徳川御三家
徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。
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御三家 [編集]
| 始祖 | 家系 | 藩 | 石高 | 藩庁 | 位置 | 入府 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 徳川義直(家康九男) | 尾張徳川家 | 尾張藩 | 62万石 | 名古屋城 | 地図 | 元和2年(1616年) |
| 徳川頼宣(家康十男) | 紀州徳川家 | 紀州藩 | 56万石 | 和歌山城 | 地図 | 元和5年(1619年) |
| 徳川頼房(家康十一男) | 水戸徳川家 | 水戸藩 | 35万石 | 水戸城 | 地図 | 元和5年(1619年) |
尾張藩は、江戸から上方に向かう東海道(江戸時代初期に五街道の東海道に再編)および東山道(江戸時代初期に五街道の中山道に再編)が通る地に位置した。紀州藩は、上方と江戸との間を太平洋経由で行き交う菱垣廻船等が通過する紀淡海峡に面する地に位置した。水戸藩は、江戸から陸奥国方面に向かう東海道(江戸時代初期に水戸街道・岩城街道などに再編)の途上に位置した[† 1]。
概要 [編集]
御三家は親藩(一門)のうちで最高位にあり、将軍家や御三卿とともに徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許された。宗家(将軍家)を補佐する役目にあるとも言われているが、制度・役職として定められたものではない。元は、宗家の後嗣が絶えた時に備え、家康が宗家存続のために遺したものであるとも言われる。なお、室町幕府にも吉良氏・石橋氏・渋川氏の3氏を「御一家」と称し、具体的な職掌はないものの足利氏宗家の後嗣が絶えた時には足利将軍家を継承する権利を有しており、御三家はこれを参考にした制度とする見方もある[1]。水戸家は頼房が駿河家断絶後の1636年(寛永13年)に徳川を賜姓された家であり、他の2家よりも官位・官職の点では下ではあるが、朝廷に対して次期将軍家の奏聞をし、また、江戸常勤であることなどから五代目綱吉のころから御三家と呼ばれるようになった。
「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」ことになっており、8代将軍吉宗から14代将軍家茂までは紀州家の血筋である。御三家同士、特に尾張家と紀州家の間には将軍職の継承を巡って競争意識があり、紀州家出身の吉宗と尾張家当主徳川宗春の間には吉宗が継友の毒殺疑惑があり確執があったとされている。なお最後の15代将軍慶喜は水戸家出身だが、御三卿の一橋徳川家への養子を経て将軍家を継承した。
江戸時代初期には、徳川将軍家である徳川宗家に尾張徳川家と紀州徳川家を加えた三家を御三家と呼ぶこともあり、また尾張家、紀州家に駿河徳川家(徳川忠長、徳川秀忠の3男、松平姓とも)を加えた3つの大納言家(水戸家は中納言家)を指して御三家という場合もあり、水戸家は尾張・紀州と較べるとやや家格が劣ると見られていた。また、将軍家(徳川宗家)の分家としては、上記三家及び駿河家以外にも、3代将軍家光の子を分封した甲府徳川家(徳川綱重・綱豊・松平左馬頭家)及び館林徳川家(徳川綱吉・松平右馬頭家)が、石高・家格ともに匹敵する家として存在した(ただし徳川家康の子(秀忠の兄)結城秀康を祖とする越前松平家、徳川秀忠の子(家光の弟)保科正之を祖とする会津松平家などは徳川姓を許されていない)。しかし、駿河忠長が改易(後の自害)、館林綱吉が5代将軍となり、甲府綱豊が6代将軍(家宣と改名)として徳川宗家に戻り、これらの徳川家が消滅したため、尾張・紀州・水戸の三家を御三家と呼ぶことが定着した。
官位は、駿河家が初官従四位下宰相中将、極官従二位大納言。御両典(甲府家・館林家)・御三卿が初官従三位中将、極官権中納言。松平光長が従三位中将、松平忠昌が正四位下宰相である。よって官位だけでみると、尾張・紀伊・駿河の三家がほぼ同格、その格下に御両典・水戸家・御三卿がほぼ同格で、越前松平氏より上位という序列になる。
御三家の一族・家臣 [編集]
御三家の家臣は、基本的に将軍家と同様に三河以来の譜代の家臣を祖とする者が多かった。その中でも御三家の国家老である御附家老(おつけがろう)は藩政目付役の重責を負って幕府から派遣された将軍直臣(じきしん)の扱いで、大名の家臣が通常陪臣(ばいしん)扱いだったのとは一線を画した。御附家老はいずれも数万石を知行していたので、幕府崩壊後にあらたに諸侯に列し立藩している。
また将軍家の血筋の予備としての御三家の性格上、御三家自身も無嗣断絶による改易を避けるため、当主を絶やさぬように血統の保存対策として支藩を持つ必要があり、御連枝と呼ばれる分家を持った。御連枝により尾張家の美濃高須松平家は4代、紀州家の伊予西条松平家は3代、水戸家の讃岐高松松平家は2代の御三家当主を出した。たとえば紀州家当主だった吉宗が8代将軍として宗家を嗣いだ際に紀州家当主となったのは、伊予西条家の松平頼致(後に徳川宗直と改名)である。幕末の尾張家当主徳川慶勝も美濃高須家から養子に入っている。
しかし時代が下ると、尾張家と紀伊家では後連枝による当主継承も断絶し、財政の貧窮や附家老による運動で御三卿を含む吉宗以降の将軍血統より当主の継承がなされるとともに、幕府への依存度が高まる一方で幕府財政を圧迫した[2]。
吉宗以降は、御三家を模した御三卿が創設され、御三家と共に将軍家の嗣子を出す役目を担うことになった(ただし御三家と異なり、当主がいない状態もあった)。
御三家当主の正室は、特に「御簾中」と呼称された。後に御三卿正室も御簾中と称された