冠位十二階
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冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、推古天皇11年12月5日(604年1月11日)に定められた位階制度。
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[編集] 概要
- 『日本書紀』では、「(推古天皇)十一年...十二月 戊辰朔壬申 始行冠位 大德 小德 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智 并十二階 並以當色絁縫之 頂撮總如囊 而著縁焉 唯元日著髻華 髻華 此云 (推古天皇)十二年春正月 戊戌朔 始賜冠位於諸臣 各有差」と記述されている。
- 『上宮聖徳法王帝説』では、「爵十二級、大徳、少徳、大仁、少仁、大礼、□□大信、少信、大義、少義、大智、少智」とある。なお、「□□」は欠字。
- 『隋書』卷81 列傳第46 東夷 俀國では、(俀王多利思北孤は「姓阿毎 字多利思北孤號阿輩雞彌」。なお『新唐書』では「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」とある)、「内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數」とあり、隋にも知られていた。
『日本書紀』の記述には主語はないが、『上宮聖徳法王帝説』では聖徳太子と蘇我馬子が「共に天下の政を輔けて」と記されていることから、この2人の事蹟と考えられている。
豪族を序列化し、また、氏や姓にとらわれることなく優秀な人材を登用することを目指した。また、官位の任命を天皇が行うことにより、豪族に対する天皇の権威向上を図った。ただし、この制度は言わば移行期の制度[1]であり、大臣や大連といった最上級の姓に属する豪族は、依然として大徳よりも上位に置かれていた。また、現存している記録に残された冠位とその人物が属している姓の水準が一致している例が多い(臣・連以外の姓より大徳が輩出された例は無く、村主・首以下の姓で小徳を輩出した例は無い)点や、遣隋使で活躍した小野妹子が大徳に昇進した例外を除いては冠位の昇進の記録がわずかであった事など、氏姓によって与えられる位階に一定の制約があったとする見方も存在する。
冠位十二階の制度は、第1回遣隋使を推古天皇8年(600年)に派遣した時の教訓から編み出されたものであった。7世紀の東アジア情勢を考えると、倭国にとって、隋との国交を開いておくことが是非必要であった。冠位十二階制は、高句麗・百済を通して、北朝・南朝両方のものが伝わったとされている。
冠位十二階制は、日本で初めて作られた冠位制であり、この後の諸冠位制を経て、様々な紆余曲折を経て、律令位階制へ移行していった。
[編集] 位階と冠の色
『日本書紀』の推古天皇11年(603年)に冠位十二階を定めたときの記述には、12の位階の名前は書かれているが、それぞれの位階に対応する色の名前が書かれていない。ある考証によると、12の位階の冠の色は次のようなものであった可能性が高いと推定されるが、断定はできない。地位の高い位階から順に、位階の名前と冠の色を次に列挙する。
- 大徳 (だいとく)( 濃紫)
- 小徳 (しょうとく)( 薄紫)
- 大仁 (だいにん)( 濃青)
- 小仁 (しょうにん)( 薄青)
- 大礼 (だいらい)( 濃赤)
- 小礼 (しょうらい)( 薄赤)
- 大信 (だいしん)( 濃黄)
- 小信 (しょうしん)( 薄黄)
- 大義 (だいぎ)( 濃白)
- 小義 (しょうぎ)( 薄白)
- 大智 (だいち)( 濃黒)
- 小智 (しょうち)( 薄黒)
古代の青は紫に近い色で、紫色の染料は貴重であった。
(位階の大と小の色を、色の濃度の違いで区別するように制度が変わったのは、冠位十二階を定めたときよりも後である)
[編集] 冠位のことを行う
『日本書紀』推古十一年十二月条
十二月戊辰(ぼしん)朔壬申(じんしん)、始めて冠位のことを行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、併せて十二階、並びに当色の絁(あしぎぬ)を以てこれを縫う。頂(いただき)は撮(と)り総(すべ)て嚢(のう)の如くにして、縁(もとはり)を着く。唯だ元日には髻華(うず)を著す。「髻華、此をば宇孺(うず)という」
十二年春正月戊戌(ぼじゅつ)、始めて冠位を諸臣に賜うこと各差(おのおのしな)あり。
ここでは、具体的な色を書いていない。色の深浅の区別は、養老令からである。「当色」は、位階相当の色として、五行思想に基づいた五常の徳目(仁・礼・信・義・智)の青・赤・黄・白・黒が考えられる。徳は、五常の徳目を統べる意があることから、漢代以降、帝王の色として尊ばれた「紫」を充てた推測できる(『漢書』天文志)。
「白」の濃淡はどうして見分けるのだろうかと疑問視されている。冠位十二階の衣服については、高松塚古墳壁画の人物群像が参考になる。この壁画の人物図は、およそ7世紀後期から8世紀前期の風俗を伝えるものと推測されている。
[編集] 冠位制の変遷
大宝元年(701年)に官位制に切り替わる間に、冠位制は何度か改訂が行われている。
最初の大幅な改訂は、大化3年(647年)の冠位十三階である。大化5年(649年)、冠位十九階に改められている(冠位十九階は、冠位十三階を基本とし、中間の冠位を細かく分けたものである。
天智天皇3年(664年)には更に細分化された、冠位二十六階に改訂されている。これらは、冠位十二階に組み込まれなかった大臣(おおおみ)などを冠位制の序列に組み込もうとした試みだと考えられる。しかしながら、大臣は依然として旧冠を使用していたと言われている。
天武天皇14年(685年)、諸王以上十二階、諸臣四十八階が導入されている。親王や諸王も冠位制の中に組み込んだ。
大宝元年(701年)に、冠位制は廃止され、律令官位制に移行している。基本となっているのは冠位四十八階であるが、名称を正一位、従三位などと分かりやすく改訂し、四十八階を三十階に減らしている。
[編集] 参考文献
- 平田耿二「聖徳太子と冠位十二階」(新人物往来社 編『日本の組織図事典』(新人物往来社、昭和63年(1988年)) ISBN 4404015070
[編集] 脚注
- ^ 大化の改新以前に、ともに冠位十二階における第二位の小徳であり、改新に功労があったとされている巨勢徳多と大伴長徳が冠位十三階で与えられた位階は、ともに後世の従三位相当である小紫が授けられている。改新の功績の結果によって小紫に至ったと考えれば、小徳が後世の従四位程度の位階にしか相当しないと考えられ、大徳も後世の正四位程度であったと考えられている。ただし、大徳・小徳は律令制の位階では、従三位以上にあたる公卿待遇を受けていたとする見方もある。