和宮親子内親王

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皇女和宮 肖像画
皇女和宮 肖像画

和宮 親子内親王かずのみや ちかこないしんのう、(1846年7月3日 - 1877年9月2日)は、江戸時代後期の女性、江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室である。

目次

[編集] 人物

「和宮」は誕生の際に賜られた幼名で、「親子」は文久元年(1861年)の内親王宣下の際に賜られたである。静寛院宮せいかんいんのみや)。

江戸時代はもとより、それ以前に於いて、皇女が武家に降嫁し、関東下向した唯一の例である[1]。当初和宮自身がこの結婚に疑義を唱えていたのは有名な話である。結局家茂との結婚が決まった[2]後も、幕府に異母姉淑子内親王の御殿[3]の建設や、降嫁後も大奥風ではなく御所風の生活を守ることなどを約束させている。但し、「御所風の生活」の方は幕府首脳が大奥に全く根回ししていなかったため約束は破棄同然となり、幕末の大奥が大混乱に陥った一因となった。

江戸城内では武家の習いで将軍の正室を「御台様(みだいさま)」と呼んでいたが、親子はこれを拒否し「和宮様」と呼ばせた。

家茂は側室をおかず、和宮を生涯の伴侶とし、夫婦仲は良好であったとされている。 (実際には公にされてはいないものの愛妾があったようである。) 和宮と家茂の間に子はなく、家茂は田安慶頼の子亀之助(のちの徳川家達)に相続させることを表明していたが、家茂薨去後、和宮は「唯今の時勢、幼齢の亀之助にては如何あるべき、確かなる後見の人なくては協(かな)はざることなれば、然るべき人体を天下の為に選ぶべし」と語ったという。老中板倉勝静らも多事多難の折柄、一橋慶喜をこそ将軍に立てるべきと斡旋し、慶喜の後継に亀之助をと和宮に伺ったところ、和宮は「御遺命さへ反故とならずば異存なし、中納言(慶喜)の後をば必ず亀之助に継がしむべし」と許可したという。

幕府瓦解後一旦京都へ戻った和宮だが、明治天皇や市谷砂土原に居住していた実麗らの勧奨もあり再び東京へ戻ることを決め、明治七年七月、東京に戻った和宮は麻布市兵衛町にある八戸藩南部遠江守信順の元屋敷に居住した。東京移居後は皇族や天璋院や家達をはじめとした徳川一門など幅広い交流を持つようになった。しかしこの頃より脚気を患い、明治十年八月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり箱根塔ノ沢へ向かった。転地療養先では地元住民との交流も行われたようで、箱根塔ノ沢環水楼(和宮湯治時は中田暢平旅館)中野敬次郎氏に1960年代、当時98歳の平塚きわという老婆が幼い頃、村の子供達を招待して菓子を振舞われた宮の思い出を語っている。平塚きわの語り残した宮の姿は大勢の侍女に囲まれ、白い着物を着て紫の帯を締め、おすべらかしを結っていた姿であった。また脚気のためか顔がひどく浮腫んでいたという[4]。程なく明治十年九月二日早朝、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去する。

[編集] 空蝉の袈裟

家茂が長州征伐の為に上洛の際、凱旋の土産は何がよいかと問われた和宮は西陣織を所望したという。しかし家茂は征長の最中、大坂城にて病没。西陣織は形見として和宮の元に届けられた。和宮は「空蝉の 唐織り衣 なにかせん あやも錦も 君ありてこそ」の和歌を添えその西陣織を増上寺に奉納、のちに追善供養の際、袈裟として仕立てられた。これは空蝉の袈裟として現在まで伝わっている。

[編集] 年譜

[編集] 体格その他

和宮が埋葬された増上寺の徳川家墓所は現在の東京プリンスホテルの場所にあったが、1950年代に同地が国土計画興業に売却されたため、和宮をはじめ、歴代将軍及びその正側室の墓所と遺骸も発掘・改葬された。その際の調査結果をまとめた『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』によると、和宮は身長143cm、体重34kg(いずれも推定)であり、骨格の形状から極端な反っ歯と内股が特徴の小柄な女性であったと推定されている。また、不思議な事に左手の手首から先の骨がいくら探しても見つからず、増上寺にある和宮の銅像も左手は不自然に隠れている事から、彼女が生前、何らかの理由で左手を欠損していたのではないかという説がある。

古墳はともかく、陵墓や陵墓参考地の大半が宮内庁の方針により事実上の学術発掘調査不可となっている現在、和宮は墓所が発掘調査された数少ない皇族である。

また、和宮の棺からは直垂姿をした若い男性の写真乾板が副葬品として見つかったが、その後の保存処理が悪かったため翌日には乾板はただのガラス板になっていたという。この男性の正体は未だに不明であるが、夫の家茂である可能性が強い。あるいは婚約者だった有栖川宮熾仁親王ではないかとの指摘もある。

近年和宮が降嫁に際し中山道を通って江戸へ向う途中、信州小坂家で休息した折、小坂家の写真師が撮影した和宮の写真が発見された。これはポジのガラス乾板で軍扇に収められており、複写したものを小坂家末裔の小坂憲次氏より、阿弥陀寺に寄進されている。 この写真の和宮からは、袿の袖から僅かに両手の先を出している姿が確認できる。

[編集] 異説(替え玉説)

  • 在京の頃の歌風と比べ、東下後の歌風は、「雅」がまるで感じられず、まるで別人に取って代わったと言ってもいいような変化(それも、素人あるいは、一般庶民のような野臭い歌風に急変したとする)であるため、それをもって、替え玉であると言うことを唱える人もいる。
  • その他、有吉佐和子などが、替え玉説をモチーフに小説『和宮様御留』を書いている(上記の説とはまた違った説を用いている)。
  • しかし、遺骨などの調査から当時の皇族女性独特の体躯であったことが判明、替え玉説は後世の流布である可能性が極めて高い。

[編集] 著書

  • 「静寛院宮御日記」(『続日本史籍協会叢書』第2期1,2巻所収 東京大学出版会)ISBN 978-4-13-097801-9

[編集] 和宮を題材とした作品

[編集] 小説

『皇女-』は新派によって舞台化され、和宮役は水谷八重子 (初代)の当たり役八重子十種のひとつとなった。

[編集] 舞台・戯曲

幕末の非情な運命に翻弄された和宮と、和宮のいとこで、かなわぬ宿命と知りながら思い慕った実梁の交流をえがいた。
(尚、実梁の和宮に対する慕情はあくまでも谷の当作品創作上の設定である。)
また当初配役は絵麻緒ゆう・家茂、彩輝・有栖川宮であったが公演直前絵麻緒が急病で全日程休演が決定したため上記の通り変更となり上演された。

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ

[編集] 関連項目

ウィキクォート
ウィキクォート和宮親子内親王に関する引用句集があります。

[編集] 外部リンク

[編集] 補注

  1. ^ 7代将軍家継と婚約した霊元天皇の皇女八十宮吉子内親王は、婚儀の前に家継が死去したため、関東降嫁は実現しなかった
  2. ^ 兄・孝明天皇が和宮を気の毒に思い、代役として生まれたばかりの長女・富貴宮をたてようとしたので和宮が観念したと言われる。(『思いの儘の記』(『日本随筆大成』巻七所収 勢多章甫著)他参照)
  3. ^ 現在の二条城本丸御殿
  4. ^ 遠藤幸威「和宮」成美堂出版
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