対馬府中藩
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対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜崎)を治めていた藩で、別名:厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称される事が多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、官位は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。
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[編集] 概要
対馬は土地柄、稲作がほとんど不可能であった為、肥前国の飛び地をのぞくと実質的には無高に近い。対馬国と朝鮮の釜山に倭館をもち、朝鮮との貿易を生業としていたため、実質的な収入は多かった。しかし江戸時代末期になると、肝心の朝鮮との貿易がふるわなくなり極度の財政難に陥った。また、この頃には周辺海域に欧米の船が出没するようになり、この地の守りを重要視した幕府は宗氏を河内国に10万石(20万石説もあり)で転封する計画を立てた。しかし、宗氏は中世からのこの地の領主という誇りがあり、家臣もこの地に根ざした特殊な生活を保っていたために、せっかくのこの申し出を断ってしまった。
当初は肥前国内1万石を併せて2万石格であったが幕府は朝鮮との重要な外交窓口として重視し、初代藩主・宗義智以来、対馬府中藩を国主10万石格として遇した。
第11代藩主・宗義功と第12代藩主・宗義功は同名であるが、これは第11代の義功が将軍お目見え前に急逝し、弟の富寿を身代わりとし、藩を承継させたためである。
版籍奉還の後、明治2年8月7日(1869年9月12日)に改称して厳原藩となり、明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県により厳原県となった。
[編集] 主要年表
- 1600年
- 1603年:朝鮮の捕虜数百人を朝鮮に返還
- 1604年:朝鮮使、対馬来島。宗義智、これを伴って京都に赴く
- 1605年:徳川家康、伏見城で朝鮮使を引見
- 1607年:朝鮮の回答兼刷還使(第1回通信使)来島、江戸で徳川秀忠に拝謁
- 1609年:朝鮮と己酉条約締結、国交回復。釜山の倭館再開(豆毛浦倭館)
- 1615年:宗義智卒し、義成封を襲ぐ。大坂の陣に参戦
- 1617年:朝鮮の回答兼刷還使(第2回通信使)来島
- 1624年:朝鮮の回答兼刷還使(第3回通信使)来島
- 1635年:柳川一件発覚、家老・柳川調興は弘前藩、僧・玄方は盛岡藩に配流
- 1636年:朝鮮通信使(第4回通信使)来島
- 1672年:大船越の掘切完成
- 1678年:釜山の新倭館完成(草梁倭館)。桟原城完成。
- 1732年:府中大火
- 1733年:府中また大火
- 1755年:朝鮮貿易不振
- 1813年:伊能忠敬の測量隊来島
- 1847年:異国船出没
- 1857年:英国軍艦、浅茅湾尾崎浦に来泊、湾内を測量
- 1861年:ロシア軍艦、浅茅湾尾崎浦に来泊、芋崎を占領して租借を要求。8月退去
- 1862年:対長同盟
- 1864年:甲子の変、勝井五八郎、尊攘派の家士百余名を殺す
- 1865年:勝井五八郎誅殺
- 1868年:宗義達、藩兵を率いて東上
- 1869年:版籍奉還。府中を厳原と改名
- 1871年:廃藩置県
[編集] 歴代藩主
- 宗(そう)家
外様 2万石格 → 10万石格 官位官職は下記〔〕に記した以外は、従四位下、対馬守・侍従。
- 義智(よしとし)
- 義成(よしなり)
- 義真(よしざね)
- 義倫(よしつぐ)〔従四位下、右京大夫・侍従〕
- 義方(よしみち)
- 義誠(よしのぶ)
- 方熈(みちひろ)
- 義如(よしゆき)
- 義蕃(よしあり)
- 義暢(よしなが)
- 義功(よしかつ)〔官位官職無し〕幼名:猪三郎
- 義功(よしかつ)幼名:富寿(猪三郎の弟)
- 義質(よしかた)
- 義章(よしあや)
- 義和(よしより)
- 義達(よしあきら)版籍奉還の後、重正(しげまさ)と改称
[編集] 藩邸及び江戸での菩提寺
江戸藩邸は向柳原に上屋敷、水道橋外に中屋敷、みのわに下屋敷があった。また京都藩邸は河原町三条上る丁にあり、大阪藩邸は天満11丁目に、長崎藩邸は紺屋町にあった。加えて肥前屋敷が基肆郡田代にあった。
なお江戸における菩提寺は下谷の天台宗寺院、養王院であった。

