堂島米会所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

堂島米会所(どうじまこめかいしょ)とは、享保15年(1730年)8月13日大坂堂島に開設された米の取引所。当時大坂は全国の年貢米が集まるところで、米会所では米の所有権を示す米切手が売買されていた。ここでは、正米取引と帳合米取引が行われていたが、前者は現物取引、後者は先物取引である。敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済による先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕組みを備えた、世界初の整備された先物取引市場であった。

目次

[編集] 設立の経緯

享保15年8月13日(1730年9月24日)、それまで禁止されていた米会所の設立が幕府から公許される。

それ以前、幕府は米会所での取引を米価不当吊り上げのための売買(延売買)として認めなかった。しかし享保に入り、それまで米価が100を超えていたものが、下落し始め享保15年の段階では米価が26匁となった。この下落を見て、幕府は延売買を公認することとなった。

明治になって幕府崩壊とともに廃止された。その後、堂島米穀取引所として再建されたが、これも昭和15年に廃止された。

[編集] 詳細

幕府が米価下落への対策に苦慮していたとき、江戸三谷三左衛門中島蔵之助冬木彦六の3名の取り計らいで、米座御為替御用会所が設立され、3名が取締の任にあたった。しかし、正銀正米の売買だけでなく、廻米の入津季節以外にも1年を通じて市場を繁栄させようと、大坂の米商備前屋権兵衛柴屋長左衛門が売繋買繋の方法を案出した。これは建物米を定め、限月限日を建て、その期限内に延売買を行うものである。しかしその後取引が複雑化するとともに支配人を置くこととなり、相当の給銀を与えて消合(けしあい。売買解除)に従わせた。この支配人が後の遣来(やりくり)両替、すなわち米方両替である。

享保6、7年頃、幕府は不正取引のかどで延売買を禁じたが止まなかったので、7年(1722年)12月、1000石以内の延売買を許し、9年(1724年)2月、空米相場をも認めた。

同年3月、大阪の妙知焼のために暫時休市となった。この機に乗じて江戸商人は3回にわたって米相場会所設立を願い出た。この願い出は許可されたが、このために堂島米仲買などは江戸商人に支配されることになり、収益の一半を持ち去られた。これを遺憾とし、田辺屋藤左衛門尼崎屋藤兵衛加島屋清兵衛の3名を総代として江戸に派遣し、江戸町奉行大岡越前守忠相に訴えさせた。

享保15年8月、この訴えは幕府の受け容れるところとなり、米市場は再び大坂商人の手に戻り、堂島市場においてのみ帳合米の取引を公許することとなった。

享保16年(1731年)2月、初めて米仲買株441株を許可し、米方年行司を定め、17年4月に521株、20年7月に351株を許可し、合計1313株となり、別に米方両替株50をも許した。堂島市場の取引は、正米商(米切手を売買する)、帳合米商(1年を3季にわけて延売買する)、および石建米商があった。石建米商は、一種の帳合米売買であり、古くは虎市といい、売買1口の最低額は帳合米では100石であったが、石建米では20石または10石であった。讃岐米を建物米としていた。

米仲買は、堂島15町に住まい、蔵米の入札を行い、正米方、帳合方、積方の3種のうち1種または2種以上を合わせ営むことができた。帳合米のみを売買するのを帳合方、正米および帳合米を売買するのを問屋、正米の蔵出し、および輸送をするのを積方といい、これらを総称して浜方といった。

米方年行司は、浜方総中から人望のあるもの5人が選挙され、浜方に関する公私の取締を行った。年行司の下には月行司があった。米仲買の住所は不定ではないため、町ごとに月行司を置いて、その町米仲買の取締を行った。米方会所は堂島船大工町にあって、水方役の筆頭が会所守として住んでいた。当時は市場はもっぱら寄場とよばれた。

天保13年(1842年)8月、幕府は天保の改革の一環として株仲間を解除することとなり、堂島市場組織も変わった。従来の仲買に限らず、誰でも米方年行司に届済の上、市場に出て払米その他の売買ができるようになった。ただし従来通り市場の取締は、年行司がこれに任じた。

嘉永4年(1851年)、株仲間再興の結果、堂島は仲間人員の検査取締のため、再び鑑札を下付された。

幕末、国内が騒然とし、貨幣制度が乱れて米価が甚だしく変動したため、4ヶ月を1期間とする帳合米取引が困難になり、幕府の許可を得て石建米商を実施した。

[編集] 延売買公認の触書[1]

近来米穀相場の儀に付、願有之依て、米商人とも、無覚束存、相場の障りに成候様相聞へ候に付、向後、右の願一切不取上筈に候間、大坂米商内は古来より致来候仕法を以て、流相場商内、諸国商人並に大坂仲買共、勝手次第に可仕候、両替の儀は、有り来り候五拾軒の両替屋、取計、相対次第、舗銀、其外相場差引勘定等の義、前々の通り致商内、随分手広く、少にても米商内の障りに成候義、無之様可致候、其趣を以て、心次第商内可仕候、尤冬木善太郎米会所の儀相止め、取組古来より有来りの儀は、構も無之、若、古来に無之儀を、新規に拵出し、古法と紛敷義有之ば、詮議の上、急度、曲事可申付候、商内に付ては、公事訴訟は、古来の通り不取上候、然とも、有来の外に於ては、格別にて、仲買共、自分の趣意を以て、猥に仲買仲間の騒しき義、無之様可致候、
右の趣、従江戸表被為仰下候間、三郷町中可相触もの也
   日向
   土佐
享保十五年戌八月十三日

[編集] 先駆的な堂島米会所の研究者と研究著書

  • 須々木庄平、『堂島米市場史』、日本評論社、昭和15年
  • 島本得一、『徳川時代の証券市場の研究』、産業経済社、昭和28年
  • 島本得一、『蔵米切手の基礎的研究』、産業経済社、昭和35年

[編集] 注釈

  1. ^ 「帳合流商内最初之事」、島本得一、『堂島米会所文献集』(所書店、昭和45年)


[編集] 関連項目

他の言語