佐賀県
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佐賀県(さがけん)は、日本の都道府県のひとつで、九州地方の北西部に位置する県。日本海と有明海の二つの海に接する。県西部には陶磁器の産地として古くから有名な唐津・伊万里・有田などがある。
古代には「肥前」、中世には「佐嘉」とされたが、明治維新の時に「佐賀」と改められた。この「佐嘉」の名は、日本武尊が今の佐賀を訪れた時、楠が大きく茂っている様子を見て「この国は『栄の国』と呼ぶがよかろう」と述べた、という肥前国風土記の記述に由来するといわれている。
目次 |
[編集] 地理
日本の西部(西日本)または南部(南日本)、九州地方の北部(北部九州)または西部(西九州)に位置している。
佐賀県本土は、九州に含まれる。北東部は脊振山地が福岡県との県境をなし、南東部は福岡県側まで続く筑紫平野(佐賀平野)が大部分を占める。東松浦半島から多良岳山系にかけての県西部は溶岩台地と緩やかな丘陵地により構成されている。
森林面積の3割強を占める自然林・二次林はほとんどが常緑広葉樹林で、玄界灘沿岸部には照葉樹林も見られる。残りの7割弱はスギとヒノキを中心とする人工林で、人工林率(66%、2002年)は日本の都道府県の中で最も高い。
北東部の脊振山地はスギが大半を占める人工林で林業が主要産業となっている。現在の唐津市南部や多久市周辺の丘陵地帯では石炭採掘がかつて盛んであったが、今では跡が残るだけである。南東部の佐賀平野は稲作を中心とした穀倉地帯で、各種農産物が生産されるが、近年は農産物の種類が変わってきている(#産業参照)。県西部は温帯林と田畑が交互に連なり、各地域の特徴にあわせたさまざまな産業形態が見られる。
県南部の多良岳が活動していない火山であるほかは、県内に火山はない。しかし、各地に多数の温泉が点在し、保養地・観光地となっている。地震の被害を受けることは比較的少ないが、梅雨などの大雨による洪水、台風の被害は多い。
韓国などアジア地域に比較的近いが、海上輸送は旅客では博多港や北九州港、長崎港などに押されてほとんど発展していない。貨物は伊万里港が九州3位のコンテナ取扱量となっている。陸上輸送については鳥栖市など県東部は高速道路網・鉄道網の分岐点となっており、九州での陸上輸送の要となっているが、有明海沿岸や玄界灘沿岸などは長距離輸送や都市間交通がやや不十分である。空中輸送では1998年に開港した佐賀空港が使用されているが、旅客では便数の面などから近隣の福岡空港や長崎空港のほうが利用頻度が高い。
- 県の領域
[編集] 地形
- 平野
- 山
- 脊振山地(筑紫山地)、多良岳山地
- 経ヶ岳(県内最高地点・1,076m)、脊振山(1,056m)、天山(1,046m)、多良岳(996m)、井原山(982m)、金山(967m)、雷山(955m)、羽金山(900m)
- 丘陵地
- 河川・湖沼
- 海
- 半島
- 島
- 玄界灘側 : 高島(たかしま)、神集島(かしわじま)、小川島(おがわじま)、加唐島(かからじま)、松島(まつしま)、馬渡島(まだらじま)、加部島(かべしま)、向島(むくしま)
- 有明海側 : 沖ノ島(おきのしま)
- 国立・国定公園としては、県内では唯一、玄界灘沿岸が玄海国定公園に指定されている。
- 県立自然公園では、黒髪山県立自然公園、多良岳県立自然公園、天山県立自然公園、八幡岳県立自然公園、脊振・北山県立自然公園、川上・金立県立自然公園の6か所が指定されている。
[編集] 気候
佐賀県は、日本の中では比較的気候が温暖である。日本を広域的に見た場合、県内全域が太平洋側気候に入るが、北部の玄界灘沿岸部は日本海側気候にも近い。台風の通過・被害が多いが、九州のほかの県と比べると少ない方である。山地と平野が入り組んでいるため、県内の気候は大きく3つに分かれる。
- 佐賀市を中心とした南部の平野部
夏に降水量が多く、冬は少ない。年間を通しても降水量1800mm程度である。気温は熊本市などの盆地に近い傾向で、1日の気温差が大きい傾向にあり、夏は最高気温が35℃を超えることもある。海抜が低いため水害(洪水)が多いほか、有明海から吹き付ける塩分を含んだしぶきが塩害を発生させることも多い。また、内陸のため冬季を中心に乾燥しやすい。
佐賀市では、平年の梅雨入り6月8日、梅雨明け7月18日、春一番2月23日、初霜11月20日、初雪12月15日、桜(ソメイヨシノ)の開花日3月27日、満開日4月4日となっている。また、晴れの特異日が11月24日(出現率83.3%)、雪の特異日が2月2日(36.7%)、雨の特異日が6月23日(70.0%)などとなっている。
夏も降水量が多いが、冬も季節風の影響で降水量が比較的多い。海洋性気候を呈し、1日の気温差が小さい傾向にあり、夏の最高気温が35度を超えるようなことはほとんどない。
三瀬村で年間降水量約2400mmとなっており、全体的に降水量は多く、特に夏に多い。1年の気温差、1日の気温差が共に大きい。冬は県内では特に低温となり、雪や霜の日数も多い。平年の天山の初冠雪は12月4日。
詳しくは佐賀地方気象台のホームページを参照。
[編集] 土地利用
| 土地利用別割合グラフ | |||
| 森林・荒地 | 耕地 | 住宅地 | その他 |
- 総面積 2439.31 km² のうち、
- 森林・荒地 49.2% - 全国平均より3割ほど少ないが、少ない分が耕地になっている。
- 森林面積 1096.9 km² - 2000年、全国第42位。人口、面積と同じ順位。
- 耕地 39.1% - 全国平均の2倍で、耕地として使用できる土地が広く農業が盛んといえる。
- 住宅地 6.8% - 全国平均の1.4倍である。一軒あたりの用地が広く、住宅が密集していないといえる。
- その他 4.9% - 全国平均とほぼ同程度。
- 可住地面積割合 54.9% - 2002年、全国第9位。住宅を立てやすい平らな土地が多いといえる。
[編集] 歴史
[編集] 県名の由来
県名である「佐賀」は佐賀郡からとったものだが、古来は「佐嘉」の表記も使われており、明治維新の時に「佐賀」に統一された。「佐嘉郡」は、風土記の一つである肥前国風土記に記された、以下の記述に由来すると言われている。
| 昔者(むかし)、樟の樹一株此の村に生ひたりき。幹枝秀高く、莖葉繁茂り、朝日の影には、杵嶋の郡の蒲川山を蔽ひ、暮日の影には、養父の郡の草横山を蔽へりき。日本武尊、巡幸しし時、樟の茂り榮えたるを御覽はして、勅りたまひしく、此の國は榮(さか)の國と謂ふべし、とのりたまひき。因りて榮の郡といひき。後改めて佐嘉の郡と號く。 | ||
| —肥前国風土記(書き下し文) |
これは、「日本武尊が御巡幸の時、楠樹の栄え繁る有様を見られ、この国は『栄の国』と呼ぶがよかろう、と申され、その後『栄の都』といい、改めて佐嘉郡と呼ぶようになった。」といった意味である。
また、「佐嘉郡」の由来としては、もう1つ説があり、同じく肥前国風土記の以下の記述に由来する。
| 一云、郡西有川、名曰佐嘉川、年魚有之、其源出郡北山、南流入海。此川上有荒神、往来之人生半殺半。於茲県主等祖大荒田占問、于時有土蜘蛛大山田女、狭山田女。二女子云、取下田村之土、作人形馬形、祭祀此神、必有応和。大荒田即随其辞祭此神々、此祭遂応和之。於茲大荒田云、此婦如是実賢女、故以賢女欲為国名、因曰賢女郡、今謂佐嘉郡訛也。 | ||
| —肥前国風土記(原文) |
これは、「郡の西にある佐嘉川(現在の嘉瀬川にあたる。)という川があり、「荒ぶる神」によって川が氾濫し多くの人々が亡くなっていた。これを鎮めるために、土蜘蛛(天皇に恭順しない土着の豪傑を意味する蔑称。)の2人の賢女(さかしめ)が「下田の村の土で人形や馬形を作り、神を祀れば、鎮まるでしょう。」と言い、大荒田がその通りにしたところ、氾濫が鎮められた。大荒田はこの2人の賢女を讃え、この地域を「賢女の群(さかしめのこおり)」と呼ぶようにした。現在はこれが訛って佐嘉の郡(さかのこおり)と呼んでいる」といった意味になる。
[編集] 古代
今の長崎県本土と佐賀県全域が、令制国として7世紀末までに成立した肥前国に含まれる。
古代から稲作文化が栄え、稲作の痕跡が見られる菜畑遺跡、弥生時代最大級の環濠集落である吉野ヶ里遺跡などの遺跡がある。『魏志倭人伝』にみえる「末廬国(まつらのくに)」が現在の唐津地方にあったとされている。また、前方後円墳をはじめとした古墳が数多く残り、統治者の影がうかがえる。また弥生時代に最も栄えた九州北部地方に見られる甕棺墓がある。
[編集] 中世・近世・近代
鎌倉時代から室町時代にかけて、百以上の一族が地頭として配置されていたと考えられている。その中でも規模が大きかったのが、九州千葉氏、高木氏、綾部氏、松浦氏、少弐氏、波多氏、後藤氏などであった。また、玄界灘沿岸は松浦党の影響力も強かった。戦国時代に入って、龍造寺氏が一気に勢力を伸ばし、肥前・肥後北部・筑後・筑前南部まで領地を広げた。龍造寺隆信の死後鍋島直茂が国政の代行を行うようになり、1607年には龍造寺氏の支配領をほぼずべて鍋島氏が継承することとなった。しかし、この前後に両一族の確執があり、鍋島藩の化け猫騒動の話を生み出したともいわれている。一方、唐津藩では波多氏が改易されて寺沢氏に換わり、唐津藩の初代藩主となった。
江戸時代は、佐賀藩そして支藩の蓮池藩、鹿島藩、小城藩の3藩、唐津藩が置かれたほか、現在の鳥栖市・基山町付近に対馬府中藩の田代領、唐津市浜玉町付近に同藩浜崎領があり、それぞれ対馬府中藩の飛地となっていた。また、現在の唐津氏浜玉町海岸部や唐津市南東部などが幕府直轄領となっていた。
佐賀藩およびその支藩は鍋島氏とその庶流家、龍造寺氏の分家などによる支配が続き、政治的には比較的安定していた。しかし、長崎の警備費用がかさむなどして財政は当初から厳しく、享保の大飢饉や1828年のシーボルト台風による甚大な被害はそれに拍車をかけた。ただ、広大な有明海の干拓によって農地を拡大できるという地の利もあり、江戸時代初期から盛んに干拓が行われたことで、1840年代には約67万石と、200年前の2倍近くにまで石高を伸ばすことに成功している。また、19世紀中ごろに入って鍋島直正は財政の建て直しに努め、役人の削減、有田焼や茶・石炭といった特産品の保護育成に努めた。また、地理的に長崎に近いため入手が比較的容易であった海外の情報を手に入れ、反射炉や蒸気機関車模型といった先進的な科学技術の研究も進めた。
一方の唐津藩は寺沢氏が島原の乱の影響を受けて改易され、その後も領主が大久保氏、大給松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏とめまぐるしく変わり、政治はあまり安定していなかった。寺沢広高は松浦川の改修を行うなどしたが、その後水野忠任の代1771年には虹の松原一揆が起こるなどした。
佐賀藩は戊辰戦争以降、明治維新に尽力する人物を多く輩出した。明治時代には杵島郡や東松浦郡などの炭鉱の近代化が進み、鉄道の建設がそれを後押しした。しかし、労働環境の問題なども生じるようになった。農村では近代化は顕著ではなかったが、1930年代の「佐賀段階」による増産で技術が一新された。
[編集] 現代
県内の都市は比較的規模が小さかったため、太平洋戦争末期の空襲の被害は近県に比べて少なかったが、戦後の発展も著しいものではなかった。商業の発展はある程度あったものの、従事者や生産額ともに第一次産業の比率が比較的高かった。1960年代の「新佐賀段階」により農業は発展を見たものの、減反が進んだことに加えて炭鉱の閉鎖が加速し、過疎化が進んだ。
[編集] 沿革
- 紀元前3万3,000年ごろ(更新世) 犬塚山遺跡成立。
- 紀元前6世紀ごろ(縄文時代晩期) 菜畑遺跡成立。
- 紀元前1世紀ごろ(弥生時代中期) 現在の吉野ヶ里遺跡にむらが栄える。
- 665年 白村江の戦いの敗戦により太宰府防衛のため基肄城が築かれる。
- 733年 肥前国風土記が成立。
- 836年 神埼荘が初期荘園として開墾、以後拡大し日宋貿易の拠点にもなったと見られている。
- 1274年 文永の役。
- 1281年 弘安の役。
- 1591年 名護屋城普請、以降文禄・慶長の役を経て1598年に廃城。
- 1602年 唐津城、佐賀城築城。
- 1607年 佐賀藩の実権が竜造寺氏から鍋島氏に移る。
- 1771年 虹の松原一揆。
- 1781年 佐賀藩校弘道館成立。
- 1828年 シーボルト台風により甚大な被害、死者1万人以上と推定。
- 1871年7月14日 廃藩置県。当時の藩がそのまま県となり、佐賀・蓮池・小城・鹿島・唐津県及び対馬県の一部になる。
- 1871年11月14日 6県が合併して伊万里県になる。
- 1872年5月29日 伊万里県が佐賀県になる。
- 1874年2月 佐賀の乱おこる。
- 1876年4月18日 三潴県に併合される。
- 1876年8月21日 三潴県の、今の佐賀県に相当する区域が長崎県に併合される。
- 1883年 長崎県より分離独立。
- 1889年4月1日 佐賀市に市制施行。
- 1891年 九州鉄道長崎線、鳥栖~佐賀間開通。1895年佐賀~武雄間、1897年武雄~早岐間、1903年佐賀~西唐津間開通。
- 1932年1月1日 唐津市に市制施行。
- 1933年・1934年・1935年 10aあたりの米収穫高が日本一になる(佐賀段階)。
- 1935年 国鉄佐賀線開通。
- 1954年 昭和の大合併により、鳥栖市、伊万里市、武雄市、鹿島市、多久市の5市が誕生。(7市8郡18町35村)
- 1965年・1967年 10aあたりの米収穫高が再び日本一になる(新佐賀段階)。
- 1972年 西杵炭鉱の閉山により県内の炭鉱すべてが閉山。
- 1975年 玄海原子力発電所の営業運転始まる。
- 1976年 若楠国体開催。
- 1987年 国鉄佐賀線が廃止。
- 1989年 吉野ヶ里遺跡が日本最大の環濠集落であることが明らかになる。
- 1998年 川副町に佐賀空港開港。
- 1996年 世界・炎の博覧会開催。
- 2001年 国営吉野ヶ里歴史公園開園。
- 2005年 平成の大合併により県内の自治体が再編。
- 2006年 平成の大合併
- 2007年
- 7月~8月 2007青春・佐賀総体(全国高校総体)開催。
- 10月1日 新佐賀市が誕生。
[編集] 人口
[編集] 年齢構成
年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
総計 [単位 千人]
| 年齢 | 人口 |
|---|---|
| 0 - 4歳 | |
| 5 - 9 | |
| 10 - 14 | |
| 15 - 19 | |
| 20 - 24 | |
| 25 - 29 | |
| 30 - 34 | |
| 35 - 39 | |
| 40 - 44 | |
| 45 - 49 | |
| 50 - 54 | |
| 55 - 59 | |
| 60 - 64 | |
| 65 - 69 | |
| 70 - 74 | |
| 75 - 79 | |
| 80歳以上 |
年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
男女別 [単位 千人]
- データ出典:第10表/都道府県, 年齢(5歳階級), 男女別人口-総人口
(総務省統計局)
| 佐賀県と全国の年齢別人口分布図(比較) | 佐賀県の年齢・男女別人口分布図 |
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■紫色は佐賀県
■緑色は日本全国 |
■青色は男性
■赤色は女性 |
| 総務省統計局 / 国勢調査(2005年) | |
[編集] 総人口の推移
1920年~2005年の県人口の推移
総計 [単位 人]
| 西暦 | 人口 | |
|---|---|---|
| 1920年 | 673,895 | |
| 1925年 | 684,831 | |
| 1930年 | 681,565 | |
| 1935年 | 686,117 | |
| 1940年 | 701,517 | |
| 1947年 | 917,797 | |
| 1950年 | 945,082 | |
| 1955年 | 973,749 | |
| 1960年 | 942,874 | |
| 1965年 | 871,875 | |
| 1970年 | 838,468 | |
