宗義質

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宗義質
宗義質像(養玉院蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 寛政12年7月3日1800年8月22日
死没 天保9年8月9日1838年9月27日
改名 岩千代(幼名)、功茂(初名)、義質
戒名 啓祐院
墓所 長崎県対馬市厳原町国分の万松院
官位 従四位下侍従対馬守左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
対馬府中藩
氏族 宗氏
父母 宗義功村上新介
兄弟 義質暢孫質直津江左善大浦伯耆
前田利謙娘喜久
玄(多田氏)、内野氏、津江氏
義章義和樋口鉄四郎室、島雄益城
樋口和理
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宗 義質(そう よしかた/よしただ)は、対馬国府中藩13代藩主。

生涯[編集]

寛政12年(1800年)7月3日、第12代藩主・宗義功(富寿)の次男として生まれる。初めは父の1字を取って功茂(かつしげ)と名乗っていた。兄が早世したために世子となり、文化8年(1811年)から病気の父・義功に代わって政務を代行した。文化9年(1812年)10月2日、父の隠居家督を継いで第13代藩主となる。この時、名を義質に改名。12月に従四位下・侍従・対馬守に叙位・任官される。

しかし、朝鮮貿易の収入の減少、文政6年(1823年)や天保2年(1831年)の府中大火などにより藩財政はさらに悪化した。また、家臣団も若年の藩主の下で主導権をめぐって争うなど、派閥抗争が続いて混乱した。天保8年(1837年)12月、歴代藩主の中でも異例の左近衛少将に昇任するが、天保9年(1838年)8月9日に江戸で死去した。享年39。跡を長男・義章が継いだ。

死後、家老杉村功如(かつゆき)によって義質の遺言が偽造され、政争が起きるなどしている。

系譜[編集]

偏諱を与えた人物[編集]

  • 暢孫(ながつぐ かたなお/ただなお、実弟)