水戸学
水戸学(みとがく)は、日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された学問である。全国の藩校で水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられその「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。
[編集] 概要
一般的に日本古来の伝統を追求する学問と考えられており、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた歴史書『大日本史』の編纂を中心としていた前期水戸学(ぜんきみとがく)と、第9代水戸藩主の徳川斉昭が設置した藩校・弘道館を舞台とした後期水戸学(こうきみとがく)とに分かれるとされるが、前期と後期に分けることの可否も含め、多くの考え方がある。
前期水戸学は、徳川光圀の修史事業に始まる。光圀は、朱子学の正統である藤原惺窩・林羅山の弟子筋を中心に、この事業を始めたが、寛文5年(1665年)、亡命中の明の朱舜水を招聘する。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であり、水戸藩江戸屋敷内に独自の一派を形成し、天和2年(1682年)の舜水の死後も、その一派の人見懋斎や安積澹泊らが彰考館を支配する。側近の佐々宗淳は事態を憂慮し、惺窩の弟子筋の俊才で穏健な森尚謙を抜擢して、天皇史を支えてきた人々の列伝も構築させるが、光圀隠居後、舜水派の澹泊が彰考館総裁となり、天皇本紀のみとして、列伝を廃し、尚謙らを冷遇するようになる。このため、元禄10年(1697年)、惺窩派の尚謙らは、光圀の入る水戸に移り、新たに水戸彰考館(水館、史館)を興して、列伝の編纂を続ける。これに対して、江戸彰考館(江館)の舜水派の澹泊らは、尚謙の著作を焼き捨てるように命じるなど、さらに攻撃を強めていった。しかし、光圀は、尚謙に藩校の先駆である儼塾を開かせ、理気二元論(天皇・幕府の二元論)の水戸学と文理融合、文武両道の精神を確立していった。
後期水戸学は、立原翠軒と、その弟子藤田幽谷の決別を起点とする。翠軒は、江館に学ぶも、明和3年(1766年)に水館に移って、その後、その総裁となり、停滞していた修史事業を再開させる。ところが、その弟子の幽谷は、寛政3年(1791年)に「正名論」を表して後、実学(陽明学)の江館の支援を得て、藩主に直訴意見書を提出し、師の翠軒の批判を展開した。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)、自ら総裁に就任し、江館と水館の双方を支配する。(「史館動揺」)
この状況に、五代目の森海庵の儼塾がかろうじて両彰考館の暴走を抑制したが、天保8年(1837年)には、大阪で陽明学を柱とする大塩平八郎の乱が起こると、第9代水戸藩主の徳川斉昭は、文理融合・文武両道の儼塾を、藩校としての弘道館に発展させ、水館総裁ながら穏健派の会沢正志斎を教授頭取として、先鋭化する彰考館の勢力の取り込みを計った。また、幽谷の子、藤田東湖もまた、これに協力し、古事記・日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも、この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、彼は「弘道館記述義」において、解説の形で尊皇思想を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられ、また、尚謙の融和思想に基づいて「神儒一致、文武合併」の考え方が示されている。
しかし、安政5年(1858年)、幕府が日米修好通商条約を勝手に結ぶに至って、孝明天皇が水戸藩に戊午の密勅を降下し、公武合体と攘夷を命じた。弘道館の正志斎は、この密勅の返上を計ったが、元治元年(1864年)に筑波山に挙兵することとなる天狗党は、これを阻止しようとし、幕府による全国的な安政の大獄へと発展し、藩主の徳川斉昭まで蟄居させられる。その弾圧に対して、天狗党は万延元年(1860年)、大老井伊直弼を桜田門外の変で暗殺。水戸藩は一橋慶喜を迎え、正志斎は開国論を上奏する。
水戸学の舞台となった弘道館は、江戸幕府の最後の将軍であった徳川慶喜の謹慎先となったが、慶喜が薩長軍との全面戦争を避け、大政奉還したのは、幼少の頃から学んだ水戸学による尊皇思想がその根底にあったためである。水戸学というと、先鋭的な尊皇攘夷運動が思い浮かべられがちだが、それは朱舜水や安積澹泊、藤田幽谷らの心理一元論的な実学に基づく江館水戸学であり、これに対して、それを押さえる融和的な佐々宗淳、森尚謙、会沢正志斎らの理気二元論的な朱子学の水館水戸学もまた存在している。水戸学は江戸時代の基礎的教養でもあった儒学を基礎としながら、日本神話や神道研究など日本古来の学問思想や伝統を自覚し、江戸幕末の志士たちの思想や行動に決定的な影響を与え、明治維新の原動力になった。
幕末水戸藩は、天狗党の筑波山挙兵(天狗党の乱)をはじめとして、他藩と比肩出来ないほどの多くの犠牲者を出した。徳川御三家であるにもかかわらず、尊皇の旗を掲げそのさきがけを担ったことは、藩の分裂ともなり、水戸藩の悲劇でもあった。しかし、水戸の犠牲の上に明治維新が成り、また徳川慶喜の水戸学に基づく恭順により幕府対薩長という西洋列強の傀儡戦争をも避けたことは、日本の歴史上特筆されることである。後に乃木希典陸軍大将は、明治天皇崩御後、当時の皇太子裕仁親王に水戸学に関する書物を献上した後に自刃している。
明治維新後、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに、多くの人々に讃えられたが、最も心を尽くしたのは明治天皇である。天皇は、光圀・斉昭に正一位の贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して常磐神社の社号とそれぞれに神号を下賜し、別格官幣社に列した。また、明治39年(1906年)に『大日本史』が249年の歳月を経て完成され全402巻が明治天皇に献上されると、その編纂に用いた史書保存のための費用を下賜し、それによって彰考館文庫が建造された。さらに、大日本史編纂の功績により水戸徳川家を徳川宗家や五摂家などと同じ公爵に陞爵させた。
現在、水戸学は、茨城県水戸市にある水戸史学会によって研究されている。