杜洪

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杜 洪(と こう、生年不詳 - 352年)は、五胡十六国時代後趙人物京兆郡の出身。冉閔の乱により中原が乱れると、長安を占拠して自立した。

経歴[編集]

元々は京兆郡の豪族であったという。

後趙に仕え、長安の守将であった車騎将軍王朗の軍中司馬の地位にあった。

350年1月、を鎮守する武徳王石閔(後の冉閔)と襄国を鎮守する新興王石祗の対立が激化すると、王朗は征東将軍麻秋と共に長安を離れて洛陽に入った。8月、杜洪はこの機に乗じて長安を占拠し、東晋の征北将軍・雍州刺史を自称した。また、張琚を司馬に任じた。関中にいる民は問わず、みなその傘下に入った。

枋頭に割拠していた酋長苻健関中攻略を目論んでいたが、その目論みがばれないように、あえて石祗から官爵を授かって従属する振りをし、さらに宮殿の造成や農耕に励み、杜洪の油断を誘った。

やがて、全軍を挙げて西征を開始した。そして、弟の輔国将軍苻雄に5千の兵を与えて潼関へ派遣し、甥の揚武将軍苻菁に7千を与えて軹関へ派遣し、苻健は自ら大軍を率いて苻雄の後詰めとなった。これを聞いた杜洪は苻健へ書を送って侮慢した。さらに、張琚の弟である張先(『十六国春秋』では張光と記される)を征虜将軍に任じ、3千の兵を与えて潼関の北へ派遣して苻雄を防がせた。だが、張先は大敗を喫して長安へ逃げ戻った。その為、杜洪は関中の兵を総動員して迎撃準備を整えた。弟の杜郁は降伏を勧めたが、杜洪は聞き入れなかった。すると、杜郁は自らの軍ごと苻健へ降伏してしまった。

杜洪は毛受徐磋白犢らに各々数万の兵を与えて渭水の北砦を守らせていたが、苻雄が到来すると、彼らはみな杜洪からの使者を斬り殺し、子息を人質にして苻健へ降伏してしまった。さらに、苻菁・魚遵の侵攻により、城砦は次々と降伏した。杜洪は大いに恐れ、長安を固く守った。

9月、苻菁が渭北に進むと、杜洪は再び張先に迎え撃たせたが、敗れて捕らえられた。これにより、三輔の郡県は尽くが苻健の傘下に入った。

10月、苻健は進軍を続けて長安を攻撃した。これにより、杜洪は張琚と共に司竹へ逃走した。11月、苻健は長安へ入城した。これにより、秦州・雍州の胡漢はみな苻健に寝返った。

351年3月、杜洪は東晋の梁州刺史司馬勲の下へ使者を派遣し、苻健討伐を請うた。4月、司馬勲は要請に応じて3万の兵で攻めたが、五丈原にて敗北し、南鄭まで撤退した。

352年1月、司馬勲は漢中へ退却すると、杜洪は宜秋に駐屯した。杜洪は自らが豪族である事から、かねてより張琚を軽んじていた。その為、逆に張琚により殺害されてしまった。張琚は秦王を自称した。

一部史書との食い違い[編集]

『十六国春秋』及び『晋書』司馬勲伝では、『晋書』苻健載記や『資治通鑑』とは異なる記載が為されている。以下、『十六国春秋』及び『晋書』司馬勲伝に記されている内容を記す。

杜洪は自らが豪族である事から、かねてより張琚を軽んじおり、また司馬勲が張琚の兵が強い事を恐れているのを知っていたので、司馬勲へ向けて「張琚を殺さねば、関中は国家の有するものでは無くなるでしょう」と語った。これにより、司馬勲は偽って張琚を呼び寄せ、座においてこれを殺害した。張琚の弟である張先は池陽に逃走し、兵を集めて司馬勲を攻めた。司馬勲はこれと幾度も争ったが次第に不利となった。杜洪はこの混乱に乗じて秦王を自称し、建昌と改元して百官を置いた。352年5月、苻健は杜洪の守る宜秋に歩騎2万を率いて侵攻し、杜洪は敗北して殺害された。

『晋書』苻健載記・『資治通鑑』では秦王を自称するのは張琚となっており、大きな相違がある。

参考文献[編集]