大名行列

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大名行列(だいみょうぎょうれつ)は、大名が公用のために随員を引き連れて外出する際に取る行列のこと。参勤交代における江戸領地との往来が典型的な形態である。

[編集] 概要

大名行列は本来、戦時の行軍に準じた臨戦的・軍事的な移動形態(帯刀する刀の長さも通常の長さより大きなものでもよいなど)であったが、江戸時代の太平が続くと次第に大名の権威と格式を誇示するための政治的なものに変容した。随員には騎馬・徒歩の武士の他、鉄砲などの足軽や道具箱や槍持ちなどの中間(人足)、草履取や医師などの大名身辺に仕える者たちが連なる。

参勤交代などの幕府の公用のために行う大名行列は幕府によって人数が定められており、1万石の小大名でも50人から100人を引き連れることを義務付けられ、102万石の加賀藩では最盛期に4,000人に及んだ。これは、大名行列のために出費を強いることで諸大名が経済的実力を持つことを抑制しようとする政治的意図による。そして諸大名は、ある意味この幕府の企みに乗せられた格好になり、自らの体面を守り、藩の権勢を誇示するため、幕府に義務付けられた以上の供を引き連れ、行列の服装も贅を凝らしたものとなる傾向があった。

大名行列は、遠くから見ただけでもどこの家中かわかるよう、毛槍や馬印などに特徴があり、それらは江戸時代を通じて発行された『武鑑』に記され、一般でも判別できた。参勤交代の行列は、出立の際や宿場町に入る時、国入りの際などには、毛槍を持たせた中間(ちゅうげん)たちに独特の所作をとらせ、人々を注目させた。これが各地の祭礼行列、神幸行列などに取り入れられ、民俗芸能の奴振りとして全国に残っている。

このように、長大かつ華美に走った大名行列は、大名家にとっては財政的な負担となり、次第に大名の財政を圧迫していった。むしろ幕府への不満を増大させ、幕末討幕運動の遠因となった。

行列の速度については、往来を通り過ぎる時はゆっくりと進むが、街道などそれ以外の場所を移動する際はやや早い速度で移動していた。旅人が12から13日程度かかる道のりであれば、それより2日程度早くたどり着く速さであった。これは、往来では大名の権威と格式を誇示するためゆっくりと移動し、それ以外は経費節約のため出来るだけ行程を短縮する狙いがあったものと考えられている。これの極端な例として、寛永20年(1643)に前田家四代目の光高が約120里(480km)の行程で、順調に行けば12泊13日でたどり着ける道のりを6泊7日で移動したという記録がある。

大名行列の前を横切ったり、列を乱す様な行為は無礼な行いとされ、場合によってはその場で「無礼討ち」をすることも認められていたが(幕末に発生した生麦事件が有名)、特例として、飛脚出産の取上げに向かっている産婆(現在の助産師)は行列を乱さない限りにおいて、前を横切る事を許されていた。

時代劇等では、大名行列が往来を通り過ぎるときには必ず先導の旗持ちの「下に~、下に~」との声にあわせ百姓商人などは脇により平伏しているシーンが登場するが、実際にはこの掛け声を使えるのは徳川御三家尾張紀州藩水戸藩は例外で江戸常勤であるため参勤交代はなかった)だけで、ほかの大名家は「よけろ~、よけろ~」という掛け声を用い、一般民衆は脇に避けて道を譲るだけでよかった。

[編集] 比喩としての『大名行列』

江戸時代における大名行列の様子から転じて、組織の幹部を必要以上に大勢の部下が取り囲んで移動するさまをも「大名行列」と揶揄していうことがある。例として『白い巨塔』『ブラック・ジャック』で有名になった、大学病院における教授の回診など。他に、高速道路などで除雪車や極端な低速で走る車に詰まって出来る車の行列をこう呼ぶことがある。

[編集] 外部リンク

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