東胡
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東胡(とうこ、簡体字: 东胡、拼音: Dōnghú )は、中国の春秋戦国時代から秦代の間に内モンゴル東部に住んでいた遊牧民族。
目次 |
[編集] 名称
「東胡」の命名にはいくつかの説が考えられる。
[編集] 歴史
晋の文公,秦の穆公の時代(春秋時代)、東胡は山戎などとともに燕の北に位置し、それぞれ分散して谷あいに居住していた。
燕の将軍の秦開は、胡の人質となっていたが、胡の信頼を受けていた。そのため秦開は人質から帰還すると、東胡を襲撃して破り、千余里も燕から遠ざけることに成功した。
秦の始皇帝が中国を統一したころ、東胡は北方で強大となる。
紀元前209年、東胡の隣国の匈奴で冒頓が父を殺し、単于の位を継いだ。これを聞いた東胡の王は冒頓に対し、先代の頭曼単于が持っていた「千里を走る馬」がほしいと要求。すると冒頓は東胡王に「千里を走る馬」を素直に贈った。東胡王は冒頓が自分らを恐れているのだと思い、しばらくして冒頓の閼氏(単于の妻)のひとりがほしいと要求した。するとまた、冒頓は自分の閼氏を素直に贈った。東胡王はいよいよつけあがり、匈奴の西方に侵入し、東胡と匈奴の間にある千里あまりも人が住まない棄て地を要求した。しかし、冒頓は「土地は国の根本だ」と言い激怒。そのまま東胡を襲撃し、匈奴を甘く見ていた東胡はなんの備えもしておらず敗北。東胡王は殺され、その人民と畜産を奪い去られ、ここに東胡は滅んだ。
その後、東胡の生き残りで烏桓山に逃れた勢力は烏桓となり、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑となった。『魏書』によれば、柔然も東胡の末裔だという。
[編集] 言語系統
モンゴル系説[1]とツングース系説があるが、はっきりしたことは言えない[2]。
[編集] 東胡系の民族
後代、中国の史書において「東胡の後裔」とされる民族がいくつか記されている。
- 烏桓…『三国志』、『後漢書』
- 鮮卑…『三国志』、『後漢書』
- 柔然…『魏書』
- 奚…『新唐書』北狄伝において「奚もまた東胡種」とある[3]。
- 契丹…『新唐書』北狄伝において「契丹、本東胡種」とある[4]。
[編集] 脚注
- ^ 東胡や鮮卑はモンゴル諸語の話者としている『契丹民族史』
- ^ 内田吟風『北アジア史研究』
- ^ しかし、『新五代史』四夷附録第三において「奚、本匈奴の別種」とあるため、詳細は不明。
- ^ しかし、『旧五代史』契丹伝において「契丹とは、古の匈奴の種類」とあるため、詳細は不明。
[編集] 参考文献
- 司馬遷『史記』(匈奴列伝第五十)
- 内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(同朋舎出版、1975年、ISBN 4810406261)
- 松丸道雄ら編 『世界歴史大系 中国史1』(山川出版社、2003年)