岩国藩
岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡の一部(鳴門村・神代村)及び玖珂郡南部を領地とした藩。藩庁は岩国陣屋(現在の山口県岩国市)[1]。江戸時代を通じて長州藩毛利氏一門の吉川氏が領主だったため、吉川藩(きっかわはん)という通称もある。
長州藩の支藩とみなされるが、後述の通り長州藩は幕府に支藩としての届けを出していない。このため長州藩は、領主吉川家は徳川家の陪臣であって諸侯(藩)ではないと主張しており、所領も岩国領(いわくにりょう)と称された。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月である。
本項では、岩国藩とその前身である岩国領について合わせて述べる。
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[編集] 沿革
吉川元春の三男、吉川広家を祖とする。石高は当初表高3万石であったが、寛永11年(1634年)、毛利家からの独立を画策して実高である6万石を公称し、幕府からもこれを認められた。
[編集] 吉川広家の入封と岩国領の地位
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで広家は東軍方に内通し、毛利勢の動きを封じ、関ヶ原の戦いに参加させなかった。当初、黒田長政を通じて徳川家康より所領安堵の密約を取りつけていたが、戦後家康は大坂における毛利輝元の行為を理由として毛利家を取り潰し、吉川家を取り立てようとした。これに対して広家は事態収拾のために奔走し、結果として毛利氏は改易は免れたものの、長門国・周防国2カ国に大幅に減封された。広家は豊臣時代には出雲国富田で14万石を領していたが、毛利宗家が120万5000石から36万9411石余に減封されたのに伴い、毛利輝元より東の守りとして、岩国に3万石(長州藩の内高に含まれる)を与えられた。広家は同年(1600年)、岩国へ着任した。
しかし、毛利秀元をはじめとした毛利家中では、広家の内通を毛利宗家へ対する裏切り行為と見なした。元々の毛利両川たる小早川秀秋の裏切りと、広家の内通がなければ、関ヶ原は西軍の圧勝であったはず、と家臣に至るまでのほとんどの者が考えたからである。また毛利氏存続の広家の尽力すら一顧だにされることはなかった。そもそも西軍の勝利であれば、毛利氏は八箇国120万5000石の領地を減封される事なく(父祖伝来の安芸国、1599年に天守閣が完成したばかりの広島城を失うこともなかった)[要出典]、加増および豊臣政権における輝元の「執政」就任が約束されていたからである。そのために長州藩内部での処遇は低く[要出典]、毛利宗家の歴代当主は吉川家当主を陪臣として扱い(ただし、冷遇説を否定する見解もある[2])、将軍に直接目通りすることを許さなかった。しかし一方で江戸幕府からは外様大名として扱われ、参勤交代の義務や、城の築城許可が与えられていたという江戸時代を通じて、極めて異例な状態が続くこととなった。
[編集] 岩国領の経営
初代当主・広家によって当家の基礎は固められた。寛永2年(1625年)に広家が没すると、第2代当主・吉川広正は親政を行ない、寛永11年(1634年)には本家の長州藩主・毛利秀就と不仲になった長府藩主・秀元と共に本家から独立しようとしたが失敗する。なお、広正は製紙業を起こし、寛永17年(1640年)には紙を専売化した。
第3代当主・吉川広嘉は文化事業に尽力し、延宝元年(1673年)、有名な錦帯橋が完成している。第4代当主・吉川広紀も藩営による干拓事業の拡張を行うなど、岩国領は全盛期を迎えていた。しかしこのような全盛期は財政で苦しむ本家の長州藩の妬みを買い、本家と対立するようになる。
第5代当主・吉川広逵と第6代当主・吉川経永時代には家格問題が絡まって本家と対立し、さらに岩国内部でも家臣団の対立が起こっている。第7代当主・吉川経倫時代は財政悪化により、製紙業の生産は半減し、倹約を行うことになった。なお、和紙を専売とし江戸中期までは財政は好調であったが、中期以降、諸侯に列するための運動や凶作により悪化した。寛政年間(1789年 - 1801年)より財政再建に着手し天保年間(1830年 - 1844年)には再建の成功をみた。
第8代当主・吉川経忠は財政改革に失敗。第10代当主・吉川経礼は干拓事業などを行なって財政改革に成功を収めた。
[編集] 幕末から立藩・廃藩まで
幕末にあっては、三士と呼ばれる東沢瀉、栗栖天山、南部五竹の尊王活動はあったが、藩自体は佐幕的態度を示していた。元治元年(1864年)〜慶応元年(1865年)の幕長戦争に際して、第12代当主・吉川経幹は長州藩と幕府の間に立って周旋を行い、幕府方の派兵の延期を取り付けているが、高杉晋作などのように、宗家である長州藩への背信行為と見なした長州藩士もいた。逆に戦争で功績のあった清末藩に岩国領を加増すればよいとまで言われた。 しかし四境戦争においては芸州口で幕府軍と戦い、撃破することに貢献した。
吉川経幹は慶応3年(1867年)3月20日没するが、毛利敬親の命令でその死が隠された。大政奉還後の慶応4年(1868年)3月13日、新政府によって岩国藩は独立した藩として正式に認められた。経幹は生存しているものとして城主格兼正式な藩主として認められ、岩国藩初代藩主となった。経幹は明治元年(1868年)12月28日に長男・経健に家督を譲って隠居した形となった。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により岩国県となり、同年11月15日、山口県に編入された。吉川氏は明治17年(1884年)には子爵となり、華族に列した。
[編集] 歴代当主
吉川(きっかわ)家
- 広家(ひろいえ)(従四位下・民部少輔、侍従)
- 広正(ひろまさ)
- 広嘉(ひろよし)
- 広紀(ひろのり)
- 広逵(ひろみち)
- 経永(つねなが)
- 経倫(つねとも)
- 経忠(つねただ)
- 経賢(つねかた)
- 経礼(つねひろ)
- 経章(つねあきら)
- (初代藩主)経幹(つねまさ)(従五位下・駿河守)
- (2代藩主)経健(つねたけ)(正四位・駿河守)
[編集] 幕末の領地
[編集] 脚注
- ^ 岩国領の支配拠点は当初岩国城であったが、元和元年(1615年)の一国一城令で破却されて岩国陣屋となった。慶応4年(1868年)まで岩国領は「藩」ではないと長州藩によって主張されていたため、正式な「藩庁」としては岩国陣屋となる。
- ^ 元々輝元の養嗣子でありながら、輝元の嫡子誕生によって豊臣政権から分知を認められて大名としての資格を得ており、宗家継承権も有していた秀元の長府藩や、輝元の実子である毛利就隆の徳山藩の両藩と輝元の従兄弟である広家との血縁の親疎を考えた場合、輝元の子を祖とする長府・徳山と庶家の1つでしかない岩国の間に処遇の違いが発生する余地はあり、岩国藩吉川家が冷遇されたというより長府藩毛利家の家格が上昇したと見た方が適切との見方もある(参照: 脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』(1993年、雄山閣) ISBN 4639011954))。
[編集] 参考文献
[編集] 関連人物
[編集] 関連項目
| 先代: (周防国) |
行政区の変遷 1868年 - 1971年 (岩国藩→岩国県) |
次代: 山口県 |
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