清水徳川家
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清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に清水家とも言う。
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[編集] 概要
江戸幕府9代将軍家重の2男重好を家祖とし、徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三卿とともに後嗣を出す資格を有する。3代斉順の子家茂は14代将軍に就任した。家格は徳川御三家に次ぎ、所領は10万石。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあった。維新後は、元下屋敷の1つであった甘泉園(東京都新宿区西早稲田)に邸宅を構えていた。
宝暦3年(1753年)に賄料3万俵を賜わり、1757年には御守(家老)両名が付けられ、1758年に清水門内に邸地を賜わった。1759年、元服して宮内卿を称し、賄料1万5千俵を増されて屋形に移徙した。1762年、新規に賄料領知10万石を武蔵・上総・下総・甲斐・大和・和泉・播磨の7ヵ国に賜わった。
清水家は実子のなかった初代重好以来、幼少の当主が多く、御三家に転出した当主が相次いだこともあって一時的な断絶を繰り返しており、御三卿の中で最も事績に乏しい家である。 なお重好死去の際、嗣子なくして当主は空席となり、所領・家屋敷・家臣は一時的に幕府に収公されている。これは、同じ御三卿である他の2家(田安家・一橋家)が空席の場合は明屋敷となるも、それら組織が存続される2家と比して異例であった。
明治維新後は華族に列した。明治3年2月、水戸藩10代藩主慶篤の2男篤守が第7代を相続して家禄2500石を賜わった。篤守は相続の際に清水姓に改めたが、明治10年(1880年)には徳川姓に復している。明治17年(1884年)に伯爵を授けられたが、篤守は家政を巡る騒動により「華族の礼遇に耐えられず」として、1899年に爵位を返上した。しかし、のちに日本最初の航空パイロットとして知られる嫡子好敏が陸軍中将に昇進し、日本陸軍航空兵分野確立の功労により、1928年にあらためて男爵が授けられた。
[編集] 歴代当主
- 初代当主 重好
- 1795年、実子なく死去
- 1795年 - 1798年 清水徳川家空位
- 2代当主 敦之助 (徳川将軍家から養子、11代将軍家斉の子)
- 1799年、4歳で夭折
- 1799年 - 1805年 清水徳川家空位
- 3代当主 斉順 (11代将軍家斉の子)
- 4代当主 斉明 (11代将軍家斉の子)
- 1827年、19歳で夭折
- 5代当主 斉彊 (11代将軍家斉の子)
- 1846年、紀州藩12代藩主として紀州徳川家に入る
- 1846年 - 1866年 清水徳川家空位
- 6代当主 昭武 (水戸徳川家から養子、15代将軍慶喜の実弟)
- 1868年、水戸藩11代藩主として水戸徳川家に入る
- 1868年 - 1870年 清水徳川家空位
[編集] 明治維新後の清水徳川家当主
[編集] 戦後の清水徳川家
[編集] 系譜
凡例:太線は実子、破線は養子、太字は当主
| 重好 | |||||||
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| 敦之助 | |||||||
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| 斉順 | |||||||
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| 斉明 | |||||||
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| 斉彊 | |||||||
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| 昭武 | |||||||
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| 篤守 | |||||||
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| 好敏 | |||||||
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| 豪英 | |||||||
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| 真 | |||||||

