三島由紀夫

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三島 由紀夫 (1956年)
三島 由紀夫 (1956年)
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三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名・平岡公威1925年1月14日 - 1970年11月25日)は、戦後日本を代表する小説家戯曲家。昭和45年11月25日、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し、割腹自殺を遂げ、世間を騒然とさせた(三島事件)。

代表作は小説に『仮面の告白』、『禁色』、『金閣寺』、『潮騒』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。ペンネームの三島は日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある。唯美的な作風で知られる。三島の著作権管理は酒井著作権事務所が一括管理している。三島作品の著作権は現行法では2020年に失効する。

目次

[編集] 生涯

[編集] 出自

三島由紀夫、本名・平岡公威(ひらおかきみたけ)は、1925年1月14日東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれる。「公威」の名は祖父定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者古市公威から取られた。兄弟は、妹・美津子(1928年 - 1945年)、弟・千之1930年 - 1996年)。

父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。

母・倭文重は金沢藩主、前田家儒者橋家出身。東京開成中学校の5代目校長、漢学者橋健三の次女。

祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業し内務官僚となり、福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した人物。

祖母・夏子は、父・大審院判事永井岩之丞と母・常陸宍戸藩藩主松平頼徳側室との間にもうけた娘・高の間に生まれた長女で、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えている。

公威と永井荷風は祖母・夏子の実家を通じて遠い親戚に当たる。また、父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は彼のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。

[編集] 幼少年期[1925(大正14)年~1940(昭和15)年]

公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味をふくむ過保護な教育をおこなった。 男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使わせたという。家族の中で夏子はヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。

また夏子は、歌舞伎泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。

1931年に公威は、学習院初等科に入学する。当時の学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。

高学年時から、同学友誌『輔仁会雑誌』に俳句を発表する。当時の綽名はアオジロ。虚弱体質で青白い顔をしていたことに由来する。しかし初等科6年の時、校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」と迫ったところ、それは貧弱な体格に比べて意外な偉容を示していたため、からかった側が思わずたじろいだという[1]

1937年中等科に進むと文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い、文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。1938年には『輔仁会雑誌』に、最初の短篇小説「酸模〔すかんぽ〕-秋彦の幼き思ひ出」と「座禅物語」が掲載された。1939年、祖母・夏子が他界。また同年第二次世界大戦が始まった。またこのころ、生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会う。学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。1940年、アオジロをもじってみずから平岡青城の俳号を名乗り、『山梔〔くちなし〕』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風をほうふつとさせる、詩「凶ごと」を書いた。このころの心情は、のちに短篇「詩を書く少年」に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。このころオスカー・ワイルドジャン・コクトーリルケトーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン小泉八雲)、伊東静雄森鴎外、そして『万葉集』や『古事記』などの古典文学も愛読した。

[編集] 戦時下の思春期[1941(昭和16)年~1945(昭和20)年]

1941年、公威は『輔仁会雑誌』の編集長に選ばれる。小説「花ざかりの森」を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水は、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。なお、同人は蓮田善明池田勉栗山理一など、斉藤清衛門下生で構成されていた。この時、筆名「三島由紀夫」を初めて用いる。また清水に連れられて日本浪曼派の小説家・保田與重郎(やすだよじゅうろう)に出会い、以降、日本浪曼派や蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を発表する。

1942年、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科文科乙類(独語)に進学。独語ロベルト・シンチンゲルに師事。体操物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。同人誌『赤絵』を東文彦徳川義恭と創刊する。

1943年、詩人・林富士馬を知り、以降親しく交際する。また同年に東文彦が死去し、『赤絵』は2号で廃刊となった。東文彦との友情は『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社)に詳しい。弔辞は三島が読み上げた。

1944年、学習院高等科を首席で卒業。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝領する。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・平岡梓の勧めにより東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ團藤重光助教授から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了され、後にこの修得した論理性が小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨自ら回顧している。また、息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年このことを三島は父に感謝するようになった。

出版統制の中、「この世の形見」として小説・『花ざかりの森』刊行に奔走。1944年10月に出版された。

本籍地の兵庫県加古川市(旧印南郡加古川町)で徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。この頃大阪の伊東静雄宅を訪れるも、伊東から悪感情を持たれる。

1945年、群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員。総務部配属で事務作業しつつ「中世」を書き続ける。2月、入営通知を受け取り、遺書を書く(小泉製作所は1945年2月25日以降壊滅するまで米軍のB29による主要目標となって徹底的な爆撃を受け、多数の動員学生が死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。本籍地で入隊検査を受けるが、折からひいていた気管支炎軍医胸膜炎と誤診し、即日帰郷となる。偶然が重なったとはいえ、徴兵逃れとも受け取られかねないこの自らの戦争に対する消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観)を抱かせることになる。この頃『和泉式部日記』や上田秋成などの古典、イェーツなどを濫読し、保田與重郎を批判的に見るようになった。『エスガイの狩』などを発表。戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した「岬にての物語」を起稿する。

1945年8月15日、日本は第二次世界大戦に敗戦。「感情教育の師」として私淑していた蓮田善明マレー半島陸軍中尉として終戦を迎えながら、8月19日に軍用拳銃で自決。10月23日には妹・美津子が17歳の若さでチフスにかかり急逝する。

この頃、後に『仮面の告白』に描かれる初恋の女性(三谷邦子三谷隆信の娘、三谷信の妹。のち銀行員と結婚し鮎川純太の伯母となる女性)とも別れている[要出典]

東文彦作品集』(1971年刊)の序文で、東との交友を振り返りつつ、当時を「文学に集中できたむしろアリストテレス的静的な時代」であったと自ら回顧している。

[編集] 文壇デビューと『仮面の告白』[1946(昭和21)年~1951(昭和26)年]

1946年鎌倉に在住していた小説家・川端康成の下を尋ね、「中世」「煙草」を渡す。当時「鎌倉文庫」の幹部であった川端は、雑誌『人間』に「煙草」の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた『岬にての物語』が雑誌『群像』に掲載される。

1947年1月、太宰治亀井勝一郎を囲む集いに参加。この時、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身の解説によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の野原一夫によれば、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけた、という。

1947年11月、東京大学法学部卒業。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、健康上の理由により不採用となった。しかし高等文官試験には合格し(成績は167人中138位)、一時宮内省入省の口利きがあったものの、結局は父梓の慫慂により大蔵省事務官に任官。同じく学習院から東大(その後学徒動員)を経て大蔵省入りした先輩に橋口收、入省同期に長岡實がいる。銀行局国民貯蓄課に配属されるが(上司に福田赳夫愛知揆一がいた)、以降も小説家としても旺盛な創作活動をおこなう。初の長編「盗賊」を発表する。この頃、小説家・林房雄と出会う。

1948年、『近代文学』の第二次同人拡大に際し、参加する(この件りは『私の遍歴時代』に詳しく叙述)。また、河出書房の編集者坂本一亀より書下ろし長編の依頼を受け、役所勤めと執筆活動の二重生活による無理が祟って渋谷駅ホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には、創作に専念するため大蔵省を退職した(この転落事故が原因で、官僚を辞め作家に専念することを父の梓からようやく許可される)。

1949年7月、書き下ろし長編小説『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーショナルを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年に、『禁色』を1951年に発表。戦後文学の旗手として脚光を浴び、旺盛な活動を見せた。また、この年の5月に「小説(禁色)に出てくるルドンという店はどこにあるのでしょうか」という手紙を送った当時学生の福島次郎と翌月に性的な関係をもった。三島はこの時に福島を両親に「ぼくの外の仕事を一寸手伝ってくれる福島君」と紹介している。1951年12月には朝日新聞特別通信員として世界一周旅行へ出発した(この世界一周旅行の実現には、父梓の一高・東京帝大時代の同期である嘉冶隆一が尽力したとされる。翌年8月帰国)。

[編集] 自己改造と『金閣寺』[1952(昭和27)年~1957(昭和32)年]

世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」「肉体」「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼした。帰国後の1955年頃から、三島はボディビルを始めるなど「肉体改造」に取り組んだ。また、古典的文学、特に森鴎外に注目するなどして、「文体改造」もおこなった。その双方を文学的に昇華したのが、1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした長編小説『金閣寺』(1956年)である。この作品は三島文学の代表作となった。

また、この時期の三島は、三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)をはじめ、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字通り文壇の寵児となる。また同時期に『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲の発表も旺盛におこない、文学座をはじめとする劇団でみずから演出、出演もおこなった。

[編集] 世界的評価と『鏡子の家』[1958(昭和33)年~1964(昭和39)年]

1959年、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが、本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男はこれを「最高傑作」と評価したが、平野謙江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている。また、同年1月には『文章読本』を『婦人公論』に発表している。

その後、文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇や『百万円煎餅』(1960年)、『憂国』(1961年)、『剣』(1963年)などの短篇小説、『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。

私生活では、1958年に日本画家・杉山寧の長女瑤子と結婚。大田区南馬込ビクトリアコロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、その充実ぶりを謳歌する一方、『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年~)での敗訴(後、原告有田八郎の死去に伴い和解)や、深沢七郎風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、数ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる(1961年)など、様々なトラブルにも見舞われた。この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟の平岡千之の推測がある。

『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(喜びの琴事件、1963年)など、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与したが、このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりを持つことはなかった。1962年には既に後の『豊饒の海』の構想が固まってもいる。

この頃よりボディビルに加えて剣道を始める。永田雅一の肝煎りで大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演したり(1960年)、写真家細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルになる(1963年)など、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。

またこの時期は、三島文学が翻訳を介してヨーロッパアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多くおこなわれた(世界各国への三島文学紹介者として、ドナルド・キーンエドワード・サイデンステッカーなどが著名)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。

[編集] 楯の会と『豊饒の海』[1965(昭和40)年~1970(昭和45)年]

自らライフワークと称した四部作の小説・『豊饒の海』の第一部『春の雪』が1965年から連載開始された(~1967年)。同年、戯曲『サド侯爵夫人』も発表。ノーベル文学賞候補として報じられ、以降引き続き候補としてその名が挙げられた。

同時期に自ら主演・監督した映画作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年~1968年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。

1966年12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループとの親交を深めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年にはその最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、航空自衛隊ロッキードF-104戦闘機への搭乗や、『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊幹部の山本舜勝とも親交した。政治への傾斜と共に『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。同年9月、インドタイなどへ旅行。その時の体験は後『暁の寺』に結実[2]

1968年、『豊饒の海』第三部『暁の寺』(~1970年)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。同年11月3日、『論争ジャーナル』グループを中心に民兵組織「楯の会」を結成する。1969年、戯曲『椿説弓張月』・『癲王のテラス』を発表。東大全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦らと国家天皇などについて激論を交わす。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演し、勝新太郎石原裕次郎仲代達矢らと共演。同年楯の会の運営資金の問題をめぐり『論争ジャーナル』グループと決別し、楯の会に残った日本学生同盟森田必勝らは後の三島事件の中心メンバーとなる。

1970年11月25日陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監部の総監室を森田必勝ら「楯の会」メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後割腹自殺した(三島事件)、45歳没。決起当日の朝、担当編集者(小島千加子)の手に渡った『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(1970年夏には既に結末部は脱稿していたが、日付は11月25日と記載)が最後の作品となった。戒名は彰武院文鑑公威居士。

[編集] 略年譜

  • 1925年(大正14年) 東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に生まれる。本籍地は兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市)。
  • 1931年(昭和6年) 学習院初等科に入学。成績は中の下。
  • 1937年(昭和12年) 学習院中等科に進む。成績、急に上昇する。同学友誌『輔仁会雑誌』に誌「秋二編」が掲載される。坊城俊民と出会う。
  • 1938年(昭和13年) 『輔仁会雑誌』に、最初の短篇小説「酸模〔すかんぽ〕」「座禅物語」が掲載される。国語教師として赴任した清水文雄と出会う。オスカー・ワイルドジャン・コクトーを愛読する。
  • 1940年(昭和15年) 詩人川路柳虹に師事する。詩「凶ごと」を書く。東文彦と出会う。伊東静雄を愛読する。
  • 1941年(昭和16年) 「花ざかりの森」を『文芸文化』(同人は、清水文雄、蓮田善明、池田勉、栗山理一ら、斉藤清衛門下生)に掲載。文学をやることについては父平岡梓から猛反対を受けていたため、小説掲載が父に露見せぬよう「三島由紀雄」という筆名を名乗ろうと考えたが、「由紀雄という字面は重過ぎる」との清水の判断で「三島由紀夫」を初めて名乗る。『輔仁会雑誌』編集長となる。保田與重郎と出会う。
  • 1942年(昭和17年) 席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊。
  • 1943年(昭和18年) 林富士馬を知る。東文彦死去。
  • 1944年(昭和19年) 高等科を首席で卒業。東京帝国大学法学部法律科独法入学。『花ざかりの森』刊行。徴兵検査第2乙種合格。
  • 1945年(昭和20年) 「中世」「エスガイの狩」発表。
  • 1946年(昭和21年) 川端康成の推薦で、川端創刊の文芸誌『人間』に短篇「煙草」を発表。『群像』に短篇「岬にての物語」を発表。
  • 1947年(昭和22年) 東京大学法学部卒業。ちなみに法学部での三島の成績は次席であり[要出典]、首席は共産主義者の飯田桃である。高等文官試験に合格。席次は167人中138位。大蔵省事務官に任官。「盗賊」発表。
  • 1948年(昭和23年) 椎名麟三梅崎春生武田泰淳安部公房らとともに『近代文学』の同人となる。創作に専念するため、大蔵省を依願退職。
  • 1949年(昭和24年) 書き下ろし長編『仮面の告白』を発表。高い評価を得て作家の位置を確立する。
  • 1950年(昭和25年) 書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を発表。
  • 1951年(昭和26年) 『禁色』を発表。朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発(翌年8月帰国)。
  • 1954年(昭和29年) 『潮騒』を発表。ベストセラーに。新潮社文学賞受賞。
  • 1955年(昭和30年) ボディビルを始める。以降、生涯続ける。
  • 1956年(昭和31年) 『金閣寺』(翌年、読売文学賞受賞)『近代能楽集』『永すぎた春』、戯曲『鹿鳴館 (戯曲)』を発表。文学座に入団。ボクシングを始める(~1958年ごろまで)。
  • 1957年(昭和32年) 『美徳のよろめき』発表。ベストセラー。“よろめき”は流行語に。
  • 1958年(昭和33年) 画家杉山寧の娘、瑤子と結婚。結婚に際しては、平岡家の祖先が被差別身分だったとの噂を聞きつけた杉山家から身元調査を受けた。本籍兵庫県印南郡志方町上富木から東京都目黒区緑ヶ丘に移す。剣道を始める。
  • 1959年(昭和34年) 書き下ろし長編『鏡子の家』、随筆集『文章読本』を発表。
  • 1960年(昭和35年) 『宴のあと』発表。大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演。
  • 1961年(昭和36年) 『憂国』『獣の戯れ』発表。嶋中事件が起き深沢七郎の推薦者として右翼から脅迫を受け警察の護衛がつく。『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。
  • 1962年(昭和37年) 『美しい星』発表。
  • 1963年(昭和38年) 『午後の曳航』『剣』発表。『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団(喜びの琴事件)。朝日新聞紙上にて『文学座の諸君への公開状~「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。
  • 1964年(昭和39年) 『絹と明察』発表。前年の事件に関連して文学座を退団した役者らが、「グループNLT」(劇団NLT)を結成。三島は顧問に就任する。
  • 1965年(昭和40年) 『サド侯爵夫人』発表。『豊饒の海』第一部『春の雪』連載開始。主演・監督作品『憂国』撮影、翌年上映。ノーベル文学賞有力候補に。
  • 1966年(昭和41年) 『英霊の聲』発表。林房雄と対談し、『対話・日本人論』として出版される。
  • 1967年(昭和42年) 第二部『奔馬』連載開始。自衛隊に体験入隊する。F104戦闘機に試乗する。「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。空手を始める。
  • 1968年(昭和43年) 第三部『暁の寺』連載開始。「楯の会」結成。中村伸郎南美江村松英子らと「NLT」を退団し、劇団「浪曼劇場」を旗揚げ、『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』などを上演。
  • 1969年(昭和44年) 『文化防衛論』発表。東大全共闘主催の討論会に出席。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。
  • 1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決する。

[編集] 三島事件

1970年11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰」であった。総監・益田兼利陸将と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、追い出した。その中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた者もいた。

三島自身が自衛官と、詰めかけたマスコミ陣に向けて30分間演説することを要求してそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をしたが、自衛官達からは「昼食の時間なのに食事ができない」と言う不満や、総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ、さらには三島の演説の内容へついての反撥も強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」、「何考えてんだ、バカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げた[3](三島はマイクを用意していなかった。この悲痛な光景を、テレビで見た作家の野上弥生子は、後に「三島さんに、マイクを差し上げたかった。」と述懐している。堤堯談。)。そして森田必勝らと共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、三島は恩賜のたばこを吸い総監室で上半身裸となり、「ヤァァッ!」と叫び自身の腹に短刀を突き立て、介錯の刃により絶命した(この時、介錯人の森田は手の震えでうまく首を斬れず、古賀が代わって担当した)。

自衛隊員たちに撒いた檄文には、戦後民主主義日本国憲法の批判、そして安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。また、三島はこれらの檄文と遺書を「楯の会」の会員を通じてNHK記者の伊達宗克サンデー毎日記者の徳岡孝夫に託していた。

日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲

『日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞』

と断じていた。演説で、三島は自衛官らに、「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。

自殺の原因には諸説が挙げられるが、その一つとして考えられるのが、自身の「老い」への恐怖である(実際、三島は「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と友人に語っている)。新潮社の担当編集者だった小島千加子に対しては「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と語っていた[4]

もう一つの理由として挙げられるのは、ヒロイズムつまり英雄的自己犠牲に対するマゾヒスティックな憧れである。三島は、1967年元旦に「年頭の迷い」と題して『読売新聞』に発表した文章のなかで、「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」と述べている。

また、もう一つの理由として挙げられるのは、「切腹という行為」そのものに対する官能的なフェティシズムである。そのことは1960年に榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説「愛の処刑」からも明瞭に看取される。

三島が死に急いでいたことは、檄文に元来「昭和四十四年十月二十一日」(国際反戦デーにおける新左翼の暴動が(自衛隊ではなく)機動隊によって鎮圧された日)と書くべきところを「昭和四十五年十月二十一日」と書いていることなどからも伺える。伊達宗克『裁判記録「三島由紀夫事件」』に収録された検事冒頭陳述書によると、三島は古賀浩靖に向かって生前「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたという。

介錯は、森田必勝および古賀浩靖がおこなった。最初は森田が斬りつけたものの二度失敗し刀を曲げてしまい、有段者の古賀に交代してやっと果たせた。警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していた。さらに、舌を噛み切っていたことも報告されている。なお古賀浩靖は服役後、宗教団体・生長の家総裁谷口清超の娘と結婚し、荒地浩靖の名で宗教活動をおこなっている。

また事件後、陸上自衛隊東部方面総監部総監室には、川端康成や当時警察官僚で三島と親しかった佐々淳行が訪れたほか、総監室の外には同じく三島と親しかった石原慎太郎も訪れたものの、現場である総監室には入室しなかった。

[編集] 三島の自衛隊論

三島は、檄文で

自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった

と訴えた。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの際に治安出動がおこなわれなかったことに憤った。 また、檄文では、

諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。…アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう

とも警告した。

なお、三島は、死の年の1月19日21日22日に『読売新聞』に「『変革の思想』とは―道理の実現」という文章を寄せている。そこには、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが余すところなく書かれている。

この中で三島は、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、今の日本は「統治的国家」(行政権の主体)と「祭祀的国家」(国民精神の主体)の二極分化を起こしていると指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問うた。それに合わせて、"現憲法下で"という条件付であるが、

  1. 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で国連警察予備軍を編成し、対直接侵略を主任務とすること、
  2. 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で国土防衛軍を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う、

という提案をおこなっている。なお、国土防衛軍には多数の民兵が含まれるとし、楯の会はそのパイオニアであると主張している。

なお、『文化防衛論』では、天皇が自衛隊に対し儀杖を受けることと連隊旗を下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張していた。

このように、三島が自衛隊に望んでいたことは

  1. 自衛隊の名誉回復
  2. 日米安保体制からの脱却と自主防衛

の2点に集約される。

[編集] 三島の天皇論

一方、三島の天皇への態度は複雑である。

三島は、最後の日の演説や檄文などでは「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』においては「文化概念としての天皇」という概念を主張し、天皇は、宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であるべきだと主張した。

インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、晩年は「天皇というものを『現状肯定の象徴』にするのは絶対にいやだ」(林房雄との対談『対話・日本人論』)などと発言して、天皇イコール「現状否定の象徴」「革命原理」との位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、戦後の象徴天皇制を「週刊誌天皇制」として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼした小泉信三を「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした。

特に昭和天皇に対しては、1970年11月古林尚との対談で「私はむしろ(昭和)天皇個人に対してある意味反感を持っている」と発言している。

その「反感」とは、三島によれば、昭和天皇が

  1. 忠臣たるべき2・26事件の反乱将校らを厳重に処罰させたこと、
  2. いわゆる『人間宣言』により、「神としての天皇のために死んだ」特攻隊隊員らを裏切ったこと、

ことによるものである。

この昭和天皇に対する否定的な感情は、2・26事件三部作の最後を飾る「英霊の聲」で端的に表されている。三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊員のに「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。

高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」、当時の人気歌手を引き合いに出して「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという[5]

もっとも、その一方で、学習院高等科を首席で卒業した際に昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受したことを感慨深く回想しており、1969年5月におこなわれた東大全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)木像のように微動だにしなかった」御姿が大変ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。また、同じ討論集会で三島は「君らが一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば俺は喜んで君らと手をつなぐ(共闘する)のに、いつまで経っても言ってくれないからお互い『殺す、殺す』と言っているだけさ」と言い放ち、全共闘学生を挑発した。

なお、三島の天皇主義的な側面を捉えて、俗に三島を右翼と位置づける傾向がいまだに根強いが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。

[編集] 『宴のあと』裁判

三島は、日本で最初のプライバシー侵害裁判の被告でもある。

1961年3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年9月28日に東京地方裁判所で判決[6]が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。

なお、当初この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、この事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。

[編集] 『三島由紀夫-剣と寒紅』裁判

2000年11月9日、三島由紀夫が作家福島次郎あてに、同性愛関係の内容がつづられた15通の手紙が相続人らの承諾なく「三島由紀夫-剣と寒紅」のなかで公開されたことに対して、「未公表の手紙を小説に掲載したのは著作権侵害」であるとして、三島由紀夫の相続人2人が作家福島次郎氏と出版元の文芸春秋を相手取り、 出版差し止め損害賠償を求めていた民事裁判で、最高裁第1小法廷(大出峻郎裁判長)が一、二審判決を支持し、福島次郎と文芸春秋側の上告を棄却する決定をし被告敗訴が確定した。なお問題の書は、初回10万部を発行するという異例さで、出版社による書店からの回収までに約9万部が販売された。

[編集] その他

  • 男色 1951年5月福島次郎が『禁色』のルドンのモデルとなったゲイバーについて三島に問い合わせたことから愛人(表向きは書生)となった。1952年夏、伊豆にて福島の側から縁を切る形で三島との愛人関係に一旦終止符を打つ。この時のことを三島は深く恨み、『禁色』の第二部である『秘薬』(『群像』1952年8月 - 1953年8月に連載)のなかに「福次郎」という名の卑劣漢を登場させた。福島とは15年後も肉体関係をもっている。
  • 関西弁が大嫌いであり、方言を用いた戯曲を軽蔑した。中村光夫に宛てた1963年9月2日の書簡では「上方へ久々に来てみると、上方言葉は全くいただけず、世態人情、すべて上方風は性に合はず、外国へ来たやうです」と語っている。このことに関しては、夫(平岡定太郎兵庫県出身)を忌み嫌っていた祖母夏子の影響も考えられている。
  • 三島自身は「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」と言っているが[7]、実は中学受験のとき開成中学の入試に、高校受験のとき一高の入試に、就職のとき(健康上の理由で)日本勧業銀行の採用試験に失敗している。三島と開成学園については、母方の祖父(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父(平岡梓)と、祖母夏子の実弟(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。
  • ボディビルを始めるきっかけとして、細身な上に身長が低いこと、さらに胃弱や虚弱体質に悩んでいた三島は、ある週刊誌のグラビアに取り上げられていた玉利斉(早大バーベルクラブ主将)の写真と「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速編集部に連絡を取り、玉利を紹介してもらったことが挙げられる。最初は自宅の庭に玉利を招いて指導を受け、後年は後楽園のトレーニングセンターや、国立競技場のトレーニングセンターにまめに通った。昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたりしていた(このとき三島は顔色を変え部屋から出て行ったとされる)。後年、飛行機で乗り合わせた仲代達矢がボディビルについて尋ねた時「本当に切腹するとき脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えた。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。また、1948年からの友人中井英夫小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会ったとき三島から妙に声をひそめるようにして「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった[8]。なお、最初は10kgしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90kgを挙上したという。
  • 三島の同世代の作家には、星新一遠藤周作など比較的長身の者もいたが、三島は身長163センチと、当時としては平均的であった[9]。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173センチです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた。その新聞記者の身長が173センチだったのに、どう見ても三島のほうが小さかったからである[要出典]
  • 三島はもともと胃が弱く、お茶漬けを何よりの好物としていた。しかし30歳以降はボディビル剣道ボクシングなどで自己鍛錬を重ねて胃弱を克服し、それ以降は好んで脂っこい料理を食べるようになった。好物を問われると、胸を張って「ビフテキ」と答えた。
  • 三島は晩年「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白したほど小市民的幸福を嫌っていたが、その一方で、1965年、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあった[10]
  • 三島由紀夫は日本の作家のなかでも特に海外での評価が高く、監督:ポール・シュレイダー 制作総指揮:ジョージ・ルーカス フランシス・フォード・コッポラにより映画『Mishima: A Life In Four Chapters』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『地獄の黙示録』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていたようである。
  • 三島が監督・脚本・主演全てをおこない、後の自決を予感させるような内容の映画『憂国』は、三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外現存しないとされてきたが、2005年にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。三島と共同で制作した藤井浩明がネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していた。夫人が死去した翌年の1996年に発見されたという。
  • 三島が大蔵省に勤めていた時、その文才を買われて大蔵大臣の国会答弁の原稿を頼まれたことが何度かあったが、いずれも簡潔明瞭すぎて、解釈が1通りしかできず、没にされた(官僚界の常識として、話の内容を幾通りにも解釈できるようにしてできるだけ言質を取られないようにする、というのがある)。挙句の果てには「笠置シヅ子さんの華麗なアトラクションの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのはまことに艶消しでありますが、……」ではじまる原稿を書き、没にされたことがある。
  • 日清製粉社長令嬢の正田美智子(後の皇后)とお見合いをしたと伝えられている。
  • 介錯に使われた自慢の名刀「関の孫六」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った舩坂弘は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。
  • 丸山明宏(美輪明宏)と「黒蜥蜴」で共演した際、キスシーンのリハーサルで美輪は寸止めしたが、「何故しないの?」と三島は不満そうに答えた。妙に思いながらも次のリハーサルで本当にキスをしたものの、「何故もっと長くしてくれないの?」と再び不満を漏らしたという。実は美輪はキスが嫌いであり、この時はとても嫌だったと美輪本人が後に語っている。
  • 忌日憂国忌と呼ばれ、右翼団体重遠社などにより偲ぶ集いが行われる。
  • 日本の作家のなかでも抜群の英語力を誇り、いくつかの英語でのインタビューやスピーチが残されている。特に武士道などの旧来の日本的価値観について解説したものは非常に明快でわかりやすく、評価も高い。
  • カニが大嫌いで、生態はおろか「蟹」という漢字を見ただけで鳥肌をたてたほどだったという。しかしカニの身を食べることは平気で、特に缶詰は、缶の表面のカニの絵さえ見なければむしろ好んだ。
  • 『定本三島由紀夫書誌』(薔薇十字社1971年)によれば、三島は水木しげるつげ義春好美のぼるらの漫画を複数所蔵していたことが明らかになっている。なお、水木について三島は「…「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも、『ガロ』の「こどもの国」や「武蔵」連作では、見るもむざんな政治主義に堕している」と辛辣な評を残す一方、赤塚不二夫に関しては「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。「もーれつア太郎」は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会うという主題の扱いでも共通している」と絶賛しており(「劇画における若者論」)、このことから当時の同世代人の中では三島は相当量の漫画の読み手であったことが窺える。
  • 動物の中では特にを溺愛し、「生き物の中で最も美しいものは、人間。次は馬か猫だろう」(三島由紀夫映画論集成)と述べている。
  • ファッションについては「流行から遅れた物を着るのが好きで、おしゃれに個性は必要ない。同じ物を着てるやつにぶつかると嬉しい」「着物は嫌いで、オレは文士に見えないだろうというのが拘りかな」と語っていた。

[編集] 家族 親族

実家
自家

[編集] 系譜

  • 平岡家 三島は兵庫県加古川市にある平岡家の墓には生涯一度も参らず、作品のなかでは敢えて故郷をとりあげず無視したため、一部からは批判の声もあり地元民の三島に対する評価は高いものでない。三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視しようとしたことには、差別問題が関係しているとする説もある。たとえば梶山季之責任編集『月刊噂』1972年8月号所載「三島由紀夫の無視された家系」がそれである。この記事によると、平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、西神吉村だった。そして、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父・太吉が領主から禁じられているを射るという不祥事を起こし、非人階級に落とされた上で所払いにされたためだというのである。(「真福寺の過去帳には名前のそばに"非人"、"非人の子"、"番人"、"水番"という汚名の肩書もついているが、平岡家の初代である“孫左衛門”の肩にはもちろんそんな濁点は付されていない。記されているものは“しおや”という屋号のようなものである」と、この記事の筆者は述べている。[11])この部落民説は三島が杉山瑤子と結婚した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるが、父梓はこの風説を断固として否定。結局、梓が志方村に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都目黒区に