岩城隆邦

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岩城隆邦
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 天保15年4月13日1844年5月29日
死没 明治44年(1911年2月18日
改名 真田幸厚(初名)→岩城隆邦
別名 通称:鷹之助
戒名 峻徳院殿忠巌隆翁
墓所 秋田県由利本荘市岩城(旧由利郡岩城町)の竜門寺
官位 従五位下左京大夫従三位子爵
幕府 江戸幕府
主君 徳川家定慶喜
出羽亀田藩
氏族 岩城氏
父母 父:岩城隆喜、母:母:菊瀬(松雲院)
養父:真田秀八郎
兄弟 隆興(三男)、隆永(四男)、隆信(五男)、
隆政(六男)、隆邦(七男)、
堀田正養(八男、堀田正誠養子)、
立花種温正室、直子(三女、浅野長祚正室)、倉子(五女、浄真院、佐竹義祚室)、
銀子(八女、佐竹義祚継室)、
緑操院(前田利豁正室)等、計8男18女
正室:満里子堀田正睦娘)
継室:鈎子青山幸哉娘)
継々室:芳子丹羽長裕娘)
隆治(長男)、隆長(三男)、後藤美治室ら
養子:隆彰隆徳
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岩城 隆邦(いわき たかくに)は、江戸時代末期の大名出羽国亀田藩12代藩主。

天保15年(1844年)4月13日、8代藩主・岩城隆喜の七男として生まれる。はじめ外叔父・真田秀八郎(岩城隆謨)の養嗣子となっていた。文久元年(1861年)10月16日、兄の11代藩主・隆政の死去により、末期養子として家督を継いだ。最後の亀田藩主は、厳密には岩城隆彰であるが、一般的には隆邦と認識されている。12月15日、江戸幕府14代将軍徳川家茂御目見し、12月28日に従五位下・左京大夫に叙位・任官する。

慶応4年(1868年)4月1日、明治新政府の命令に従って上洛し、明治天皇に拝謁する。同年閏4月13日、新政府から亀田へ帰国の許可を得る。閏4月16日京都を出発、5月25日亀田に到着する。戊辰戦争では当初奥羽越列藩同盟に参加したが、同年7月、久保田藩の呼びかけで本荘藩新庄藩矢島藩と共に同盟を脱退し、新政府に与した。その後、庄内軍に敗れた新政府軍が本荘、亀田を見捨て、秋田まで退却した。このために8月8日、庄内藩の説得に応じて和議を結び、庄内軍と共に再び奥羽越列藩同盟として新政府軍と交戦した。しかし9月9日、援軍により勢いを盛り返した新政府軍に敗れ、降伏した。小藩のため、主体的な行動を取ることは不可能であった。

明治元年(1868年12月7日、最終的に新政府の敵となったため、亀田藩は2000石の減封となり、隆邦は隠居を命じられた。隆邦は江戸の菩提寺・総泉寺で謹慎した。この時、隆邦にはまだ子がなかったため、近江宮川藩堀田家(藩主の堀田正養は隆喜の実弟)から隆彰(前代藩主・堀田正誠の三男)を養子に迎え、岩城家を相続させることを許可された。明治3年(1870年4月4日、亀田藩知藩事になっていた隆彰の後見人に任命されたが、7月12日に廃藩置県のため免職された。

その後、岩城家の家督は隆邦の長男・隆治、次いで三男・隆長が相続したが、明治41年(1908年)12月に隆長が隠居したため、隆邦が再び当主に就いた。それに伴い子爵となった。明治44年(1911年2月18日、東京で死去した。享年68。養子の隆徳(子爵・青山幸宜の四男)が跡を継いだ。

岩城隆邦の写真(明治時代初期)

家族[編集]

父母

子女

養子

日本の爵位
先代
岩城隆長
子爵
亀田岩城家第3代
1908年 - 1911年
次代
岩城隆徳