ケレイト

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13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。
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ケレイト(Kereid, Kerait)は、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原中北部のハンガイ山脈英語版付近に割拠していた遊牧民の部族集団である。漢字表記では客烈亦怯烈怯烈亦など。ペルシア語史料[1]では كرايت Kirāyt などと表される。

概略[編集]

発祥は定かではないが10世紀契丹が南に興るとこれに服属した。遼の下で東西交易に参加していたために西方からネストリウス派キリスト教が伝わり、1007年に部族をあげてネストリウス派に改宗したとされる。また、ウイグルウイグル文字を学んで自分たちの言葉を記録する手段を早い時期に身につけていた。

12世紀には、遼に代わった女真の支配のもと、モンゴル高原の中央部に実質上の独立勢力を築き上げていた。11世紀から12世紀のケレイト王国の情報はネストリウス派キリスト教徒のネットワークを通じて西アジアにも伝わっていたことが明らかにされている。ここから、この頃ヨーロッパで流布されたキリスト教国家プレスター・ジョン王国のモデルの一つであったと考えられている。

歴史[編集]

オン・カン時代以前のケレイト王国[編集]

集史』「ケレイト部族誌」によると、ケレイト王国は盟主であるケレイト氏族を中心に、トベイト、トンカイト、ジルキン、サキアト、アルバトの六つの氏族からなっていたという。記録に残る最古のケレイトの王は『元朝秘史』にも述べられているマルクズ・カンという人物である。

「ケレイト部族誌」によれば、このマルクズ・カンは東方のタタル部族の王ナウル・ブイルク・カンと長年熾烈な抗争を繰り返していたが、ついにこのナウル・カンに捕らえられ、「ヒターイーとジュールチャの帝王たち」に引き渡されて処刑されたと伝えられる。『遼史』「道宗本紀」に見られる北阻卜族の首長「磨古斯」なる人物を、このマルクズ・カンに比定する説がある。道宗乾統二年(1102年)までこの人物は遼朝に貢納を続けしていたが、羈縻政策の失敗によりこれを恨んで背反し、ついには敗死したという。

元史』「兵志」馬政条によると、マルクズの死後寡婦となったマルクズ妃クトクタニ・ケレクチン(またはクトクタイ・ハレクチ)が、モンゴル部族と示し合わせて勇士百人を馬乳酒のつまった皮袋に潜ませ、タタルのナウル・カンを酒宴に招き宴席についたところで、彼らにナウル・カン以下タタルの首長たちを殺害させて亡夫の仇を討ったと伝えられる。

こうして父の後を継いでケレイト王国を復興させたのが、マルクズの息子クルジャクス・ブイルク・カンであった。クルジャクスには「ケレイト部族誌」によるとマルクズの長男で、次弟に本名は不明だがグル・カンと呼ばれた人物がいる。また、世嗣と目された息子も8人いたと伝えられ、長男トグリル(トオリル)、トラ、マルクズ、タイ・テムル・タイシ、ブカ・テムル、エルケ・カラ、ジャア・ガンボ、イェデ・クルトカであったという。

12世紀後半のケレイト部長トグリル(トオリルとも)は、モンゴル部キヤト氏族の長イェスゲイ・バートルと盟友の関係にあり、イェスゲイの死後その息子のテムジンが台頭してキヤト氏族長に立つのを助けたと伝承される。確実な歴史では、1195年にトグリルは兄弟のエルケ・カラに追われて流浪していたところ、別の弟ジャア・ガンボモンゴル語版がモンゴル部に亡命したのをきっかけにモンゴル部キヤト氏族のテムジンと同盟を結んでケレイトの内紛を収め、翌1196年金の要請を受けてテムジンと共にタタル部室韋族の一派)を討って、トグリルはオン・カン(オンは「王」の音写)の称号を与えられた。

オン・カンはテムジンと共にナイマンメルキトタイチウトなどの諸部族を攻め、ケレイトとモンゴルで高原の大半を制圧するが、1203年にテムジンと対立し、一度は勝利を収めたものの再起して兵力を結集したテムジンの奇襲を受けて殺され、ケレイト部はモンゴル部に降った。オン・カンの遺児イルカ・セングンも息子のトサカ・ベキと共に逃亡先のクチャで殺害され、ケレイト王家の嫡流は断絶した。

モンゴル帝国以降のケレイト[編集]

1206年にテムジンがチンギス・カンとして即位しモンゴル帝国が成立した後も、ケレイト部はチンギス一門の姻族とされ、モンゴル遊牧部族連合の有力部族のひとつとして存続した。

チンギスの4男トルイの夫人でカアン(大ハーン)のモンケクビライの母となったソルコクタニ・ベキジャア・ガンボモンゴル語版の娘で、オン・カンの姪にあたる。イルハン朝下の西アジアで時期によってはキリスト教徒が優遇されるなどモンゴル王家のキリスト教徒に対する好意的な姿勢は、ケレイトの王族・貴族を通じてモンゴル帝国の王族・貴族に数多くのキリスト教徒が含まれていたことと無関係ではないと言われている。

また、ケレイト部族出身者で、モンゴル帝国のもとで軍人、官吏として活躍した者も少なからず歴史にあらわれる。例えば、オゴデイのときに書記官僚(ビチクチ)の長官として活躍したチンカイは出自について諸説あるが、ケレイト出身とする説が存在する。

モンゴル高原においてはケレイト部族の名はモンゴル帝国の解体とともにやがてその名は歴史から姿を消した。ただし、15世紀以降のオイラト部族連合に属し、現在も存続しているトルグート部はケレイトの後裔とされている。

一方、モンゴル帝国の拡張とともに中央ユーラシア全域に拡散したケレイト部族の名は西方ではモンゴル高原よりも長く残り、現在もカザフなど中央アジアテュルク系民族の間にケレイト部族の名を見出すことができる。

言語系統[編集]

ラシードゥッディーンは『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集史)』において、中央ユーラシア草原の遊牧民を大きく四つに分類し、第三類「以前は独立した首長を持っていたが、第二のテュルク部族とも第四のモンゴル族ともつながりはなく、しかし外観や言語は彼らと近いテュルク部族」にケレイトを含めている。つまり、テュルク系ではあるが、モンゴル系に近い言語、もしくはテュルク系とモンゴル系の中間に位置する言語であったと推測される。そのため、ケレイトはテュルク系ともモンゴル系ともされている[2]

宗教[編集]

ケレイトは11世紀の初めにネストリウス派の僧侶によって改宗させられて[3]以降、ネストリウス派キリスト教を信仰していた。当時ネストリウス派は中国を始めとして東方諸国に広く浸透していたため、北方遊牧民であるケレイトにも信仰が広まった。そのため、ケレイトの君主であるマルクズ(Markuz)やクルジャクス(Qurjaquz)の名もキリスト教に関した名前(Marcus,Cyriacus)である。

構成部族[編集]

ケレイトは多数の部族によって構成されている部族連合であり、盟主であるケレイト部を中心に、6つの部族によって構成されていた。

歴代君主[編集]

  1. マルクズ・ブイルク
  2. クルジャクス・ブイルク…マルクズの長子
  3. オン・カン(王罕、トオリル)…クルジャクスの子

脚注[編集]

  1. ^ ラシードゥッディーン集史
  2. ^ 宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』p138
  3. ^ これについてアブル・ファラジュの『東方教会史』に「ネストリウス派の総大主教ジャン(ヨハネ)は、ホラーサーンのマルヴ(メルヴ)の首都大主教エベド・イシューから、次のような文面の書簡を受けた。《東北方、トルキー(モンゴリアを指す)の内地に住むシェリト(ケレイト)という民族の王がある日、雪に覆われていた自国のある山へ猟に出て道に迷った。彼は助かる望みを全く失ったが、その時、一人の聖者が彼の前に現れ、こう言った。もし汝がイエス・クリストを信ずることを願うならば、私は汝をこの危険から救い出し、汝に路に示してやろうと。王はキリストの群羊の一つとなることを彼に約した。その時、聖者は道案内をつとめ、王をよい路へ連れて行った。自分の幕営へ帰った後、この王は自分の国に滞在していたキリスト教徒商人にその宗教の教義のことを質問した。王は洗礼を受けなければキリスト教徒になれないということを彼らから知った。しかし、彼は一冊の福音書を貰って、毎日それに礼拝した。王は私を招いて洗礼を施してくれるか、あるいは洗礼をしてくれる聖職者を派遣するよう希望している。彼は私に斎戒のことについて、我々の食物は肉と乳しかないので、我々はどうして斎戒を守るのであろうかと質問した。彼は、20万の人々が自分の手本に従う用意があると付け加えて言った。総大主教は首都大主教に対し、改宗を希望する全ての人を洗礼するための聖瓶を携えた2人の聖職者と助祭をその王の所へ派遣し、彼らにキリスト教の儀礼を教えるよう、手紙で返答した。また、この聖職者たちは、彼らに肉断ちの期間は肉を禁止すべきであるが、その国では大斎節のための食物がまったくないと言っているから、乳を飲むことを許してよいと答えた。》」とある。アブル・ファラジュはこの事実を回暦398年(1007年)のことと伝えている。シリアの著作家マリも総大主教ヨセフ伝の中で同じ事実を伝えている。J.S.Assemani,《Bibliotheca Orientalis》(ローマ、1719年)第3巻484貢

参考文献[編集]

関連項目[編集]