久保田藩
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久保田藩(くぼたはん、一般的には秋田藩(あきたはん))は、江戸時代の藩の一つ。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、鎌倉時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の合戦における挙動(西軍に内通)を咎められて出羽(後の羽後国)秋田20万石へ移封された。家格は大広間詰国持大名。
支藩として、新田分知された家が2家有る他、二代目義隆の実家亀田藩岩城氏が事実上の支藩となっていた時期もあった。
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[編集] 沿革
羽後地方は戦国期には秋田氏が治めていたが、関ヶ原の合戦後の1602年に秋田氏が常陸宍戸に転封となり、変わって佐竹氏が入封する事により近世大名支配が始まった。久保田入封以前の佐竹氏は常陸一国54万石の大身大名であったが、久保田藩の表高は秋田郡・山本郡・河辺郡・仙北郡・平鹿郡・雄勝郡(平鹿・雄勝両郡は入封直後に山形藩との領土交換で得た)の計20万石(実高およそ40万石)であった。そのため、常陸以来の膨大な家臣団を抱えて財政は慢性的に苦しい状態が続いていた。このため、宝暦4年の藩札発行に起因する佐竹騒動を初めとする藩政の混乱や領民の一揆が多発した。
そんな中でも、歴代藩主は文教事業に熱心に取り組み、三代義処の藩史編纂局「秋田史館」の創設、八代義敦(曙山)による「秋田蘭画」の創設、九代義和の藩校「明徳館」設立などの業績が知られている。
明治維新に際しては当初は奥羽越列藩同盟に参加していたが、平田篤胤の思想をなぞる尊攘派が形成されていたこともあり仙台藩の使者を斬ったうえ明治政府側に寝返った。尊攘派の中心は吉川忠行、忠安親子であり、忠安は雷風義塾に学んでいた。忠安は『開花策論』において尊皇思想を説き、12代藩主佐竹義堯がこれを容れための一藩での官軍参加であった。この為に列藩同盟の攻撃を受けたものの明治政府が派遣した佐賀藩兵の助けもあって何とか持ちこたえた。四面楚歌の状況下で錦の御旗を守ったこの事実は成田為三作曲の秋田県民歌の三番にも記されているが、戊辰戦争で「朝敵」とされた旧南部領である鹿角郡や、旧亀田藩の流れをくむ岩城町などではこの部分が忌避されている。
[編集] 財政
藩政初期は山からの収入が大きな柱とされていた。鉱山としては院内銀山・阿仁銅山などが稼働していたが、十七世紀には産出量が激減し、銅山のみの稼行のみとなる。林業では軍艦・城用木材として秋田杉が有名で、家老渋江内膳の「国の宝は山なり」との言葉が残されている。だが乱伐によって林業も一時衰退し、林政改革が必要になった。
久保田藩にとってもう一つの財源は米であり、数度に渡る検地を実行し、年貢率を定めた「黒印御定書」を各村に配した。天明3年の大飢饉で荒廃した耕地の再生のため、荒廃地であれば直轄地、家臣知行地問わず耕作を認めた。さらには藩政を通じて新田開発に注力し、家臣団が開発した新田は全て家臣団の知行地とすることで開発への意欲を高めた。藩財政が逼迫するにつれ、それは三分の一が辛労免高となる注進開に制度を改められるものの、その努力の結果、享保14年(1729年)には実質石高が38万石を超える。ただし、知行地のほぼ7割が家臣団の地方知行地であり、また農村に投機した富農・商人と貧農との格差が広がった。
殖産興業にも能代春慶塗、川連漆器などの特産品を育成し、同時に杉、漆、煙草、菜種を始めとする換金作物も奨励した。しかし、同時に農民らが稲作を疎かにすることを案じ、農民の売買には重税を化した。これにより農民が商人と化すことを妨いだが、商業において目覚しい発展を遂げることはできなかった。養蚕産業に藩主導で手を出し、3,000両の借財を残して撤退したこともある。
これらの税収があった久保田藩だが、実情以上の家臣団と彼らの占める知行地により、財政は常に圧迫されていた。享保6年(1721年)には家老の今宮大学が組織の簡略化と家臣からの知行借上、畑作の奨励などの実施に乗り出し、一部成功した部分はあるものの、財政難を根本的に解決することができなかった。宝暦4年(1753年)に銀札仕法を制定。これは藩が発行する銀札で銀を買い上げようとする制度だったが、結果として銀札は大暴落し、それと匁が連動していたため物価の高騰を招いた。翌年の大凶作はそれに拍車をかけ、宝暦7年、藩内で銀札推進派と反対派の内紛を引き起こす。内紛を経て、推進派の死罪などの紆余曲折の上にようやく解決された。
久保田藩では四年に一度の頻度で凶作に見舞われ、その度に藩財政は打撃を受け、荒廃した土地を生み出した。特に天保4年(1833年)の大凶作は「巳年のケカチ」と言われ、藩の人口のうち4分の1が餓死したとの記録がある。戊辰戦争では周囲の奥羽列藩を敵としたこともあり、戦火にさらされて軍事費の面でも藩財政を締め上げた。
[編集] 城地
入封当初は、秋田氏の居城であった土崎湊城に入り、初代義宣の父義重を六郷城(秋田県美郷町六郷)に配するなど、横手・大館・能代・十二所及び角館などの要所にそれぞれに佐竹一族や有力家臣を配置した。これは反佐竹一揆が各地で勃発していたからである。
その後、佐竹義宣は秋田郡保戸野に新城を築城し本拠とした。この地は北東と東を山で遮り、雄物川から堀川(旭川)を開削し西側外堀とした。羽州街道を西に配したことから四神相応の地に近しいものとした。本丸を含む城域は現在のJR奥羽本線と旭川に囲まれた千秋が冠される地域と中通地区がそれに相応するとされる。
久保田城下町は外町と呼ばれる町人町が現在の大町・旭北及び旭南の地域に配された。しかし侍町及び足軽町は城下周辺の中通・南通・保戸野・楢山・手形に配置され、その範囲は町人町より広い。久保田城下が侍の町である証左であろう。
その後、幕府より一国一城令が発せられ多くの城は取り潰されるが、秋田藩は久保田の本城以外に、横手と大館の2城の存続を許される。これらは久保田藩の地方統制の一環に貢献。この城や館に配された重臣は所預(ところあずかり)と呼ばれ、彼らも各自の家臣団を率いていたから、彼らの居城は小城下町として栄えた。
なお、佐竹一族には本家の他に有力な4家があり、それぞれ東家、西家、南家、北家と呼ばれる(東西南北は常陸時代の拠点の位置から)。西家(小場氏、後に佐竹姓を許される)は大館城、南家は湯沢、北家は角館に配され、東家は4家の筆頭として久保田城下に常住した。このように秋田藩では近世に入っても、地方知行制が強く行われており、藩政中期以降は藩主の権限強化の動きに対しトラブルの元となることもあった。なお、佐竹4家には藩主の相続権はなかったが、支藩の養子を経て藩主を相続したケースはある。ちなみに秋田県知事佐竹敬久は秋田北家21代当主である。
[編集] 本城
[編集] 持ち城
[編集] 館
- 角館(城):秋田県仙北市角館(所預:佐竹北家)
- 湯沢(城):秋田県湯沢市古館山(所預:佐竹南家)
- 檜山(城):秋田県能代市檜山(所預:多賀谷氏)
- 十二所(城):秋田県大館市十二所(所預:茂木氏)
- 院内(城):秋田県湯沢市院内(所預:大山氏)
[編集] 家老
以下、家老になりうる家を家格順(廻座は本家のみ記載し、引渡分家を割愛)に、石高は所預のみ記載した。
[編集] 引渡一番座
- 佐竹北家(出羽角館所預1万石・藩主一門)維新後男爵
- 佐竹西家(出羽大館所預7200石・藩主一門)維新後男爵 もとは小場氏であり、万治元年(1658年)頃、3代義房の時、佐竹姓を許された。
- 石塚氏(藩主一門)
- 大山氏(出羽院内所預500石・藩主一門)
- 戸村氏(出羽横手所預6000石・藩主一門)
- 今宮氏(藩主一門)
- 小野岡氏(藩主一門)
- 岡本氏(藩主一門格)
- 古内氏(藩主一門)
[編集] 引渡二番座
- 佐竹東家(久保田城下)佐竹四家筆頭、維新後男爵
- 佐竹南家(出羽湯沢所預8900石・藩主一門 )維新後男爵
佐竹義章-義著-義敞-義安-義伯=義持(義安の子)=義舒(義伯の子)=義以(早川処久の子)- -義良-義珍-義孟-義誠=義隣(早川睦友の子)=義雄-義質=義輔(義雄の子)
[編集] 廻座(一部)
- 向氏(出羽横手組下支配)
- 渋江氏(出羽刈和野組下支配)
渋江政光-宣光=光久=隆光=処光=格光-峯光-局光=明光-敦光=和光-厚光
- 須田氏(引渡二番座より)
- 松野氏(引渡二番座より)
- 佐藤氏
- 梅津氏(出羽角間川組下支配)
[編集] 歴代藩主
[編集] 支藩
[編集] 岩崎藩
岩崎藩(いわさきはん)は久保田藩の支藩。久保田新田藩、秋田新田藩ともいう。1701年(元禄14年)に三代藩主、佐竹義処が弟、壱岐守義長(佐竹義長)に新田2万石を分与したことに始まる。1868年(慶応4年)岩崎(秋田県湯沢市岩崎)の地に独自の岩崎藩陣屋を構えたため岩崎藩と改称した。特定の領地を持たず、久保田藩から蔵米を支給されて存続する藩であり、久保田藩との結びつきは強かった。代々浅草鳥越屋敷に居を構えていたため鳥越様と呼ばれた。公家衆御馳走約・駿府加番を勤めた際には久保田藩から援助を受けていたが、久保田藩の財政悪化に伴って蔵米の支給が滞ることがあった。戊辰戦争では久保田藩とともに庄内軍と交戦する。歴代藩主は以下の通り。
- 佐竹壱岐守義長 1701年(元禄14年)-1718年(享保3年)
- 佐竹壱岐守義道 1718年(享保3年)-1763年(宝暦13年)
- 佐竹壱岐守義忠 1763年(宝暦13年)-1780年(安永9年)
- 佐竹壱岐守義祇 1780年(安永9年)-1793年(寛政5年)
- 佐竹壱岐守義知 1793年(寛政5年)-1821年(文政4年)
- 佐竹壱岐守義純 1821年(文政4年)-1849年(嘉永2年)
- 佐竹左近将監義核 1849年(嘉永2年)-1857年(安政4年)宗家相続(12代義尭)
- 佐竹壱岐守義諶 1857年(安政4年)-1869年(明治2年)
- 佐竹壱岐守義理 1869年(明治2年)-1869年(明治2年)版籍奉還
[編集] 久保田新田藩
久保田新田藩(くぼたしんでんはん)は久保田藩の支藩。椿台陣屋とも言う。、藩1701年(元禄14年)に三代藩主義処が甥式部少輔義都(佐竹義都)に新田1万石を分与したことに始まる。1732年(享保17年)に義都の子豊前守義堅が本家の養子となったため廃藩となる。歴代藩主は以下の通り。
[編集] 参考文献
- 藤野保・木村礎・村上直編 『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』 雄山閣 1988年 ISBN 4-639-10033-7
[編集] 関連事項
[編集] 久保田藩を題材とした作品
- 岩明均・短編集『雪の峠・剣の舞』(2001年、KCDX。ISBN 4-06-334387-1。2004年、講談社漫画文庫から再版)

