前田多門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前田 多門(まえだ たもん、1884年(明治17年)5月11日 - 1962年(昭和37年)6月4日)は、日本の政治家、実業家、文筆家。
目次 |
[編集] 経歴
大阪府出身。喜兵衛の長男[1]。立教中学、一高、東京帝国大学卒業後、内務省入省。1916年(大正5年)、後藤新平内務大臣の秘書官に起用され、後藤系の有力官僚となり、1920年(大正9年)、池田宏の後を継いで第2代の内務大臣官房都市計画課長となった[2]。 後藤新平が東京市長に就任すると第1助役は永田秀次郎、第2助役は池田宏、第3助役は前田多門であり、電気局長の長尾半平と合わせて「三田二平」と称された。
1928年(昭和3年)「朝日新聞」論説委員。1938年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、1943年新潟県知事など歴任。
1945年(昭和20年)貴族院議員となり、東久邇内閣の文相に就任、教育改革を推進した。幣原内閣でも留任したが公職追放となった。東京通信工業(後のソニー)社長に就任。
財団法人東京市政調査会、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長等を歴任。
[編集] 家族
長男は大江健三郎の東大時代の恩師でパスカル研究者のフランス文学者の前田陽一。
長女は精神科医の神谷美恵子。
次女勢喜子は、ソニー第2代社長井深大の妻だったが長年別居を経て多門の没後に離婚している(息子の井深亮「父 井深大」ごま書房に詳しい)。
[編集] 著書
- 国際労働 岩波書店 1927
- 地方自治の話 朝日常識講座 朝日新聞社 1930
- 公民の書 選挙粛正中央聯盟 1936
- 新渡戸博士追憶集 高木八尺共著 故新渡戸博士記念事業実行委員, 昭11
- アメリカ人の日本把握 育生社 1940 (新世代叢書)
- 山荘静思 羽田書店 1947
[編集] 翻訳
ジョン・ウールマン 警醒社 1914 積極修養と消極修養 ヒユー・ブラツク 実業之日本社 1914
[編集] 関連人物
- 永田秀次郎・池田宏 - 前田とともに後藤新平東京市長の補佐役として「畳」と称された。畳の由来は"畳"の旧字体(ワ冠の上に3つの"田"の字が乗っかっている)をもじって、3人の補佐役がいずれも名前の中に"田"の字を含んでいることによる。
- 田島道治 - 宮内庁長官、前田と同じく初期のソニーに会長職で参画した。
- 三谷隆信 - 侍従長、前田も含めた三名とも新渡戸稲造門下
- 新渡戸稲造及び内村鑑三の門下生
- 田中耕太郎 - 文部大臣、最高裁長官
- 南原繁 - 戦後改革での両者との関係は、今日大いに議論されている。
[編集] 参考文献
- 『第廿一版 人事興信録 下』昭和36年(1961年)、ま一六
- 『政治家人名事典』1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、479頁
- 『前田多門 その文・その人』同刊行会、1963年
- 黒沢英典『戦後教育の源流を求めて 前田多門の教育理念』内外出版、1982年
- 越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』ちくま新書、平成23年(2011年)。169-170、192-193頁。ISBN 978-4-480-06639-8
- 前田多門「序」、『財団法人東京市政調査会四十年史』東京市政調査会、昭和37年(1962年)
[編集] 脚注
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 松村謙三 (兼任) |
第59代:1945 - 1946 |
次代: 安倍能成 |
| 先代: 土井章平 |
官選第36代:1943 - 1945 |
次代: 町村金五 |