小松原英太郎

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小松原 英太郎
こまつばら えいたろう
勲一等太極章を佩用した小松原英太郎
生年月日 1852年3月6日
嘉永5年2月16日
出生地 日本の旗 備前国御野郡
没年月日 (1919-12-26) 1919年12月26日(67歳没)
出身校 慶應義塾大学
前職 山陽新報社長
称号 従二位
勲一等旭日大綬章
勲一等太極章

日本の旗 農商務大臣(臨時兼任)
内閣 第2次桂内閣
在任期間 1910年3月28日 - 1910年9月3日

日本の旗 第21代 文部大臣
内閣 第2次桂内閣
在任期間 1908年7月14日 - 1911年8月30日

選挙区 貴族院勅選議員
在任期間 1900年3月10日 - 1916年1月15日
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小松原 英太郎(こまつばら えいたろう、嘉永5年2月16日1852年3月6日〉 - 大正8年〈1919年12月26日)は、戦前官僚政治家錦鶏間祗候枢密顧問官埼玉県知事静岡県知事長崎県知事司法次官内務次官文部大臣農商務大臣貴族院勅選議員東洋協会会長、皇典講究所長、大阪毎日新聞社社長、日華学会長、斯文会会長、國學院大學学長、内務省警保局長等、ベルリン公使館駐在を歴任。 拓殖大学第2代学長。

位階勲等従二位勲一等

略歴[編集]

新聞記者として[編集]

備前国御野郡青江村(現、岡山県岡山市青江)生まれ。

問屋の小松原荘二の長男として生まれる。家は代々農家であったが、父親が鰻を商売にして成功を収めたと言われている。小松原家は岡山藩のより士族の身分を受けて藩校句読教師に挙げられ、20俵11人扶持を給与されている。幼年より兄・小松原清造から四書五経等の漢学を学び、傍ら小説伝記等に親しむ。兵学館にて慶應義塾からの派遣教師・岡野松三郎のすすめにより、明治7年(1874年)に上京して慶應義塾(後の慶應義塾大学)に入学。政治経済を研究し、明治8年(1875年)、末広鉄腸の紹介で『曙新聞』、『評論新聞』に執筆。明治9年(1876年)、「圧制政府転覆すべし」という標題の過激な政権批判の論説を掲載して新聞紙条例違反により逮捕。西南戦争以後2年間、獄中生活を送る。明治11年(1878年)、釈放され、朝野新聞社へ入社。明治12年(1879年)、岡山県で『山陽新報』を発行。慶應義塾出身者の社交倶楽部「交詢社」に入社。更に、興亜会の発会と同時に支那語学校経営に乗り出す。

官吏への転身[編集]

明治13年(1880年)、父の死をきっかけに留学を目的として同郷の花房義質の推薦により外務省入り。外務卿井上馨に認められて外務省御用掛として出仕。駐独公使館外務書記官となり、明治17年(1884年)から明治20年(1887年)までベルリン駐在(肩書きはベルリン公使館書記官)。ドイツ滞在中にヴィルヘルム1世より赤鷲三等勲章を受章。

帰国後に内務省に異動となり山縣有朋の信頼を受けて内務大臣秘書官兼参事官、埼玉県知事内務省警保局長静岡県知事長崎県知事、明治31年(1898年司法次官、明治32年(1899年内務次官などの職を歴任する。この間第2回総選挙では内務省警保局長として内務大臣・品川弥二郎と共闘して有名な選挙干渉を指揮した。明治33年(1900年)3月10日より貴族院勅選議員[1]1916年1月15日まで在任[2])。明治35年(1902年)6月13日、錦鶏間祗候となる[3]。更に1900年から明治36年(1903年)まで大阪毎日新聞社の社長を務める。

文部行政への貢献[編集]

明治41年(1908年第2次桂内閣文部大臣および農商務大臣臨時代理に就任。韓国皇帝より勲一等太極章を受章。明治43年(1910年)、「図書館設立ニ関スル訓令」を公布。明治44年(1911年)、「高等中学校令」(勅令第217号)を公布。大正元年(1912年)、「図書館管理法」を公布。明治45年(1912年)から大正8年(1919年)まで東洋協会専門学校(後の拓殖大学)第2代学長を務める。

文部大臣としては南北朝正閏問題大逆事件後の処理をはじめ、仮名遣い改正問題や東京高等商業学校における「申酉事件」の処理などにあたった。小松原は高等商業学校の単科大学への昇格案には、一貫して否定的であった。更に次のように力説した。

日露戦争後の社会の風潮は、「浮華軽佻」に傾き、学生、生徒もこれに「感染」して、贅沢、無規律、無節制、「師父」に仕え「長上を敬う」師道の衰退、「學校騒動」、「不健全」な小説、雑誌、「劣情」を生んでいる。

また、図書館の普及を目指して「図書館設立ニ関スル訓令」を公布して全国に図書館の設置を奨励したが、小松原及び文部省の意図は図書館は「国民教化」を目指すものであり図書館そのものの向上よりも統制を図ったものとして、図書館界との対立を招くことになる。更に中学校高等学校ギムナジウム化を目指して中等科4年・高等科3年の7年制の高等学校設立を計画するが、枢密院などの反対によって骨抜きにされた「高等中学校令」制定に留まりそれすらも小松原の辞任後に施行中止とされた。小松原の計画は臨時教育会議を経て大正6年(1917年)の高等学校令改正(翌年公布)で実現化される。臨時教育会議で小松原を高等普通教育に関する部会に配属して議論を主導させたのは、小松原の無念を知る当時の文部次官であった岡田良平文部大臣の配慮であったという。

晩年[編集]

大正5年(1916年)から死去まで枢密顧問官を務める。

晩年は「牛先生」との異名でその温厚篤実ぶりから郷里の人々から慕われたが、かつての自由民権派からは運動を裏切って政党弾圧に奔った裏切者として嫌悪する向きがあった。犬養毅は小松原の社会主義弾圧政策に対して「危険思想、危険思想といつて何もそんなに懼るるには足らぬ。かの小松原君の如きはその青年時代には極端な過激思想家であつたが、今日はまた斯の如くに穏健著実になつてゐるではないか」と皮肉を込めた批判をしている。

栄典・授章・授賞[編集]

拓殖大学総長時代の小松原
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第5005号、明治33年3月12日。
  2. ^ 『官報』第1035号、大正5年1月17日。
  3. ^ 『官報』第5682号、明治35年6月14日。
  4. ^ 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
  5. ^ 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
  6. ^ 『官報』第3737号「叙任及辞令」1895年12月11日。
  7. ^ 『官報』第5234号「叙任及辞令」1900年12月11日。
  8. ^ 『官報』第8424号「叙任及辞令」1911年7月21日。
  9. ^ 『官報』第2221号「叙任及辞令」1919年12月27日。
  10. ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
  11. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
  12. ^ 『官報』第5962号「叙任及辞令」1903年5月20日。
  13. ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
  14. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  15. ^ 『官報』第2041号「叙任及辞令」1919年5月26日。
  16. ^ 『官報』第1188号「叙任及辞令」1887年6月16日。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

公職
先代
菊池大麓
日本の旗 教科用図書調査委員会会長
1917年 - 1919年
次代
山川健次郎
会長事務取扱
先代
牧野伸顕
日本の旗 文部大臣
第21代:1908年 - 1911年
次代
長谷場純孝
先代
大浦兼武
日本の旗 農商務大臣
臨時兼任:1910年
次代
牧野伸顕
先代
松平正直
内務次官
日本の旗 内務総務長官
1900年
内務次官
1899年 - 1900年
次代
大森鍾一
先代
松平正直
日本の旗 東京市区改正委員長
日本の旗 神職試験委員長

1899年 - 1900年
次代
大森鍾一
先代
桧垣直枝(→廃止)
警官練習所長
日本の旗 警察監獄学校
1899年 - 1900年
次代
大森鍾一
先代
(新設)
日本の旗 港湾調査会会長
1900年
次代
大森鍾一
先代
中村弥六
日本の旗 司法次官
1898年 - 1899年
次代
波多野敬直
その他の役職
先代
(新設)
日華学会会長
1918年 - 1919年
次代
渋沢栄一
先代
杉孫七郎
斯文学会会長
斯文会会長
1918年 - 1919年
斯文学会会長
1917年 - 1918年
次代
徳川家達
先代
香川真一
閑谷保黌会理事長
1901年 - 1908年
次代
小野楨一郎
先代
原敬
大阪毎日新聞社社長
1901年 - 1903年
次代
本山彦一