三島由紀夫
| 三島 由紀夫 (みしま ゆきお) |
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1956年、三島由紀夫
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| 誕生 | 平岡 公威(ひらおか きみたけ) 1925年1月14日 |
| 死没 | 1970年11月25日(満45歳没) |
| 墓地 | |
| 職業 | 小説家 劇作家 |
| 言語 | 日本語 |
| 国籍 | |
| 教育 | 学士(法学) |
| 最終学歴 | 東京大学法学部 |
| 活動期間 | 1938年 - 1970年 |
| ジャンル | 小説 戯曲 評論 随筆 |
| 主題 | 古典美 日本の美 愛国心 |
| 文学活動 | 戦後派 耽美派 |
| 代表作 | 『仮面の告白』(1949年) 『潮騒』(1953年) 『金閣寺』(1956年) 『鏡子の家』(1959年) 『サド侯爵夫人』(1965年、戯曲) 『豊饒の海』(1965年-1970年) |
| 主な受賞歴 | 新潮社文学賞(1954年) 岸田演劇賞(1955年) 読売文学賞(1957年・1962年) 週刊読売新劇賞(1958年) フォルメントール国際文学賞第2位(1963年) 毎日芸術賞(1964年) 文部省芸術祭賞(1965年) |
| 処女作 | 短編小説:『酸模』、『座禅物語』(1938年) 長編小説:『花ざかりの森』(1941年) |
| 配偶者 | 平岡瑤子 |
| 親族 | 松平乗尹(五世祖父) 永井尚志、松平頼位(高祖父) 平岡太吉、永井岩之丞(曾祖父) 平岡定太郎(祖父) 平岡萬次郎(大伯父) 平岡梓(父) 平岡萬寿彦(父の従兄) 平岡千之(弟) |
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影響を受けたもの
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三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家。
目次 |
[編集] 略歴
戦後の日本文学を代表する作家の一人である。晩年は、自衛隊に体験入学し、民兵組織「楯の会」を結成。右翼的な政治活動を行い、新右翼・民族派運動に大きなな影響を及ぼした。
代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『近代能楽集』などがある。批評家が様々に指摘するように、人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、 楯の会隊長として隊員4名共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)に東部方面総監を訪れ、その部屋で懇談中に突然日本刀を持って総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、約一時間後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与えた(詳しくは三島事件を参照)。
筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある。[1]
三島の著作権は酒井著作権事務所が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上[2]。
[編集] 生涯
[編集] 出自
家族 親族も参照のこと。
1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。「公威」の名は祖父定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者古市公威から取られた。兄弟は、妹・美津子(1928年 - 1945年)、弟・千之(1930年 - 1996年)。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。
母・倭文重は金沢藩主、前田家の儒学者橋家出身。東京開成中学校の5代目校長、漢学者の橋健三の次女。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業。卒業後の明治26年(1893年)、武家の娘である永井なつと結婚。内務官僚となり、福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した。
祖母・夏子は、父・永井岩之丞(大審院判事)と母・高(常陸宍戸藩藩主松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えている。
作家永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。つまり、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[3]。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は彼のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。
[編集] 幼少年期
公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味を含む過保護な教育を行った。 男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使わせたという。家族の中で夏子はヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。
1931年(昭和6年)に公威は学習院初等科に入学した。当時の学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。
高学年時から、同学友誌『輔仁会雑誌』に詩や俳句を発表する。当時の綽名は虚弱体質で青白い顔をしていたことから「アオジロ」。しかし初等科6年のとき、校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にズボンの前ボタンを開けて一物を取り出して「おい、見ろ見ろ」と迫ったところ、それは貧弱な体格に比べて意外な偉容を示していたため、からかった側が思わずたじろいだという[4]。
1937年(昭和12年)中等科に進むと文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い、文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。
1938年(昭和13年)には『輔仁会雑誌』に最初の短篇小説「酸模(すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出」と「座禅物語」が掲載された。
1939年(昭和14年)、祖母・夏子が他界。同年第二次世界大戦が始まった。この頃には、生涯の師となり平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会っている。清水が学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。
1940年(昭和15年)、アオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩『凶ごと』を書いた。この頃の心情は、後に短篇『詩を書く少年』に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。この頃オスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』や『古事記』などを愛読した。
[編集] 戦時下の思春期
1941年(昭和16年)、公威は『輔仁会雑誌』の編集長に選ばれる。小説「花ざかりの森」を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水は、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斎藤清衛門下生で構成されていた。このとき筆名・三島由紀夫を初めて用いる。清水に連れられて日本浪曼派の小説家・保田與重郎(よじゅうろう)に出会い、以降、日本浪曼派や蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を発表する。のちに天皇制に関して、深い傾倒を見せることと成り、美的天皇主義(尊皇思想)を、蓮田善明から託された形となった(蓮田は終戦直後に南方にて自決)。同年12月7日に、日本はイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦となった。
1942年(昭和17年)に、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科文科乙類(独語)に進学。独語をロベルト・シンチンゲルに師事、ほかに独語教師は新関良三、野村行一(昭和32年に東宮大夫在職中に死去)らがいた。体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊する[5] [6]。
1943年(昭和18年)、詩人で医師の林富士馬を知り、以降親しく交際する。同年に東文彦が死去し、三島は弔辞[7]を奉げた。『赤絵』は2号で廃刊となった。
1944年(昭和19年)、学習院高等科を首席で卒業。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝受。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・平岡梓の勧めにより東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ助教授であった団藤重光(三島没後の定年後に最高裁判所判事)から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了し、この時修得した法学の論理性が、小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨自ら回顧している。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、帝大文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年このことを三島は父に感謝するようになった。出版統制の中、「この世の形見」として小説・『花ざかりの森』刊行に奔走。1944年10月に出版された。
なお、三島自身は「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」[8]と書いてはいるが、実は中学受験のとき開成中学の入試に、高校受験のとき一高の入試に、就職のとき(健康上の理由で)日本勧業銀行の採用試験に失敗している。三島と開成学園については、母方の祖父(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父(平岡梓)と、祖母夏子の実弟(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男はお茶の水女子大学附属小学校卒業後、中学から開成に学んでいる[9]。
本籍地の兵庫県加古川市(旧・加古郡加古川町)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの米俵を持ち上げるなどの検査もあった。自著の「仮面の告白」によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立って採られないですむかもしれない」という父の入れ知恵であったが、結局は合格し、召集令状を受け取ったものの風邪をこじらせて入隊検査ではねられ帰郷したとある。同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。この頃大阪の伊東静雄宅を訪れるも、伊東からは悪感情を持たれ、日記に悪し様に書かれた。
1945年(昭和20年)、群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員。総務部配属で事務作業しつつ『中世』を書き続ける。
2月に入営通知を受け取り、遺書を書く(小泉製作所は1945年2月25日以降、アメリカ軍の爆撃機による主要目標となって徹底的な爆撃を受け壊滅、多数の動員学生も死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。本籍地で入隊検査を受けるが、折からひいていた気管支炎を軍医が胸膜炎と誤診し、即日帰郷となる。偶然が重なったとはいえ、「徴兵逃れ」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観)を抱かせることになる。
この頃『和泉式部日記』や上田秋成などの古典、イェーツなどを濫読し、保田與重郎を批判的に見るようになった。「エスガイの狩」などを発表。戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した「岬にての物語」を起稿する。
8月15日終戦、第二次世界大戦が終わった。「感情教育の師」として私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えたが、8月19日に軍用拳銃で自決。
10月23日には妹・美津子がチフス(菌を含んだ水道水を誤飲したのが原因)により、17歳の若さで急逝する。
同年暮、後に『仮面の告白』に描かれる初恋の女性(三谷邦子。のちに侍従長となる三谷隆信の娘、親友三谷信の妹。のち鮎川純太の伯母となる女性)が銀行員と婚約し、翌1946年5月5日には両者は結婚。恋人を横取りされる形になった三島は「戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」と書いている[10]。
[編集] 文壇デビューと『仮面の告白』
1946年(昭和21年)、鎌倉に在住していた小説家・川端康成の元を訪ね、短編「中世」、「煙草」を渡す。当時、鎌倉文庫の幹部であった川端は、雑誌『人間』(編集人木村徳三)に「煙草」の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は終生、川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」が文芸雑誌『群像』に掲載される。
1946年12月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加。この時、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身の解説によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の野原一夫によれば、「嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。
1947年(昭和22年)11月、東京大学法学部(旧制)卒業(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、先述の通りの健康上の理由により不採用となった。しかし高等文官試験には合格し(成績は167人中138位)、一時宮内省入省の口利きがあったが、結局は父の強い勧めにより大蔵省事務官に任官。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に橋口収、入省同期に長岡實がいる。銀行局国民貯蓄課に配属されるが(銀行局長に愛知揆一、主計局長に福田赳夫がいた)、以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。初の長編「盗賊」を発表する。この頃、小説家・林房雄と出会う。
1948年(昭和23年)、雑誌『近代文学』の第二次同人拡大に際し参加(この件りは『私の遍歴時代』に詳しい)。河出書房の編集者坂本一亀から書き下しの長編を依頼され、役所勤めと執筆活動の二重生活による無理が祟り渋谷駅ホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には創作に専念するため大蔵省を退職した(この転落事故が原因で、官僚を辞めて作家業に専念することを、ようやく父梓が許可した)。
1949年(昭和24年)7月、書き下ろし長編小説『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年(昭和25年)に、『禁色』を1951年(昭和26年)にそれぞれ発表。戦後文学の旗手として脚光を浴び、旺盛な活動を見せた。
1951年12月には、朝日新聞特別通信員として世界一周旅行へ、旅客船で出発した(この世界一周旅行の実現には、父梓の一高時代の同期である朝日新聞重役の嘉治隆一が尽力した)。北米・南米・欧州を経て、翌年8月に帰国。
[編集] 自己改造と『金閣寺』
世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」「肉体」「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。帰国後の1955年(昭和30年)頃から、三島はボディビルを始めるなど「肉体改造」に取り組み始める。元々痩身で先述の通りの虚弱体質であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった[11]。1948年からの友人中井英夫が小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会った時、三島から妙に声をひそめるようにして「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった[12]。三島の同世代の作家には、星新一や遠藤周作など比較的長身の者もいたが、三島は身長163cmと、当時としては平均的であった[13]。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173cmです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた(その新聞記者の身長が173cmだったのに、どう見ても三島の方が小さかったからである)、との逸話もある。
古典的文学、特に森鴎外に注目するなどして、「文体改造」も行った。その双方を文学的に昇華したのが、1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした長編小説『金閣寺』(1956年)である。この作品は三島文学の代表作となった。
この時期の三島は、三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)をはじめ、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。同時期には『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲の発表も旺盛に行い、文学座をはじめとする劇団で自ら演出、出演も行った。銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で独身時代の皇后美智子と見合いを行ったのもこの時期のことであると考えられている[14]。
1954年「ゴジラ」公開当時、多くの文化人が「ゲテモノ映画」と酷評する中、特撮部分だけでなく内容についても「文明批判の見地がある」など高い評価を与えている。またクラークの「幼年期の終り」を絶賛し、SF同人誌「宇宙塵」に序文を書き、自らもSF性の強い作品である「美しい星」を執筆するなど、当時の文化人には珍しくSFやSF的なものに関心を寄せ、肯定的な評価をしていた。
[編集] 世界的評価と『鏡子の家』
1959年(昭和34年)、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男はこれを「最高傑作」と評価したが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている。同年1月には『文章読本』を『婦人公論』に発表している。
その後、文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇や『百万円煎餅』(1960年)、『憂国』(1961年)、『剣』(1963年)などの短篇小説、『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。
私生活では、1958年(昭和33年)に日本画家・杉山寧の長女瑤子と結婚。大田区南馬込にビクトリア風コロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、その充実ぶりを謳歌する一方、『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年より)での敗訴(後、原告有田八郎の死去に伴い和解)や、深沢七郎『風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、数か月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる(1961年)など、様々なトラブルにも見舞われた。この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟の平岡千之の推測がある。
『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(喜びの琴事件、1963年)など、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与したが、このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかった。1962年(昭和37年)にはすでに後の『豊饒の海』の構想が固まってもいる。
この頃からボディビルに加えて剣道・居合(夢想神伝流)を始める。永田雅一の肝煎りで大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演したり(1960年)、写真家細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルになる(1963年)など、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4か月前にサンケイ新聞夕刊で発表した「果たし得ていない約束」において、「(戦後)二十五年…私はほとんど『生きた』とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」と告白している。
この時期には、三島文学が翻訳を介しヨーロッパやアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、ドナルド・キーンやエドワード・G・サイデンステッカーなどが著名)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。日本国外外での評価が高さを示すこととして、監督:ポール・シュレイダー 制作総指揮:ジョージ・ルーカス フランシス・フォード・コッポラにより映画『Mishima: A Life In Four Chapters』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『地獄の黙示録』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていたようである。ドナルド・キーンは、「三島以前の日本文学者の翻訳は、特殊に研究している人や関心のある人によって読まれていたが、三島の場合は一般の人達まで興味を持って読まれている。『サド侯爵夫人』は古典劇にも近いために、フランスでは地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。[15]イギリスのロックバンド・ストラングラーズも、三島の生き方、作品に着想を得た「Death,Night & Blood (Mishima)」という楽曲を発表している。
[編集] 楯の会と『豊饒の海』
自らライフワークとした四部作の長編『豊饒の海 第一部 春の雪』が、1965年(昭和40年)より『新潮』で連載開始された(1967年まで)。同年、戯曲『サド侯爵夫人』も発表。ノーベル文学賞候補として報じられ、以降も引き続き候補として名が挙がった。三島はノーベル文学賞受賞を期待し、受賞者が発表される当日に羽田空港にVIPルームを予約し報道に備えたが、結局新聞記者は三島のもとには現れず、受賞した川端康成を取り囲んだ[要出典]。
同時期には自ら主演・監督した映画作品『憂国』[16]の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海 第二部 奔馬』(1967 - 68年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。
三島は晩年「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白したほど小市民的幸福を嫌っていたが、その一方で、1965年、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあった[17]。
1966年(昭和41年)12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループとの親交を深めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年(昭和42年)にはその最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、航空自衛隊のロッキードF-104戦闘機への搭乗や、『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊幹部の山本舜勝とも親交した。政治への傾斜とともに『太陽と鉄』、『葉隠入門』、『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。特に文化防衛論においては「近松も西鶴も芭蕉もいない」昭和元禄を冷笑し、自分は「現下日本の呪い手」であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確にした。
同年9月、インド・タイなどへ旅行。そのときの体験は後に『暁の寺』に結実した[18]。
1968年(昭和43年)、『豊饒の海 第三部 暁の寺』(1970年前半まで「新潮」に連載)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。同年11月3日、『論争ジャーナル』グループを中心に民兵組織「楯の会」を結成する。同年8月、43歳時に剣道五段を修得した。
1969年(昭和44年)、曲亭馬琴原作の歌舞伎台本『椿説弓張月』(主演は8代目松本幸四郎)、戯曲『癲王のテラス』(主演は北大路欣也)を発表し上演。
1969年2月11日(建国記念の日)に国会議事堂前で決行された憂国烈士・江藤小三郎青年の壮絶な自決に大きな衝撃を受け、その心情を『若きサムラヒのための精神講話』に記す。5月に東大教養学部で、全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦、小阪修平らと国家・天皇などについて激論を交わした[19]。「もし君らが、『天皇陛下万歳』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに“殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。同年に、映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演(薩摩藩士田中新兵衛役)。勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演した。同年、楯の会の運営資金の問題をめぐり『論争ジャーナル』グループと決別し、楯の会に残った日本学生同盟の森田必勝らは、三島事件の中心メンバーとなった。
1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(三島事件)、45歳没。決起当日の朝に、間接的に担当編集者(小島千加子)へ渡された『豊饒の海 第四部 天人五衰』最終回が遺作[20]となった。介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。友人で葬儀で弔辞を読んだ武田泰淳は、自決する時期は、雑誌『海』に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。三島事件が起こる直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する)が描写されていた。担当編集者だった村松友視は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った。[21]。
翌年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長川端康成、弔辞船橋聖一ほか)が行われ、多くの一般会葬者が参列に来た。戒名は、彰武院文鑑公威居士。現在も忌日には、「三島由紀夫研究会」による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派運動の諸団体が、追悼慰霊祭を行っている。三島を取材した通信社の元記者の取材ノートが、松戸市内の古書店の店主宅から見つかり元記者の長女に返還された。[22]
[編集] 略年譜
- 1月14日 - 東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に生まれる。本籍地は兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市)。
- 4月 - 学習院初等科に入学。
- 1937年(昭和12年)
- 4月 - 学習院中等科に入学。文芸部に入部。
- 1938年(昭和13年)
- 3月 - 『酸模-秋彦の幼き思い出。座禅物語。中一句(短歌四首)。詩-金鈴、光は普く漲り、雨、海、墓場ほか三篇』(『輔仁會雑誌』一六一号)。
- 4月 - 成城高校から清水文雄先生就任。
- 1940年(昭和15年)
- 1月 - 川路柳虹宅を母と訪問。俳句・詩を川路に師事し、平岡青城名で「山梔」に発表。詩作『凶ごと』。
- 12月 - 東文彦、徳川義恭と交友を持つ。
- 1941年(昭和16年)
- 4月 - 『輔仁會雑誌』編集長に選任される。
- 9月 - 『花ざかりの森』(同人誌『文藝文化』四巻九号から十二号まで四回連載)。
- 1942年(昭和17年)
- 3月 - 学習院中等科卒業(席次は2番)。第一高等学校受験不合格。
- 4月 - 学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に入学。
- 7月 - 東文彦、徳川義恭の三人で、同人誌『赤繪』を創刊。
- 1943年(昭和18年)
- 1月 - 『王朝心理文學小史』懸賞論文入選する。
- 6月 - 富士正晴に神田の七丈書院で会う、知己を得る。富士正晴は早速池袋の精神科開業医で詩人林富士馬に電話をして三島を連れて行く。その後林と文学的文通、交際が深まる。
- 夏 - 伊東静雄を訪ねる。
- 1944年(昭和19年)
- 5月 - 本籍地兵庫県印南郡志方村(現加古川市)で徴兵検査を受け、第二乙種に合格。
- 9月 - 学習院高等科を首席で卒業し、宮中に参内し、天皇陛下より恩賜の銀時計を拝受。
- 10月 - 東京帝国大学法学部法律学科(独法)に推薦入学。『花ざかりの森』(処女小説集)七丈書院刊。
- 1945年(昭和20年)
- 1月 - 学徒動員に伴い、東京帝国大学勤労報国隊として群馬県新田郡太田町東矢島寮、11寮、35号室に入る。
- 2月 - 『中世』第一回、第二回(未完)(雑誌「文藝世紀」二月号)
- 8月 - 『エスガイの狩』(雑誌「文藝」五六月合併号)。
- 1946年(昭和21年)
- 6月 - 『煙草』(雑誌『人間』六月号)。
- 11月 - 『岬にての物語』(新人選書)。
- 1947年(昭和22年)
- 11月 - 東京大学法学部法律学科卒業。
- 12月 - 高等文官試験合格。大蔵省大蔵事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務。
- 1948年(昭和23年)
- 3月 - 『盗賊・第五、第六章』完結=擱筆。
- 9月 - 願に依って大蔵省本官を免ぜらる。
- 10月 - 河出書房の同人誌『序曲』の創刊に参加
- 1949年(昭和24年)
- 7月 - 『仮面の告白』(第五回書き下ろし長編)。
- 1950年(昭和25年)
- 6月 - 書き下ろし長編『愛の渇き』。『青の時代』(雑誌『新潮』七月号から一二月号まで連載)。
- 1951年(昭和26年)
- 11月 - 『禁色』〈第一部〉。
- 12月 - 朝日新聞特別通信員として初めての世界旅行(翌年8月帰国)。
- 1954年(昭和29年)
- 6月 - 『潮騒』長編書き下ろし叢書4、11月までに94000部刊行。
- 10月 - 『潮騒』、第1回新潮社文学賞受賞。
- 1955年(昭和30年)
- 9月 - ボディビルを始める。
- 12月 - 『金閣寺』(雑誌『新潮』一月号から十月号まで連載)。
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)
- 1月 - 『金閣寺』第8回読売文学賞受賞。
- 3月 - 『美徳のよろめき』(雑誌『群像』四月号から六月号まで連載)。
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 6月 - 文章読本
- 9月 - 『鏡子の家』書き下ろし長編小説第一部(上巻)第二部(下巻)
- 1960年(昭和35年)
- 3月 - 大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)主演。
- 11月 - 『宴のあと』。
- 12月 - 『憂国』(雑誌『小説中央公論』冬季号)
- 1961年(昭和36年)
- 3月 - 『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。
- 6月 - 『獣の戯れ』(『週刊新潮』6月20日から9月4日号まで連載)。
- 1962年(昭和37年)
- 10月 - 『美しい星』。
- 1963年(昭和38年)
- 9月 - 『午後の曳航』書き下ろし長編。『剣』(雑誌『新潮』十月号)。
- 11月 - 『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団(喜びの琴事件)。朝日新聞紙上にて『文学座の諸君への公開状〜「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。
- 1964年(昭和39年)
- 11月 - 『絹と明察』第6回毎日芸術賞受賞。
- 1965年(昭和40年)
- 4月 - 短編映画『憂国』完成
- 8月 - 『豊饒の海』第一部『春の雪』連載開始。
- 11月 - 『サド侯爵夫人』。
- 1966年(昭和41年)
- 6月 - 『英霊の聲』。
- 1967年(昭和42年)
- 1月 - 第二部『奔馬』連載開始。
- 4月 - 自衛隊に体験入隊する。
- 10月 - 「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。
- 1968年(昭和43年)
- 8月 - 第三部『暁の寺』連載開始。
- 10月 - 「楯の会」結成。
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
[編集] 三島の持論
[編集] 改憲論
三島が楯の回での憲法研究を踏まえて没年に著した『問題提起(日本國憲法)』[23]では、日本国憲法第9条は「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であると断じている。そして同条第2項では自衛権・交戦権およびいかなるすべての戦力の所有を否定しており、それを遵守すれば、日本は侵略されても自衛すら許されないまま「国家として死ぬ」しかない。それではいけないから、政府はいわゆる解釈改憲という「牽強付会の説」を立て、「新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づ」いて自衛隊を創設したと三島は考えた。なお、いわゆる「押しつけ憲法論」について三島は、同条が日本の戦力の所有を徹頭徹尾否定する内容である以上「この詫証文の成立が、日本側の自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない」と距離を置いている。
さらに、改憲に当たっては同条第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき」はずなのに日本国憲法だけがそれを謳うのは「不公平不調和」であり、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、第9条すべての削除を主張した。また同書では、改憲にあたっては第9条のみならず第1章「天皇」の問題と、第20条に関する神道の問題と関連させて考えなければ日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。その上で、日本の体面回復のためには憲法9条を改正し、日米安保を双務条約に改正するだけでは足りず、日本国軍を設立して憲法に「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」という建軍の本義を規定するべきであると主張している。
また三島は、憲法9条について「完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす」と闇市の取締りを引き合いに出して批判し、「戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない」と断じた(「『変革の思想』とは--道理の実現」の一節より)。
三島が自衛隊を違憲だとし、政府の「解釈改憲」を批判したのは以上の論点による。
なお、三島は1969年12月から楯の会の隊員のうち13人を募って「憲法研究会」を発足し、翌1970年1月以降、三島が執筆した「新憲法における『日本』の欠落」「『戦争の放棄』について」「『非常事態法』について」を元に憲法改正案を起草し続けた。結局、三島の死後の1971年2月になって一連の議論の記録及び憲法改正案から成る「維新法案序」を完成[24]、楯の会は同月解散した。この「維新法案序」は産経新聞の2003年11月2日号により初めて紹介された[4]。
[編集] 自衛隊論
上記のように、三島にとって日本の再軍備は日本の存続において不可欠なものであった。『問題提起』でも、「防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。 物理的に言つても、一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることができないならば、その一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない」と、ロン・ノルが「赤化した」シハヌーク国家元首を追放した1970年のクーデターを引き合いに出して日米安保を批判し、日本の自主防衛を訴えている。
三島は、人生最後の日の檄文で、「自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった」と訴えた(同様の趣旨は『問題提起』でも示されている)。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの際に治安出動がおこなわれなかったことに憤った。
檄文では、「諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。…アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」とも警告した。
三島は、没年の1月19日、21日、22日に『読売新聞』に「『変革の思想』とは - 道理の実現」という文章を寄せている[25]。 そこには、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが、余すところなく書かれている。
この中で三島は、「改憲サボタージュ」が自民党政権の体質となっている以上、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、今の日本は「統治的国家」(行政権の主体)と「祭祀的国家」(国民精神の主体)の二極分化を起こしていると指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問うた。それに合わせて、"現憲法下で"という条件付であるが、
- 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で国連警察予備軍を編成し、対直接侵略を主任務とすること、
- 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で国土防衛軍を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う、
という提案をおこなっている。国土防衛軍には多数の民兵が含まれるとし、楯の会はそのパイオニアであると主張している。
『文化防衛論』では、天皇が自衛隊に対し儀仗を受けることと連隊旗を下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張していた。
このように、三島が自衛隊に望んでいたことは以下の2点に集約される。
- 自衛隊の名誉回復
- 日米安保体制からの脱却と自主防衛
[編集] 天皇論
一方、三島の天皇に対する態度は複雑であった。
三島は、最期の日の演説や檄文などでは「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』においては「文化概念としての天皇」という概念を主張し、天皇は、宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であるべきだと主張した。
インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、晩年は「天皇というものを『現状肯定の象徴』にするのは絶対にいやだ」[26]などと発言して、天皇イコール「現状否定の象徴」「革命原理」との位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、戦後の象徴天皇制を「週刊誌的天皇制」(皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味)として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼした小泉信三を、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした。
特に昭和天皇に対しては、「私はむしろ(昭和)天皇個人に対してある意味反感を持っている」と発言している[27]。
その昭和天皇に対する否定的な感情は、2・26事件三部作の最後を飾る『英霊の聲』で端的に表されている。三島は昭和天皇が「昭和の歴史においてただ二度だけ」「人間としての義務(つとめ)において」「神であらせられるべきだった」と批判する。「二度」のケースとは、
であり、三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊員の霊に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。
高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」と発言し、さらに当時の人気歌手を引き合いに出して「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという[28]。
だがその一方で、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、恩賜の銀時計を拝受し昭和天皇に謁見したことを感慨深く回想しており、1969年5月におこなわれた東大全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)木像のように微動だにしなかった」御姿が大変ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。同じ討論集会で三島は「君らが一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば俺は喜んで君らと手をつなぐ(共闘する)のに、いつまで経っても言ってくれないからお互い『殺す、殺す』と言っているだけさ」と言い放ち、全共闘学生を挑発した。
三島は福田恆存との対談[29]において、井上光晴の「三島さんは、おれよりも天皇に過酷なんだね」との評を引用し、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。
その天皇主義的な側面から、三島を右翼と評する向きもあるが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。
長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記(『入江相政日記』)の記述から、昭和天皇自身が三島や三島事件に少なからず意を及ぼしていたのではないかとの指摘がある。[30]
[編集] 漫画に対して
三島は水木しげる、つげ義春や好美のぼるらの漫画を複数所蔵していたことが明らかになっている[31]。水木について三島は「…『宇宙虫』ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも、『ガロ』の『こどもの国』や『武蔵』連作では、見るもむざんな政治主義に堕している」と辛辣な評を残す一方、赤塚不二夫に関しては「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。『もーれつア太郎』は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会うという主題の扱いでも共通している」と絶賛している(晩年の評論より「劇画における若者論」より)。このことから当時の同世代人の中では三島は相当量の漫画の読み手であったことが窺える。
[編集] 裁判
[編集] 『宴のあと』裁判
1961年(昭和36年)3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年(昭和39年)9月28日に東京地方裁判所で判決[32]が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。
当初、この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、この事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。
[編集] 『三島由紀夫-剣と寒紅』裁判
1998年(平成10年)、福島次郎が文藝春秋社から小説『三島由紀夫-剣と寒紅』を発売した。内容は三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものであり、三島から福島に送られた15通の手紙の全文も掲載されているなど話題を呼んだ。ところが、「この手紙を原文のまま著書に掲載したのは著作権侵害」であるとして、三島由紀夫の相続人2人は「著者の福島と出版元である文藝春秋社に出版差し止め、著作権侵害による損害賠償を求めて民事裁判を起こした。
一審、二審ともに「事務的な内容(文藝春秋社側の手紙は実用的な通信文であり著作物にあたらないとの主張)の他、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の人生観などが、文芸作品とは異なる飾らない言葉で述べられている」と三島の自筆の手紙であることが認められ、原告が勝訴した。
2000年(平成12年)、最高裁判所は「著者側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらない」と、福島と文藝春秋側の上告を棄却し、これにより、手紙も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は内容に関しての真偽についてではなかった。当初より異例の初版10万部の発行を行なっており、判決にもかかわらず大半は流通した。
[編集] 家族 親族
出自も参照のこと。
- 実家
- 『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』59-60頁によれば、「祖父の定太郎が永井奈徒と結婚したのは明治二六年、大学を卒業した翌年のことである。何と言っても帝大出の“学士さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”と言われた時代だから、奈徒も不自然なく嫁いできたものと思われる。奈徒は、父は永井玄番頭の嗣子、その母は宍戸藩の松平頼位の娘、松平大炊守の妹というれっきとした名流の士族であった。百姓の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、この時はじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性も激しかった。徳川家重臣の嫡流という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである…」という。
- 明治9年(1876年)6月生 - 昭和14(1939年)1月没
- 野坂昭如の著書『赫奕たる逆光』129-130頁によれば、「明治二六年、なつは満十七で定太郎の妻となった。ほんの二十年前までは、名門の武家の娘と町人、ましてや百姓の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、江戸時代なら直参と陪臣、御目見(おめみえ)以上と以下の縁組もない。士分以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その養女として後、嫁がせた。鹿鳴館時代を過ぎ、教育勅語も発布された。文明開化の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は徳川の枝に連なり、父方のそれは幕府若年寄である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大出とはいえ、卒業は八年おくれているのだ、まことに不自然。」という。
- 梓によれば、「…子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいはトリッペルにとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な坐骨神経痛にかかり、一生を苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの医者のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました。大家族の中における長女たる自分の身分、家柄を過信するプライド、父の天衣無縫の行動、坐骨神経痛等々が重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどいヒステリーになる。この大型台風はたちまち家中をところせましと吹きまくり、その被害や以て想うべしという惨状でした」(『倅・三島由紀夫』)という。
-
- 父・梓(官僚)
- 明治27年(1894年)10月生 - 昭和51(1976年)12月没
- 農林省で梓の7年後輩の楠見義男によれば、「私は蚕糸局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。…入って一か月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”といわれた、「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の岸さんも“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」という[33]。
[編集] 系譜
- 西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)のあばらやのような粗末な家に住む貧農だった[37]が、太吉が領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ、志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)の横山部落に移った。太吉は金貸し業で成功し、平岡家に莫大な利益をもたらした[38]。野坂昭如著『赫奕たる逆光』、125-126頁によれば、「所払い以後、にわかに顕(あら)われた太左衛門の才覚は、太吉に継がれた。…(中略)…農作業は妻にゆだね、太吉は商いと金貸しに打こんだ。丹精こめて作物を育てるより、これを扱って利ざやを稼ぐ、父より手広く金融業を営み、安政四年、太左衛門が病に臥すと、二十数年間掘立小屋につぎはぎして暮した住いを、近隣の眼をそばだてしめる豪邸に建て直した。」という。
- “平岡”姓について、安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房)、15頁によれば、「平岡姓は平岡連、河内国讃良郡枚岡郷(ひらおかごう)か、河内郡枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の名田の名から姓をつけたが明治維新後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『大和物語』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門(たざえもん)から名乗った」という。
孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━利兵衛━利兵衛━太左衛門━太吉┳萬次郎━萬壽彦 ┃ ┃ (三島由紀夫) ┣定太郎━梓┳公威━━━威一郎 ┃ ┃ ┃ ┗千之 ┗久太郎━義一
杉山寧━━瑤子 ┃ 平岡定太郎 ┏平岡公威 ┃ ┃(三島由紀夫) ┣━━平岡梓 ┃ ┃ ┃ ┃ 永井岩之丞━━━夏子 ┣━━┫ ┃ ┃ 橋健三━━━倭文重 ┃ ┗平岡千之 ┃ 近藤三郎━━近藤晋一 ┃ ┃ ┏夏美 ┣━━━┫ (14代) ┃ ┗久美 竹中藤右衛門━━┳寿美 ┃ ┣竹中宏平━━竹中祐二 ┃ ┃ ┗竹中錬一 ┃ (元首相) ┃ ┃ 米内光政━━━━和子 ┃ ┃ (元首相) ┃ 竹下登━━━━公子
- 永井家(永井氏系譜(武家家伝))
安藤武『三島由紀夫「日録」』(夏目書房)、7-8頁によると、
- 永井尚志は、松平乗真(奥殿藩初代城主)から五代乗尹の子として文化3年(1806年)11月3日に誕生。すでに六代を養子乗羨に家督を定めた後に二男として生まれた。25歳の時、旗本の永井尚徳の養子となった。安政2年(1855年)玄蕃頭。徳川幕府海軍創設に甚大な貢献をなし、安政5年7月外国奉行、安政6年2月軍艦奉行、文久2年(1862年)8月京都町奉行。京摂の間、坂本龍馬等志士とも交渉を持った。元治元年(1864年)大目付。慶応3年(1867年)若年寄、慶応4年(1868年)8月榎本武揚と共に函館に走り、函館奉行となる。維新後は、明治8年(1875年)に元老院権大書記官。明治24年(1891年)7月1日没、享年76歳。
- なつの父永井岩之丞は、弘化3年(1846年)幕臣三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志の養子となる。函館五稜郭で父と共に戦う。維新後、明治6年(1873年)司法省十等出仕を命ぜられ、明治13年(1880年)5月判事。明治16年(1883年)1月控訴院判事。明治27年(1894年)4月大審院判事。明治40年(1907年)5月25日没、享年62歳。」
┏良将 桓武天皇━葛原親王━高見王━平高望┫ ┗将兼━公雅━致頼━致經━致房━行致(長田の祖)━政俊┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ 由利姫 ┃ ┃ ┃ ┣正直━直隆━正似━正治┓ ┃ ┃ ┃ ┗(六代略)━直重━白広━重広━(養子)広正━長田重元━直勝 ┏━━━━━━━━┛ ┃ ┗正次━(五代略)━匡威 ┃ (永井荷風祖父) ┣尚政━(三男)尚庸━直敬┓ ┃ ┃ ┃ ┃ 阿部正勝息女 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗(五男)尚方━尚恕━尚友━尚徳━(養子)尚志━(養子)岩之丞 ┣━━━なつ 高 ┣━平岡梓━━平岡公威 平岡定太郎 (三島由紀夫)
[編集] 兵庫県と三島由紀夫
三島は兵庫県加古川市にある平岡家の墓には生涯一度も参らず、多くの作品でも敢えて故郷をとりあげず無視している。三島自身、近畿方言が嫌いであり、東京弁・共通語以外を用いた戯曲を嫌ってもいた。中村光夫宛ての1963年9月2日の書簡では「上方へ久々に来てみると、上方言葉は全くいただけず、世態人情、すべて上方風は性に合はず、外国へ来たやうです」と語っている。このため、一部からは批判の声もあり、地元民の三島に対する評価は高いものでない。
かつて作家の杉森久英が編集者だった時に「われわれの仲間では三島由紀夫は貴族の出であると思い込んでいた。三島由紀夫に会ったとき“あなたは三島子爵の子孫ですか?”と聞いたところ三島は即座にこれを否定したが、自分の家柄というものは、そのへんのものではないのだということを暗に匂わせていた」と述懐しているのはよく知られている[39]。
『農民文学』の仲野羞々子は「世間では三島のことを貴族だといい、貴族に間違いないことを信じている。本人もそれを信じ、敢えてそのようにふるまってきたところから、間違いがはじまっているように思えてならない。平岡家の分家三代目の彼は貴族であっても、初代の祖父 定太郎は貧農出身の成り上がり者であることを、彼は知りつくしておりながら、とことんまでそれをかくし通し、優雅な家系のように誇示したあとが気になる。胸の底にうごめく貧農コンプレックスを、貴族のポーズで克服しようとしたとしか思えないふしがある」とのべている(『農民文学』第九十三号所載)。
三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視しようとした背景には、夫(平岡定太郎、兵庫県出身)を忌み嫌っていた祖母夏子の影響も考えられているが、差別問題が関係しているとする説もある[40][41]。 それによると平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、西神吉村だった。そして、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父太吉が領主から禁じられている鶴を射るという不祥事を起こし、“所払い”にされたためだというのである。
『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』52頁によれば、「岡住職は過去帳から平岡家の祖をたどった結果、およそ二百五十年間つづいた家だと判明したという。真福寺で明らかにされた平岡家の先代はまず元禄時代の“孫左衛門”から始まっている。しばらくは姓がなく(…中略…)以後はじめて平岡太左衛門、平岡太吉とつづくのである。過去帳には名前のそばに"非人"、"非人の子"、"番人"、"水番"という汚名の肩書もついているが、平岡家の初代である“孫左衛門”の肩にはもちろんそんな濁点は付されていない。記されているものは“しおや”という屋号のようなものである。(…中略…)初代の“孫左衛門”の俗名に“しおや”の肩書きが付されている以外は、太左衛門にいたるまでの戒名はすべて一般の農民と同程度の身分を示している。“ごくふつうの百姓だったのですよ”と岡住職はきっぱりと断言している。」という。
三島の実父平岡梓は、著書『倅・三島由紀夫』において「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で赤門事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べて、いささか反骨の家系であることを胸を張っていう口吻(こうふん)が感じられるが、これを事実だと信じることはできない。梓のいとこ平岡義一の妻りきの記憶によれば赤門事件など聞いたおぼえもなく、「太左衛門の息子である太吉が、領主から禁じられている鶴を射った。その行為が表沙汰になって“所払い”を命じられた」というものだった。また梓は「平岡家も田舎の豪農“塩屋”としての誇りを堅持していた(『倅・三島由紀夫』)」と書いているがこれも事実ではない。“反骨の赤門事件”といい、“豪農塩屋”といい、三島由紀夫亡きあとにつくられた家系としかいいようがない[42]。また「“しおや”の屋号があって不思議はない。元禄以前から印南郡の南は、一帯が塩田だった。(…中略…)播磨の塩は“花塩”といい、特に珍重された。だが“塩屋”を“豪農”とするのは無理。“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、苫屋(とまや)の謂(い)い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味。」[43]もある。
平岡家部落民説は三島が杉山瑤子と結婚した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるが、父・梓はこの風説を断固として否定。結局、梓が志方村に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都目黒区に本籍を移すことで決着がついている[44]。
これを裏付けるように、村松剛は次のように述べている。「三島研究家越次倶子は平岡家の菩提寺である曹洞宗真福寺の過去帳を写真に撮影しており、さらに1964年ごろ平岡家の壬申戸籍の写しも入手しているが、いずれの資料も平岡家が被差別階級に属していたことを示す内容ではなかった」[45]。
一方で、福島鑄郎『資料三島由紀夫』(朝文社、新版・2005年)によると、真福寺の過去帳には「知られたくないものが書かれてあった」「それぞれの祖先の肩書きには、とうてい文字にして書き表せないような汚名が書きしるされているからである」と言われる。また、板坂剛は村松を批判して「村松が切り札のように持ち出している越次倶子の<写真>の件だが、私はこれを信用することができない。というのも差別問題に関係する家系には、複数の過去帳が存在すると言われているからだ。もともと過去帳が家系を美化するためのものであるのなら、<さしさわりのある>部分を残した過去帳とは別の<さしさわりのない>ように書き換えられたものが存在するのも当然である。そして、外部の人間に写真を撮らせるようなことがあったとしたら、それが<さしさわりのある>ものであったはずがないのだ」と述べている[46]。 また後に安藤武は、曹洞宗青龍山真福寺の過去帳を、実地に検証しこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺住職の西超三が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままとなっている。
[編集] 主な作品
[編集] 長編小説
- 盗賊(1948年)
- 仮面の告白(1949年)
- 青の時代(1950年)
- 純白の夜(1950年)
- 夏子の冒険(1951年)
- 禁色(1951年 - 1953年)
- にっぽん製(1953年)
- 潮騒(1953年 - 1954年) - 第1回新潮社文学賞
- 幸福号出帆(1956年)
- 金閣寺(1956年) - 第8回読売文学賞小説部門
- 美徳のよろめき(1957年)
- 鏡子の家(1958年 - 1959年)
- お嬢さん(1960年)
- 美しい星(1962年)
- 愛の疾走(1963年)
- 午後の曳航(1963年) - フォルメントール国際文学賞第2位
- 肉体の学校(1963年)
- 絹と明察(1964年) - 第6回毎日芸術賞文学部門
- 複雑な彼(1966年)
- 夜会服(1966年)
- 豊饒の海(4部作、1965年 - 1970年)
[編集] 短編小説
- 酸模(すかんぽう)〜秋彦の幼き思ひ出(1938年)
- 彩絵硝子(だみえがらす)(1940年)
- 花ざかりの森(1941年)
- 苧菟(おっとう)と瑪耶(まや)(1942年)
- 世々に残さん(1943年)
- 夜の車(1944年)
- のち「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」と改題
- エスガイの狩(1945年)
- 煙草(1946年)
- 夜の仕度(1947年)
- 魔群の通過(1949年)
- ラディゲの死(1953年)
- 憂国(1961年)
- 剣(1963年)
- 英霊の聲(1966年)
- 蘭陵王(1969年)
[編集] 戯曲
- 鹿鳴館(1956年)
- 近代能楽集(1956年) - 一幕戯曲集
- 薔薇と海賊(1958年) - 週刊読売新劇賞
- 熱帯樹(1960年)
- 十日の菊(1961年) - 第13回読売文学賞戯曲部門)
- サド侯爵夫人(1965年) - 文部省芸術祭演劇部門芸術祭賞)
- 聖セバスチァンの殉教(1966年、翻訳)
- 原作:ガブリエレ・ダヌンツィオ、池田弘太郎共訳
- 朱雀家の滅亡(1967年)
- わが友ヒットラー(1968年)
- 癩王のテラス 3幕7場(1969年)
- 椿説弓張月 3幕8場( 1969年)
[編集] 評論
- 小説家の休暇(1955年)-公開日記
- 不道徳教育講座(1958年 - 1959年)
- 裸体と衣装(1960年)-公開日記・評論集
- 私の遍歴時代(1964年) - 自伝・評論集
- 太陽と鉄(1967年)
- 葉隠入門(1967年)
- 文化防衛論(1968年)
[編集] その他
- 詩「九官鳥〜森たち、第五の喇叭、独白、星座、九官鳥」(1939年)
- 海外紀行「アポロの杯」(1952年)
- 随筆「文章読本」(1959年)
- 写真集 「薔薇刑」(1963年)
- 小品「F104」(1968年)
- 対談集「源泉の感情」、「尚武のこころ」(1970年)
[編集] 作風
三島文学の文体は、終始レトリックを多様に使っているところが最大の特徴である。日本人作家でありながら、その表現方法は、他の日本人作家よりも、外国人作家に近い。長岡實は、「日本の文学愛好者の中にはどちらかというと淡泊でむしろ余韻のある文章を好んで読む傾向があるが、三島作品はどちらかというと濃密な表現を積み重ねていく文学である。こうした点で外国の文豪にも通じ、世界的に高い評価を得ているのではないか?」と分析している。[47]
三島文学の作風としては生と死、文と武、言葉と肉体といった二元論的思考がみられるが単純な対立関係ではないところに特徴がある(本人曰く「『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている[48])。 近代日本文学史の傾向においては、ロマン主義、耽美主義に分類されている。代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが両者をアイロニカルに接合している事が指摘される。ジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念も『サド侯爵夫人』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。また作品の人工性も指摘される。十歳の時に書いたという小品『世界の驚異』から、『金閣寺』、『鏡子の家』、最晩年の『豊饒の海』で寂寞のうちに閉じるという印象的な結末まで、数多くの作品にはニヒリズム的な傾向が認められる。三島自身、「『鏡子の家』は、いはば私の「ニヒリズム研究」だ」と言い、意気込んで書いたが期待とは裏腹に世間では評価されなかった[49]。
三島は劇作家でもあり、唯一翻訳出版したのも戯曲である。演劇は、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」と述べ、また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、私小説的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海3巻 暁の寺』脱稿後の心境を「実に実に実に不快だった」と述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう[50]。 これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(旅行記『アポロの杯』など)を反映している。晩年5年間は政治性に傾斜していった。
[編集] 映画作品
[編集] 原作
[編集] 出演
| 制作年 | 作品名 | 制作(配給) | 監督名 | 三島の役柄 | 主な出演者 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1951年 | 純白の夜 | 松竹大船 | 大庭秀雄 | 特別出演 | 河津清三郎 木暮実千代 | ※原作 |
| 1959年 | 不道徳教育講座 | 日活 | 西河克己 | 特別出演 | 大坂志郎 信欣三 | ※原作 |
| 1960年 | からっ風野郎 | 大映東京 | 増村保造 | 朝比奈武夫 | 若尾文子 船越英二 志村喬 |
※主演作品 |
| 1968年 | 黒蜥蝪 | 松竹大船 | 深作欣二 | 日本人青年の生人形(特別出演) | 丸山(美輪)明宏 木村功 |
※劇化・戯曲 |
| 1969年 | 人斬り | フジテレビ /勝プロ |
五社英雄 | 田中新兵衛 | 勝新太郎 仲代達矢 石原裕次郎 |
※出演 |
[編集] 監督
| 制作年 | 作品名 | 制作(配給) | 三島の役柄 | 主な出演者 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1966年 | 憂国 | 東宝/ATG | 武山信二中尉 | 鶴岡淑子 | ※制作は1965年 製作・脚色・美術も |
[編集] テレビドラマ作品
[編集] 音楽作品
- からっ風野郎(同名の大映映画の主題歌)
- 大映映画「お嬢さん」主題歌
- 起て!紅の若き獅子たち
- 「軍艦マーチのすべて」
[編集] 関連人物
- 安部譲二
- 作家。三島にボクシングジムを紹介するなどした。当時の安部の半生を題材に、三島は『複雑な彼』(集英社)を執筆。この物語の主人公の名前「宮城譲二」は、安部が作家デビューするにあたってペンネームの一部とした。
- 天知茂
- 生涯の持ち役だった明智小五郎を初めて演じたのは、三島本人から指名され、丸山明宏初主演でもある昭和43年の舞台『黒蜥蜴』である。
- 東文彦
- 年長の友人で『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社のち新潮文庫)の大半は東宛である、戦時中に23才で夭折。『東文彦作品集』(講談社、講談社文芸文庫で再刊)の序文を、自決する1か月前に記した。なお母方の祖父は石光真清。
- 遠藤周作
- 作家。憂国忌発起人として名を連ねるなど、生命を賭して三島が投げかけたメッセージにはファナティックな意図なしに一定の理解を示していた。晩年の代表作『深い河』は、『豊饒の海』の影響も多分に受けている。
- 江藤小三郎
- 三島自決の前年の建国記念日に、国会議事堂前で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく自決した青年。明治維新の功労者江藤新平の曾孫。その至誠と壮絶な諫死は後の新右翼・民族派運動に多大な影響を及ぼす。三島は『若きサムラヒのための精神講話』[51]において「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記し、その自決の決意に大きな影響を与えたことを伺わせる。
- 福田恆存
- 英文学者、劇作家・演出家、保守派の論客。鉢の木会の同人仲間として三島と親しかった。福田が、文学座から分裂し「劇団雲」結成を発表する前夜に、三島にも参加を呼びかけたが、大勢が決した後に声がかかったことが不服だったためか、三島はこれを拒否し、共に以後は演劇活動はしなかったが、三島は「雲」の機関紙に寄稿し、昭和42年に対談「文武両道と死の哲学」[52]も行うなど、関係断絶には至っていない。
- 藤原岩市
- 三島由紀夫を自衛隊仮入隊に誘った人物で、元陸軍将官、自衛隊調査学校学校長。三島の自衛隊体験入隊から深く関与している。
- 細江英公
- 写真家。昭和30年代半ば、当時新進気鋭の若手写真家であった細江が、舞踏家の土方巽を撮影した写真を、三島はいたく気に入り、自身の評論集『美の襲撃』(講談社、1961年)の口絵写真を依頼する。これを契機に、ボディービルに傾倒していた、三島自身の肉体を被写体とした写真集『薔薇刑』の一連の撮影が行なわれた。『薔薇刑』は細江の代表作となり、戦後日本の写真界のみならず、英語版も数度出版された写真集となった。
- 林房雄
- 尊敬し交流していた作家、評論家。『林房雄論』(限定版、新潮社→『作家論』所収、中央公論社)を書き、共著『対話 日本人論』(番町書房)がある。東大法学部の先輩でもある。三島の自決後は、憂国忌の運営に積極的に参加し、『悲しみの琴』(文藝春秋)ほか多数の論考を著した。
- 蓮田善明
- 日本浪曼派系の国文学者で「文藝文化」を主宰。元陸軍中尉。三島の少年時代の「感情教育の師」。敗戦時、駐屯地のマレー半島のジョホールバルで自決。『全集』(全1巻、島津書房)が刊行している。
- 伊東静雄
- 日本浪曼派の詩人。三島からは尊敬されていたにもかかわらず、三島とその作品を大変嫌っており、1944年に三島の訪問を受けた時、日記の中で三島を「俗人」と呼び、その手紙を「面白くない。背のびした無理な文章」と酷評した(但し三島自身の弁にも初期の自身の文章を同じように難じる記述がある)。伊東歿後、三島はこの日記の内容を知るに及んで「あの人は一個の小人物だつた」[53]と難じた。
- 石原慎太郎
- 作家、政治家、東京都知事。三島に作家としての先進性を評価される。石原の作品「完全な遊戯」が文壇で全批判された際も、三島は音楽的で、詩的な文体であると評価する。しかし石原が政治家に転身してからは徐々に離れ、昭和45年6月に三島が、石原の政治姿勢を批判する文章を発表してからは事実上断絶した。石原は、三島事件を「狂気の沙汰」と一言に切って棄て、野坂昭如との対談や評論でも否定的な見解を述べ続けた。三島の死後に「自分は(三島と)友人だ」と公言していることについては、賛否両論があり、特に美輪明宏からは「政治利用」であると批判されている。三島自身は晩年のインタビューで「文壇、編集者に友人は一人もいない」と述べた。
- 市川雷蔵
- 歌舞伎出身の映画俳優、大映作品『炎上』(金閣寺が原作)と『剣』で主役を演じている。三島からの信頼が厚く、歌舞伎公演に際して、激励の文章を送っている。『獣たちの戯れ』の映画主演は多忙で、『春の雪 豊饒の海』の舞台公演(映画化)は病いで実現しなかった。1969年7月に癌で没したが、池上本門寺での葬儀には、三島も夫妻で参列している、今日でも映画館でリバイバル上映され、関連書籍が多く出されている。
- 越路吹雪
- 独身時代に三島と恋愛関係にあった。一時期は、三島の母からも未来の嫁と見なされていた。
- 川端康成
- 三島の師にして、先輩作家。否定的な評価を受けることも多かった新人作家時代の三島が、文壇に地歩を築くにあたっては、川端の後押しが最も与って大きかった。三島は(かつて太宰治が谷崎潤一郎令嬢との結婚を考えたように)川端令嬢との結婚を考えたことがあるが、この件に関しては夫人の川端秀子から「さりげなく、しかし、きっぱりとお断り」された(1951年3月)。自決約一年前辺りから、楯の会に対する川端の冷淡さに失望したとの証言がある[54]。築地本願寺で行なわれた葬儀の委員長は川端が務めた。
- 北杜夫
- 作家。年齢も近く、同じ山の手生まれから交友が始まり三島は北の作品を好んで推薦するなどした。しかし次第に政治的に過激になっていった晩年の三島とは疎遠だった。
- 小島千加子
- 文芸誌「新潮」での三島担当の編集者。三島事件の当日朝に、最後の作品原稿(『天人五衰』最終回)を取りに自宅へ行った。ただし三島は既に出立しており、お手伝いさんから受け取った。経緯は『三島由紀夫と檀一雄』(構想社、後ちくま文庫)に詳しい。
- 増村保造
- 映画監督。東大法学部で同窓だったが、映画『からっ風野郎』を三島主演で監督するに際しては三島の未熟な演技を遠慮なく罵倒し、三島を徹底的にしごいた。撮影中の事故で三島が頭部を強打して脳震盪で病院に担ぎ込まれたとき、平岡梓は「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し、三島自身は友人ロイ・ジェームスに向かって「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたと伝えられる[55]。
- 村上一郎
- 作家・批評家で右派的な作家。独自視線の戦争批判が冴える。三島由紀夫と頻繁に会談し、「尚武の心と憤怒の心情」(『尚武のこころ』日本教文社、昭和45年)に詳しい。昭和50年自宅で自刃した。
- 美輪明宏
- 歌手、俳優。10代の時、美輪のアルバイト先のシャンソン喫茶『銀巴里』に客としてやってきた、当時若き新進気鋭の作家だった三島と出会い、「天上界の美」とその美貌を絶賛される。以降、三島由紀夫の戯曲に多く出演し、「近代能楽集」「双頭の鷲」、三島が脚本を手がけた「黒蜥蜴」は今でも定番であり、近年では演出も手がけている。しかし、決して三島に媚びる様なことは無く、三島好みの、凛然として気高い「権高な麗人」像を貫いた。三島は、自決決行に先駆けて、永訣として「薔薇の花束」と共に楽屋の美輪を訪れ、胸に秘めた別れを惜しんだという。三島の衝撃的な自決後、一気に髪が白髪になったといわれる。なお自伝著作『紫の履歴書』初版には、三島が序文を寄せている。
- 中村伸郎
- 俳優。三島が劇団「文学座」を脱退した際、当時劇団の主要幹部でありながら三島に追随して「文学座」を離れ、以降、「NLT」「浪曼劇場」と、演劇面においては三島が自決するまで行動を共にした。後年「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。「わが友ヒットラー」ではクルップを演じた。
- 長沢節
- 画家。若き日の三島が、彼に興味を持ち池袋椎名町のアトリエにしょっちゅう現れ、片隅で紙に絵を描いていた。彼が書いた小説を三島がほめ、鎌倉文庫発行の『人間』の臨時増刊号のために、編集長木村徳三に原稿を持ち込んだが、時を置かず鎌倉文庫がつぶれたため実現せず、その後の三島が右翼的言動を強めたので距離を置くようになる。
- 清水文雄
- 日本浪曼派系の国文学者で、和泉式部研究で著名。学習院時代の恩師で、主宰する『文藝文化』で、昭和16年に筆名「三島由紀夫」を提案、著作活動を促した。没後に『師清水文雄への手紙』(新潮社、2003年)が出版している。当時は、学習院在学時の皇太子(現:今上天皇)の担当教師でもあったが、戦後は広島大学に赴任し終生在住した。
- 澁澤龍彦
- 作家で、フランス文学者。1956年に三島へ、澁澤が訳したマルキ・ド・サドの作品集序文を依頼し、快諾を受けてからその没年に至るまで親交があり、公私ともに三島のよき理解者だった。澁澤が三島を「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」(追悼文「三島由紀夫氏を悼む」)と賞賛する一方で、三島も澁澤を高く評価していた。三島戯曲の代表作とされる『サド侯爵夫人』は、澁澤の『サド侯爵の生涯』(中公文庫ほか)に始まる一連の著作に想を得ており、澁澤も序文を書いている。また三島に面と向かって「近ごろ、兵隊ごっこ(楯の会)はいかがですか」と(半ば皮肉を交え)言えるほど親しい間柄だった。親交と信頼の深さを伝える著書・対談『三島由紀夫おぼえがき』(立風書房、のち中公文庫)がある。
- 篠山紀信
- 写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』(毎日新聞社、1968年)に、三島が序文を書いている[56]。自決の直前まで、三島自身の依頼で写真集『男の死』を撮影した。数点が公開されたのみで、その全容は現在にいたっても封印されている。なお自宅書斎・庭園ほかを、多数撮影した『三島由紀夫の家』(美術出版社、1995年、普及版2000年)がある。
- 高橋和巳
- 作家・中国文学者。三島とは、1969年に「大いなる過度期の論理」で対談している。自決時には、自宅の病床で通信社のインタビューに応じ「『豊饒の海』を書き終わった三島さんはもう書くものが無くなるのでないか。作家として三島さんはどうなるのか、心配だった…」と述べた。文芸誌で、談話筆記「自殺の形而上学」と、野間宏・秋山駿との座談会「文学者の生きかたと死にかた」を発表した[57]。翌71年5月に39歳の若さで、ガンで亡くなっている。
- 手塚治虫
- 漫画家。三島がモデルと思われる作家が主人公の中編『ばるぼら』(1973年 - 74年、ビッグコミック連載)を描いており、三島を終生のライバルの一人として見なしていたとされる。これに対して三島は生前「劇画や漫画の作者がどんな思想を持とうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的諷刺家になったら、その時点でもうおしまいである。かつて颯爽たる『鉄腕アトム』を創造した手塚治虫も、『火の鳥』では日教組の御用漫画家になり果て…」(「劇画における若者論」)と手塚の作風的変遷を辛辣に批判した。
- 田宮二郎
- 俳優。田宮本人の希望で『複雑な彼』(大映、1968年)に主演、学習院の後輩でもある。
- 土方巽
- 舞踏家、振付家。 暗黒舞踏派の創始者であり、三島に深く傾倒していた。1959年には、三島の小説『禁色』と同名の舞踏作品を発表している。三島も土方の存在感に「震撼させられていた形跡があり」(澁澤)、土方同様、三島の肉体を被写体とする写真集『薔薇刑』の製作につながっていく。「薔薇刑」の撮影では、土方は、自らのスタジオを提供し、後に夫人となる元藤燁子と共に撮影に参加している。
- 徳川義恭
- 学習院の先輩、若くして病没、尾張徳川家分家の出身で、皇族との縁戚関係があり、実兄は半世紀にわたり昭和天皇の侍従・侍従長を務めた徳川義寛である。
- 吉田健一
- 英文学者、作家。父は首相吉田茂で、母方の曽祖父が維新の志士大久保利通。鉢の木会の同人仲間として一時期は交流があったが、のちに不和を生じ断交。その原因は、三島の転居に際して、三島家の家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためとも、同時期に力作『鏡子の家』を酷評したためともいわれるが、都知事選を舞台にした『宴のあと』刊行に際し、訴訟を起こした元外相有田八郎と旧知の仲だった吉田が、和解のための話し合いをめぐり三島と互いに感情的な反撥になったという説もある。
- 山本舜勝
- 三島らを自衛隊調査学校で直接指導した陸上自衛官、元陸軍少佐。「楯の会」の事実上の指導官であった。陸将補で退官後に、三島に関する著書を回想など数冊出している。
- 矢頭保
- 写真家。三島は、矢頭の作品集『体道〜日本のボディビルダーたち』(1966年)や『裸祭り』(1969年)に序文を寄せており、自身でモデルも務めている。
- アーサー・C・クラーク
- 20世紀を代表する著名なSF作家。三島はSF好きとしても知られており[58]、クラークの大ファンでもあり、著作はほとんど読んでいて、晩年『幼年期の終り』などに関する感想を「不快な傑作」などとしてエッセーに残している。アポロ計画華やかなりし1968年公開の映画『2001年宇宙の旅』も鑑賞している[59]。クラークの長編『グランド・バンクスの幻影』には三島の『仮面の告白』への言及がある。
- アイヴァン・モリス
- 友人の日本文学者、『金閣寺』英訳者であり、著書「光源氏の世界」がイギリスで文学賞を受賞した際(1965年)、三島も訪英しており授賞式に立ち会った。
- ビョーク
- アイスランド出身の歌手。少女時代からの三島の熱心なファンと伝えられる。
- ドナルド・キーン
- 友人の日本文学者。三島の良き理解者で、高く評価していた。たびたび回想・作家論を出している。キーン宛ての三島書簡(『三島由紀夫未発表書簡』中央公論社と中公文庫、のちに『書簡 三島由紀夫全集.38巻』新潮社)が出されている。
- エドワード・G・サイデンステッカー
- 日本文学者。三島作品の翻訳を手がけるが、政治的傾向を深めて行く三島とは、徐々に疎遠になっていったようである。
- フランシス・フォード・コッポラ
- 『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』等で知られるサンフランシスコ在住の映画監督。ジョージ・ルーカスと共に『MISHIMA』をプロデュース。『鏡子の家』の映画化権を取得。コッポラは、『地獄の黙示録』構想時は、三島の『豊饒の海』からもモチーフを得ている。
- マルグリット・ユルスナール
- フランスの女性作家。深い西洋古典学の教養を有し、多田智満子の訳による硬質かつ格調高い作品群で知られる。欧米における三島の深い理解者の一人で作家論『三島あるいは空虚のヴィジョン』がある[60]。女性初のアカデミー・フランセーズ会員でもあった。
- シガニー・ウィーバー
- 『エイリアン』で知られるハリウッドの女優。映画『黒蜥蜴』を鑑賞後、リメイク化権を取得。
[編集] 脚註
- ^ 佐伯彰一「評伝三島由紀夫」によると、学習院の学生であった平岡公威の本名での作品発表を憂慮した『文芸文化』同人たちが修善寺での合宿時に「三島-富士の白雪」の連想から考案、恩師清水文雄が本人に提案し、受け入れられたものと言う。
- ^ 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も (2/2ページ)(ウェブ魚拓)
- ^ 安藤武『三島由紀夫 全文献目録』p.442(夏目書房、2000年)
- ^ 三谷信『級友 三島由紀夫』1999年、中公文庫、pp.36
- ^ 東との友情は『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社)に詳しい。
- ^ 『東文彦作品集』(講談社、1971年)の序文で、東との交友を振り返りつつ、当時を「文学に集中できたむしろアリストテレス的静的な時代」であったと自ら回顧している。
- ^ 東への弔辞は『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社)巻末に収む。
- ^ 『婦人倶楽部』1960年連載「社会料理三島亭」
- ^ 原武史『滝山コミューン一九七四』p.262(講談社、2007年)
- ^ 安藤武『三島由紀夫「日録」』pp.85-86(未知谷、1996年)
- ^ ボディビルを始めるきっかけとして、細身な上に身長が低いこと、さらに胃弱や虚弱体質に悩んでいた三島は、ある週刊誌のグラビアに取り上げられていた玉利齊(当時、早大バーベルクラブ主将。現在は社団法人日本ボディビル協会会長)の写真と「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速編集部に連絡を取り、玉利を紹介してもらったことが挙げられる。最初は自宅の庭に玉利を招いて指導を受け、後年は後楽園のトレーニングセンターや、国立競技場のトレーニングセンターにまめに通った。昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたりしていた(この時三島は顔色を変え部屋から出て行ったとされる)。後年、飛行機で乗り合わせた仲代達矢がボディビルについて尋ねた時、「本当に切腹する時脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えた。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。最初は10kgしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90kgを挙上したという。ボクシングのスパーリングパートナーは石原慎太郎が主であった。
- ^ 中井英夫『LA BATEE』p.149(立風書房、1981年)
- ^ 1945年の20歳日本人男性の平均身長は165センチ([1])。1948年の17歳日本人男性の平均身長は158.2cmという統計もあるが、「昔の日本人は今日と違って18歳以降も20代前半まで身長は伸びたようなので、単純な比較はできない」と言われている([2])。
- ^ 徳岡孝夫『五衰の人─三島由紀夫私記』(文藝春秋、1997年、のち文庫化)、および『週刊新潮』2009年4月2日「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」
- ^ http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html
- ^ 後の自決を予感させるような内容の映画『憂国』は、三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外現存しないとされてきたが、2005年(平成17年)にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。三島と共同で制作した藤井浩明がネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していた。夫人が死去した翌年の1996年(平成8年)に発見されたという。
- ^ 安藤武『三島由紀夫の生涯』p.241(夏目書房、1998年)ISBN 4931391397
- ^ 新潮文庫版『暁の寺』森川達也の解説より、p.431
- ^ その時のやり取りは『討論・三島由紀夫VS.東大全共闘-美と共同体と東大闘争』、新潮社、1969年、新版は角川文庫刊)にある
- ^ 1970年夏の時点で既に、結末部は脱稿していたが、巻末日付は11月25日と記載した。
- ^ 村松友視『夢の始末書』角川書店
- ^ 2010年12月30日 読売新聞
- ^ 『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)第36巻に収録されている
- ^ 詳細は松藤竹二郎著『血滾ル三島由紀夫「憲法改正」』(毎日ワンズ、2006年ISBN 4901622048)で紹介されている
- ^ 『三島由紀夫 - 没後35年・生誕80年 』(河出書房新社、2005年)に再録されている
- ^ 林房雄との対談『対話・日本人論』(新版・夏目書房、2002年)
- ^ 1970年11月17日夕刻の古林尚との対話。のち「新潮CD 三島由紀夫最後の言葉」で再版。
- ^ 中条省平編『続・三島由紀夫が死んだ日』p.185、実業之日本社、2005年
- ^ 「文武両道と死の哲学」(『論争ジャーナル』1967年11月号)、のち「若きサムライのために」(文春文庫、1996年)で再版。
- ^ 松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』(文春新書、2006年)、『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社、2007年/新潮文庫、2011年)、原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008年)など。
- ^ 島崎博・三島瑤子『定本三島由紀夫書誌』(薔薇十字社、1971年)
- ^ [3]「宴のあと」事件(損害賠償請求事件)判決(1964年(昭和39年)9月28日)
- ^ 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』
- ^ 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』 、113頁 文藝春秋、1995年
- ^ 『極説・三島由紀夫』 87頁「住職夫人や、後で地元の教育関係者等から聞いた話では、宮前で店を構えていたのは酒屋一軒だけであり、その家は庄屋だった。平岡家の先祖がやっていたことは“塩屋”ではなく塩をまぶした魚介類等を仕入れて、路上で売り歩いた程度の小商いだった、ともいう。あるいは、塩そのものを販売していたとしても、当時の状況を考えれば、それは天秤棒の両端に二つの塩桶をぶら下げて運んでいた姿を想像した方が当たっているだろう」とある
- ^ 『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』 52頁には「菩提寺真福寺の過去帳によると、平岡家初代“孫左衛門”の肩には〈しおや〉という屋号のようなものが記されている」とある。しかし猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』、112頁、文藝春秋、1995年によれば、「屋号は孫左衛門ではなく、三代目利兵衛のところに付いており、しかも塩屋ではなく塩物屋である」という。
- ^ 『極説・三島由紀夫』 86頁
- ^ 『極説・三島由紀夫』 (夏目書房)、104-107頁
- ^ 『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』 50頁
- ^ 仲野羞々子「農民の劣等感──三島由紀夫の虚勢」(『農民文学』1971年2月号)
- ^ 梶山季之責任編集『月刊噂』1972年8月号所載「三島由紀夫の無視された家系」
- ^ 『月刊 噂 八月号 三島由紀夫の無視された家系』 1972年、51-52頁
- ^ 野坂昭如『赫奕たる逆光』、122頁(文藝春秋)より
- ^ 安藤武『三島由紀夫の生涯』p.193(夏目書房、1998年)ISBN 4931391397
- ^ 村松剛『三島由紀夫の世界』、35頁(新潮社、1990年)
- ^ 板坂剛『極説三島由紀夫』(夏目書房、1997年)p.91
- ^ http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html
- ^ 虫明亜呂無編『三島由紀夫文学論集Ⅰ』序文講談社文芸文庫、2006年 ISBN 406198439X
- ^ 井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』 試論社、2006年
- ^ 青海健『三島由紀夫の帰還 青海健評論集』 小沢書店、2000年
- ^ 『決定版 三島由紀夫全集〈35〉』(新潮社、2003年)
- ^ 『若きサムライのために』(日本教文社のち文春文庫)と、『源泉の感情 対談集』(新版は河出文庫、2006年)に所収
- ^ 『新潮』1966年11月号に発表した「伊東静雄の詩」
- ^ 村松剛『西洋との対決』(新潮社、1994年)所収
- ^ 湯浅あつ子『ロイと鏡子』(中央公論社 1984年)を参照。また増村保造も、晩年に回想を書いている『ユリイカ 詩と批評 特集三島由紀夫』(1986年5月号、青土社)に収む
- ^ 『芸術断想 三島由紀夫のエッセイ』(ちくま文庫、1995年、復刊2010年)にも、横尾忠則論らと共に所収。
- ^ 二人の対談は、三島の『尚武のこころ』と、高橋の『生涯にわたる阿修羅として』(徳間書店、昭和45年)に所収。後者2つは、遺著『自立の思想』(文和書房、初版昭和46年)に収む。なお三島による高橋の作品・人物論は無いが、高橋が訳した唐代詩人『李商隠 中国詩人選集』(岩波書店)は、李賀の訳注書と並んで蔵書にある。
- ^ 「美しい星」(62年)・「F104」(68年)・「稲垣足穂論」(澁澤との対談は、70年5月に行われ、4月のアポロ13号の月面探査ミッション失敗も対談中に示唆されている。同対談では、映画「2001年」の持つ神話学的含意を仄めかしている、と思われる箇所も見受けられる。宇宙船「ディスカバリー号」が「精子」の形をしているのは有名な話である。エッセー「F104」にも類似の表現が見られる)などの執筆・対談もあり、荒井欣一・北村小松等が主宰する「日本空飛ぶ円盤研究会」にも所属していた。
- ^ 『三島由紀夫会見記』(乗杉綜合法律事務所ホームページ・エッセー欄 参照のこと)
- ^ 澁澤龍彦訳『三島あるいは空虚のビジョン』(河出書房新社 1982年、のち河出文庫)
新版は、河出の「澁澤龍彦翻訳全集. 15巻」や、白水社「ユルスナール・セレクション5.空間の旅・時間の旅」に所収、ISBN 4560047154。
[編集] 参考文献
- 『三島由紀夫 没後35年・生誕80年』 河出書房新社〈KAWADE夢ムック 文藝別冊〉、2005年11月。ISBN 4-309-97697-2。
- 荒木精之 『初霜の記 三島由紀夫と神風連』 日本談義社、1971年11月。
- 磯田光一 『三島由紀夫全論考・比較転向論序説』 小沢書店〈磯田光一著作集1〉、1990年6月。
- 井上豊夫 『果し得ていない約束--三島由紀夫が遺せしもの』 コスモの本、2006年10月。ISBN 4-906380-80-8。 - 学生時代に楯の会に所属し、三島由紀夫の薫陶を間近で受けた著者が、誤解されがちな三島の素顔をありのままに語る。
- 井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』 試論社、2006年。 ISBN 978-4903122069
- 猪瀬直樹 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 文藝春秋、1995年11月。ISBN 4-16-350810-4。
- 猪瀬直樹 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 文藝春秋〈文春文庫〉、1999年11月。ISBN 4-16-743109-2。
- 改訂版 『日本の近代 猪瀬直樹著作集2.ペルソナ 三島由紀夫伝』(小学館、2001年11月)
- 川島勝 『三島由紀夫』 文藝春秋、1996年2月。ISBN 4-16-351280-2。 - 著者は三島担当の講談社編集者。
- 小島千加子 『三島由紀夫と檀一雄』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、1996年4月。ISBN 4-480-03182-0。(元版は構想社、1980年5月)
- 佐伯彰一 『評伝三島由紀夫』 新潮社、1978年。
- 佐伯彰一 『評伝三島由紀夫』 中央公論社〈中公文庫〉、1988年11月。ISBN 4-12-201567-7。
- 澁澤龍彦 『三島由紀夫おぼえがき』 立風書房、1983年12月。
- 澁澤龍彦 『三島由紀夫おぼえがき』 中央公論社〈中公文庫〉、1986年11月。ISBN 4-12-201377-1。
- 青海健 『三島由紀夫とニーチェ 悲劇的文化とイロニー』 青弓社、1992年9月。ISBN 4-7872-9066-5。 - 三島文学を日本ポストモダン文学の先駆と位置付け、「物語の死」からの再生を試みる。
- 青海健 『三島由紀夫の帰還 青海健評論集』 小沢書店、2000年1月。ISBN 4-7551-0393-2。 - 島田雅彦、吉本ばなな、村上龍、村上春樹、中上健次の作品評論を含む。
- 『三島由紀夫が死んだ日 あの日、何が終り何が始まったのか』 中条省平編・監修、実業之日本社、2005年4月。ISBN 4-408-53472-2。
- 『続・三島由紀夫が死んだ日 あの日は、どうしていまも生々しいのか』 中条省平編・監修、実業之日本社、2005年11月。ISBN 4-408-53482-X。
- 徳岡孝夫 『五衰の人 三島由紀夫私記』 文藝春秋、1996年11月。ISBN 4-16-352230-1。
- 徳岡孝夫 『五衰の人 三島由紀夫私記』 文藝春秋〈文春文庫〉、1999年11月。ISBN 4-16-744903-X。
- 平岡梓 『伜・三島由紀夫』 文藝春秋、1972年。-続編 『伜・三島由紀夫 没後』 (同、1974年)も出版した。
- 平岡梓 『伜・三島由紀夫』 文藝春秋〈文春文庫〉、1996年11月。ISBN 4-16-716204-0。
- ヘンリー・スコット=ストークス 『三島由紀夫 生と死』 徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社、1985年。
- ヘンリー・ストークス 『三島由紀夫 生と死』 徳岡孝夫訳、清流出版、1998年11月、改訂新版。ISBN 4-916028-52-X。
- 坊城俊民 『焔の幻影』 角川書店、1972年。 - 若き日の友人の回想。
- 村松剛 『三島由紀夫の世界』 新潮社、1990年9月。ISBN 4-10-321402-3。
- 村松剛 『三島由紀夫の世界』 新潮社〈新潮文庫〉、1996年10月。ISBN 4-10-149711-7。
- 梶山季之責任編集「三島由紀夫の無視された家系」、『月刊 噂 八月号』第2巻第8号、噂発行所、1972年8月、48-62頁。
- 吉田和明 『三島由紀夫』 現代書館〈フォー・ビギナーズ・シリーズ 35〉、1985年。ISBN 4-7684-0035-3。
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房、2001年、pp. 214, 297。
[編集] 主な研究目録・書誌文献
- 『定本三島由紀夫書誌』 島崎博・三島瑶子共編、薔薇十字社、1972年-序文は瑤子夫人
自決直前の三島自身に依頼を受け編まれた。生前までの書誌目録の他に、一部の蔵書目録がある。 - 『資料三島由紀夫』 福島鑄郎 編・著、朝文社、2005年-再訂本、編者は1975年以来、5度改訂刊行した。
- 『三島由紀夫 古本屋の書誌学』 大場啓志、ワイズ出版、1998年-編者は古書店「龍生書林」店主。
- 『三島由紀夫全文献目録』 安藤武編、夏目書房、2000年、※同書房は2007年に倒産
編者は大部の伝記『三島由紀夫の生涯』(夏目書房)、『三島由紀夫「日録」』(未知谷)他がある。 - 『決定版 三島由紀夫全集42.年譜・書誌』 佐藤秀明・井上隆史・山中剛史編、新潮社、2005年
- 編者らは、『三島由紀夫事典』(勉誠出版、2000年)を始め多数の関連著作を出版。
- 『三島由紀夫研究文献総覧』 山口基編、出版ニュース社、2009年
編者は三島と親しかった古書店「山口書店」店主で、私家版で数度刊行した。
[編集] 関連項目
- 三島由紀夫賞 - 三島を記念した文学賞
- Mishima: A Life In Four Chapters - 三島を描いた米国映画
- 三嶋大社 - 三嶋大社に因んだペンネームであるという説がある
- 加古川市 - 三島の本籍がしばらく置かれていた市である
- 保守革命
- 二・二六事件
- 志士 - 三島は晩年自らの行動を幕末の志士にならぞえた
- 三島事件
- 磯崎叡 - 日本国有鉄道総裁で三島の従兄
[編集] 外部リンク
- 三島由紀夫 - Yahoo!百科事典
- 三島由紀夫墓所
- 三島由紀夫研究会
- 三島由紀夫電子博物館
- 三島由紀夫が徴兵検査を受けた加古川公会堂(現 加古川図書館)
- 三島由紀夫のお墓
- 三島由紀夫文学館
- 三島由紀夫は生きている - 富岡幸一郎・秋山祐徳・西部邁
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