢数など生活水準が決められていた。

前漢にはの軍功爵制を改め、軍功に限らず身分に応じて軍功爵の爵位を与えた。更に二十等爵の他に王爵を設けたが、これは次第に皇族に限られることとなった。また、爵位を持つ者は土地の保有を許可された[2]

二十等爵とは第二十級徹侯(後に武帝避諱から通侯列侯と呼ばれた)を筆頭に第十九級関内侯第十八級大庶長第十七級駟車庶長第十六級大上造と続き以下少上造右更中更左更右庶長左庶長五大夫と続いた。ここまでが官爵であり十二等に分かれることから十二等爵ともいい、官吏に与えられた。第八級公乗以下、公大夫官大夫大夫不更簪裊上造公士までを民爵といい民に与えられた。これらの上に諸侯王[2]、さらには天子が君臨することから実質的には二十二等爵である[2]

漢武帝の代には軍事費調達のために売爵が行われ爵位の価値が低くなったため、軍功による爵位として別に武功爵が設定された。これは第十一級軍衛を筆頭に第十級政戻庶長第九級執戎第八級楽卿と続き以下千夫秉鐸官首元戎士良士閒輿衛造士といった。しかしこれらの武功爵も後に売爵の対象となった。

後漢代に入ると爵位の価値は更に軽くなり列侯、関内侯のみが爵とされ、列侯はさらに県侯郷侯亭侯などに細分された[2]

魏晋南北朝の爵位[編集]

曹魏に至ると秦以来の十二等爵を廃止して、儒教経典の公・侯・伯・子・男を擬古的に復活させた。文帝の黄初年間に王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯(最初郷侯の下に亭侯が置かれていたが後に省かれる)・関内侯の九等の爵制が定められた。222年黄初3年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後224年(黄初5年)には諸王の爵位が皆県王に改められ、明帝232年太和6年)に再調整されて郡王となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、関内侯の下には名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯が創立された。

武帝275年咸寧3年)に王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず宗室には公・侯・伯・子・男(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯等があり、亭侯以上には封邑が与えられた[2]。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは西晋では少なかったが、東晋になると多く用いられるようになり常に古来からの五等爵と混称されることもあった。魏晋時代以降は民爵については有名無実化し、皇帝を頂点とした皇族と功臣の爵位制度となっていった[2]

南朝のでは、おおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。では郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯の十二等があった。

北魏道武帝396年皇始元年)に五等爵が定められたが、404年天賜元年)に五等から王・公・侯・子の四等に減らされた。王は大郡、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び伯・男の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。500年景明元年)には王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男の十一等の爵制が定められた。官品との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。

北斉では王・公・侯・伯・子・男の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。

北周の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男の十一等が定められた。

隋・唐・宋・遼・金・元の爵位[編集]

文帝の開皇年間に国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男の九等爵が設けられた(ただし「国王」については、従属国・朝貢貿易の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ、本稿で述べる君主が臣下に与える爵位とは異なる)。この他文献には、郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡・県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯・郷侯・亭侯・関中・関外侯なども見られる。

中国の爵位は隋代以降基本的には王・公・侯・伯・子・男をベースにしたものとなり代に完成した。その後を経て、徐々に簡素化し代には殷や周のころのように五等や三等であった。代も基本的に五等爵を基本としていたが、等級を設けていた。

官品 日本¹ 北魏 北斉 隋² 唐・遼³ 4
正一品 開国郡公
従一品 開国県公・散公 開国郡公 郡王・国公・開国郡公・開国県公 嗣王・郡王・国公 郡王
正二品 開国県侯 散郡公・開国県公 開国侯 開国郡公 郡公・開国郡公 郡公 国公
従二品 散侯 散県公・開国県侯 開国県公 郡公
正三品 開国県伯 散県侯・開国県伯 開国伯   郡侯
従三品 散伯 散県伯 開国県侯 開国侯
正四品 開国県子 開国子 開国県伯 開国伯 郡伯・県伯 郡伯
従四品 散子 散県子  
正五品   開国県男 開国男 開国県子 開国子 県子
従五品 散男 開国郷男・散県男 開国県男 開国男 県男
Notes:
1) 日本については品階ではなく位階であるが、類似した制度なため参考として載せた。この爵位と位階の対応は位階令大正15年勅令第325号)による。
2) 煬帝の時代には王・公・侯は保留された。
3) 遼は唐の制度をそのまま用いた。
4) その後、嗣王・郡公・開国公は保留された。

明代の爵位[編集]

代になると皇族たる宗室と功臣や外戚との爵位が異なるようになった。宗室以外の者に与えられる爵位は当初古来からの五等であったが、後に子・男は保留されて公・侯・伯の三等となった。

一方、宗室に与えられた爵位はより複雑なものとなっている。太祖の時代に襲封の制度が定められた。皇子は親王に封ぜられ、親王の嫡長子で10歳に達した者は王世子に立てられ嫡長孫は王世孫に立てられ均しく一品が与えられた。10歳に達した諸子は郡王に封ぜられ郡王の嫡長子は長子に、嫡長孫には長孫に立てられ均しく二品が与えられた。諸子には鎮国将軍が授けられ従一品が与えられ孫には輔国将軍と従二品、曾孫には奉国将軍と従二品、玄孫には鎮国中尉と従四品、来孫には輔国中尉と従五品、六世以下には皆奉国中尉と従六品が授けられた。

清代の爵位[編集]

代の爵位も明代と同様に宗室のものとモンゴル貴族のものと功臣・外戚のもとと分かれていた。宗室のものは和碩親王(ホショイしんのう)・多羅郡王(ドロイぐんおう)・多羅貝勒(ドロイベイレ)・固山貝子(グサイベイセ)・奉恩鎮国公(ほうおんちんこくこう)・奉恩輔国公(ほうおんほこくこう)・不入八分鎮国公(ふにゅうはちぶんちんこくこう)・不入八分輔国公(ふにゅうはちぶんほこくこう)・鎮国将軍・輔国将軍・奉国将軍・奉恩将軍があった。一般に爵位は世襲であるが、父の爵位より一級下のものとなる。ただし功勲などにより例外もあった。

ハーンやモンゴル貴族には親王・郡王・貝勒・貝子・公・一等-四等台吉(タイジ)・一等-四等塔布嚢(タブナン)が授けられていた。タイジは本来は太子の意でチンギス・ハーンの子孫の称号であった。タブナンはカラチン三旗とトメット左翼旗でタイジに相当する地位として用いられていた。

下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。

官品 1620年天命5年) 1634年天聡8年) 1643年順治元年) 1736年乾隆元年) 1751年(乾隆16年)
超品 五備御之総兵官 一等公 一等-三等公
  一等-三等侯 一等侯兼一雲騎尉・一等-三等侯
一等-三等伯 一等伯兼一雲騎尉・一等-三等伯
正一品 一等-三等総兵 一等-三等昂邦章京 一等-三等精奇尼哈番 一等子兼雲騎尉・一等-三等子¹
正二品 一等-三等副将 一等-三等梅勒章京 一等-三等阿思哈尼哈番 一等男兼一雲騎尉・一等-三等男¹
正三品 一等-二等参将 一等-三等甲喇章京 一等-三等阿達哈哈番 一等軽車都尉兼一雲騎尉・一等-三等軽車都尉¹
游撃
正四品 備御 一等-二等牛録章京 一等-二等拜他喇布勒哈番 一等騎都尉兼一雲騎尉・一等-二等騎都尉¹
正五品   拖沙喇哈番 雲騎尉¹
正七品   恩騎尉
Notes:
1) 満州語での名称は順治元年と同じ。

外命婦の封号(女性の爵位)[編集]

女性に与えられる爵位に順ずる封号は古来から存在したが、基本的に皇族女子や夫・子によって授けられることが多かった。

唐代には皇伯叔母に大長公主、皇姉妹には長公主、皇女には公主、皇太子の娘には郡主、王の娘には県主、王の母や妻にはが授けられた。皇室以外では夫や子の品階や爵位によって授けられた。一品および国公の母・妻には国夫人が、三品以上の母・妻には郡夫人が、四品以上の母・妻には郡君が、五品以上の母・妻には県君が、散官や同職事には郷君がそれぞれ封ぜられた。

宋代では当初は唐とほぼ同様の制度が用いられていたが、公主から帝姫に一時期変更されていたことがあった。また郡君を淑人・碩人・令人・恭人に、県君を室人(後更に宜人・安人・孺人に分けるようになった。

明代では公の母・妻は国夫人、侯の母・妻は侯夫人、伯の母・妻は伯夫人が授けられた。また、一品は夫人が授けられていたが、後には一品夫人と呼ぶようになった。二品は夫人、三品は淑人、四品は恭人、五品は宜人、六品は安人、七品は孺人がそれぞれ授けられた。

なお、母・祖母などには「太」の字が加えられた(国太夫人や郡太君、伯太夫人など)。これは、皇太后・太皇太后などの用例と同じものだと考えられる。

日本における爵位[編集]

古代の爵位:カバネ[編集]

日本では東洋・西洋諸国に定められる、いわゆる爵位制度を正式に定めるのは明治時代以降のことである。しかし古くは氏姓制度の中で大臣大連など豪族に対して与えられる称号であるカバネが日本独自の爵位制度として存在していた[3]。しかし飛鳥時代に入ると中国王朝への朝貢と服属によらず対等な国づくりを目指した聖徳太子により十七条憲法と行政機構の整備が進められ国内統治の根幹をなす官僚の身分秩序として冠位十二階が制定され、従来の氏族の序列による氏姓制度に取って替わるようになった。まさにこの冠位こそ中国の爵位を意識して整備されたものであり、実質的に爵位としての機能を果たした[4]。ただし、中国の爵位制度や古代日本の八色の姓が冠位十二階と異なるのは前者が有力氏族の血筋を階級化する人爵であったのに対し後者の冠位は孟子の唱えた天爵、即ち仁・義・忠・信の人徳を備えた人物像を尊ぶ五行思想に基づくものであった。冠位十二階は、冠位への登用は氏族の出自によらず人物の器識徳量に応じて登用するという今日の能力主義の見地に立った身分制度であった。一方で、従来のカバネは消滅することなく存続し天武天皇の代に八色の姓として再編された。氏族の出自は官人の選考要件のひとつとして看做されてはいたが701年大宝元年)の大宝令718年養老2年)の養老令で冠位制度に代わり位階勲位がしかれていく中で出自により細分化されていたカバネも次第にほぼ朝臣の姓に集約されていくようになり、カバネ自体の等級的な性格は次第に失われていった。

カバネの形骸化:位階制と家格[編集]

制度面では氏族の序列であるカバネが形骸化し能力主義を基底とした冠位十二階が位階制として発展していく一方で、政治の実態はむしろ能力主義による天爵の精神から氏族の出自により登用される人爵としての性格に回帰していった。当初は様々な氏族が登用されてきた位階制も次第に政争を通じて、藤原氏に代表される上級貴族に高位高官が占められるようになった。とりわけ新たな位階制の下では皇親たる親王の品階を一品から四品と定め、それ以外の親王を無品親王とし諸王の位階を正一位から従五位下までの十四階に分けた。さらに人臣に対しては正一位から少初位下までの三十階に分けられたがこの位階のうち国司の長官に相当する従五位下以上がいわゆる貴族と位置付け、従五位下を別称して松爵栄爵といわれるようになり従五位下に叙せられることを叙爵と称されるようになったが、特に大宝令の中で特徴的であるのが蔭位の制でこの制度では高位者の子弟を貴族または貴族に準ずる官位に叙する仕組みが整えられ、貴族政治の色彩が強まったのである。さらに、平安時代以降になると有力氏族ごとに叙位任官者を推薦枠を保障される氏爵が設けられるようになった。年度ごとに同一氏族の一門同士で叙位任官者を推挙する年爵や一門を順送りに叙位任官させる巡爵といった慣行も行われるようになったのはその例である。まさに、朝廷の位階制度は有力な院宮王臣家に独占されていくことになった。やがて同一氏族の中でも嫡流庶流の別はもちろん、母の身分、父祖の官位に応じて個々の家系ごとに昇ることができる官位の上限、すなわち極位極官が固定化していくことになり鎌倉時代以降、公家、武家とも家格が細分化されていくことになったのである。

平安時代から鎌倉時代以降、貴族は主に公卿を中心とした公家と武士を中心とした武家に分かれたが公家の序列は藤原摂関家の子孫を中心とした摂家を筆頭に清華家大臣家名家半家に分けられ、家々で任ぜられる極位極官が定められた。武家における家格は政治の実権を長く握っており、多くの家臣を統率する観点から公家の格式以上に複雑なものとなった。武家の血統では武家政治の時代を通じて将軍家の一門、有力家臣の家系、姻戚関係が重視され、鎌倉時代は将軍と同じ清和源氏の一門のうち特に認められた者を門葉と称し足利将軍家の一門は足利一門として徳川将軍家の一門は家門大名と称され、叙位任官など格式や人事面で優遇された。将軍の一門については足利一門が政治の実権を握った室町時代を除いて政治への参画は敬遠され、ただ将軍家の連枝として格式のみ保障されることが多かった。一方、人事面で政治の要職に登用されたのはそれぞれの時代で幕府草創に功労のあった武家であった。鎌倉時代はともに有力御家人であった三浦氏、和田氏、安達氏との政争に勝利した北条氏が執権職を世襲し、その他の役職も北条氏および姻戚関係にある有力御家人で守護・地頭職が占められるようになり室町時代は足利一門および有力守護の家系で構成された三管領四職七頭の格式が整い、特定の武家に幕府の役職が世襲された。江戸時代以降となると武家の格式がさらに複雑化することとなり将軍の家臣は直参とされ、1万石以上の武家を大名、将軍御目見え以上を旗本、御目見え以下の直参を御家人といい、大名の家臣を陪臣といった。また大名についてはその身分格式が細かく、将軍一門の家門大名、徳川古参の家臣たる譜代大名、それ以外の外様大名に分けられ幕政への参画の道は譜代大名にのみ開かれた。特に、幕府職制の最高職たる大老井伊氏酒井氏堀田氏などに限られ、老中には幕府の中で京都所司代若年寄など重職を経た譜代大名が登用されたのである。

一連の鎌倉時代から江戸時代までの変遷の中で武家の格式もかなり細分化が進み、室町時代以降は特に足利一門や有力守護に対しては将軍の通字である「義」または当代の将軍の諱の文字の一字を賜る将軍偏諱という新たな栄典が生まれ、足利姓を称する一門は鎌倉公方篠川御所稲村御所など公方号御所号を称するようになり、また有力守護に対しては屋形号および白傘袋毛氈鞍覆の使用が与えられ守護代には唐傘袋毛氈鞍覆の他、塗輿などが免許されるなど家系の序列に応じた栄典が整っていった。とりわけ将軍偏諱と御所号、屋形号の免許については江戸時代に室町時代からの名家や国主大名に与えられる恩典として踏襲されていった。さらに安土桃山時代豊臣秀吉から豊臣氏羽柴姓が大名に下賜される慣例が生まれ、江戸幕府の下では将軍家から国主大名や将軍の寵臣に対し松平姓が下賜されるなど武家に対する栄典が拡充されていった。加えて江戸幕府の下では大名の家柄や石高に応じ伺候席が定められ、御三家や百万石を領する加賀藩などの大廊下を筆頭に大広間溜間帝鑑間柳間雁間菊間広縁に分けられた。官位への任免は大名をはじめ上級旗本、御三家の上級家臣に限られ、外様大名では加賀藩家老の本多氏のみ従五位下への叙爵のみ許されるなど江戸時代にはその身分制度もかなり複雑化されていくようになった。

近代における華族制度[編集]

一連の複雑な身分制度にとって大きな転換期となったのは、明治維新である。幕末、西欧列強による外圧が日本に忍び寄る中で王政復古の大号令の下、薩長を中心とした雄藩によって江戸幕藩体制が崩壊すると天皇を元首とする近代国家が目指されるようになった。そこで行われたのが版籍奉還であり、かつての大名を藩知事として処遇し、段階的に大名の統治機構を明治政府の下に吸収していった。その過程で明治政府は江戸時代以前の身分制度を四民平等の下で廃止する一方で華族制度を創設し、天皇に代々仕えた公家と三百諸侯として全国に割拠した大名を天皇の藩屏に組み込んでいったのである。1884年(明治17年)7月7日、明治政府により「華族授爵ノ詔勅」が下され華族に列せられていた元公卿・元諸侯等と国家功労者の家の戸主に公・侯・伯・子・男の五爵が授けられ、ここに華族制度に基づく爵位が成立することになった[5]

1884年(明治17年)7月7日の叙任[編集]

華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月8日 官報に記載された順による[6])。

公爵 侯爵 伯爵 子爵
授公爵

従一位勲一等

九条道孝

正五位

鷹司熙通

従五位

二条基弘
近衛篤麿
一条実輝

従三位

徳川家達
依偉勲特授公爵

従一位大勲位

三条実美

正二位勲一等

島津久光

従二位勲二等

毛利元徳
島津忠義
授侯爵

正二位

広幡忠礼
醍醐忠順

正二位勲一等

徳大寺実則

正二位勲二等

浅野長勲

正二位

徳川茂承

従二位勲三等

蜂須賀茂韶

正三位勲四等

久我通久

正三位勲三等

西園寺公望

従三位勲三等

佐竹義堯
細川護久
鍋島直大
山内豊範
池田章政

従四位

前田利嗣
菊亭修季

正五位

池田輝知

従五位

徳川篤敬
黒田長成
徳川義礼

(位階なし)

花山院忠遠
大炊御門幾麿
依勲功特授侯爵

従一位勲一等

中山忠能
依父孝允勲功特授侯爵

従五位

木戸正次郎
依父利通勲功特授侯爵

従五位

大久保利和
授伯爵

正二位

中院通富

正三位

山科言縄
飛鳥井雅望

従三位

油小路隆晃
三条西公允
基祥

従三位勲四等

橋本実梁

従三位勲二等

柳原前光

正四位

松平茂昭
滋野井公寿

正四位勲二等

四条隆謌

正四位

鷲尾隆聚
津軽承昭

従四位

井伊直憲
松平頼聡
冷泉為紀
葉室長邦
正親町実正
伊達宗徳
藤堂高潔
上杉茂憲
柳沢保申

従四位勲五等

万里小路通房

従四位

坊城俊章
清閑寺盛房
前田利同
甘露寺義長
勧修寺顕允
中御門経明
酒井忠篤
溝口直正

正五位

嵯峨公勝
姉小路公義
室町公康
南部利恭
戸田氏共

従五位

堀田正倫
奥平昌邁
烏丸光亨
阿部正桓
中川久成
小笠原忠忱
伊達宗基

従五位勲六等

広橋賢光

従五位

清水篤守
酒井忠道
立花寛治
日野資秀
徳川達孝
有馬頼万
久松定謨
松平直亮
清水谷実英
徳川達道

(位階なし)

松木保丸
庭田重直
松平基則
依勲功特授伯爵

正三位勲二等

東久世通禧

従三位勲一等

黒田清隆

正四位勲一等

大木喬任
寺島宗則
山県有朋
伊藤博文
井上馨
西郷従道
川村純義
山田顕義
松方正義
大山厳
佐々木高行
依父真臣勲功特授伯爵

(位階なし)

広沢金次郎
依勲功特授子爵

正四位勲一等

福岡孝弟

従四位勲二等

鳥尾小弥太
三浦梧楼
中牟田倉之助
谷干城
伊東祐麿
三好重臣
曾我祐準
高島鞆之助
樺山資紀

正五位勲二等

野津道貫
仁礼景範
男爵は、この官報に掲載されていない。

1884年(明治17年)7月8日の叙任[編集]

華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り(1884年(明治17年)7月9日 官報に記載された順による[7])。

公爵 伯爵
依贈太政大臣具視偉勲特授公爵

従四位勲四等

岩倉具定
授伯爵

正四位

松浦詮

従四位

宗重正
※子爵および男爵は、叙任者数過多により、ここでは省略する。

解説[編集]

これら華族制度の創設に際して焦点となったのは華族の対象および爵位の等数、そして叙爵の判断基準であった。とりわけ華族の対象については公家や武家といった旧来の貴族階級に限定し、旧武士たる士族には別途爵位を創設すべしとする岩倉具視と爵位をあくまで華族に限定しつつ公家や武家に加え国家功労者も華族に加えよと唱える伊藤博文の間で大きな議論を呼んだが結果的に岩倉の急逝に伴って伊藤の案が採用され、華族は旧公卿即ち公家などにより構成する堂上華族、旧将軍家・連枝や大名諸侯などの武家により構成する武家華族、そして国家功労者により構成される勲功華族、さらに南北朝時代、正当とされた南朝の忠臣の子孫により構成された忠臣華族、かつての権門寺社の世襲門跡による神職・僧侶華族によって幅広く構成されるようになったのである。

そして、これらの華族を如何に序列化していくか、即ち叙爵の判断基準については特に鎌倉時代から江戸時代までの家格に重きをおきつつ複雑に細分化された格式は考慮の対象外とするなど合理的な判断基準が採用された。とりわけ華族の中核たる堂上華族については清華家に次ぐ格式を誇る大臣家の格式が無視され、半家同様と位置付けられた。武家においても石高を重視する一方で伺候席の序列や室町幕府由来の格式が無視され、これらのことから一部の公家や武家からの反発を生み処遇を不満とした華族当事者やその旧家臣から陞爵運動が起きた。また爵位の授与対象として検討されながらその恩典に与らなかった士族については族称のみ相続が許され、反対に士族授産廃刀令により逆に身分的特権が剥奪されていくことになり国内各地で士族反乱が発生することとなった[8]

以降、華族制度は近代日本、とりわけ大日本帝国の下で天皇・皇室の藩屏として存立してきたが富国強兵を達成していく中で日韓併合により旧大韓帝国皇室を王公族として迎え、さらに朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)を発して大韓帝国の廷臣であった両班階級を朝鮮貴族とし華族と同様に爵位を授けるようになった。

叙爵は宮内大臣によって奉行され、国務大臣の責任には属さない。授爵がいかなる原因によるかは法律上特段の制限がないが実際は皇族で臣籍に降下したもの、旧公卿、旧将軍および旧大名、旧幕臣および旧大名の家老、大華族の次男以下の分家したもの、国家に勲功のあったものの6種で血統または勲功のいずれかの原因にのみ基づいた。爵は世襲の権利で男子たる家督相続人が襲ぐが女性は有爵者たり得る権利はなく、男子を養子にすることによって爵を襲がせることができた。

華族は皇族から特別の礼遇を受け、皇室の特別の監督を受ける。

失爵の原因は死刑または懲役の宣告を受け、その判決が確定したとき、懲役の刑に処せられ爵の返上を命じられたとき、品位を保つことができないため宮内大臣を経て爵の返上を請願し勅許されたとき、国籍を失ったときの4つである。

家督相続人が襲爵することができないために爵が絶えるのは国籍喪失により家督相続が開始したとき、家督相続の開始のときから3箇年または相続の開始を知ったときから6ヶ月内に宮内大臣に家督の届出をしなかったとき、家督相続人が女性であるとき、家督相続人が死刑または懲役刑の確定判決を受けたとき、華族の体面を汚辱する失行があったため華族の族称を除かれたとき、家督相続人の身分について宮内大臣の認許を要する場合その認許を得なかったため宮内大臣が勅裁を経て襲爵をさせなかったときの5つである(華族令第9条から第26条まで)。

爵を授けられるのは内地人たる日本人に限り、朝鮮貴族に賜わる爵は朝鮮人に限るとされた。

一連の華族・朝鮮貴族制度が成立する中、日本の軍部の力が強化されていった。それにより従来の華族の有様も大きく変わり、明治維新の元勲とその子孫で構成された勲功華族に戦功を挙げた高級軍人が次々叙爵され、帝国軍人として華族となった者が増加していった。しかし、日本と米英両国との間に起きた太平洋戦争にて敗戦すると、進駐軍のGHQの占領統治の下で民主化が進められた結果、華族は解散へと向かい1947年昭和22年)5月3日日本国憲法施行に伴い、華族制度と共に日本の爵位は廃止されることとなった(法の下の平等を定め貴族の存在を認めない第14条に基づく)。以降、日本国内において爵位が国の制度や社会に果たす役割は完全に消滅したといえる。しかし、戦後も国内外で功績ある日本国民に対して諸外国から爵位に叙せられる例がある。なお、正式な爵位・称号を授かってもいないのにこれを詐称することは軽犯罪法第1条の15に禁ずる行為となる[9]

琉球王国の爵位[編集]

琉球王国には身分序列に応じて王子(おーじ)・按司(あじ・あんじ)・親方(うぇーかた)・親雲上(ぺーちん・ぺーくみー)・里之子(さとぅぬし)・筑登之(ちくどぅん)など、爵位に準じた称号がある。

女性については王妃を佐敷按司加那志(さしきあじがなし)、側室を阿護母志良礼(あぐんしたり・あごもしられ)、王の乳母などの女官を阿母志良礼(あんしたり・あもしられ)などと称した。また、臣下に嫁した王女および王子の妃は翁主(おうしゅ)と呼んだ。

琉球王国の称号および位階については、詳しくは琉球の位階を参照されたい。

朝鮮における爵位[編集]

朝鮮では主に王族外戚功臣に対して勲爵、爵号が授与される。王族のうち国王の嫡出子大君庶子。王婿にはの爵号が授けられた。また国王の実父は大院君の号が贈られるが、王舅または王世子の舅には府院君、また功臣も正一品の位階にある臣下は府院君または君の爵号を授けられた。

タイにおける爵位[編集]

タイでは国王、王族、外戚を対象とした複雑な階級とそれに伴う称号があり、それをラーチャウォンと呼ぶ。

カンボジアにおける爵位[編集]

カンボジアでは国家の経済発展に貢献した経済人に対し、勛爵の爵位を授けている。この爵位獲得には、最低でも10万米ドルの寄付を要件としている[10]

西洋の爵位[編集]

ヨーロッパにおける爵位[編集]

成立過程[編集]

ヨーロッパの爵位は総じて一定の行政区域の支配を担当する官職が、中世地方分権の過程で世襲化されたものである。その中にはローマ帝国の官職に由来する場合(公爵伯爵など)もあれば、封建制の進行過程で新たに創設された場合(辺境伯男爵など)もある。これらの「爵位」と呼ばれる役職は当初ローマなどと同様に任期制の官職として用いられたものが、王権の弱体化によって地方の有力者による世襲を許してしまったことによって成立したものが多い(フランク王国の設置したバルセロナ伯を独断で世襲化したギフレ1世多毛伯などが典型例であろう)。

和訳に際しては中国や日本の爵位と相当した名称を当てているがヨーロッパの爵位と東洋の爵位とが厳密には対応するとはいい難く、また同じ欧州内でも全く異なる経緯を辿って成立しつつも便宜的に類似した爵位とされているケースもある。すなわち東洋の爵位の上下の序列を、ヨーロッパの爵位におおよその順番を踏襲しての訳語が伝統的に当てられているに過ぎない。またこの対比表もあくまで一例を挙げた物であって、実際に何らかの国の爵位が別の国のどの爵位と同じかということは時代と共に変化しているので一概には言えない(プリンスも参照のこと)ので注意を要する。

日本の爵位制度との違い[編集]

欧州の爵位に共通しているのは「爵位」という名誉は何らかの貴族の家系そのものに対して与えられているのではなく大本の爵位(官職)が担当する行政区域(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に対して与えられているもので、爵位の保持が言い換えればこうした領域の保持を意味する点である。つまり特定の地域が何らかの爵位が担当する区域であるなら、その区域を実効支配する人物こそが爵位を名乗るに相応しい人物となる。

こうした点は家柄に与えられる格付である日本の爵位制度とは大きく異なるため、注意が必要である。例を挙げれば日本制度上、ある一つの家がもつ爵位が上下したり禄や所領が増減することがあっても、複数の爵位を保持することはありえない。しかしヨーロッパの場合は所領が複数あってそれが爵位が付随していれば、一つの家が7つも8つも爵位を保持していることがある。これは珍しいことではなく、こうした複数の爵位を保持する家の場合、最も重要な爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることすらある。

なお、行政区域を担当する官職の世襲化が困難であった古代ローマや西欧とは異なる歴史を歩んだ東ローマ帝国などではこれと全く違う体系の爵位制度が用いられていた(Royal and noble ranksを参照)。

言語ごとの爵位表記[編集]

日本語 英語 フランス語 イタリア語 スペイン語 ドイツ語 デンマーク語 ノルウェー語 スウェーデン語 フィンランド語 ロシア語 ラテン語9
大公 Grand duke Grand-duc Granduca Gran duque Großherzog Storhertug   Великий герцог Velikiy gertsog Magnus dux
Archduke6 Archiduc6 Arciduca6 Archiduque6 Erzherzog6   Эрцгерцог6 Archidux6
Grand prince
Grand duke
Grand-prince Gran principe Gran príncipe Großfürst Storfyrste   Великий князь Velikiy kniaz Magnus princeps
大公
公爵
Duke¹ Duc Duca Duque Herzog¹ Hertug Hertig Herttua³ Герцог Gertsog Dux
大公
公爵
侯爵
Prince¹ Prince Principe Príncipe Fürst¹ Fyrste Furst³ Furste³ Ruhtinas³ Князь
Фюрст
Kniaz4
Furst
Princeps
親王
王子
公子
など)
Príncipe
Infante10
Prinz Prins Prinssi Принц
侯爵 Marquess
Marquis7
Marquis Marchese Marqués Marquis Markis Marki Markis³ Markiisi³ Маркиз Markiz Marchio
辺境伯 Margrave7 Margrave Margravio Margrave Markgraf² Markgreve Rajakreivi Маркграф
伯爵
Earl
Count
Comte Conte Conde Graf Jarl
Greve8
Greve Kreivi Боярин Boyar4 Comes
子爵
副伯
Viscount Vicomte Visconte Vizconde Vizegraf Vicomte Visegreve Vicomte Varakreivi Виконт Vicecomes
男爵 Baron Barone Barón Baron
Freiherr
Baron Baron
Friherre
Paroni Барон Baro
準男爵 Baronet5 Baronnet Baronetto Baronet Bronet Baronetti Баронет  
勲功爵
勲爵士
騎士
Knight5 Chevalier Cavaliere Caballero Ritter Ridder Riddare³ Ritari Рыцарь Miles
Eques
Notes:
1) ドイツやデンマークではHerzogやHertugは、FürstやFyrsteより上位である。イギリスでは封号としてのPrince(Prince of Walesのみ)も王族の称号としてのPrinceも、いずれも当然ながらDukeよりも上位である。また日本の「公爵」もPrinceと英訳されることが多いが、同じくPrinceと訳される親王や王との混乱が生じるもととなっている。
2) 和訳は辺境伯。英訳はMargrave。ドイツではLandgraf(方伯)、Pfalzgraf(宮中伯)とほぼ等しい地位で時にはFürstよりもさらに上位と見なされることもあった。
3) 現在、国内では用いられていない。
4) ロシア国内の貴族向けに2つの爵位、公(Kniaz)と伯(Boyar)のみが用いられ、それ以外の爵位は他国の爵位のロシア語訳である。公(Kniaz)は、元はルーシの諸公国の君主号であった。
5) イギリスでは厳密には貴族に含めない。
6) ハプスブルク家の用いた称号。詳細はオーストリア大公を参照。
7) 語源が同じ爵位であるが、多くの言語においてMarquessやMarquisとMargraveとは区別される。
8) イギリス以外のCountやGrafなどはGreveと訳される。イギリス国内でもスコットランドの侯爵はMarquisと綴る。
9) ラテン語の部分は由来となったか、あるいは対応するとされるローマの官職称号である場合が多い。ローマ時代には世襲化されていなかった(≠爵位)ものである。
10) Príncipeはスペイン王位継承者の王子の称号、Infanteは王位継承権のない王子の称号。

各爵位[編集]

Duke
語源は古代ローマの有力者に与えられる称号で、後に地方司令官を指す言葉となったラテン語のドゥクス(Dux)。帝政後期に入るとローマ帝国は異民族の首長にDuxの称号を与えるようになった。4世紀には文官と武官が分かれ、Duxはそれぞれの軍団の司令官の職名に使われた。同様のComes mei militarisはduxの部下であり、のちCountとなる。
この事象の一端であったフランク人はローマの影響を受けてDux/Duces(将軍)を用いるようになった。Duxは軍団の司令官であり、同時に郡の執政となった。シャルルマーニュが辺境を平定したのち諸氏族の氏族長にもDux/Ducesの称号が与えられ、フランク王国の宗主権を認めさせた。これらの称号は世襲され、公爵領となった。いっぽうでDux/Ducesは王子にも用いられる習慣も広がった。この制度はフランク以外の地域にも広がり、イングランドではエドワード黒太子が初の公爵(コーンウォール公)となった。
Marquess
Marquessはゲルマン語の称号Markgraf(marka 境界線+Graf 伯)に由来し、しばしば「辺境伯」と訳される。英語ではMargraveと綴る。はじめはカロリング朝フランクで辺境を守る武将の役職名でフランク王国東部のローマ帝国との国境線に多く配された。しだいに貴族の称号となってゆきDukeの次、CountないしEarlの上という序列がつくられた。その後ヨーロッパ各国もこれを導入し、13世紀から14世紀にかけてMargrave/Marquessは貴族の称号として一般的に定着していった。
Earl
9世紀スカンジナビアデーン人が非王族軍指揮官として任命したのが始まりである。石碑や出土した武器などからHerul/Jarlの文字が見つかっているが、そもそもは北欧神話の神・Rígの伝説に端を発する。
Rígは旅の途中で農民の老夫婦の家に泊まり、老夫婦はRígに粗末な食事を出した。9ヶ月後に夫婦の間に子ができ、褐色の肌を持つ子はThrall/serfと名付けられた。これが奴隷(slave)の祖先である。次に辿りついたのは工芸職人の家で彼らはRígにより上質な食事を提供した。やはり9ヶ月後に職人夫婦の間に子が生まれ、Karlと呼ばれるようになった。赤毛で赤ら顔のKarlは農民職人の始祖となった。最後に泊まったのは豪邸で豪邸の若夫婦はすばらしい食事を出した。その後同様に子ができた。その赤子は金髪碧眼でJarlと名付けられ、貴族の祖先とされた。
デーン人はイングランドに移住してからもEarlを用いた。「太守」もしくは「伯」と訳され、各州に配置されて州の統治が任務だった。当初は一代かぎりの役職だったが、すぐに世襲されるようになった。のちにヨーロッパ各国のCountと同じように用いられるようになり、12世紀以降は役職名ではなく称号として用いられた。
Count
ローマ帝国のComesは廷臣の階級のひとつであった。文官のComesと武官のComesがあり、Duxが部下として指名した。
中世のフランク王国やゲルマン地域ではCount Palatine(パラティンとよばれる自治州を領有し、そのなかではほぼ完全な自治権を有していた)、Comes Sacrarum Largitionum(王室財政を管掌する職)などがあった。当初は任命制だったが、その強大な権力により次第に世襲されるようになった。中世になると伯爵領はCountyと呼ばれるようになり、これが現在の州「カウンティ」に受け継がれている。領主としての伯爵の地位は近世以降しだいに称号化し、他の爵位をあわせて社会の序列をあらわす名称へと変化していった。
Viscount
「副伯」というニュアンスでフランス、スペイン等で使われていた。イングランドではシェリフ相当の爵位として14世紀に創設された。ドイツ語圏では城伯(都市伯)Burggrafがこれに相当すると言える。またドイツ貴族であっても、フランス王による冊封を受けViscount(Vizegraf)の爵位を持つ例もある。
Baron
自由民を表す言葉で後に領主一般を指す言葉となり、最終的にViscount以上の爵位を持たない領主の爵位(男爵)となった。ドイツ語圏やスコットランドでは男爵に相当するものにFreiherrやLord of parliamentが使われ、Baronはそれより低い称号になっている。スコットランド語でBaronyは荘園を意味し、荘園領主・小規模領主にBaronが用いられた。

フランスの爵位[編集]

フランスの爵位は13世紀、国王フィリップ3世が貴族身分を制定したのが始まりで18世紀に王族の大公を筆頭に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士、エキュイエ(平貴族)までの階梯が確立した。フランス革命で爵位制度は一度廃絶されたが1814年の王政復古により、ナポレオン帝政下の帝政貴族と王朝貴族が併存する形で爵位制度が復活するものの貴族の特権は伴わず爵位は純然たる名誉称号と化した。第三共和政以後は私的に用による以外その効果を失った[2]

脚注[編集]

  1. ^ 尾形勇『歴史学事典10 身分と共同体』(弘文堂2003年平成15年))299頁および301頁、新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年(平成23年))1297頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年(平成18年))1156頁参照。ホームページ上では外部リンク 篠田賢「カバネ 「連」の成立について参照。
  2. ^ a b c d e f g h i j 相賀徹夫編著『日本大百科全書11』(小学館1986年昭和61年))313頁、314頁参照。
  3. ^ 篠田賢著「カバネ「連」の成立について成城大学大学院文学研究科編『日本常民文化紀要 第二十六輯』(成城大学、2006年(平成18年))35頁参照。
  4. ^ 聖徳太子の伝記である『上宮聖徳法王帝説』によれば冠位十二階について「爵十二級、大徳、少徳、大仁、少仁、大礼、□□大信、少信、大義、少義、大智、少智」と解説し、さらに『日本書紀』でも冠位を爵位、官位を官爵と別称している。
  5. ^ 日本の華族制度とその中で位置づけられる爵位の制定に際しては中国や西欧の爵位制度が参考にされたが日本の爵位が西欧の爵位と異なるの点としては日本の爵位が西欧の爵位のように個人に対して授けるものではなく、家の戸主に与えられるものであるということにある。
  6. ^ 官報』 大蔵省印刷局、日本マイクロ写真、華族ヘ榮爵ヲ賜ル(明治十七年七月七日/叙任(明治十七年七月七日))、1884年7月8日、1-5頁。NDLJP:2943511
  7. ^ 『官報』 大蔵省印刷局、1884年7月9日
  8. ^ 浅見雅男著『華族誕生 名誉と体面の明治』(中央公論1999年(平成11年))71〜74頁参照。
  9. ^ 軽犯罪法第1条の15「官公職、位階勲等、学位その他法令により定められた称号若しくは、外国におけるこれらに準ずるものを詐称又は資格がないのにかかわらず、法令により定められた制服若しくは勲章、記章その他の標章若しくはこれらに似せて作つた物を用いた者」は拘留又は科料の対象となる。
  10. ^ 野澤知弘 「カンボジアの華人社会 --プノンペンにおける僑生華人および新客華僑集住区域に関する現地調査報告--」 日本貿易振興機構アジア経済研究所2012年(平成24年)2月 第53巻第2号)32頁参照。

参考文献[編集]

  • 相賀徹夫編著『日本大百科全書11』(小学館、1986年昭和61年))ISBN 4095261110
  • 浅見雅男著『華族誕生 名誉と体面の明治』(中央公論社、1999年平成11年))ISBN 4122035422
  • 尾形勇編『歴史学事典10 身分と共同体』(弘文堂、2003年(平成15年))ISBN 433521040X
  • 篠田賢著「カバネ「連」の成立について」成城大学大学院文学研究科編『日本常民文化紀要 第二十六輯』(成城大学、2006年(平成18年))
  • 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年(平成18年))ISBN 4385139059
  • 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年(平成23年))ISBN 400080121X
  • 野澤知弘著「カンボジアの華人社会 --プノンペンにおける僑生華人および新客華僑集住区域に関する現地調査報告--」日本貿易振興機構アジア経済研究所編(2012年(平成24年)2月 第53巻第2号)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]