拓跋部

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拓跋 部呉音:たくばち ぶ、漢音:たくはつ ぶ、拼音: Tuòbá bù)は、鮮卑族の一部族で、華北北魏などの王朝を建てた。托跋部索頭部索虜などとも表記される。

西晋時代の北方遊牧民族の領域

概略[編集]

檀石槐の統一鮮卑が崩壊し、再び分裂した鮮卑族において台頭してきたのが拓跋部である。3世紀後半に拓跋力微がフフホト盆地に南下してきて、そこを根拠地とし、4世紀の初め、力微の孫の猗盧西晋を援けて匈奴劉淵と戦い、その功によって大単于・代公に封ぜられ、陰山地帯の鮮卑の統領にのし上がった。猗盧は并州刺史に桑乾河の上流、句注山以北の土地の割譲を要求し、大同盆地を含む内長城地帯を領有した。このように、北アジアの騎馬民族が華北に領土的要求をしたのは拓跋部が最初であり、そうしたことで直接華北の中国人と政治的、軍事的、文化的に関係を持った。

315年に猗盧は代王となり、代国を建てた。フフホト盆地の盛楽(現内モンゴル自治区ホリンゴル県)に都城を築き、これを北都とし、大同盆地の平城(現山西省大同市)を修復して南都とし、さらに桑乾河の北岸に新平城を築城した。このように、拓跋部の支配が華北に及ぶと、ただちに中国風の城郭を築き、制度も中国風に整えた。その後は一時分裂状態に陥ったが、拓跋什翼が代王となると、盛楽の南に新城を築き、中国人官僚を起用し、兄弟相続から父子相続に変え、国の制度や社会をやはり中国風にした。

その後は一時前秦に支配されたが、386年に什翼の孫の拓跋珪が再び代国を復活させ、399年には国号を魏(北魏)と改め皇帝に即位した。太武帝の時代には華北を統一し、中国は南北に分かれ、南北朝時代に入った。

[1]

歴史[編集]

以下の記述は『魏書』帝紀第一によるもの。

起源に関する伝承[編集]

その昔、黄帝の子は25人おり、その一人である昌意の末子が北土の大鮮卑山に封ぜられ、そこから鮮卑と号すようになった。その後代々君長を立て、広漠の野を統治し、牧畜狩猟を生業とした。黄帝の末裔である始均の時代に入仕した。始均が女魃(ひでりの神)を弱水の北に駆逐すると、民が彼を頼ったため、帝舜はこれを喜んで、命じて田祖とした。秦漢の時代になり、始均の子孫は獫狁山戎匈奴の属国となり、代々残暴で(むごく荒々しく)、中国を害したので、中国との国交を断絶した。67世の後、拓跋毛が大人(部族長)となり、36国、大姓99を統べ、北方に威を振った。数代の後、大人の拓跋推寅は大澤に南遷する。それより数代の後、大人の拓跋鄰は神人より移住することを勧められたため、息子の拓跋詰汾に命じて南へ遷移させ、拓跋部は匈奴の故地に移り住むようになった。

173年、拓跋詰汾は狩りの途中で天女と遭遇し、その天女との間に拓跋力微を授かる。

勃興[編集]

220年、西部の侵攻で部民は離散し、没鹿回部大人の竇賓(とうひん)につき従っていた力微は、竇賓とともに西部を攻めるが敗走した。逃げる際、馬を失い徒歩で逃げていたところを、力微が馬を調達して来て、竇賓らはなんとか逃げることができた。これにより、竇賓は力微に国土の半分を与えようとするが、力微は拒んだので、代わりに娘を嫁がせた。248年、竇賓は臨終に至り、2人の息子に力微に仕えるように伝えたが、2人は従わなかったので、力微は2人を呼び寄せて殺した。これにより、諸部大人は力微に心服した。

258年、力微は定襄郡の盛楽に遷都した。夏4月、天を祭った。諸部君長はみな祭にやってきたが、白部の大人の観望が唯一出席しなかったので、力微は観望を征伐した。261年、力微は太子の沙漠汗に人質として赴かせた。267年、沙漠汗は西晋から返還される。275年、沙漠汗は再び晋に赴くが、留まらせられる。このころから晋のは「離間の計」を謀り、諸大人に賄賂を送り始める。277年、ようやく沙漠汗は返され、力微は大喜びで出迎えるが、衛から賄賂を貰っている諸大人は、晋の文化に染まってしまった沙漠汗の姿を見て謀反の心ありとし、あらぬ疑いをかけた。力微は沙漠汗を疑わなかったが、すでに100歳を超える高齢で、はっきりしないので、諸大人は力微の命だと偽り、沙漠汗を殺した。力微は甚だこれを悔んだという。その後、力微は病気を患い、烏丸王の庫賢に軍を任せた。しかし、庫賢も衛の賄賂を受け取っており、庫賢は大いに国をかき乱してやった。そんな中、力微は死去した。

西晋の衛の策略により、しばらく衰退した拓跋部であったが、拓跋禄官が大人となると再び勢力を盛り返した。295年、拓跋禄官は拓跋部を3分割し、自身は上谷郡の北、濡源の西で、宇文部に東接する東部拓跋部を統治した。拓跋沙漠汗の長子の拓跋猗は、代郡参合陂の北の中部拓跋部を統治した。拓跋沙漠汗の次子の拓跋猗盧は、定襄郡盛楽の故城の西部拓跋部を統治した。

拓跋禄官は、拓跋力微以来となる晋との国交を回復し、人民も財も軍も充実した。この年、西部の拓跋猗盧は并州に出始め、雑胡を北の雲中五原朔方に遷した。また、西は渡河して匈奴・烏桓諸部を撃破した。拓跋禄官は、杏城の北80里から、長城の端にまで至り、石碑を建てて晋と境界を分けた。296年、思帝(拓跋弗)が生前に改葬を欲していたので、拓跋禄官は文帝(沙漠汗)及び皇后封氏の葬儀を行った。晋の成都王の司馬穎は従事中郎の田思を遣わし、河間王の司馬司馬を遣わし、并州刺史の司馬騰主簿梁天を遣わして、葬儀に参列した。遠近で赴く者は20万人にも及んだ。

297年、中部の拓跋猗はたびたび漠北を巡り、西の諸国を帰順させた。298年、東部未耐婁大人の倍斤は遼東に入居した。299年宇文部大人莫珪の子の遜昵延が拓跋部に朝貢してきたので、拓跋禄官はその誠款を喜び、長女を妻とさせた。301年、拓跋猗は自ら西略に至り、20余国を帰順させた。304年、匈奴の劉淵が離石で叛き、自ら漢王と号す。并州刺史の司馬騰は拓跋部に援軍を要請した。拓跋猗は10余万騎を率い、拓跋禄官もこれに呼応し、西河郡上党郡で劉淵の軍を大破させた。305年、劉淵は司馬騰を攻め、司馬騰はまた援軍を要請した。拓跋猗は輕騎数千でこれを救い、劉淵の配下の母豚を斬る。劉淵は蒲子に南走した。晋は拓跋猗に大単于、金印紫綬を貸し与えた。307年、拓跋禄官が死去する。この年、徒何の大単于の慕容が遣使を送り朝貢してきた。

代の建国[編集]

代国と周辺国
代国(最大版図)と周辺国
代国と周辺国
代国と周辺国
前秦の支配下に入った代国

拓跋禄官の跡を継いだ拓跋猗盧は、3分割された拓跋部を再び統一した。310年、并州刺史の劉は拓跋部に遣使を送り、子の劉遵を人質とさせた。猗盧はその意を喜び、厚く褒美を贈る。白部大人は叛いて西河に入り、これに応じて鉄弗部劉虎雁門で挙兵、劉のいる新興、雁門の2郡を攻める。劉は援軍を要請し、猗盧は甥の拓跋鬱律の将騎2万を使い、劉を助けこれを撃ち白部を大破する。次に劉虎を攻め、その陣営を落とす。劉虎は西走し、朔方に逃れた。この功により、晋の懐帝は猗盧を大単于に進め、代公に封じた。劉はまた遣使を送り洛陽を救う援軍を求め、猗盧は歩騎2万を遣わしこれを助ける。この年、漢の劉淵が死んで、子の劉聡が立つ。

311年、劉の牙門将の延は新興で叛き、劉聡を招き寄せる。猗盧は軍を遣わしてこれを討ち、劉聡を退走させる。312年、劉は遣使を送り劉聡,石勒を討伐する援軍を要請し、猗盧は劉に忠義をもってこれに応じた。その間に、劉聡は子の劉粲を遣わして晋陽を襲い、劉の父母を殺しその城を占拠した。劉がこのことを報告すると、猗盧は大いに怒り、長子の六脩、桓帝(猗)の子の普根及び衛雄范班姫澹等を前鋒として遣わし、猗盧は躬大衆20万を統べ後継となる。劉粲は懼れて輜重を焼き、攻囲を突破して遁走した。縱騎はこれを追い、その将の劉儒劉豊簡令張平を斬り、伏屍は数百里にもわたった。劉は拜謝に来て、猗盧は礼をもってこれをもてなした。この年、晋の雍州刺史の賈疋、京兆太守閻鼎らは、懐帝が劉聡に囚われたので、懐帝の兄の子の秦王司馬(愍帝)を共立し太子とした。猗盧はふたたび戒厳、劉と与し、更に大挙し勝つ。313年、盛楽城を北都とし、平城を南都とした。新たに小平城を築城し、長子の拓跋六脩に鎮守させ、南部を統領させた。

315年、晋の愍帝は猗盧を進めて代王とし、代、常山の2郡に官属を置いた。ここに代国は百官を置き、刑法を定めるなど国家としての体制を整える。316年、猗盧は六修を召すが、六修が来ないので猗盧は怒り、これを討つが、逆に敗れてしまう。猗盧は民間にまぎれて逃亡するが、遂に捕まって殺された。そのころ普根は外境を守っていたが、このことを聞いて駆けつけ、六修を攻め滅す。猗盧の配下だった衛雄,姫澹は晋人及び烏丸人300餘家を率い、劉の子の劉遵につき従い并州に南奔した。普根は即位するが数カ月で卒去した。普根の子(哀帝)が生まれたので、桓帝の后(祁氏)はこれを立てる。その冬、普根の子も卒去し、立て続けに代王が卒去した。

穆帝、文平帝、哀帝が相次いで亡くなると、思帝の子の鬱律が即位した。318年、匈奴鉄弗部の劉虎は朔方に拠り、代国西部に侵攻してきた。拓跋鬱律はこれを大破し、劉虎を敗走させる。劉虎の従弟の劉路孤は部落を率いて帰順してきたので、鬱律は娘をやった。このころの代国は、西は烏孫の故地を兼ね、東は勿吉以西を併呑し、騎射ができる将は100万にのぼったという。この年、漢の劉聡が死んで、子の劉粲が立つが、在位1か月でその外戚のに殺されたので、劉淵の族子の劉曜が立った。劉曜は遣使を送り、代国に和親をはかったが、鬱律は晋の帝が劉曜に殺されたと聞いていたので、受け入れなかった。319年石勒は自ら趙王と称し、代国と和親をはかり、兄弟となることを請うた。しかし、鬱律は遣使を斬り捨て断絶する。321年東晋元帝が遣使を送り爵位を与えるが、鬱律はこれを断った。桓帝の后(祁氏)は、鬱律が衆の心を得ているのに対し、自分の子に利がないのを恐れて、鬱律と諸大人を殺し、死者は数10人に及んだ。

代の衰退[編集]

321年、平文帝鬱律が祁氏に殺されると、祁氏の子の拓跋賀が即位するが、まだ自ら政務ができないので代わりに祁氏が政務を執り行った(そのため当時は女国と呼ばれた)。324年、賀が親政を始めるが、諸大人はまったく帰服しないので、賀は東木根山に遷都した。325年、賀が卒去し、代わって弟の拓跋が立った。

327年羯族の石勒は石虎を遣わし、5千騎を率い辺部に来寇、代王の拓跋那はこれを句注陘北で防ぐが、不利となり、大寧に遷都する。時に舅の拓跋翳槐賀蘭部にいた。拓跋那は遣使を送り救援を求めるが、賀蘭部の帥の藹頭は救援の派遣をしなかった。拓跋那は怒り、宇文部並びに軍勢を召して藹頭を撃つが、宇文の衆は敗れ、那は大寧に帰る。329年那は宇文部へ亡命した。賀蘭部及び諸部大人は、拓跋翳槐を共立し、翳槐は代王となる。石勒は遣使を送り和親を求め、拓跋翳槐は弟の拓跋什翼襄国に遣わした。335年、藹頭は臣職を修めず、拓跋翳槐が召してこれを殺したので、国人はふたたびふた心を持つ。拓跋那は宇文部から戻ったので、諸部大人はふたたびこれを奉じ、拓跋那は復位した。拓跋翳槐はへ亡命し、337年、石虎は将の李穆を遣わし5千騎を率い拓跋翳槐を大寧で引き入れる。国人の六千餘落は拓跋那に叛き、拓跋那は慕容部へ亡命。拓跋翳槐は復位した。新しく故城の東南10里に在る盛楽城に遷都した。復位1年で卒去し、弟の拓跋什翼が後を継いだ。

什翼の治世と滅亡[編集]

拓跋什翼の即位に際して、後趙の人質となっている拓跋什翼の返還が困難であるとの理由で群臣の反対があり、高涼王拓跋孤を推挙する動きがあったが、拓跋孤がに向かい、自らが人質となることを申し出て、什翼の返還を迫った。すると、石虎は拓跋孤の気概に感心し、2人とも返還した。こうして338年、繁畤(現在の山西省混沌県)にて拓跋什翼は即位、元号を建国とした。339年、百官を設け国家体制を整える。またふたたび代国を南北に分割し、それぞれに大人を置いた。北部を弟の拓跋孤が監督し、南部を庶長子の拓跋寔君が監督した。この年、慕容部の大人慕容の妹を娶り后とする。

340年春、雲中郡の盛楽宮(現在の内蒙古自治区和林格爾県)に遷都し、341年秋9月、盛楽城を故城の南八里に築城した。后の慕容氏が卒去。冬10月、匈奴鉄弗部の劉虎は西の国境を侵す。什翼は軍を派遣し討伐、これを大破する。劉虎が没すると、子の劉務桓が帰順してきたので、什翼は娘をやった。344年、慕容の娘を迎えて后とする。355年、太后の王氏が卒去する。360年夏6月、后の慕容氏が卒去した。

363年冬10月、高車を討ち、これを大破する。364年、冬11月、没歌部を討ち、これを破る。365年春1月、鉄弗部の劉衛辰が謀反、什翼はこれを討ち、劉衛辰は遁走する。367年冬10月、什翼は劉衛辰を征伐、劉衛辰は宗族とともに西走する。370年冬11月、高車を征し、これを大破した。371年春、長孫斤が謀反を起こす。太子の拓跋寔は傷を負い、それがもとで夏5月に卒去した。374年、什翼は劉衛辰を征し、劉衛辰は南走する。

376年、劉衛辰の要請で、前秦苻堅は大司馬の苻洛を遣わし20万の兵と朱彤、張蚝、鄧羌などの諸道を率いて来寇させ、南の国境を侵す。冬11月、白部、独孤部はこれを防ぐが、敗北した。南部大人の劉庫仁は雲中郡に敗走した。什翼は再び庫仁を遣わし、騎兵10万を率いて石子嶺で反撃させるが、敗北した。什翼は病にかかり、軍を率いて陽山の北に逃れた。高車雑胡が相次いで反乱する。12月、什翼は雲中に戻るが、拓跋孤の子拓跋斤にそそのかされた庶長子の拓跋寔君は諸弟と什翼を殺してしまう(『宋書』では前秦に捕らえられた)。これにより代国は、前秦の支配下に入り、河を境に東西に分割され、東を劉庫仁が、西を劉衛辰が統治し、各々苻堅から官爵を拝受した。

北魏として復活[編集]

386年に什翼の孫の拓跋珪が再び代国を復活させ、399年には国号を魏(北魏)と改め皇帝に即位した。太武帝の時代には華北を統一し、北は柔然と戦い、南は南朝と対立した。

名称[編集]

魏書』,『南斉書』では「托跋」、『宋書』では「託跋」、杜氏『通典』,『広韻』では「拓跋」と記しているが、いずれも同音のものを音訳しており、白鳥庫吉によると「拓跋」の古代音は「tak-bat」であるとしている[2]。また、東ローマテオフィラクト・シモカッタの記述にある「Taugas」や、突厥碑文にみられる「Tabgač」という中国を指す名称(詳細は中国#「拓跋」に由来する呼称を参照)は、古くはジョセフ・ドギーニュが「大魏(Ta-göei)」の音訳で北魏を指したものであるとし、フリードリヒ・ヒルトが「唐家(Tang-kia)」の音訳でを指したものであるとしたが、白鳥庫吉は「Taugas」・「Tabgač」とも「拓跋(tak-bat)」を語源としたものであるとした[3]

「拓跋」の字義として、『魏書』序紀に「土を謂いて托となし、后を謂いて跋となし、故に氏となす」とあり、その語源が拓跋氏の祖先であり土徳の王である黄帝にちなんだものと思われることから、内田吟風は「拓・跋」の2字がアルタイ語の「tab(土地)」,「γač(所有者)」の音訳であるとしている[4]。古くはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ラドロフウイグル語の「tapkač」から「有名・著名」の意としたが、後に撤回して「唐人」をいう固有名詞とした。白鳥庫吉は「土・后」の2字がモンゴル語の「toghosun(泥土)」、ツングース語の「bogin(君主)」に比定できるものの、「拓跋」の意味が「土后」とする『魏書』の記述は俗説とし、「拓跋」の字義はなおも不明に属すとしている。白鳥の見解ではテュルク・モンゴル語の「tamga(印璽)」に「či(~を司る者)」が付いた語であると説いた[5]

また、「索頭」,「索虜」などと呼ばれるのは、彼らが辮髪であったためであり、拓跋部以外での辮髪は存在するので、必ずしも索頭部=拓跋部とはならないのである。「索頭部」というのはおそらく、漢民族王朝が辮髪をしている異民族を総称して呼んだものであり、部族名ではないと思われる[6]

言語系統[編集]

鮮卑の前身である東胡の言語系統について、かつてはツングース系[7]、或はモンゴル・ツングース混合系[8]と考えられたが、のちに東胡の子孫である鮮卑の言語をテュルク系であると解したため[9][10]、鮮卑をテュルク系民族と解する説が有力となった。しかし、近年になって鮮卑(特に拓跋部)の言語がモンゴル系であるとする学説もでてきた[11][12]

漢人起源説[編集]

『魏書』序紀において、拓跋氏は黄帝の子孫としている。黄帝は伝説の人物であるが、漢民族は古くから自らを黄帝の子孫としており、拓跋氏と漢人とは同じ起源ということになる。『宋書』索虜伝には、「索頭虜、姓は托跋氏といい、その祖先はの将軍李陵の後裔なり。陵は匈奴に降り、匈奴の一部落の索頭部となる」とあり、拓跋氏の祖先は漢人の李陵としている。また、『翰苑』註所引の『漢名臣奏』では、「鮮卑秦始皇の時代に、長城建築の際に逃亡した者たち」とあり、やはり漢人起源としている。これらの理由としては、匈奴人が西方系の深目,高鼻,多鬚,赤髪,緑目であったのに対し、鮮卑人が身体的に漢人と酷似していたために、鮮卑は漢人起源とされたと思われる[13]

氏族[編集]

拓跋部を構成する氏族は、血族の十姓と姻族などの外部氏族がいる。血族の十姓は献帝(拓跋隣)の代に初定されたものである[14]

内姓[編集]

  • 帝室拓跋氏
  • 骨氏(後に胡氏と改める)…始祖は拓跋隣の長兄
  • 普氏(後に周氏と改める)…始祖は拓跋隣の次兄
  • 拓跋氏(後に長孫氏と改める)…始祖は拓跋隣の三兄
  • 達奚氏(後に奚氏と改める)…始祖は拓跋隣の長弟
  • 伊婁氏(後に伊氏と改める)…始祖は拓跋隣の次弟
  • 丘敦氏(後に丘氏と改める)…始祖は拓跋隣の三弟
  • 侯氏(後に亥氏と改める)…始祖は拓跋隣の四弟
  • 乙旃氏(後に叔孫氏と改める)
  • 車焜氏(後に車氏と改める)

おもな姻族[編集]

外部氏族[編集]

以下は神元帝(拓跋力微)の時に拓跋部に服属した諸氏族である[14]

  • 丘穆陵氏(後に穆氏と改める)
  • 歩六孤氏(後に陸氏と改める)
  • 氏(後に賀氏と改める)
  • 独孤氏(後に劉氏と改める)
  • 賀楼氏(後に楼氏と改める)
  • 勿忸于氏(後に于氏と改める)
  • 是連氏(後に連氏と改める)
  • 僕闌氏(後に僕氏と改める)
  • 若干氏(後に苟氏と改める)
  • 拔列氏(後に梁氏と改める)
  • 撥略氏(後に略氏と改める)
  • 若口引氏(後に寇氏と改める)
  • 叱羅氏(後に羅氏と改める)
  • 普陋茹氏(後に茹氏と改める)
  • 賀葛氏(後に葛氏と改める)
  • 是賁氏(後に封氏と改める)
  • 阿伏于氏(後に阿氏と改める)
  • 可地延氏(後に延氏と改める)
  • 阿鹿桓氏(後に鹿氏と改める)
  • 他駱拔氏(後に駱氏と改める)
  • 薄奚氏(後に薄氏と改める)
  • 烏丸氏(後に桓氏と改める)
  • 素和氏(後に和氏と改める)
  • 吐谷渾
  • 胡古口引氏(後に侯氏と改める)
  • 賀若氏
  • 谷渾氏(後に渾氏と改める)
  • 匹婁氏(後に婁氏と改める)
  • 俟力伐氏(後に鮑氏と改める)
  • 吐伏盧氏(後に盧氏と改める)
  • 牒云氏(後に云氏と改める)
  • 是云氏(後に是氏と改める)
  • 叱利氏(後に利氏と改める)
  • 副呂氏(後に副氏と改める)
  • 那氏
  • 如羅氏(後に如氏と改める)
  • 乞扶氏(後に扶氏と改める)
  • 阿単氏(後に単氏と改める)
  • 俟幾氏(後に幾氏と改める)
  • 賀児氏(後に児氏と改める)
  • 吐奚氏(後に古氏と改める)
  • 出連氏(後に畢氏と改める)
  • 賀拔氏(後に何氏と改める)
  • 叱呂氏(後に呂氏と改める)
  • 莫那婁氏(後に莫氏と改める)
  • 奚斗盧氏(後に索盧氏と改める)
  • 莫蘆氏(後に蘆氏と改める)
  • 出大汗氏(後に韓氏と改める)
  • 没路真氏(後に路氏と改める)
  • 扈地于氏(後に扈氏と改める)
  • 莫輿氏(後に輿氏と改める)
  • 干氏(後に干氏と改める)
  • 俟伏斤氏(後に伏氏と改める)
  • 是楼氏(後に高氏と改める)
  • 尸突氏(後に屈氏と改める)
  • 沓盧氏(後に沓氏と改める)
  • 石蘭氏(後に石氏と改める)
  • 解枇氏(後に解氏と改める)…高車
  • 奇斤氏(後に奇氏と改める)…高車
  • 須卜氏(後に卜氏と改める)…南匈奴
  • 丘林氏(後に林氏と改める)…南匈奴
  • 大莫干氏(後に氏と改める)
  • 緜氏(後に緜氏と改める)
  • 蓋楼氏(後に蓋氏と改める)
  • 素黎氏(後に黎氏と改める)
  • 単氏(後に単氏と改める)
  • 壹斗眷氏(後に明氏と改める)
  • 叱門氏(後に門氏と改める)
  • 宿六斤氏(後に宿氏と改める)
  • 馝邗氏(後に氏と改める)
  • 土難氏(後に山氏と改める)
  • 屋引氏(後に房氏と改める)
  • 樹洛于氏(後に樹氏と改める)
  • 乙弗氏(後に乙氏と改める)

以下は登国の初め、道武帝(拓跋珪)によって行われた「諸部解散」後に編民となった諸氏族である[14]

東方
  • 宇文氏…宣帝(拓跋推寅)時の東部
  • 慕容氏…宣帝(拓跋推寅)時の東部
南方
  • 茂眷氏(後に茂氏と改める)
  • 宥連氏(後に雲氏と改める)
  • 豆陵氏(後に竇氏と改める)
  • 侯莫陳氏(後に陳氏と改める)
  • 庫狄氏(後に狄氏と改める)…高車
  • 太洛稽氏(後に稽氏と改める)
  • 柯拔氏(後に柯氏と改める)
西方
  • 尉遲氏(後に尉氏と改める)
  • 歩鹿根氏(後に歩氏と改める)
  • 破多羅氏(後に潘氏と改める)…高車
  • 叱干氏(後に薛氏と改める)
  • 俟奴氏(後に俟氏と改める)
  • 輾遲氏(後に展氏と改める)
  • 費連氏(後に費氏と改める)
  • 其連氏(後に氏と改める)
  • 去斤氏(後に艾氏と改める)
  • 侯氏(後に氏と改める)
  • 叱盧氏(後に祝氏と改める)
  • 和稽氏(後に緩氏と改める)
  • 氏(後に就氏と改める)
  • 盆氏(後に温氏と改める)
  • 達勃氏(後に褒氏と改める)
  • 独孤渾氏(後に杜氏と改める)
北方
  • 賀蘭氏(後に賀氏と改める)
  • 郁都甄氏(後に甄氏と改める)
  • 奚氏(後に氏と改める)…高車
  • 越勒氏(後に越氏と改める)
  • 叱奴氏(後に狼氏と改める)
  • 燭渾氏(後に味氏と改める)
  • 庫褥官氏(後に庫氏と改める)
  • 烏洛蘭氏(後に蘭氏と改める)
  • 一那氏(後に氏と改める)
  • 羽弗氏(後に羽氏と改める)

拓跋部の可汗号について[編集]

可汗という君主号は、一般的に柔然が最初に使用したとされるが[15]、一説にはそれよりも以前から鮮卑拓跋部によって使われてきたとされる。『資治通鑑』第七十七、八十において「可汗推寅」「力微可汗」などと書かれており、507年建造の『魏人奚智墓碑』に「僕膾可汗之後裔…改為達奚氏焉」とあり、僕膾とは序紀に見える拓跋に当たり、『魏書』官氏志によれば達奚氏という名称は拓跋隣の代に初定されたというので、拓跋の代にはすでに可汗号を使っていたことになる[16]

歴代君主[編集]

以下は『魏書』帝紀第一によるもの。

拓跋部[編集]

  • 成帝(拓跋毛)
  • 節帝(拓跋貸)
  • 荘帝(拓跋観)
  • 明帝(拓跋楼)
  • 安帝(拓跋越)
  • 宣帝(拓跋推寅)…大澤に南遷する。
  • 景帝(拓跋利)
  • 元帝(拓跋俟)
  • 和帝(拓跋肆)
  • 定帝(拓跋機)
  • 僖帝(拓跋蓋)
  • 威帝(拓跋
  • 献帝(拓跋鄰)
  • 聖武帝(拓跋詰汾)…南遷する
  • 始祖神元帝(拓跋力微)(220年 - 277年)…詰汾の子
    • 文帝(拓跋沙漠汗)…力微の太子、大人にはなっていない。
  • 章帝(拓跋悉鹿)(278年 - 286年)…力微の子
  • 平帝(拓跋綽)(287年 - 293年)…力微の子、悉鹿の弟
  • 思帝(拓跋弗)(294年)…沙漠汗の末子

〈三分統治〉

代国[編集]

〈再統一〉

  1. 穆帝(拓跋猗盧)(308年 - 316年)…315年代王となる
  2. 文平帝(拓跋普根)(316年)
  3. 哀帝(名称不明)(316年)…普根の子
  4. 太祖平文帝(拓跋鬱律)(317年 - 321年)…弗の子
  5. 恵帝(拓跋賀)(321年 - 325年)…猗の中子
  6. 煬帝(拓跋那)(325年 - 329年)…猗の末子
  7. 烈帝(拓跋翳槐)(329年 - 335年)…鬱律の長男
  8. 煬帝(拓跋那)(335年 - 337年)復位
  9. 烈帝(拓跋翳槐)(337年 - 338年)復位
  10. 高祖昭成帝(拓跋什翼)(338年 - 376年)…鬱律の次男

脚注[編集]

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  1. ^ 内田 1975
  2. ^ 白鳥 1970,p155
  3. ^ 白鳥 1970,p155-156
  4. ^ 内田 1975,p96
  5. ^ 白鳥 1970,p155-157
  6. ^ 内田 1975,p30-31,p109
  7. ^ Abel Remusat (Recherches sur les Tungues Tartares.1820) や、Heinrich Julius Klaproth (Asia Polyglotta.1823) が唱導して以来、東胡民族は通古斯 (Tungus) 族のことであって、「東胡」という文字も恐らくこの Tungus という音を写したものであろうとの考が一時おこなわれたが、その後この東胡=ツングース説はほとんど信じられなくなっている。《内田 1975,p3》
  8. ^ 白鳥庫吉は「東胡民族考」(『史学雑誌』21-24、『白鳥庫吉全集4』)において、中国古典中に記録せられて残っているところの、東胡の後裔なる鮮卑柔然族の言語(※烏桓の言語はほとんど残っていない)を調査して、これが現在のツングース語およびモンゴル語をもって解釈せられること、端的にいえば彼等の言語はツングース語とモンゴル語の混合(モンゴル語的要素はツングース語的要素よりも多数、とする)せるものであったことを論考した。《内田 1975,p3》
  9. ^ Boodberg (1936)Bazin (1950) によると、東胡の子孫である鮮卑族、特に拓跋部の言語は turkish ないし proto-turkish original であるという。《『騎馬民族史1』p9 注15》
  10. ^ ポール・ペリオは1925年秋のレニングラードにおける講演において、4-5世紀の華北を支配した鮮卑拓跋部の語彙を基礎として、鮮卑はテュルク語使用の民族であったと発表したとW.W.バルトルトは紹介したが (W.W.Barthold:Der heutige Stand und die nächsten Aufgaben der geschichtlichen Erforschung der Türkvölker〔Zeitschrift der deutschen Morgenländischen Gesellschaft,Neue Folge Band 8 - Heft 2.S.124〕)、ついでぺリオ自身は鮮卑語中国語版をモンゴル語とみる意味のことを Toung-pao XX.S.328 注3、XXVII.S.195. 注1 で発表した。バルトルトは鮮卑の言語はテュルク語であると論じ、鮮卑は疑いもなくテュルク族であったと結論し (Zwölf Vorlesungen über die Geschichte der Türken Mittelasiens〔Orta Asya Türk Tarikhi,Istanbul 1927.Die Welt des Islams Bd.XIV 1932.〕)、P.ブッドバーグは鮮卑拓跋部の語彙が本質的にテュルク語であることを論考した (P.Boodberg,The Language of the Tó-pa Wei.Harvard Journal of Asiatic Studies I-2 1936)。《内田 1975,p3-4》
  11. ^ Pullyblank (1962)Ligeti (1970) によると、鮮卑語の特徴はモンゴル語であるという。《『騎馬民族史1』p9 注15、p218 注2》
  12. ^ L.Ligeti (Le Tabghatch,un dialecte de la langue Sien-pi,1970) は、鮮卑拓跋語はモンゴル語の特徴を有し、テュルク語の特徴とは相容れないと強調する。《内田 1975,p4》
  13. ^ 内田 1975,p5-6
  14. ^ a b c 魏書』志第十九 官氏志
  15. ^ 唐の社佑が『通典』辺防典に「可汗之号始於此(柔然社崙)」と注し、白鳥庫吉がこれを支持した(「可汗及可敦称号考」『東洋学報十一』)ため。《内田 1975 p285》
  16. ^ 内田 1975,p284-292

参考資料[編集]

関連項目[編集]