シベリア鉄道

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広義のシベリア鉄道の路線(赤)と、 バイカル・アムール鉄道(バム鉄道、緑)

シベリア鉄道シベリアてつどうТранссибирская магистраль )はロシア国内を東西に横断する鉄道世界一長い鉄道(全長:9,297km)としても有名である。これとは別に、第二シベリア鉄道(バイカル・アムール鉄道、バム鉄道)もある。

目次

[編集] 概要

9,288kmポスト(ウラジオストク)

正確にはロシア連邦中南部に位置するチェリャビンスク州チェリャビンスクからシベリア南東部の沿海州にある日本海岸のウラジオストクまでの7,416kmの区間を指すが、一般的にはその他の路線も含めたモスクワ~ウラジオストク間9,297kmを指す事が多い。「ロシア号」はモスクワのヤロスラヴリ駅を出発し、ウラジオストク駅まで約7日間をかけて走破する。

欧米では、モスクワ~ウラジオストクを結ぶ本線(広義のシベリア鉄道)を "Trans-Siberian Railway" と呼ぶほか、モンゴル国ウランバートル経由で北京まで結ぶ路線を "Trans-Mongolian Railway" 、中国東北部経由で北京まで結ぶ路線を "Trans-Manchurian Railway" と呼ぶのが通例である(以上3つが更に広義のシベリア鉄道である)。

航空機が登場する前は、日本ヨーロッパを結ぶ欧亜連絡運輸において最速の交通路でもあった。その後、第二シベリア鉄道と呼ばれるバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)も建設された。

シベリア鉄道は東洋と西洋をまたぐ路線であるために中国北朝鮮モンゴルとの直通運転があり、国境を越えると人種や文化、景色も大幅に変わる事を魅力と感じている人も多い。

[編集] 歴史

[編集] 計画まで

シベリアに鉄道を建設する案はモスクワサンクトペテルブルク間の鉄道が完成した後に既に生まれている。その最初のものの一つはイルクーツクチタを結ぶ計画で、さらに鉄道をアムール川まで伸ばし、終点を太平洋沿岸に設けるというものだった。極東征服に熱心だったニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーの指揮により、ハバロフスク周辺での鉄道敷設調査も行われた。

シベリア鉄道の地図(1897年当時の路線、ドイツで出版されたもの)
南シベリアの都市とシベリア鉄道本線の位置関係

1880年以前、モスクワの中央政府はこれらの鉄道計画を無視していた。沿線であるシベリアの産業は弱く、収支のリスクもあり、官僚の理解も得られなかった。大蔵大臣イゴール・カンクリンは次のように書いている。「ロシア全土を鉄道網で覆うという考えはあらゆる実現可能性を超えているだけではない。ペテルスブルグからカザンへの鉄道建設だけで数世紀かかるに違いない。」

上記のイルクーツク・チタ鉄道計画はもともとアメリカ人企業家 W.コリンズの発案によるものであったが、政府はこれを拒否し、この計画に軽率にも理解を示したムラヴィヨフ=アムールスキーに対し警告を与えた。政府はシベリアにアメリカ合衆国およびイギリスの影響圏が鉄道を通じて及ぶことを防ごうとするようになった。

1880年までの間に、シベリアと太平洋を結ぼうという鉄道計画が多数提案された。全てが政府により却下されたが、なお許可申請を行おうという者も絶えなかった。またこれだけの計画がありながら、シベリアとロシア中央部を結ぶという計画はなかった。危惧した政府は、シベリアとモスクワを結ぶ計画に切迫した関心を示すようになった。

1880年、ロシア帝国アレクサンドル3世は東アジアへの進出を目的としてシベリア横断鉄道計画の検討を始めた。路線選定は10年間をかけて行われた。結果、現在見るようなルートが定まったが、これ以外にも路線案はあった。

ペルミ付近でカマ川を超える鉄橋(1910年代撮影)

鉄道技術者は上層部から示される経費節減案、例えば大河を渡る際に橋の代わりにフェリーを用意し、交通量が多くなればを造るなどの案に対して抵抗した。技術者たちは途切れる箇所のない鉄路建設案にこだわり、これを守り抜いた。

ウスリー川付近での建設の様子(1895年)

かつて拒否された数多くの私設鉄道案は、既にある街を繋ぎながら地方内の物流や通行も提供しようというものであったが、政府によるシベリア横断鉄道は違った。地方内交通には優先度を置かず、地主たちとの摩擦や経費増大を招かないようなルート選定を優先し、既にある町同士の交通に対しては道路建設で代替しようとした。トムスクはシベリア最大の町であったがシベリア鉄道建設では不運なことにルートから外された。トムスク付近のオビ川沿岸地帯は湿地帯であり橋を架けるには不向きであった。ルートはトムスクの南70kmにずらされ、オビ川渡河地点にはノヴォニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)の街が作られた。トムスクには盲腸線となる支線が本線上のタイガから繋がったに過ぎず、シベリア鉄道による交通や交易の中心となる機会は奪われてしまった。

横断鉄道は、少ない乗客や麦の輸送など、当面の地方交通を満たす程度の能力で建設された。低い速度と積載可能な重量の少ない列車は、ヨーロッパと東アジアを結ぶという当初の役割を果たせないものだった。これは後に日露戦争の際、軍関係の輸送のために地方の物流が犠牲になる結果を招いている。

一方で、完成すれば大量の兵士や武器をヨーロッパからアジアに即座に輸送できるシベリア鉄道の着工は、ロシアとグレート・ゲームを繰り広げながらインドで勢力圏を広げつつあったイギリスに大きな衝撃を与えた。ロシアが鉄道で中国や極東に大軍を派遣できたとすれば、船に頼るイギリスは兵力でも速度でも後手に回ってしまう。東アジアにおける制海権を握るイギリスもロシア軍を抑えることができず、中国やインドにおけるイギリスの優位も覆る可能性があった。

[編集] 建設

アムール鉄道(アムール川北岸の国内線)工事に従事する囚人たち、20世紀前半

1891年に建設を開始し、露仏同盟を結んでいたフランス資本からの資金援助を受けながら難工事を進めた。軌間は1524mm(後に1520mmに改める)の広軌を採用したが、これには1435mmの標準軌を採用した欧州と同じにするとナポレオンのような侵略者に使われれば脅威になると考えたとか、皇帝の招いたアメリカの技術者が広軌論者であったとか、さまざまな説がある。

建設はアメリカ横断鉄道同様、路線の両端から開始された。東の終点のウラジオストクからはウスリー川に沿ってハバロフスクまでの鉄道、ウスリー鉄道がまず建設された。西では1890年ウラル川を超える橋が完成し、鉄道がヨーロッパ・ロシアを過ぎてアジアに到達した。オビ川を渡る橋は1898年に完成し、1883年に鉄道建設に先立ってオビ川沿いに建てられたノヴォニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)の小さな町はシベリアの中心として巨大化してゆく。1898年、最初の鉄道がイルクーツクおよびバイカル湖畔に達した。ウスリー鉄道は1897年に完成し、ハバロフスクからアムール川、シルカ川を超えて西への鉄道も建設されていった。

チタ州(現ザバイカリエ地方)のヒロク駅西方で。1903年撮影

サハリンなど各地に流されていた受刑者やロシア軍兵士が鉄道建設に従事した。沿線最大の障害物となったのはイルクーツクから60km東にある長さ640km、深さ1600mのバイカル湖であった。バイカル湖の南端を迂回する支線が完成するまでの間、夏はイギリスから購入した砕氷船を使ったフェリーによる連絡、冬は湖上に線路を敷いて列車を走らせた。1901年、バイカル湖の区間を除いてシベリア鉄道は一応完成、日露戦争の最中1904年9月にようやく全線開通した。

なお、1896年にロシア政府は清国政府から、シベリア鉄道の短絡線として満州(現在の中国東北部)の北部を横断し、ハルビン(哈爾浜)などを経由する東清鉄道の敷設権を得た。1903年には東清鉄道が完成し、当初はこれがシベリア鉄道のルートであったが、その後アムール川北岸(左岸)を迂回してハバロフスクを経由する国内線を1916年に完成させ、現在のルートが完成した。

[編集] ソビエト時代

シムスカイア駅。セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーによって1910年に撮影されたカラー写真。世界最初期のカラー写真の一つ。
1910年ごろのウラル山中の鉄道、バシキール人転轍手。この写真もプロクジン=ゴルスキーによる。

シベリア鉄道は政治的・経済的・軍事的に重要な路線であり続けた。 1918年にはロシア革命後に本国移送中のチェコ軍団が沿線を占領し、その救出を理由にして日本などのシベリア出兵が起こった。日本は現地の反革命軍(白軍)などと協力して1922年までイルクーツク以東の沿線を占領し、極東共和国成立などの事態が起こった。その後第二次世界大戦が開始されるまでは、アジア~ヨーロッパの連絡輸送の一環としての役割を担った。例えば1935年当時だと、東京パリ間は航路で約40日を要していたが、この鉄道と朝鮮総督府鉄道南満州鉄道を使う(下関釜山哈爾浜満州里チタ経由)と15日で到達する事ができ、当時の最速ルートであった。[1]

一方、ソビエト連邦(ソ連)にとってもこの鉄道は重要で、特に1930年代以降はスターリンの独裁により追放された多くの国民がこの沿線で強制労働に従事し、シベリア開発のために酷使された。また、第二次世界大戦末期の1945年には、5月の独ソ戦勝利から8月の対日宣戦布告までの短期間に大量のソ連軍赤軍)を輸送する事に成功し、ここで得られた日本軍捕虜強制労働に投入された(シベリア抑留)。

第二次世界大戦後も路線の重要性は変わらなかったが、ソ連は太平洋艦隊軍港であるウラジオストクへの外国人立ち入りを禁止したため、1956年国交が回復した日本との貿易や、シベリアを横断する外国人の往来には、ウラジオストクの東側にある商港ナホトカが利用され、シベリア鉄道からは支線を利用する事になった。外国人乗客はロシア号の乗車がモスクワ-ハバロフスク間に限定され、ハバロフスク-ナホトカ間は連絡列車を利用した。

航空路の発達により旅客ルートとしてのシベリア鉄道の重要性は低下したが、貨物取扱量は冷戦時代でも年々増加した。また、1984年にはシベリア鉄道の北側にバム鉄道が全通し、シベリア開発の両輪となった。

[編集] ペレストロイカ後

1985年ミハイル・ゴルバチョフがソ連の最高指導者となり、ペレストロイカを断行したが、経済的な混乱は拡大した。また、設備更新の停滞などもあり、シベリア鉄道の輸送力は低下した。1991年連邦崩壊後はロシア号の運行が毎日から隔日に削減されるなどの影響を受けている。

1992年1月にウラジオストクが対外開放されたため、外国人旅客も全線の乗車が可能となった。

1929年に始まった電化工事は2002年に全線で完成し、列車の積載量は6,000tにまで大きく増加した。また複線化工事なども継続している。

[編集] 今後の展望

クラスノヤルスク駅

シベリア鉄道はアジアとヨーロッパを結ぶ重要な交通路の一つである「シベリア・ランドブリッジ」の中核であり、空路を除くと最短・最速の北東アジア-欧州連絡ルートである。実際シベリア鉄道を利用して貨物輸送を行うと、海路と比較するとかなりの時間短縮を図れる。

例えば北京からハンブルクまでは、輸送が順調であった場合は海路の半分の日数である15日で到着する[2]東京からサンクトペテルブルク間を海路の場合約40日程度かかるが、ウラジオストクからシベリア鉄道を利用した場合、同区間を約25日程度で輸送できる[3]。そのため、日本や韓国の商社や製造業、ドイツ鉄道をはじめとするヨーロッパの鉄道会社が興味を示しており、シベリア鉄道を管轄する国営ロシア鉄道やその関連企業との業務提携を積極的に進めている[4][5][6]。2008年1月には、中国・モンゴル・ロシア・ポーランド・ドイツの各鉄道会社が中国=ドイツ間のコンテナ貨物輸送で協力することが発表された[7]

しかし余りにも長大な路線であるため、その近代化は未だ途上段階にあり、車両や機関車、設備の老朽化が進み、貨物輸送の定時性や安定性が保てるかどうか、さらに海路と比べて割高である点をどう解決するかが、今後の課題である。またロシアの政治・経済的安定性にも不安が残っている。

ソ連崩壊後は全区間乗車可能となり世界中から観光客が急増し内装もいっそう豪華になり客車はさまざまな塗装に塗り替えられている。詳細は後述にある。

[編集] 建設の影響

シベリア鉄道の建設の結果、シベリアからロシア中央部やヨーロッパ諸国へ農産物を輸送できるようになり、シベリアの農業は一大発展の機会を得た。その効果は鉄道沿線のみならず、河川交通を通じて鉄道につながる地域にも及んだ。たとえばアルタイ地方はオビ川の舟運とシベリア鉄道を経由して小麦を輸出できるようになった。

シベリア鉄道の電気機関車

シベリアの農家が安い穀物をヨーロッパに輸出するようになった頃、ロシア中央部の農業は、アレクサンドル2世による1861年農奴解放令後の経済的な圧力でいまだに混乱していた。このため、ロシア中央部を守り社会的な不安定が起こるのを防ぐため、1896年に政府はチェリャビンスクを通過する穀物に関税障壁をつくるためのチェリャビンスク関税区間 (Челябинский тарифный перелом) を設置し、同様の障壁を満州側にも設置した。この措置はシベリアの輸出産品を大きく変えた。アルタイ、ノヴォシビルスク、トムスクには穀物を加工する製粉所が多く設立され、農場バター生産に路線を変更した。1896年から1913年まで、シベリアは毎年平均で501,932tの小麦粉などを輸出した。

シベリア鉄道は21世紀の現在もロシア国内の最も重要な輸出路であり続けている。ロシアの輸出に関わる輸送の30%はこの鉄道が担っている。多くの外国からの旅行者を惹きつける一方、国内の旅客輸送の重要な一部でもある。

シベリア鉄道は毎年2万個のコンテナを経済成長が著しい東アジアからヨーロッパに輸送し、そのうち8,300個は日本からの輸出品を運んでいる。これは日本からヨーロッパに船などで運ばれる一年当たり36万個のコンテナに比べれば非常に少ない数であり、コンテナ船の大型化やスピードアップ、ソ連崩壊後の鉄道の混乱などの結果シベリア鉄道を経由する比率は落ちている。しかしかつては船より速い輸送路として定評があり、ロシア経済の伸長に伴い、今後の日本や中国との間の輸出入の経路として再び注目されている。経済成長が著しい『BRICs』のロシアでは日本車の需要が高まっており、日本の自動車会社の現地生産が始まったため、自動車部品輸送の手段にシベリア鉄道が検討されている。2008年からマツダ自動車が国産自動車を鉄道で輸送を始め、トヨタ自動車も部品輸送を2009年から始める予定である。鉄道輸送の需要や成長の可能性はあることから、ロシア運輸省は鉄道を通じたコンテナ輸送を年10万個にまで増やす計画を進めている。そのためにも、ボトルネックとなっている単線地区を複線化することが必要とされている。

[編集] 沿線の主要都市

ノボシビルスク駅
バム鉄道の沿線都市は当該項を参照のこと)

[編集] 主要駅一覧

シベリア鉄道の主要駅一覧を参照のこと。

[編集] 主な列車

「ロシア号」
  • 1・2列車「ロシア号」 ウラジオストクモスクワ間を走る、シベリア鉄道の代表列車。
    • 所要:モスクワ行き6泊7日、ウラジオストク行き7泊8日 隔日運行
    • なお、週1本は平壌清津北朝鮮)から国境のハサンを越えて来た車両をウラジオストク~ハバロフスク間のウスリースクで併結し、これが世界最長距離運転の列車となる(モスクワ行き8泊9日、平壌行き9泊10日、走行距離10,214km)。世界最長距離列車はモスクワ発毎月11日と25日の「ロシア号」にウスリースク駅まで併結され、超長距離であるために月2回のみの運行。
  • 5・6列車「オケアン(大洋)号」 ウラジオストク~ハバロフスク間。
  • 19・20列車「ヴォストーク(東方)号」 北京中国)・平壌瀋陽満州里チタ~モスクワ間 かつての日本からの欧亜連絡ルートをたどる国際列車。ロシア客車。
    • 所要:モスクワ行き6泊7日、北京・平壌行き7泊8日 週1本運行
  • 9・10列車「バイカル号」 イルクーツク~モスクワ間。
    • 所要:モスクワ行き3泊4日、イルクーツク行き4泊5日 隔日運行
  • 25・26列車「シビリャク(シベリア人)号」 ノボシビルスク~モスクワ間。
    • 所要:2泊3日 毎日運行
  • 7・8列車 ウラジオストク~ノボシビルスク間 「ロシア号」との交互運行列車。
    • 所要:ノボシビルスク行き4泊5日、ウラジオストク行き5泊6日 隔日運行
  • 3・4列車 北京~ウランバートルモンゴル)~ウラン・ウデ~モスクワ モンゴル経由の国際列車。中国客車。
  • 5・6列車 ウランバートル~モスクワ間 上記3・4列車と交互運行。モンゴル客車。
    • 所要:モスクワ行き4泊5日、ウランバートル行き5泊6日 週1本運行
  • 53・54列車 ウラジオストク~オムスク~ハリコフウクライナ)間 世界第2位の長距離列車。ウクライナ客車。
    • 所要:ハリコフ行き6泊7日、ウラジオストク行き7泊8日 隔日運行
  • 113・114列車 ノボシビルスク-ベルリン(ドイツ)。ドイツ客車。
    • 所要:4泊5日(113列車)、5泊6日(114列車) 週1本運転

[編集] 使用車両

ロシア号などの特急列車を除く一般的な列車に連結される二等寝台車
モスクワ市内のヤロスラヴリ駅に停車中のエレクトリーチカ
  • シベリア鉄道沿線は氷点下50℃にもなる極寒であるためにロシア国内の列車だけでなく他国からの国際列車も耐寒の車両が使用され、石炭ストーブが備わっている。これは技術が遅れているわけでなく万一極寒の地で故障したら生死にかかわるためである。僻地、過疎化が進んでいる街を通るために需要のためか列車は垂れ流し式トイレなので停車中には使用はできない。
  • 普通列車はエレクトリーチカや客車を使っておりソ連崩壊後は塗装も様々である。シベリア鉄道沿線は僻地であるためか新型車両の導入が少ない。主にЭР2が使用される。
  • ロシア号はロシア国旗の塗装であり、週に一度は北朝鮮の緑色車両が1両だけ連結され、金日成・金正日バッチをした北朝鮮兵士が乗っていたようであった。今は北朝鮮車両は線路整備悪化でハサンまでの運用だと思われる。
  • バイカル号・オケアン号はロシア号よりも内装がよく、塗装も独特的である。
  • 北京モスクワの満洲里経由の国際列車はこれまでロシア国旗の車両であったが2008年から臙脂色の車両が登場し、新型車は従来どおり北朝鮮列車と連結運転も可能であり、シャワーやテレビもついているなど首都を結ぶだけあって内装も豪華である。また車体に中国語・ロシア語で『北京-モスクワ』など描かれていてまた平壌やイルクーツク、チタへ行く車両もそれらの行き先が描かれている。
  • 北京モスクワのモンゴル経由の国際列車は中国の緑色車両が使用されモンゴル・ロシアの旧塗装に酷似している。中国語ロシア語モンゴル語の表記のサボがある。
  • ウランバートルからモスクワ行きはモンゴル車両であり、北京モスクワの国際列車が走らない日に同じダイヤで運行される。
  • シベリア鉄道は旧ソ連の影響で地味な印象が強いものの最近では様々な塗装の車両が導入されておりまたは海外と直通運転している事もあり種類は豊富である。一部の区間では中国・北朝鮮・モンゴル車両がドイツ・ポーランド・ベラルーシ・ウクライナからの車両が直通運転する区間と重なる。つまりアジアとヨーロッパの車両が同じ線路を走る事になり超広大な国ならではの楽しみでもある。
  • 『Golden Eagle Trans Siberian Express』という豪華寝台特急が走っており、モスクワ~ウラジオストックを15日かけて途中で降りて観光しながらウランバートルを経由する。ただしかなりの高額である。
  • ЭП1などが主にシベリア鉄道の長距離列車の機関車に使用される。ВЛ10は貨物列車に使用される。

[編集] シベリア鉄道の他国との関係

シベリア鉄道はドイツポーランドベラルーシウクライナカザフスタンモンゴル中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国と国際列車を直通運転している。広大なロシアを走るために国際列車もヨーロッパとアジアにまたがって運行する列車が多い。

近年ロシアで日本車の需要や中国の経済成長でシベリア鉄道の貨物の需要が高まっており、中国とドイツを結ぶ初の貨物列車「北京-ハンブルク コンテナ特急」が運行された。

1988年に日本へオリエント急行の輸送でシベリア鉄道が利用された。ゴルバチョフのペレストロイカで冷戦末期であったために西ドイツ、東ドイツ経由が許された。

BRICsのロシア、中華人民共和国とNEXT11の大韓民国は直通運転を試みているが、北朝鮮が直通運転の障壁であり、メドヴェージェフ大統領と李明博大統領は対北朝鮮政策やシベリア開発を会談した。

北京ーモスクワ行きは2種類存在しており、1つはウランバートル経由の中国車両で緑色の車体、もう1つは満州里経由のロシア車両であり、臙脂と白色の新型客車で内装はかなり豪華である。ロシア・モンゴルと中国・北朝鮮は線路の幅が異なるため国境付近で台車ごと交換する。また国ごとに食堂車は付け替えられる。つまり中国、モンゴル、ロシアの食事が楽しめる。 ちなみにこの北京-モスクワは旧ソ連時代から走っており、中ソ対立で関係が悪くなっても運休することなく走っていた。

中国と直通があるシベリア鉄道の駅名は中国語で基本的にそのまま当て字(例えば、符拉迪沃斯托克=ウラジオストック、赤塔Ⅱ=チタⅡ、泰謝特=タイシェトなど)が多いが、満洲里の隣の駅のザバイカリスク駅は『后貝加尔』と中国人に読みやすくするための短い当て字であり、ノヴォシビルスクはロシア語で『新しいシベリア』という意味であるため中国語では『新西伯利亜』という漢字に合った当て字であり、中国語の当て字の難しさを伺わせる。

世界最長距離列車は前述の「ロシア号」モスクワ~ハサン~平壌の列車であったが、経済的に貧しい北朝鮮国内での線路整備の悪化で、北朝鮮区間の運行は惜しくも打ち切られた(ただし海外サイトではつい最近でもロシア号に連結されている1両編成の北朝鮮客車がロシア語朝鮮語の『平壌-モスクワ』というサボを掲げながらロシアのハサンまで走っており、そこから平壌行きの北朝鮮車両が接続していると思われる)。北朝鮮の金正日総書記も飛行機利用を避け、シベリア鉄道を経由してモスクワまで特別列車で訪問したことがある。

53・54列車のハリコフ(ウクライナ)~ウラジオストクの列車が9657kmの現在運行中の世界最長距離列車でウクライナ車両(ウクライナ国旗色)を使用しており、極東ロシアではるか東欧のウクライナからの客車が見られる。

しかし国際列車が走っているにも関わらずシベリア鉄道沿線の駅名版などには英語表記がないためにロシア語の会話集とシベリア鉄道の旅行ガイドブックがなければかなり苦労する。また車掌も乗客も英語が話せない人が多い。

意外と忘れがちだが日本は樺太と朝鮮が統治下だった頃はロシア(1922年以降はソ連)とは陸で繋がっており、朝鮮からシベリア鉄道経由で欧州行国際列車が走っていた。また太平洋戦争終結までは、日本各地から朝鮮・中華民国、そして欧州のローマ・ロンドンに至るまでの国際連絡運輸が行われており、それら各地への切符を主要駅で買う事ができた。松岡洋右外相は日ソ中立条約を結びシベリア鉄道で帰京する際には、スターリンに駅頭で見送られた。日本はシベリア鉄道と関わりが深いのにシベリア鉄道旅行に消極的なのは、おそらく北方領土の不法占拠でロシアに対する負のイメージが強いことが一因であろう。

[編集] シベリア鉄道に関連した作品

ドキュメンタリー
  • NHK特集 名作100選 『シベリア鉄道~9,000キロ8日の旅~』(1982年) ※ 前編・後編の2巻構成。
映画
アニメ
書籍

[編集] 関連項目

歴史的観点
シベリア鉄道と直通運転を行う鉄道
欧亜連絡運輸について
対抗鉄道計画

[編集] 脚注

  1. ^ ただし、通過ビザの取得が難しかったことからシベリア鉄道の利用はやや難しく、メインルートは太平洋航路でシアトルに出て、アメリカ大陸を横断後、ニューヨークから大西洋航路で欧州に向かうルートであった。この場合、ロンドンやパリまで約20~25日程度の行程となる。
  2. ^ China-to-Germany Cargo Train Completes Trial Run in 15 Days - bloomberg
  3. ^ Mitsui talking to Russian railway operator on trans-Siberian freight service
  4. ^ 『秋田魁新報』 2007年10月23日
  5. ^ 『日本経済新聞』2007年10月18日
  6. ^ 『西日本新聞』 2007年10月22日
  7. ^ Beijing to Hamburg fast cargo rail link planned - China Post

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
旅行記