モンゴル国

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モンゴル国
Монгол Улс
モンゴルの国旗
国旗 (国章)
国の標語 : なし
国歌 : Монгол Улсын Төрийн Дуулал
モンゴルの位置
公用語 モンゴル語
首都 ウランバートル
最大の都市 ウランバートル
政府
大統領 ツァヒアギーン・エルベグドルジ
首相 サンジャーギーン・バヤル
面積
総計 1,565,000km²18位
水面積率 0.6%
人口
総計(2008年 2,671,000人(135位
人口密度 2人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 6兆1,303億[1]トゥグルグ
GDPMER
合計(2008年 52億[1]ドル(152位
GDPPPP
合計(2008年 93億[1]ドル(150位
1人当り 3,541[1]ドル
建国 不明
通貨 トゥグルグMNT
時間帯 UTC (+7 ~ 8)(DST: (+8 ~ 9))
ccTLD MN
国際電話番号 976
PREFIXは JT JU JV

モンゴル国(モンゴルこく)は、中国の北、ロシアの南に位置する、東アジア国家内陸国。首都はウランバートル

モンゴル民族の居住地域であるモンゴル高原のうち、清国支配下において中国語外蒙古(がいもうこ、そともうこ)とよばれたゴビ砂漠以北の一帯にほぼ該当する領域を国土とする。これに対し、南部の一帯が内蒙古で、現在は中国領となっており、「蒙古族」(中国国籍のモンゴル人)のための「民族区域自治」単位として内モンゴル自治区等が置かれている。

目次

[編集] 国名

正式名称はМонгол Улсキリル文字表記。ラテン文字転写ではMongol Uls)。

日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル

モンゴル語名「モンゴル・オルス」のモンゴルは民族名で、オルス〜ウルスは「国」を意味する。モンゴルの民族名の語源は明らかではないが、モンゴル民族のアイデンティティーの基礎が出来上がったのはチンギス・ハーンのモンゴル帝国時代と考えられる。

[編集] 歴史

詳細はモンゴル国の歴史およびモンゴルを参照

20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホのように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャンらは漢人商人の活動に反発を覚えてはいたが、未だ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミドらと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。

1911年辛亥革命が起こると、すでにハイシャンらの説得工作が功を奏し、ロシアに独立のための財政援助を求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちはからの独立を宣言。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト八世をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内蒙古の大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的、軍事的支援を行っていた帝政ロシアが中国への配慮から、内蒙古からの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。

1915年キャフタ条約で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国(以後、中国とする)とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルのかなりの地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後別々の道を歩むことになる。

1917年ロシア革命が勃発して力の空白が生じると中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には自治を撤廃するが、1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドー、ダンザン、スフバートルチョイバルサンら民族主義者、社会主義者はモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成、ソビエトの援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ八世を君主として戴いたままモンゴル人民政府を樹立した。こうして立憲君主制国家としてスタートすることになった新生モンゴルだが、1924年にジェプツンタンパ八世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国社会主義国)が成立した。なお、これら一連の動きや内モンゴルとの連帯において、リンチノブリヤート・モンゴル人の活躍や理論的支えが大きく貢献していた。ブリヤート人の活動なしにはこの独立はありえなかったであろうが、モンゴル国では彼らを過小評価しがちである。

モンゴル人民共和国は、1924年-1928年ダンバドルジ政権の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(一方ソ連側は一時期モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある。)。1929年-1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45%が参加した暴動が発生、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたたものの、反革命のかどで粛清された国民はかなりの数に上った。なお、モンゴル人民革命党共産党であったことは一度もなく、「モンゴル共産党」への改名申請を時期尚早としてソ連に却下された経緯がある。

モンゴルのスターリンと呼ばれ軍人スフバートルと共に革命の中心メンバーの一人であり、1930年代より指導者であったチョイバルサンは当初バラーディンらブリヤート知識人が唱えたラテン文字化では無く、モンゴル語のキリル文字使用を決める。これによって革命前は0.7%だった識字率が60年代には文盲の絶滅を宣言する。チョイバルサン時代にスパイとして粛清された人物としてはゲンデン首相が有名である。チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。後継者であるツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに昇りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配したが、1984年に健康上の理由に(認知症との説が有力)より書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派であるバトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフはモンゴルのゴルバチョフと呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。

近代のモンゴルと外国との戦争は第二次大戦中、1939年に現在の中国領であるノモンハン(モンゴル語ではハルヒンゴル/ハルハ河)で日本軍満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍と軍事衝突したハルハ河戦争(ノモンハン事件)のみで、それ以降は殆ど諸外国とは戦争は行ってないが中国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。

1989年末、ソ連・東欧情勢に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問したソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。ただしこの民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により当初の趣旨が曲げられ、アメリカ型の極端な資本主義の導入につながったとの見解もある[要出典]。資本主義化後15年を経過した現在では、貧富の差の拡大が国家的問題となっている。また社会主義時代から官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。

ツェデンバル時代に批判されていたチンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどであり、その英雄視はある意味で過剰とも見られるが、社会主義時代に全く省みられなかったチンギスハン時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。

[編集] 他国との関係

歴史的に中国との関係は悪く、今でも一部の民衆には反中感情がある。例えば日本人観光客が中国人に間違えられるとトラブルに巻き込まれ、中国関連の施設に「看板等に使用している漢字を3日以内にモンゴル語に変えなければ、強制的に撤去するかペンキで塗り潰す」という過激な内容警告文を出され、さらに独立記念日に活動家に襲撃される事もあるくらいである。その反面、国民感情としても日本とは友好的関係が維持され日本より多額のODAが供与されており、日本の中古車も人気である。2006年8月には小泉純一郎首相(当時)が同国を単独訪問した。また前述のように戦争でも手を組んだり、鉄道を含むインフラ整備に貢献したロシア(旧ソ連)とは友好関係で、中ソ対立ではソ連側についた。ロシアと社会主義文化の影響があるためにウランバートルの高層アパート、都市インフラのシステムも原型はロシア式であり今でもキリル文字を使用している。

また兵庫県但東町(現豊岡市但東町)との交流が長く、町内には、日本でも数少ないモンゴルの博物館「日本・モンゴル民族博物館」があり、交流が盛んである。

更に横綱である朝青龍白鵬など多くの大相撲力士を輩出し、最も多くの歴代外国人力士の輩出国となっている。[2]

自衛隊との交流も進展しており、防衛大学校への留学生派遣や防衛省主催の各種セミナーへの参加を続けているほか、2004年には防衛大学校校長がモンゴルを公式訪問している。

[編集] 政治

社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としてきたが、1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、そのたびに政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによって直ちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、より長い歴史をもつ国家大会議との関係は微妙である。

[編集] 地方行政区画

詳細は「モンゴルの行政区画」を参照

モンゴル国の地方行政区画

日本の県にあたるアイマグ (аймаг, aimag) が21設置されており、県には郡にあたるソム (soum) が347、更にその下に村にあたる1681のバグ (bag) が属する。各ソムの人口は3,000人ほどで、バグは50-100家族ほどで構成されている。(2001年アジア開発銀行の資料より)。世界的に見ても都市への人口集中が高い国である。

  1. ウランバートル市 (Улаанбаатар хот, Ulaanbaatar hot)
  2. オルホン県 (Орхон, Orhon)
  3. ダルハン・オール県 (Дархан-Уул, Darhan-Uul)
  4. ヘンティー県 (Хэнтий, Hentiy)
  5. フブスグル県 (Хөвсгөл, Hövsgöl)
  6. ホブド県 (Ховд, Hovd)
  7. オブス県 (Увс, Uvs)
  8. トゥブ県 (Төв, Töv)
  9. セレンゲ県 (Сэлэнгэ, Selenge)
  10. スフバータル県 (Сүхбаатар, Sühbaatar)
  11. ウムヌゴビ県 (Өмнөговь, Ömnögovĭ)
  12. ウブルハンガイ県 (Өвөрхангай, Övörhangay)
  13. ザブハン県 (Завхан, Zavhan)
  14. ドンドゴビ県 (Дундговь, Dundgovĭ)
  15. ドルノド県 (Дорнод, Dornod)
  16. ドルノゴビ県 (Дорноговь, Dornogovĭ)
  17. ゴビスンベル県 (Говьсүмбэр, Govĭsümber)
  18. ゴビ・アルタイ県 (Говь-Алтай, Govĭ-Altay)
  19. ボルガン県 (Булган, Bulgan)
  20. バヤンホンゴル県 (Баянхонгор, Bayanhongor)
  21. バヤン・ウルギー県 (Баян-Өлгий, Bayan-Ölgiy)
  22. アルハンガイ県 (Архангай, Arhangay)

[編集] 地理

モンゴルの地図

東アジアの中心に位置し西には標高4,300メートルアルタイ山脈標高3,500メートルハンガイ山脈がそびえ、には1,000メートル〜1,500メートル高原が広がり北東には針葉樹林がひろがる。あとの国土高山砂漠ステップ植生海抜平均1,000メートルゴビ砂漠まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは牧草地に使用されている。重要な河川バイカル湖に注ぐセレンゲ川太平洋にそそぐヘルレン川がある。

[編集] 経済

主に畜産業鉱業が中心でモリブデン世界屈指の埋蔵量をもっている。現在、モンゴル政府鉱や鉱、モリブデン石炭等の開発を推進している。そして近年では、豊富な天然資源などを目的に外国からの投資が活発になってきている。しかしながら、政治的安定性が未だに構築されておらず、政権が変わる度に、その政策方針が二転三転することで、外国の投資家に警戒感を持たせている。畜産は、ヒツジ1,168.6万頭、ヤギ1,223.8万頭、ウシ184.2万頭、ウマ200.5万頭、ラクダ25.7万頭を飼育し(2004年統計)、牧草地の広さは国土の約80%である。畜産は、そのほとんどが移動牧畜、つまり遊牧で行われている。

[編集] マンホールチルドレン

ソ連崩壊による経済的混乱及び寒波により、都市部には数千人規模のホームレスとなった孤児がいる。冬は気温が-40度を下回ることもあるウランバートルなどでは路上で生活することが出来ず、孤児はマンホールから地下に潜って、生き延びているという[3]

[編集] 軍事

詳細は「モンゴル国の軍事」を参照

モンゴル国の正式国軍であるモンゴル国軍は、社会主義時代のモンゴル人民軍から社会主義政権崩壊後に国軍として引き継がれた軍隊である。モンゴル国では徴兵制度が敷かれており、満18歳以上の男子は、1年間の兵役義務を有しているが、兵役代替金と呼ばれる納付金(約800ドル)を納付するか、海外に留学するなどで26歳までやり過ごせば兵役義務は消滅する。子どもが幼少の場合も、免除される。

総兵力は9100人、予備兵力は14万人。軍事予算は181億8,680万トゥグルグ(2003年現在)。モンゴル国軍の装備は主に人民軍時代ソ連から取得した兵器がほとんどであるが、戦闘機や攻撃ヘリコプター等はすべて退役している。現在保有するのはMi-8Tなど少数のみ。また地対空ミサイルも保有していたが、現在可動状態にあるかは疑問である。機器の保守能力が低下しているため、戦闘機などに至っては部品の共食い整備が発生するなど、戦力としては相当貧弱である。

最近は、組織の生き残りのために海外協力と災害対策を2本柱に掲げ、米国の対イラク軍事行動に際してはいち早く支持を表明したほか、イラクでの復興支援にも国軍部隊を派遣するなどしている。他にもモンゴル国軍は、アフガニスタン軍への指導(ソ連製の装備に習熟しているため)やコンゴでのPKO活動にも参加している。

なお国民国家としてのモンゴルは海に面しておらず、2008年現在海軍は存在しないが以前は存在していた。

[編集] モンゴル国境警備隊

国境警備隊は国軍とは別組織となっている。モンゴルが国境警備に力を入れるのは、家畜が越境したときの隣接国とのトラブルに対応するためである。

[編集] 国民

詳細はモンゴル国の国民を参照

モンゴル人の主な宗教はチベット仏教で、歴史的にチベットとの関わりが深い。またシャーマニズム信仰も根深い。どちらも社会主義時代は抑圧されていたが、民主化以降復活を遂げている。多くの国民は、人種的には日本人と同じモンゴロイドで、いくつかの遺伝形質の傾向が一致し、モンゴル語日本語が文法的に比較的似通っていることから、日本人のルーツに近いという説もある。旧石器時代氷河期に当時陸で繋がっていた間宮海峡宗谷海峡を通ってモンゴル人の祖先が日本列島にも入ってきたという説も有力である。モンゴルでは、フブスグルなど一部の地域をのぞき、を食べる習慣がなかった。

西部のバヤンウルギー県はカザフ人(イスラム教徒)が人口の大半を占め、学校教育カザフ語モンゴル語で行われる。モンゴル国憲法は、モンゴル語を唯一の公用語と定めており、本来はバヤンウルギー県においても、行政・議会など公的な場面でのカザフ語の使用は認められていない。しかし、公文書はモンゴル語で作成されるものの、実際には同県の少数者であるモンゴル人の多くもカザフ語を話し、カザフ語が議会を含むあらゆる場面での共通語となっている。

北部のフブスグル県には、ツァータンと呼ばれる、トナカイ遊牧と狩猟、採集、漁労を行う部族が300人前後居住している。モンゴル人のゲルとは違った円錐形の移動式家屋「オルツ」に住み、トゥバ語モンゴル語を用いるが、トゥバ語話者は減少している。ツァータンはモンゴル人の使う他称であり、自らは「トゥバ人」「タイガ(針葉樹林帯)の人」などと名乗っている。この周辺の針葉樹林帯を行き来していた人々のうち、20世紀初頭にモンゴルからトゥバが分離することになった際にモンゴル側にいた人々がモンゴル国民となり今に至っているといわれている。

[編集] 文化

[編集] 祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元旦 Шинэ жил
1月下旬から2月の内2日間 ツァガーン・サル Цагаан сар 旧暦元旦
3月8日 女性の日 Эмэгтэйчүүдийн баяр 国際女性デー
6月1日 子供の日 Хүүхдийн баяр 国際児童デー
7月11日、12日 ナーダム祭り Наадам
11月26日 独立記念日 Улс тунхагласны баяр 1924年モンゴル人民共和国成立記念日

[編集] モンゴル出身の大相撲力士(関取)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ 歴代外国人相撲力士の出身の多い国 外務省 世界いろいろ雑学ランキング
  3. ^ 『マンホールチルドレンはなぜ生まれたか』2007年11月13日付配信 日経ビジネスオンライン

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
政府
日本政府
観光

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