食堂車
食堂車(しょくどうしゃ)とは、鉄道の客車(鉄道車両)の一種で、広義には車内に調理を含む供食設備を設けているものをいう。本項では、日本国内の食堂車と日本国外の食堂車についてわけて解説する。
目次 |
日本の食堂車 [編集]
日本国内で食堂車を連結する理由に以下のものがあげられる。
- 長距離列車として運行されるため、食事時間帯と重なることから乗客への供食という観点。
- 運行距離としては最長2 - 3時間程度ではあるが、乗客へのサービスの一環として。
前者は日本全土に建設・運営を行ってきた日本国有鉄道(国鉄)→JR各社に連なる私営鉄道・官営鉄道によるものに多く、後者は地方鉄道法・軌道法による都市間ないしは観光鉄道が起源とした20世紀後半以降現在に連なる私鉄・民鉄によるものが多い。そのため本項では、前者を「国鉄・JR」、後者を「私鉄」と分類した上で解説を行う。
国鉄・JR [編集]
国鉄では1970年代(昭和50年代前半)までは、ほとんどの長距離列車に食堂車が連結されていたが、列車の速度向上や長距離列車の廃止などにより運転時間が短縮されてきたことや、食堂車を利用していた主な客層である長距離乗客の航空機や高速バスへの転移が進んだことから、食堂車を連結する列車は減少の一途をたどり、現状では本州 - 北海道を結ぶごく少数の夜行列車に限られている。
歴史 [編集]
明治から第二次大戦まで [編集]
日本初の食堂車は、1899年5月25日に私鉄の山陽鉄道(現・山陽本線)が運行した官設鉄道京都 - 山陽鉄道三田尻(現・防府)間の列車に連結した食堂付1等車である[1]。当初は瀬戸内海航路への対抗とともに1等車の付随施設の側面が大きかった。この車両は、山陽1227 - 1229号で国有後のホイシ9180形と考えられている[2]。食堂営業は山陽鉄道の直営の後、神戸の「自由亭ホテル」(後の「みかど」)の請負となった。官営鉄道(国鉄)では1901年12月15日[1][3]に新橋駅 - 神戸駅間の急行2往復に連結[4]され「精養軒」が運営し、日本鉄道では1903年に「仙台ホテル」(現:「ウェルネス伯養軒」)の請負いによって導入された[5][6]。
このときは1・2等車(現・グリーン車)の客しか使用できず、官営鉄道・日本鉄道でも同様だった[5]。利用区分を設定した理由として、利用者層の日常的な生活習慣などを考慮[1]、3等車の客には当時行儀の悪い者が多かったため、1・2等客に不愉快な気持ちを抱かせないようにする配慮、あるいは本来の座席より良い車両で漫然と時間をすごすことの防止[7]であったとされる。その後、1903年10月から山陽鉄道では閑散時間帯には3等客への部分開放を行ったが、3等車から1・2等車内を通って食堂車へ来るのは禁じられ、駅に停車しているときに車両の外を移動することと身なりを整えることが求められたという。鉄道院でも、1919年8月から「一部食堂車に改造を加え、あるいはその連結位置を変更」して列車全体の旅客に開放した[8]。食堂車を挟んで1・2等車と3等車を分ける施策は、戦後の初期(1950年代)まで続けられた。詳細については、下記も参照。
当初は上級旅客の利用が前提であったことや和食より洋食が調理加工の幅が単純であるためにどの食堂車もいわゆる洋食を専門に供給していた「洋食堂車」を連結していたが、1906年(明治39年)4月1日から新橋 - 神戸間の三等急行列車に和食堂車が初登場[1]。メニューは和食が主体であったが、洋食でも一般に普及している料理は提供されており、形式が制定された際「ワシ」が用いられた[1]。1929年に愛称が付けられた特別急行列車「富士」は1・2等車のみで編成された関係で洋食を給していたが、3等車(現・普通車)のみで編成されていた「櫻」(さくら)では和食を給した。そして1934年以降になると洋食を提供する食堂車は、東海道・山陽本線を走行する「富士」・1930年運転開始の「燕」・山陽本線京都 - 下関間[9]1等展望車連結の急行7・8列車・東京 - 神戸間1・2等車のみの急行17・18列車[10]・1937年運転開始の「鷗」のみになり、他はすべて和食堂車になった[11]。
営業面においては、1908年に鉄道国有化によって食堂直営廃止の方針が打ち出され、食堂営業はすべて請負制に移行することとなった。東海道・山陽線では「みかど」「精養軒」に大阪の「東松軒」(後の「水了軒」)が加わり、東北・常磐線では「仙台ホテル」、九州島内は門司の「日本亭」(後の1912年に福岡の「共進亭」が参入)が担当した。その後にも参入業者は増加し、サービスを競う中で東松軒では1930年7月5日から東京駅 - 大阪駅間の不定期急行列車でウェイトレスを試行、翌年10月からは特急「櫻」を皮切りに本格導入も行なわれた[12]。運営では順調ではあったものの、昭和に入ると利用客へのサービス停滞や収支不明瞭な業者がでるなど問題となり、1938年1月に鉄道関係者と列車食堂業者による協議会がもたれ、その中で列車食堂の経営統合を計る案が浮上した。そして9月15日「日本食堂株式会社」(現・日本レストランエンタプライズ<NRE>)を設立、10月1日から営業を開始した。
大戦前は特別急行列車・急行列車に限らず、山陽本線・東北本線・日光線・参宮線、日豊本線・根室本線などの準急列車や普通列車にまで和食堂車が連結されていた[13]。
日中戦争や太平洋戦争による運行や物資統制により、特急列車や一部の長距離の急行列車を除いて定食が簡素化し、単品の料理も1人1品の制限や代用食材の使用、テーブルクロスの廃止など風当たりの強い物となり、1944年4月1日をもって中断した[14]。使用が停止された食堂車は各地に疎開留置されたり3等車に改造されたが、一部では旧調理室部分を利用する形で配給制ではあるが食料[15]などを提供したものが存在した。
第二次大戦後 [編集]
戦後は、連合国軍の支配下により1945年から連合軍専用列車の食堂車の営業から再開した。その後、1949年にはスハ32形やオハ35形からの改造による半室合造車とはいえオハシ30形が登場し、同年9月の特急列車「へいわ[16]」復活と同時に同列車と東京 - 鹿児島間の急行1・2列車[17]に連結・営業を復活させ、以後順次拡大していった。しかし、1960年代ごろより普通列車・急行列車が徐々に客車から電車・気動車化されると急行形電車ではビュフェに転換、気動車では特急用車両のみ食堂車が製造されたことから、食堂車は客車による夜行列車ないし特急列車中心の営業となった。
1958年、最初の電車特急列車として20系→151電車を用いて運行を開始した「こだま」号は「ビジネス特急」として運行されたことや試作的な要素があったため、当初は半室食堂車で3等車との合造車となるビュフェ車(モハシ20→モハシ150→モハシ180)のみであった。これが半室食堂車を「ビュフェ」と呼ぶことの初出とされる。本格的な全室食堂車は1960年の「つばめ」電車化の際に登場したサシ151形で、のちに登場した特急列車用食堂車キサシ80形・キシ80形・サシ481・489形・サシ581形・キサシ180形に構造・デザインが踏襲されている。
急行列車が電車化された際には、半室食堂車のビュフェとして連結した。ビュフェでは調理設備が食堂車に比べて簡略化されており運営人員も少ないことから、本格的な調理を行なうことは少なく比較的簡単に労力をかけずに調理できる軽食や飲料が中心となったが、1961年12月に電子レンジをサハシ153-23に設置しテスト運用を行ったところ結果は良好で、以後は調理済みの冷凍食品や冷蔵食品を電子レンジで再加熱して利用者に供することができるようになり、メニューの幅も広がった。また東海道本線急行列車群では寿司[18]を、東北本線急行列車群・信越本線急行列車群・中央本線急行「アルプス」などではそば・うどんや丼物を供していた[19] 。
営業面では、1949年の東海道本線の特急列車運転を契機に復活した食堂車では日本食堂の1社が担当したが、一社独占による弊害を指摘されるようになり、1953年より特急「つばめ」の食堂車を帝国ホテルが担当[20]したほか、都ホテル(現・都ホテルズ&リゾーツ)・新大阪ホテル(現・リーガロイヤルホテル)に続いて鉄道弘済会や上越線列車で営業した大日本食堂→聚楽[21](現・聚楽ティ・エス・エス[22])も参入。さらに1970年代には鉄道弘済会系の大鉄車販・金鉄車販(現・北陸トラベルサービス)・中国車販・九州車販(現・西日本トラベルサービス)なども在来線急行ビュフェ営業に参入し、食堂車・ビュフェ黄金時代を支えた。
1970年代以降 [編集]
しかし、在来線においては1970年代以降は食堂車の営業休止もしくは連結しないケースが多くなった。これには以下のような理由がある。
- 1967年11月15日に発生した急行「安芸」でのマシ38形全焼事故により、当時幹線系の長距離急行列車に組み込まれて運用されていたマシ29形やマシ38形などの戦前製食堂車が、内装が木製で火災に弱いことなどを理由として急遽運用から外された。以後、後述の北陸トンネル火災事故まで約5年間は、内装が近代化されていたマシ35形・軽量客車のオシ17形とオシ16形、それに特急用のナシ20形の計4形式が食堂車として残されたものの、運用を外された戦前製食堂車の分の不足を車両新造や車体更新などによって補う措置はとられなかった。
- 1972年に発生した北陸トンネル火災事故の出火原因が、当初は食堂車の石炭コンロとされたため[23]。
- 国鉄の財政難により、廃車となった旧型車の代替車両製造が予算的に困難になった。
- 食堂事業者の人員(特に女子従業員の)確保が難しくなった[1]。
- 給与水準がそれほど高くない割には労働条件が厳しかったことも一因。
- 労働条件が通常の食堂と異なり「常に揺れる」・「厨房が狭い」・「専門化されアラカルトメニューの豊富さをまかなえない」などの特殊性があるが、事業者側も利用率の減少によりそれに対するノウハウを伝える様な教育制度を採用しなかったという面もある。
- 相次ぐ特急列車増発により食堂車営業列車が急激に増え、人員面に余裕がないことから特急と急行(ビュフェも含む)を並存していた線区では特急列車の食堂営業のみに絞る傾向も強まった。
- 特に新幹線博多開業に備えて後述の通り新幹線に全室食堂車が連結されることとなったが、多数の要員を確保する必要から、1974年始め頃から在来線特急(特に寝台特急)で食堂営業を休止する列車が続出した。
- 通常の飲食店と異なり利用客が限られることによる回転の悪化。さらに自由席代わりにビールやコーヒー1杯で長時間占領するマナーの悪い乗客も目立ってきた[24]。
- 昼行特急列車の増発ならびに新幹線との連携、さらには長距離移動で航空機や高速バス利用の進展により夜行列車の需要が長距離であっても減退してきたことにより、夜行列車自体の運行区間の短縮および効率化を図るために相対的なサービス低下を余儀なくされた。
- 新幹線を含む昼行特急列車の増発による特急列車の一般化やスピードアップなどで乗車時間が短縮され、食堂車で食事を摂る必要性が減少した。さらに食堂車を利用していた主な客層であった長距離客が航空機利用に転移したことも、食堂車の需要減少の一因であった。
- 1980年代以降になると、コンビニエンスストアなどにおける弁当販売の普及や、ファーストフードチェーン店の台頭などにより、食習慣や価値観の変化などから食堂車の利用率が低下した。
- 他と比較すると割高な価格設定[1]。駅構内にある食堂やファーストフード店で扱うメニュー、コンビニエンスストアの弁当は食堂車のメニューや駅弁と比べ廉価であることから大きな影響をおよぼした。
- 利用客が多く、運営面でも黒字であったにもかかわらず、国鉄による車両運用合理化の方針で編成から外されて廃止になったケースもあった。
これらの状況から在来線では、ビュフェ車連結の電車急行列車では1976年11月に中央東線の「アルプス」ならびに信越本線の「信州」・「妙高」を最後に廃止、食堂車連結の昼行特急列車は1986年11月の「おおとり」・「オホーツク」を最後に廃止された。一方で1981年にはキハ183系気動車のキロ182の車内の一部を長距離客に配慮して0系新幹線のビュフェ車と同様の設備を持つ厨房を備えた車販準備室兼売店にした(ただしJR北海道になってからは、車内での調理は行われなくなった)。
また1985年には「雷鳥」に和式グリーン車「だんらん」(サロ481形500番台)が登場した。この車両はサシ481形を改造したもので、旧調理室はビュフェとし軽食類の提供を行うという新たなサービス展開の提案がされた。しかし、1989年の「スーパー雷鳥」登場時に和式グリーン車そのものが廃止されたため、当該車両は一部が廃車、一部が通常座席のサロ481形2000番台に改造されビュフェ部分はラウンジに改装されたが、小規模ながら「サンダーバード」登場後の1995年11月までビュフェと売店として営業した(以後は車販基地として使用)。また、このコンセプトは「白山」に連結されたラウンジ&コンビニエンスカーでカレーライスや弁当類などの軽食を電子レンジで暖めて販売するスタイルに承継された[25]。
分割民営化以降 [編集]
原則的に分割民営化後は、1990年までに電車・気動車の食堂車は淘汰され、東京 - 九州間の寝台特急(いわゆる「九州ブルトレ」)、青函トンネル開通後に運転が開始された「北斗星」「トワイライトエクスプレス」の対北海道寝台特急のみで食堂車営業が継続された。
対北海道の2列車では、事前にみどりの窓口で食事券を購入するコース料理の予約制と「パブタイム」と呼ばれるコース料理終了後に設定される予約不要のスナック的営業を行い、従来の「予約不要で食事を取るための食堂車」から、「列車内での食事を楽しむエンタテインメントとしての食堂車」というコンセプトへの転換が図られた。
一方、九州ブルトレでは従来からの営業スタイルで一定の評価と営業実績も維持されていたが[26]、1990年3月の改正で東京 - 下関間の「あさかぜ3号・2号」にラウンジカーが登場し、サービスカウンターでうなぎ御飯・カレーライス・牛丼・焼そば・たこ焼き・シュウマイなど温かい料理を提供した。
しかし、このころより利用客が減少してゆき1991年6月1日で「みずほ」・「出雲1号・4号」の食堂車営業が終了となった。ただし食堂車は引き続き連結され供食内容を見直し売店として営業するスタイルの変更となり、日本食堂の従業員が電気コンロ以外の設備を利用して暖かい食事の提供を行った。1993年3月の改正で、九州ブルトレ全列車の食堂車営業が終了し売店営業に移行した。
以後の九州方面夜行列車の売店営業の推移は以下のとおり。
- 1994年12月ダイヤ改正で「みずほ」・博多「あさかぜ」廃止。
- 1997年11月ダイヤ改正で「富士」・「はやぶさ」が売店営業の食堂車が編成から外され、下関「あさかぜ」が長野新幹線開業による車内販売員の従業員確保で売店営業を休止。
- 1998年8月中旬、「出雲」の売店営業が「サンライズ出雲」運転開始による下りダイヤ繰り下がりで営業を終了[27]。連結されていた食堂車は「フリースペース」として活用されることになり、売店営業列車が東京 - 長崎間の「さくら」のみとなる。
- 1999年12月ダイヤ改正で「さくら」は「はやぶさ」との統合により売店営業の食堂車連結を中止しサービス終了[28]。売店営業休止後も「フリースペース」として食堂車が連結されていた「出雲」は2006年に列車が廃止になるまで残存することになった。
新幹線 [編集]
1964年開業の東海道新幹線では、東京 - 新大阪間を当初は「ひかり」で4時間、「こだま」で5時間、翌年より約1時間短縮されそれぞれ3時間10分・4時間程度と運転時間が短く0系電車では本格的な食堂車の連結は見送られ、12両編成中に35形ビュフェ・普通合造車を2両連結して営業した。ビュフェ部はテーブルと回転椅子を装備した着席式で、メニューの上でも比較的食堂車に近い機能を有していた[29]。
大阪万博を翌年に控えた1969年夏ごろより輸送力増強を目的として16両編成化されたが、「ひかり」編成と「こだま」編成に分離し「こだま」編成では5号車を売店車(25形400番台)に差し換え、以降「こだま」用編成はビュフェ1両が正規となった[30]。
1972年の山陽新幹線岡山暫定開業時も、引き続き食堂車の連結は見送られた。
1975年の博多開業に際して、最速の「ひかり」でも所要時間が6時間以上となるために、1974年より既存のひかり編成に36形食堂車が組み込まれることとなり博多開業を前に一度に96両が製造された[31]。新幹線では車体長が在来線より5m長く幅も50cm広いことから、在来線の設計を基本にしながらも食堂内の山側は4人掛け海側は2人がけのテーブル設置とし、山側に独立した通路を設け通り抜ける乗客と食堂車利用者の分離を図った[32]。1976年の22次車では狭窓に設計変更された1000番台区分が3両追加増備され、36形は計99両が製造された。また、同時にビュフェ車は立食式の簡易形に設計変更された37形に移行した[33]。
1985年にデビューした100系電車では、食堂車は2階建車両で2階は客席、1階は厨房と売店と通り抜ける乗客の通路とした168形を組み込んだX編成として製造された。しかし、1987年の増備車からは東京 - 新大阪間での運用が主体となることや、スピードアップにより食堂車利用客が減少しつつある状況を踏まえて、食堂車から1階をカフェテリア、2階をグリーン車とした148形を組み込んだG編成に移行した。ただし、1989年から西日本旅客鉄道(JR西日本)が製造したグランドひかり用V編成では、東京 - 博多間での営業運転が主体となるため再び168形食堂車とした組成に変更された。
全盛期には、定期列車の「ひかり」では全列車食堂並びにビュフェの営業が行われていた。一部列車ではグリーン車へのシートサービスも試みられていたが[34]、カフェテリア車により食堂営業は縮小に転じた。さらに1992年の「のぞみ」運転用に開発された300系電車では食堂車が製造されなかったこと。1995年には0系「ひかり」食堂車は営業休止[35]となり、2000年には100系食堂車の営業も終了し、東海道山陽新幹線での歴史に幕を閉じた。
またこれとは別にJR化後の1988年3月13日ダイヤ改正で運転が開始された「ウエストひかり」では、旅客需要の小さい山陽新幹線を運営するJR西日本が、航空会社との競合が激しい京阪神 - 北九州市・福岡市間での運転で最も売り上げを見込まれたことから、サービス政策上ビュフェを営業することとなった。これには0系37形のビュフェ室を拡大し椅子とテーブルを設置するなどの大幅なアコモ改良を行い投入した。しかし、2000年に「ひかりレールスター」へ発展的解消をとげ運転ならびにビュフェの営業を終了した[36]。
1982年開業の東北新幹線・上越新幹線では運転時間が短いため237形ビュフェ車のみとしたが、2003年に営業を終了した。また、100系同様に2階建車両も製造されたが、200系電車では食堂車は製造されずカフェテリア車の248形とされた[37]。
これら新幹線でも営業終了の理由は在来線と同様なもので利用率低下があったほか、次にあげる要因がある。
- スピードアップによる乗車(所要)時間短縮などの状況を踏まえ、JR各社も不要と判断しており後継車両に食堂車・ビュフェ車を製造しなかった。
- 首都圏 - 九州間のように1,000kmを超える長距離移動では航空機利用が一般化したため、食堂車利用につながる長距離移動の需要も激減した。
営業担当業者は、博多開業の時点で日本食堂・ビュフェとうきょう(ジェイダイナー東海→現・ジェイアール東海パッセンジャーズ)・帝国ホテル列車食堂・都ホテル列車食堂の4社が担当していたが、上越新幹線開業で聚楽が、JR化後に運転開始された「ウエストひかり」で丸玉給食・にっしょく西日本(→Jウェストラン→現・ジェイアール西日本フードサービスネット)が新たに加わり合計7社が食堂営業を行っていた。当時の時刻表には列車ごとに担当の会社が記載されており[38]、また一部では、ステーキやカレーなど一部の特化メニューによって営業を行う事例も見受けられた。
連結位置 [編集]
「編成_(鉄道)」も参照
- 在来線
- 戦前までの列車編成は、食堂車が優等旅客を対象としていたことや、さらに上級車両を下級乗客が極力通り抜けないように等級を区分する位置に編成されていた。戦後になっても基本的に踏襲されたが(あさかぜの例を参照)、連結両数の増加に伴いフレキシブルに対応されるようになった。
- 東海道・山陽新幹線
- 0系・100系ともに16両編成の8号車が食堂車とされた。これは以下の理由によるものである。
構造 [編集]
狭義での食堂車・ダイニングカーは、市中のレストラン並みに労力のかかる本格的な料理の調理・供給が可能な調理設備と接客に充分なテーブル席を備えるものを指す。広義には簡易食堂車であり一般の座席車との合造となっている場合が主流の「ビュフェ[41]」も食堂車に含められる。
車両記号は国鉄・JR在来線において、食堂車・ビュフェとも「シ」で表記される。
全室食堂車 [編集]
全室食堂車は車内を2部屋に区切り、一方の部屋は本格的な調理設備を設置した調理室とし、他方の部屋はテーブル席を備えた食堂とする形態が一般的である。
客車の食堂車は明治末期から大正中期まで車体長17m級の2軸ボギー客車と20m級の3軸ボギー客車が混在、食堂の客席配置も洋食堂車と和食堂車で異なるなどの違いがあったが、大正末期に製造されたオシ27700形以降20m級3軸ボギー車、食堂の客席配置は4人席と2人席を備えた定員30名が標準となり、鋼製客車への移行後もこの形態が踏襲されたが、戦後初の新製食堂車となったマシ35形からは20m級2軸ボギー車となった。1956年に登場した10系客車のオシ17形では、車体幅が拡張されたことで車内レイアウトが見直され、客席のテーブルを4人掛けとして定員40名に増加し、電車・気動車を含む以後の食堂車でもこの配置が基本とされた。なお、食堂内には1936年に製造されたマシ38形で車輪の回転を動力源にした冷房装置が設けられ、マシ35形も同様の冷房を備えたが、この方式は動作に問題も多かったことからオシ17形ではエンジン駆動の冷房装置となった。
厨房内の調理設備は食堂車の誕生以来1950年代まで石炭レンジと氷冷蔵庫を主に使用していた。マシ35形の姉妹形式であるカシ36形では調理室の電化が図られ、電気レンジや電気冷蔵庫を装備したが、電力発生量が充分ではなく故障が多かったことから、マシ35形と同じ設備へ改修して編入した。また、オシ17形も調理設備に関しては、石炭レンジや氷冷蔵庫といった旧式の設備を踏襲した。
電化調理設備の実用化と冷房設備の電動化は、電源車からの集中給電方式を採用し固定編成を前提とした20系客車のナシ20形で達成された。その後、分散電源方式を採用した14系客車のオシ14形、さらに再び集中電源方式に変更となった24系客車のオシ24形に基本設計は踏襲されている。
電車特急用食堂車は、151系電車のサシ151形が基本的には既に登場していたナシ20形をベースに当初より完全電化として設計された。大量に電力を消費をすることから、自車に70KVAの電動発電機 (MG) を搭載した。また回送運転台を客室側妻面に設け、編成組成上の要ともされた。のちに開発・製造されたサシ481・489・581形でも基本設計は踏襲されたが、サシ151形の使用実績を基に回送運転台が調理室側妻面にも増設されている。
気動車特急用食堂車は、第1次製造分となったキハ81系でもサシ151形と同様の完全電化を採用したために、床下には大型水タンク3個のほかに発電用に燃料噴射特性を変更したDMH17H-GエンジンとDM63形発電機を組み合わせた発電セットを搭載した。これらの搭載スペース確保のために走行用エンジンは搭載できず付随車のキサシ80形として製造された。しかし、以下の問題点が露呈した。
- 動力がないキサシ80形を含んだ編成は元々非力であったが、これに加えて長距離で負荷が高い運転を課せられる中で、エンジントラブルが続出した。
- 先頭車と食堂車のみに電源を搭載し、先頭車は非貫通構造でもあるため編成を組成する際のフレキシビリティに欠ける。
このため2次製造分のキハ82系からは、全国に特急網を完備する上で比較的短編成で使用されることも考慮したために食堂車も走行用エンジンを2基搭載した上で電源供給もキハ82形もしくは81形からとし、調理用水タンクを床上の厨房側車端に移設する設計変更を行ったキシ80形に移行した。このため食堂定員が40人から左右1卓ずつ減り8卓32人となった。
1968年に登場したキハ181系では、500PSを単機で発揮するDML30HSAエンジンを搭載したため再び付随車となりキサシ180形とされ、定員も40人に戻った。ただし、発電セットは搭載されずキハ181形から電源供給される形を採った。
製造期間が長期に亘ったために途中でテーブル・椅子のFRP化などの改良が行われたほか、客車ではオシ14形以降、電車ではサシ181形100番台・サシ481-15以降・サシ489形・サシ581形、気動車ではキシ80 37とキサシ180形が、複層ガラスの間に手巻き式のブラインド(ベネシャンブラインド)をはめ込んだ方式に設計変更となり、従来のカーテンは廃止された[42]。また、初期に製造された電車・気動車の食堂車には、食堂出入口ドアの上部に列車位置表示器が取付けられたが、1964年以降製造車からは廃止された。
また寝台急行列車用に製造されたオシ16形は、全室食堂車でありながら寝台設営・解体時の避難場所と言う位置づけも兼ねた「フリースペース」に準ずる扱い[43]から、ビュフェとした車両である。
半室食堂車(ビュフェ) [編集]
ビュフェでは電車内の半分程度が簡易食堂となっており、もう半分は一般の座席を配置した客室である。食堂内にカウンターテーブルがあり、カウンター内部に電子レンジや冷蔵ケースなどの簡易な調理設備を設置している。カウンターの向かい側の窓際には進行方向と平行にテーブルを設置している。調理設備が少ないためメニューは軽食に限られ、飲食スペースは狭く立食スタイルが一般的で、カウンターに椅子すらない場合もあり、カウンター席があってもその数は少ない。
1958年に登場した国鉄初の電車特急「こだま」では、試作要素もあったために当初は半室食堂車のビュフェとされた。このコンセプトは1960年6月に153系電車で運行を開始した東京 - 大阪間の急行「せっつ」に組み込んだサハシ153形に引き継がれ、以後のサハシ165・169形・451・455形にも踏襲された。これらの急行電車のビュフェでは、付加価値を付けるために寿司や蕎麦、うどんなどを調理し提供するスペースが設けられていた。
これらの車両が製造された時期は、冷房化される以前もしくは一等車のみが冷房化されていたが、ビュフェ内部は冷房を完備していたことや調理も電化されていたために自車給電用に40KVA MGが搭載されていた[44]。この要因により、夏季には軽食を購入し涼む利用客で賑わっていた[45]。のちの普通車冷房化に際し、一部の車両は冷房用電源供給も兼ねた110KVA MGに換装されたためにビュフェが営業休止措置となった以降も編成から抜くことが難しく1980年代前半までは編成に組み込まれたままの列車も多く見られた[46]。
客車においても上記ビュフェとは別形態で、1960年代までは半室食堂車が存在しており、主に地方都市間の準急・急行列車に連結された。車内構造はビュフェと異なり、前述の全室食堂車の設備(調理室と食堂)を半分に縮小して残り半分を客室とした。
JR化後に製造された食堂車 [編集]
分割民営化後に東日本旅客鉄道(JR東日本)・九州旅客鉄道(JR九州)で食堂車を新造したほか、改造名義だが車体新造された食堂車が北海道旅客鉄道(JR北海道)で登場している。
- オシ25 901
- 1989年にJR東日本が、次世代寝台列車用車両の方向性を検討するため24系夢空間のダイニングカーとして東急車輛製造で製造させた試作車両。展望室を有していたために列車の最後尾に連結された。一般の24系客車とともに編成を組成され「北斗星」系統をはじめとする臨時列車や団体専用列車で運用されたが、2008年3月で営業運転を終了し廃車。現在では、埼玉県三郷市のショッピングセンター「ららぽーと新三郷」で展示されている。
- サハシ787-1 - 14
- 1992年にJR九州が製造した787系電車に連結されていたビュフェ車。九州新幹線開業による運用距離・時間の短縮に伴い2003年に営業を終了し、現在では全車サハ787形200番台に改造されている。
- マシE26-1
- 1999年にJR東日本が製造したE26系客車の食堂車。編成全体が2階建車両として設計・製造されたことから、1階が編成中の通り抜け廊下と従業員用寝台、2階が客席、上野寄り車端部(いわゆる「平屋部分」[47])に厨房を設置している。「カシオペア」で現在も運用されている。
- キシ80 501
- 1988年5月にJR北海道が苗穂工場で保留車のまま承継されたキシ80 29を改造した食堂車。ジョイフルトレインのトマムサホロエクスプレスに組み込むために合わせた車体を新造し載せ換えたもの。車体は座席車のハイデッカー構造ではなく平屋構造であるが、車体断面形状は他車と揃えられている。また食堂定員が、片側を1列としたためオリジナル車の32人から24人に減少している。食堂利用者の減少に伴い、1998年冬の運行から編成から外されたが、そのまま苗穂運転所で留置され2002年に廃車となった。
現状 [編集]
2013年現在運行されているものでは、夜行列車の「北斗星」・「トワイライトエクスプレス」にのみ連結されているスシ24形がナシ20形の電化調理設備と客席を基本的に踏襲している狭義の本格的食堂車である。スシ24形はもともと24系客車に存在したオシ24形とは全く別の車両で、485系電車のサシ481形・489形からの改造編入車であるため、寝台車特有の高い屋根から一転して低屋根にAU13形[48]分散式冷房装置の並んだスタイルのほか裾絞りの車体など異彩を放っている[49]。
JR九州の「ゆふいんの森」で運用されるキハ71系・キハ72系にはビュフェが設置されているが、食堂車を示す車両記号「シ」は使用しておらず全室普通車の「キハ」となっている(詳細は後述)。肥薩線の「SL人吉」用客車であるオハ50 701にビュフェが設置・営業されている。
JR北海道ではSL冬の湿原号やSL函館大沼号にはスハ43系客車の座席車を改造した「カフェカー」スハシ44 1が連結されているが、飲料などの販売のみで、通常の料理の調理・提供は行っていない。同社には「バーベキューカー」ナハ29000形が在籍する。
JR九州が2013年10月より運行するクルーズ列車「ななつ星in九州」には、新たに製造される「ダイニングカー」が組み込まれる予定である[50]。
2013年2月、JR東日本は東北地区で「移動するレストラン」というコンセプトの臨時列車Tohoku Emotionを、キハ110系気動車を改造して2013年秋より運行すると発表した[51][52]。
北斗星・カシオペア [編集]
「北斗星」(グランシャリオ)・「カシオペア」(ダイニングカー)の両食堂車は、出発時より21時すぎまでの間は「ディナータイム」として和洋食ともコース料理のみの予約制営業である。ディナータイム終了後、21時30分(利用状況により変動あり) - 23時(オーダーストップは22時30分)までは「パブタイム」となり、列車利用者であれば予約なしでも利用できる。ハンバーグステーキやビーフシチュー(単品・定食)・スパゲッティ・カレーライス・ビール・ワインなどのドリンク類などが用意される。ただし、食材は上野でしか積み込まないため、上りの札幌発では売り切れか売り切れ間近となっていることも多い。
翌朝6時30分より朝食営業を行っており、こちらは予約なしで利用が可能。メニューはドリンク類と和食または洋食が用意される。 2010年12月16日までは同一のおかずで、ご飯・味噌汁セット(和食)かパン・スープセット(洋食)のどちらかを選択する形であったが、2010年12月17日よりリニューアルが行われ、おかずの種類が和食、洋食で異なる形となる。和食、洋食ともデザートのプリン及び食後のコーヒー・紅茶は共通となる。
トワイライトエクスプレス [編集]
「トワイライトエクスプレス」の食堂車「ダイナープレヤデス」は、17時30分から21時ごろまでを乗車前からの予約定員制である「ディナータイム」とし、季節ごとに内容の変わるフランス料理フルコース(1万2000円)を提供している。以後、21時ごろから23時ごろまでを上記の「北斗星」・「カシオペア」と同様に「パブタイム」とし、ビーフピラフのほか、ビールやワインなどドリンク類、地鶏のから揚げやミックスナッツといった軽いおつまみを提供している。なお、「北斗星」・「カシオペア」とは異なり、和風日本海懐石御膳(6000円)は食堂車で食べることはできず、ルームサービス(A寝台のみ)かサロンカーなどで食べることになっている。
このほかに車内で限定販売するホットディシュ、コールドディシュ、温製スープ、デザートにマドレーヌなど食堂車の厨房で調製した「ルームセット」(1500円)を提供する。かつては臨時列車運転開始日の1989年12月3日から2011年6月30日までは食堂車の厨房で調製した弁当の「プレヤデス弁当」(1500円)を提供していた。
翌朝6時 - 9時までは「モーニングタイム」となっており、和・洋の朝食を提供している。45分刻みの定員制であり、希望者は乗車後に車内で和食・洋食のいずれかと利用時間を予約をすることになっている。ただし和定食は数が限られており、予約の聞き取りは1号車より行うため(ウエルカムドリンクサービス時)、B寝台乗車の場合は和定食を予約できないこともある。
大阪発では13時 - 16時まで、ビーフシチュー・カレーライス・サンドイッチなど品数限定ではあるが「ランチメニュー」を提供しており、現在の日本の列車で朝昼夕3食を提供する唯一の列車である。一方、札幌発は14時台と遅いため「ティータイム」として発車後から16時ごろまでコーヒー紅茶程度のみ提供している。
ゆふいんの森 [編集]
「ゆふいんの森」の場合、ビュフェと名乗ってはいるが、目的地の由布院まで博多からでも2時間程度と乗車時間が長くないため、移動中の喫茶店としての側面が強く、提供するのは地ビールなどの飲料やおつまみが主体で、食事メニューの提供は駅弁と軽食に限られている。かつてはカレーライスやスパゲッティなど温かい食事メニューも充実(鹿児島本線特急「つばめ」と共用)していたが徐々に縮小され、2010年12月31日までは「あんかけ堅焼きそば」を販売する程度となっていた。その後は博多駅の駅弁業者である寿軒廃業等の関連で一時期温かい食事メニューの販売は中止されていたが、九州新幹線全線開業に伴い2011年3月12日から「あんかけ堅焼きそば」に代わり「和風オムライス」で販売を再開した。
私鉄 [編集]
国鉄・JR以外の日本の鉄道事業者(いわゆる私鉄。以下単にこう称する)では、おもに座席指定席を有する観光目的の特別急行列車を運行する会社での事例が多い。
歴史 [編集]
鉄道国有化後も存続した日本の私鉄で初めて食堂車を連結したのは、南海鉄道(現・南海電気鉄道)である。
同社は電化以前の1906年に一等・喫茶室の合造客車を製造し、梅田水了軒に喫茶室の運営を任せる形[55]で、大阪 - 和歌山間の急行列車(浪速号・和歌号:1日2往復)にて運転開始している。当時の同社で取締役を務め、この食堂車連結計画を推進した大塚惟明はやはり食堂車を運用した讃岐鉄道(現在のJR四国予讃線の一部の前身)出身で、同社時代に日本最初の女性給仕を食堂車に乗務させるなど、アイデアマンとして知られた人物であった[56]。また、当時の南海鉄道は社長の松本重太郎(二代目山陽鉄道社長でもあった)をはじめ山陽鉄道と役員や株主が多数重複しており、しかも汽船との競合が同様に存在していたことから、食堂車をはじめとする積極的な接客サービスの展開を受け入れやすい社内状況にあった[57]。
この車両は1907年の南海線電化完成時に喫茶室の営業を終了し、その後1917年に廃車となったが、大塚が社長となった後の1924年に登場した電7系ではこの一等・喫茶室合造客車のコンセプトを踏襲する形で、また近い将来開業が予定されていた阪和電気鉄道に対抗する目的で、日本の電車では初となる食堂車の電附6形211 - 220(製造直後に551 - 560に改番)が製造された。これは手荷物室・特別室(特等)・本格的な厨房を備えた食堂の合造車で、食堂に日本の鉄道車両としては初となる扇風機を設置、さらに一部の車両ではこれも日本初の車内でのラジオ放送サービスまで試験的に実施された[58]。この電附6形は貫通幌で結ばれた固定編成を組む電7系の象徴とも言うべき車両であり、実際の食堂営業期間は画期的な20m級鋼製車である電9系の就役開始もあって僅か5年と短期間にとどまったが、その豪華な設備と先進的なサービスは長く語り継がれ、また後年の特等の廃止に当たっては反対運動まで行われるほどの好評ぶりであった[59]。
なお、この電附6形は1926年にまず557 - 560の4両が食堂を撤去、翌1927年に555・556の2両が運用上の必要から同様に食堂を撤去した。1930年には残る4両のうち551 - 553の3両が食堂を撤去の上で並等車に格下げられ、この時点で南海鉄道での食堂車営業は終了した。最後まで食堂付きのまま残っていたのは、事故で長期休車となっていた214号→554号のみであった。同車は、1930年10月11日付で実施された、南海線在籍車両への記号付与の時点でも食堂を残置したままとなっており、このため書類上、特別室(イ)・食堂(シ)・手小荷物室(ニ)合造の制御車(ク)として「クイシニ」という記号が与えられ、クイシニ554形554号となった。もっとも同車は以後、その食堂設備を営業運転で使用する機会を与えられることはなく、最終的に1932年1月6日付で事故修復と合わせて他の元同型車と同様の並等制御車に改造された。このため食い倒れの街、大阪を代表する繁華街である難波を発着する列車に相応しい、この「クイシニ」といういささか出来過ぎた記号はそのまま営業運転に用いられることなく消滅となっている[60]。
戦後、国鉄・JRの車両と同じ事例として本格的食堂車を製造したのは伊豆急行サシ191形のみである。1964年にサントリーが後塵を拝していたビール事業テコ入れのために観光地でのPRも兼ねて、「10年間は食堂車で車内でサントリー製品を販売する」という契約で伊豆急行に贈与という形で登場した。食堂車を称してはいるが、前記のような理由から車内で本格的な食事が供される機会は少なく、ビアガーデンに類似した営業形態であった。
スウェーデン語・デンマーク語など北欧言語で「乾杯」を意味するスコールにちなみ「スコールカー」と名付けられたサシ191形はデビュー当初は話題になったが、当時国鉄が「あまぎ」など伊東線 - 伊豆急行線乗り入れ列車に食堂車を連結していなかったこともあって伊東線乗り入れに難色を示し、自社線内のみの営業となった。後年には伊東線へ乗り入れはおこなったものの食堂車は伊東線内営業休止であったため、収益が上がらず次第に存在意義が薄れてしまった。結局、営業自体も早期中止となり[61]使用されないまま伊豆稲取駅の側線に留置され、契約の切れた1974年に普通車のサハ190形に改造され、2004年に廃車された。
また、私鉄の長距離列車としては最長でも距離は200km、乗車時間は2 - 3時間でしかないため供食設備・メニューも茶菓・軽食中心になっている。戦後は、小田急ロマンスカーや近鉄特急に存在したスナックカーでの調理スペースで調理(電子レンジで加熱)した軽食を座席まで運ぶシートサービス方式が主流で、東武鉄道100系(スペーシア)にはビュフェサービスが設置されているものの始発駅発車直後にスタッフが各座席にメニューを配り乗客が購入に出向く売店形式を採っている。ただし、これらの設備も通勤時間帯や運行距離の短い列車では運行されない事例も多く見受けられる。一部列車では、スタッフの帰宅・出勤など人員の確保問題、着席サービスが優先であること、物品の補充問題などの理由により営業されない事例も多い。
このような状況の中、2013年には「列車による旅行」そのものをセールスポイントとして供食設備・サービスを取り入れた車両が近鉄特急と肥薩おれんじ鉄道に相次いで登場した。従来のような「移動中の付加的な食事の提供」ではなく、食事の提供をサービスの一環としている点が特徴である。
現状 [編集]
東武鉄道 [編集]
東武鉄道では日光線特急スペーシア「けごん」・「きぬ」でビュフェサービスを行っている。
戦前に展望車「トク500形」に供食設備を備えさせ、最後尾に連結したことが起源である。第二次世界大戦の激化に伴い列車そのものが廃止されたが、戦後には5700系・1700系の売店で茶菓の販売を再開。固定編成を採用した1720系DRCで本格的なビュフェを初めて採用。1990年デビューの100系(スペーシア)では、座席までスタッフが運ぶ「シートデリバリーサービス」を導入した[62]。しかし、人件費などの問題からデリバリーサービスについては1995年に廃止されており、現在では列車発車直後にメニューを配り、希望乗客はビュフェに出向き購入する売店形式に変更された。また、日光・鬼怒川方面への観光・行楽利用客の減少、中間停車駅で乗降する区間利用客の増加という日光線特急をとりまく環境の変化もあり、現在ではワゴンサービスを主体とした車内販売に移行している。
一部列車とJR線に乗り入れる「スペーシア日光・スペーシアきぬがわ」では営業休止。200・250系による伊勢崎線特急「りょうもう」および300・350系による日光線特急「しもつけ」・「きりふり」・「ゆのさと」にはビュフェの設置はなく、清涼飲料水の自動販売機が設置されているのみである。
小田急電鉄 [編集]
小田急電鉄では1935年の「週末温泉急行」運行で茶菓のサービスが車内販売形式で行われたといわれている[63]。戦後1948年に1910形でロマンスカー運行が復活した際に「走る喫茶室」の愛称で軽食茶菓のシートサービス[64]を開始した。これらの運営スタッフは日東紅茶が1948年の再開時から[65]、森永エンゼルが1968年から参入し担当した[66]。
しかし、箱根・江ノ島地区への行楽客輸送特化から、通勤・通学・買い物客の日常的な区間利用が主体になり、注文を受けてから提供まで時間がかかる「走る喫茶室」のサービスが実態からかけ離れたことから利用客が減少したという理由により、1995年に上述サービスは一旦廃止となった[67]。これらにより車両販売が代替する結果となった[68]が、「ロマンスカーの復権」を合い言葉に2005年にデビューした50000形「VSE」ではシートサービスを復活させている[69]。
近畿日本鉄道 [編集]
2013年3月21日より運行を開始した伊勢志摩方面用の観光特急車「しまかぜ」に、軽食を提供するカフェ車両が連結されている[70]。近鉄特急で供食サービスを実施するのは、前記の「スナックカー」以来である。
肥薩おれんじ鉄道 [編集]
2013年3月24日より、HSOR-100形気動車を改造して供食設備を追加した観光列車「おれんじ食堂(Orange restaurant express)」を運行している。この列車では提供する料理のメインディッシュは沿線業者からのデリバリーであるが、米飯やスープは車内で調理する方式となっている[71]。
供食設備のない列車における供食イベント [編集]
食堂車ではないが、本来供食設備を持たない車両において、事前に利用者を募集し、運行中の列車内で食事、飲料、酒類などを提供するイベントが開催される場合がある。夏期開催の「納涼ビール列車」などは路面電車でも行なわれる事がある。
メイドトレイン [編集]
鹿島臨海鉄道とひたちなか海浜鉄道では2010年3月21日 - 22日の2日間、西武鉄道では2010年12月11日に「メイドトレイン」を運行した。これは秋葉原などに存在するいわゆるメイド喫茶を列車内で行うという試みであり、鹿島臨海鉄道では7000系「マリンライナーはまなす」を用い、ひたちなか海浜鉄道では旧型気動車を、西武鉄道では10000系レッドアロー編成用い開催した。車両には特別な改造などは行わず、形式変更もなくあくまで車内販売として行われたが、「マリンライナーはまなす」ではビールサーバーも設置し生ビールの販売も行われた。また、車内販売のワゴンはJR西日本特急「やくも」で使用していた物の譲渡品であった。
明知鉄道 [編集]
明知鉄道では「イベント列車」として、ロングシート車にテーブルを設置して車内で食事を提供する試みが行なわれているが、2011年3月からは定期急行列車「大正ロマン号」の下り(明智駅ゆき)列車のみイベント用車両を増結した上でこの車両を「食堂車」と称している。利用には事前予約が必要。
日本国外の食堂車 [編集]
北米 [編集]
歴史 [編集]
アメリカ合衆国で本格的な食堂車が登場したのは1860年代である。それ以前にも供食設備を持つ客車は存在し、列車内における食事の提供は1830年代から行われていたようだが、継続的なサービスに繋がっていなかった。この時代、駅や車内では物売りが果物や軽食を販売し、食事時には食堂のある停車駅で食事のための停車時間がとられていたので、車内での飲食を望む優等旅客はそれほど多くなかった。
このような事情から、初期の食堂車のほとんどは客車の一部を食堂とした小規模なものであった。寝台車サービスで有名なプルマン社は1868年に全室食堂車「デルモニコ」を建造したが、これは例外的な存在であった。プルマン社は優等旅客への供食サービスにも力を入れていたが、その主役はホテル・カーと呼ばれる厨房付きの寝台車で、食事時には座席にテーブルが据え付けられ食事が提供された。
全室食堂車が流行したのは1870年代後半で、東部や中西部の鉄道会社はこぞって食堂車を建造し、コース料理の提供をはじめた。この傾向は貫通路が開発され、車両間の移動が簡単になったことで加速し、19世紀の終わりには長距離列車には食堂車の連結が当たり前となった。
アメリカの食堂車は慢性的に赤字であった。優等旅客を対象とすることからメニューはフランス料理やクレオール料理のコースが主流で客単価も高く、一流レストランと同等以上のサービスを提供するために多数の要員を必要としたことがそれ以上の費用を要した。このため、プルマン社は波動輸送用の数十両を除けば全室食堂車を経営することはなく、各鉄道会社は自社で食堂車を経営し旅客誘致の目玉としてサービスや味を競い合い、全盛期の1920年代には60の鉄道会社が1000両以上の食堂車を運営していた。食堂車運営にあたっては個々のサービスの向上は勿論のこと、経営主体が同じであれば列車が異なっても同質のサービスを提供することが重視され、食器[72]やウェイター、ウェイトレスの制服の統一が図られた。アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道で食堂車を受託経営したフレッド・ハーヴィ・カンパニーの制服はその典型的な例で、この制服をまとった女性従業員「ハービー・ガール」は中西部から西海岸にいたる広大な営業エリアで提供された均質で高いサービスの象徴として好評を博した。
全盛期のアメリカの鉄道では、食堂車のほかにビュフェ・カフェカー・ランチカウンターカーといった簡単な厨房を持つ車両で供食サービスを提供するケースも多かった。その目的は、コース料理を必要としない普通旅客に対する安価な食事の提供と優等旅客の軽食や喫茶の需要に応えることにあり、長距離列車では目的に応じた設備を持つ車両が数両連結されるのが通常であった。
上記のようにアメリカの食堂車は1920年代から40年代にかけて全盛をきわめたが、それ以降は急速に衰退する。優等旅客は航空機に、普通旅客は長距離バス(グレイハウンド)にシェアを奪われ旅客は大幅に減少。多数の要員を必要とする食堂車の経営は成り立たなくなってしまった。多くの場合は列車の廃止とともに消滅したが、食堂車サービスのみ削減し車内販売に置き換えるケースも散見される。サザン・パシフィック鉄道では大陸横断の長距離列車でも自動販売機による軽食販売に置き換えるケースなどがあり、その劣悪なサービスがアムトラック成立の後押しをしたとも言われている。
その後、アメリカの長距離旅客列車の多くは1971年にアムトラックに移行し、食堂車もアムトラックの経営となり現在に至っている。
現状 [編集]
アムトラックの長距離列車のほとんどで供食設備を備える。夜行列車ではコース料理を提供する食堂車を連結しており、中距離列車もカウンターとテーブル席を備えたホットドッグやサンドウィッチを提供するカフェ・カーを連結している。運転時間が長大であることと、駅構内の売店が少ないことや弁当という風習が一般的でないことなどがその理由である。また、ニューヨーク近郊を走るメトロノース鉄道のニューヘイブン線では通勤形電車では珍しくビュッフェつき車両を連結した電車を走らせており、夕方から夜にかけての一部の列車で軽食やアルコールの販売を行っている。
カナダの旅客列車を運行するVIA鉄道においても事情は同様であるが、中距離列車では、供食車両を設ける代わりに旅客機の機内食同様の食事のシートサービスが行われている。
ヨーロッパ [編集]
西ヨーロッパでは日本と同様、食堂車は減少・簡略化傾向にあるが、その様相は国ごとに異なる。
フランスでは、かつて「ル・ミストラル」などの優等列車ではフルコースのフランス料理が提供されていたが、夜行列車を含めてサンドウィッチ程度の軽食を提供するビュフェ車以外は全廃されている。ドイツ・イタリア・スペインなどに向かう国際列車に食堂車を連結するものがあるが、これらはすべて乗り入れ先の国側の鉄道事業者が運営するものである。ユーロスターなど一部の高速列車では狭義の食堂車は連結されていないが、2等車乗客向けにビュフェ車が連結されており、1等車の乗客には座席に飛行機の機内食同様の配膳サービスが行なわれている。
ドイツでは、食堂車の慢性的な経営難により、国際列車や夜行列車を除く本格的な食堂車のビュフェ車(ビストロ)への改装が進められている。メニューは、他国に比べると豊富で経営規模も比較的大きい。
一方、イタリア・スイス・スペインでは昼行列車の食堂車のてこ入れが積極的に行われている。ユーロスター・イタリアの食堂車は本格的な厨房設備を擁する。スイスではファストフード店に似た供食設備を持った車両の試みも行われているほか、一部私鉄の列車にも食堂車が連結され大手私鉄のレーティッシュ鉄道では10両以上の食堂車を保有し、氷河急行などの特別列車のほか通常の急行列車の一部にも食堂車が連結される。スペインでは、国内の長距離列車・国際列車などでのフルコースメニューを中心としたサービスが継続されている。
西ヨーロッパの夜行列車の個室寝台車では、簡単な朝食のサービスを行う列車が多く、朝食料金は寝台料金に含まれている場合が多い。夜行列車の夕食・朝食時刻は前夜指定するのが通例だが、客席まで朝食が届けられる場合と夕食同様に指定した時刻に食堂車へ客が赴く場合の2種類が存在する。
中国 [編集]
中華人民共和国の場合、広大な国土である上に長距離高速列車が存在しないため、現在でも24時間以上(最も長い広州 - ラサ間列車は55時間以上)かけて走破する列車が多数有り、寝台特急などの長距離列車には食堂車が連結されているケースが多い。
中国語では「餐車」(餐车:ツァンチョー cānchē)と呼ばれる。中華料理は地方によって味付けの違いに特色があるが、食堂車でも所属管理局によって味付けに地方色がある。朝食は麺料理のみの場合が多い。最近では、車内販売の弁当も食堂車で調理している。短距離の特急の場合は、車内の売店で弁当・カップ麺・フルーツ盛り合わせ・菓子などを用意して販売しているだけの場合が多い。
韓国 [編集]
韓国では、セマウル号を中心にソウルプラザホテル運営の食堂車を連結し、車内で韓国料理の提供を行うなどしていたが[73]、ソウルプラザホテルが運営から撤退し、その後アシアナ航空の機内食を担当しているランチベル社が事業を引き継ぎ運営していたが、2008年9月をもって撤退。現在は食堂車を改造し、軽食を中心とした「カフェ客車」として運用されている。過去には、車内でハンバーガーを提供するロッテリア運営の食堂車も存在した。2004年3月開業の韓国高速鉄道 (KTX) には食堂車・ビュフェ車ともに連結されていないが、2010年3月2日より運行を開始したKTX-IIでは、スナックバーコーナーが設置されている。
台湾 [編集]
日本の植民地時代より食堂車が存在し、中華民国の鉄道となってからも、洋食を提供する食堂車が連結されていたが、「莒光号」に連結されていた食堂車を最後に、1980年代に姿を消した。また、2002年に自強号に半室ビュフェ車が連結されたが、外部業者への委託営業で、しかも多額の欠損を出した結果、短期間で営業を終了した。現在では、一部観光列車でのみ運用されている。
その他 [編集]
このほか、長時間走行を行う列車が存在する国や地域においては何らかの供食設備を持つことが普通である。東ヨーロッパやロシアなどの長距離列車は食堂車を連結し、インドの長距離列車は調理設備を持つ車両を連結し、調製した料理の客席へのサービスを行っている。
オーストラリアのメルボルンでは路面電車に調理設備とテーブルを備え、市内を運行しながらディナーを提供する「トラムカーレストラン」と呼ばれる電車がある。
脚注 [編集]
- ^ a b c d e f g 国内食堂車誕生111周年 - トレたび 2010年5月21日
- ^ 長船友則『山陽鉄道物語―先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』、JTBパブリッシング、2008年、P.144。なお同所載の図によれば当初は長手方向に置かれた大テーブルの両側の席に旅客が着席する形だったようである。
- ^ 長船、P.146。
- ^ 急勾配区間である国府津駅 - 沼津駅間と馬場駅(現・膳所駅) - 京都駅間は非連結。
- ^ a b 『鉄道ピクトリアル』No.761 P.9。
- ^ この他国有化された鉄道では関西鉄道・讃岐鉄道・成田鉄道の例がある。
- ^ 長船、P.143。
- ^ 『大正8年度鉄道院年報』1921(大正10)年、P.33。
- ^ 1935年からは呉線経由。
- ^ いわゆる「名士列車」
- ^ 洋食堂車は、完全予約制であくまでも洋食専門としており、和食堂車は、和食のほかに比較的安価でかつ一般にも馴染み深い洋食となりつつあったライスカレーやコロッケなどの揚げ物は勿論、ビーフステーキなど洋食堂車でも扱う料理は取り扱っていた。戦後以後の食堂車は、この「和食堂車」から継承されていく。なお、戦前の「洋食堂車」のメニュー・営業形態は、現在のトワイライトエクスプレスの食堂車がそれに近い。
- ^ ウェイトレス導入に対しては利用者からは食堂車内の雰囲気がソフトになった事から利用者しやすくなったと歓迎された反面、チップ収入減少も絡んで列車ボーイからの反発もあったという。
- ^ 普通列車では長距離・観光用のものに限られた。直行列車も参照のこと。
- ^ 食堂車廃止と引き換えの形で同日付から車内販売が開始されている。国鉄線内では1934年に試行された事はあったが、本格的な営業はこの時から。
- ^ 配給された小麦に乾燥野菜・みかんの皮・魚粉などを混ぜ、糖蜜を加えて製造した「鉄道パン」などを販売したとされる。
- ^ 翌1950年「つばめ」に改称
- ^ 戦前の「櫻」→急行7・8列車、のちの「霧島」
- ^ 新幹線開業後の山陽線転出後に職人の確保が困難となり、次第に営業休止となり1972年3月すべての寿司営業が中止されるとともにサハシ153形の営業列車はなくなった。
- ^ これらはあくまで各列車におけるメニューの中核をなすものであり、列車・運転時期によって多少異なるがそれ以外にカレーライスやスパゲティなども提供されていた。
- ^ 営業開始を前に、乗務員をホテル内から募集したところ、30名程度の募集に対して、300名以上の応募者があったという。
- ^ 中華料理や新潟の郷土料理もあるユニークなメニュー提供が特徴であった。
- ^ 1999年に日本食堂と共同出資で設立。
- ^ のちの検証で出火原因は電気暖房関連の電気配線からの漏電によるものと判明した。裸火を使っての調理が禁止となり電気レンジを持たない旧型食堂車は必然的に使用できなくなった。もっとも、20系以前の在来形食堂車の中で唯一、電子レンジと電気レンジを搭載し電化キッチンとなっていたオシ16形は、急行「瀬戸」と「十和田」の運用を最後として火災事故前の1972年3月に6両全車が営業運転を終了しており、北陸トンネル火災事故の時点では、一般型客車列車用食堂車は石炭コンロ搭載車しかないという状況であった。
- ^ このことは衰退理由として指摘されることは少ないが、宮脇俊三の「時刻表2万キロ」や植田まさしの漫画でこうした客の描写が登場する
- ^ 「白山」は長野新幹線開業の1997年10月に廃止され、その後はラウンジカーを組み込んだ編成が昼行特急に運用される場合は、旧コンビニエンスコーナー部は車販基地として使用された。
- ^ 1984年から「みずほ」については「簡易営業」としたため、時刻表上の表記も「ビュフェ」とした。
- ^ 日本レストランエンタプライズ(旧日本食堂)による売店営業終了後は浜坂 - 鳥取間で地元業者が弁当の車内販売を行っていた。
- ^ その後は東京 - 名古屋間でJRCPが、徳山 - 博多間で地元の業者が弁当やサンドイッチなどの車内販売を列車の廃止まで実施していた。
- ^ 36形食堂車が連結される以前は、ビュフェ車においてもセルフサービスではなく、ウェイトレスによる接客サービスを行っていた。
- ^ 輸送力増強以外にもこだまのビュフェの利用率が低く2両運営では採算性などで問題が多かったこと原因の一つだった。また「こだま」全編成の組み換えまでには至らず、1973年8月以降もこだま用K編成47本中17本がビュフェ2両組み込みのまま1両は営業休止で売店扱いのままとされた。後に17本中10本については1975年から1976年にかけて編成中の1両が売店車に差し替えられたが(差し替えられたビュフェ車については増備された「ひかり」編成に転用)、残り7本については1980年9月までビュフェ車2両組み込みのままであった。
- ^ 戦後、食堂車が新規かつ大量に製造されたのはこのときのみである。
- ^ 当初は通り抜ける客に食事を見られないように、食堂と通路を隔てる壁に窓を設けていなかったが、利用客から「食事しながら富士山を見られない」というクレームが多かったことを受け、1979年以降に通路側壁面に窓(通称:マウント富士)を設置する改造を施工。
- ^ 36形の登場後は、食事メニューの提供は食堂車で行いビュフェ車は売店・車内販売の基地としての機能をメインに飲物中心の簡易なメニューの提供もセルフサービスで行うと位置付けられたため。
- ^ 1978年11月よりおもに東京 - 博多間「ひかり」9本のグリーン車で試行。1979年5月より20本に拡大。料理長がメニューを持参して注文を受け付け、希望時間に座席まで届けるという形であったが、メニューは1000円以上の3 - 4品に限定されていた。
- ^ 当初は3月のダイヤ改正で終了予定であったが、1月17日早朝に阪神・淡路大震災が発生し新大阪 - 姫路間が不通になったのを受け営業停止。そのままダイヤ改正まで復旧しなかったため1月16日の「ひかり」45号が最終営業列車となった。
- ^ 「ウエストひかり」用R62編成に組み込まれていた37-7302は、その後も営業運転に用いられ、2008年3月14日に運用を離脱したが新幹線最後のビュフェ車でもあった。
- ^ 248形のカフェテリアにはイートインスペースも設けて、簡易ビュフェ的な機能も持たせていた。
- ^ 各社ともにメニューが異なっており(時刻表に各社の特徴的なメニューが記載されていた)、乗客の中にはわざわざ好みの会社が営業している列車に乗るというケースや、車内販売を兼ねていることから販売態度のよろしくない従業員が多いとされる会社を避けるといったことも見られた。
- ^ 2000年代においては在来線でも環境面の問題から循環式の汚水処理装置などを利用している例がほとんどである。
- ^ 新幹線のビュフェ車でも開業当初は汚水を走行中に外へ垂れ流していたが、沿線住民から苦情が多かったため、のちに床下のタンクに溜めて駅で排出する方式に改善された。
- ^ 国鉄・JR各社の用語では「ビュフェ」と表記されるが、車内の案内放送では車掌や食堂会社従業員が「ビュッフェ」と発音することもある。
- ^ その後サシ481形・サシ489形がスシ24形に改造された時にベネシャンブラインドは取り外され、代わりに横引きカーテンが取り付けられた。ただ、基本的な窓構造については電車時代のままである。
- ^ 現在のロビーカーに相当する扱い(当時は「サロンカー」と称した)ともされ、夜間提供メニューは現在の北斗星等の「パブタイム」のメニューに近いものであった。
- ^ 急行形電車においてビュフェ部分にのみ最初から冷房が取り付けられたのは、ビュフェ利用者が夏季に快適に食事ができるようにすることのほかに、当時の列車便所は垂れ流し式であったため、ビュフェ部分の窓を固定窓にしたうえで便所からの汚物の飛沫がビュフェ室内にまで飛散するのを防止するという、衛生面での配慮があったためである。
- ^ ビュッフェ車 - トレたび 2010年9月1日
- ^ 松本運転所(現・松本車両センター)のサハシ165形は、電源供給の問題から1976年の営業休止後も1982年に新前橋電車区(現・高崎車両センター)からクハ165形余剰車が転入するまで編成から外されなかった例がある。また583系電車では編成全体の圧縮空気容量の関係からサシ581形の空気圧縮機 (CP) も必要であった事情から、編成から外せない理由もあった。
- ^ 「平屋」とは2階建車両の構造上、台車を乗せる部分をさす。通常の車両と同じ車両高さ・幅となる部分。
- ^ JR西日本所属のスシ24 1・2はAU12形。
- ^ スシ24形の中で特筆すべき車両として改番を4回行ったスシ24 506があげられる。同車は1974年にサシ489-12として落成、1978年にサシ481-83へ改造、さらに1982年にサシ489に再改造されるも番号はそのまま83を継承、「北斗星」増発時には客車に改造されスシ24 506となった。詳細はこちらを参照。
- ^ 車両案内 - クルーズトレインななつ星in九州(九州旅客鉄道)
- ^ 移動レストラン列車こと「東北エモーション」、今秋東北地方で運行開始 サーチナ2013年2月7日
- ^ 「Tohoku Emotion」(東北エモーション) - 東日本旅客鉄道
- ^ 現在では食堂車はJR東日本所属車のみが編成に組み込まれるために現存しない。
- ^ かつては洋定食・和定食の2種類が存在し、特に和定食は積込食数が少なく早めに売り切れることも多発した。その後パン・スープとご飯・味噌汁以外は同内容の朝食となるが、再び洋定食・和定食の2種類に戻っている。
- ^ もっとも、運営がうまくゆかず翌年以降は南海鉄道の直営となった。
- ^ 福原俊一 『日本の電車物語 旧性能電車編 創業時から初期高性能電車まで』、p.64
- ^ 藤井信夫 『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 関西鉄道研究会、pp.27-28
- ^ 藤井信夫 『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 関西鉄道研究会、pp.93-94
- ^ 竹田辰男 「南海電気鉄道と阪和線 昭和時代を中心に」『鉄道ピクトリアル No.807』 電気車研究会、p.128
- ^ 藤井信夫 『車両発達史シリーズ5 南海電気鉄道 上巻』 関西鉄道研究会、p.110
- ^ 日本交通公社の時刻表1967年10月号の伊豆急行のページに「スコールカー連結」の表示あり。
- ^ 6号車の個室からインターホンで注文できるシステムも備えていた。
- ^ 『小田急物語』 p.19
- ^ 小田急3000形「SSE」が「あさぎり」として国鉄御殿場線に乗り入れていた際には、御殿場線の時刻表にはビュフェのマークが配されていた。
- ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻405号 p.166
- ^ 『車両と駅の60年』 p.91
- ^ 『小田急電鉄のひみつ』p.160
- ^ 『鉄道ダイヤ情報』通巻145号 p.29
- ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻829号 p.30
- ^ カフェ車両 - 観光特急「しまかぜ」車両案内(近畿日本鉄道ウェブサイト)
- ^ 車内のご案内 - おれんじ食堂(肥薩おれんじ鉄道ウェブサイト)
- ^ 食器の質としても高く、鉄道会社独自のデザインが反映されたものであったために、これらを「レイルウェイ・チャイナ」と総称し、コレクションする趣味がアメリカでは盛んである。
- ^ ソウルプラザホテルは食堂車営業を行うにあたって、当時の日本の食堂車事業者(日本食堂および帝国ホテル)で研修を受けてノウハウを習得したため、韓国の食堂車は盛り付けや配膳において、日本の食堂車との類似点が多かった。
参考文献 [編集]
- かわぐちつとむ『食堂車の明治・大正・昭和』(グランプリ出版、2002年) ISBN 4-87687-240-6
- 1994年7月から1997年5月まで『鉄道ジャーナル』に連載された記事の単行本化。
- 岩成政和『食堂車ノスタルジー 走るレストランの繁盛記』(イカロス出版のりもの選書、2005年) ISBN 4-87149-653-8
- 『鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 10 国鉄客車開発記 1950』(電気車研究会、2006年)
- 星晃「食堂車の復興」(初出:『鉄道ピクトリアル』1953年2月、3月号 No.19、20) P.54 - P.60
- 交友社『鉄道ファン』2000年8月号 No.472 特集:食堂・オープンスペース
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年5月号 No.761 特集:食堂車
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2007年10月号 No.794 特集:ビュフェ
- 生方良雄 『小田急物語』 多摩川新聞社、2000年。ISBN 4924882372。
- 加藤一郎「小田急ロマンスカーの輸送及び運転現況」、『鉄道ピクトリアル』第491号、電気車研究会、1988年2月、 42-46頁。
- 佐藤寛之「近年の箱根観光輸送」、『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、 28-33頁。
- 吉川文夫編 『小田急 車両と駅の60年』 大正出版、1987年。0025-301310-4487。
- PHP研究所編 『小田急電鉄のひみつ』 PHP研究所、2012年。ISBN 978-4569802442。
- 「EXE 115DAYS」、『鉄道ダイヤ情報』第145号、弘済出版社、1996年5月、 14-32頁。