靳準

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漢天王 靳準
漢天王
在位期間 318年
都城 平陽
姓・諱 靳準
生年 不詳
没年 318年
※漢(後の前趙)の皇帝と一族を殺戮して自ら即位するが、その年の内に殺された

靳 準(きん じゅん、? - 318年)は、中国五胡十六国時代における漢(後の前趙)の政治家である。匈奴屠各種の系統の有力者である[1]劉粲を始め漢の皇族を虐殺し、漢天王を自称した。

生涯[編集]

漢の外戚[編集]

若い頃の事績は明らかになっていない。漢(後の前趙)の朝廷に仕え、劉聡の時代には中護軍の地位にあった。少なくとも3人の娘がおり、その中でも靳月光靳月華はその容姿い評判があった。315年、劉聡は靳準の屋敷へ赴くと、彼女らを後宮に迎え入れ、左貴嬪・右貴嬪(皇帝の側室の称号)に立てた。その数カ月後、靳月光は皇后となり、さらに後に上皇后に立てられた。また、靳月華は右皇后となり、末娘の靳氏もまた劉聡の世子である劉粲の妻となった。これにより靳準は劉氏の外戚となり、権勢の一端を担うようになった。

同年、御史大夫陳元達は上奏し、靳月光が淫行を為したとして弾劾した。劉聡は靳月光を特に寵愛していたが、父の代からの功臣である陳元達の発言を無視するわけにもいかず、やむなく皇后から廃した。靳月光はこの一件を大いに恥じ、間もなく自殺してしまったので、靳準は陳元達を深く恨むようになった。

当時、宦官である中常侍王沈・中宮僕射郭猗・中黄門陵修らはみな劉聡から寵遇されており、315年頃より劉聡が政務を怠るようになると、彼らが朝政を仕切るようになっていた。王沈らの車・衣服・邸宅の豪華さは諸王を超え、良民を迫害して財貨を着服していたが、靳準は彼らに媚び諂ったという。

靳準の従妹は皇太弟劉乂に側室として仕えていたが、侍人と密通したことにより、劉乂の怒りを買って処刑された。これ以降、劉乂はこの事で靳準をたびたび嘲笑したので、靳準は深く恥じ入ると共に憤った。そのため、彼は劉乂を皇太弟の地位から引きずり降ろそうと考え、劉聡の嫡男である劉粲の下へ赴いて「大将軍(劉敷)と衛将軍(劉翼、いずれも劉粲の弟)が皇太弟(劉乂)を擁立して造反を起こすと言う話は、今や道行く人でさえ知っています。もしも皇太弟が天下を取ったら、殿下には身を入れる場所さえなくなってしまいます。前漢成帝は生母の王太后の言を容れなかったために、王莽の簒逆を許すことになりましたが、殿下はそれでよいのですか」と問うと、劉粲は「許してよいはずがない」と答えた。靳準は「噂によれば大将軍・衛将軍らは皇太弟を奉じて、春に政変を起こそうとしているとの事ですが、主上(劉聡)は皇太弟を信じておられるので、おそらくは造反を告げても信じられないでしょう。一案として、東宮の禁固を緩めて皇太弟の賓客との交わりを許可するのです。その中には謀反を唆す軽薄な小人も出てくるでしょうから、後に私が殿下のためにその罪を暴露させますので、殿下がその者を捕えて責めれば、主上もこれに罪があるとされるでしょう。この案を用いなければ、朝望が皇太弟に多く帰している今、主上にもしものことがあれば、殿下は恐らく立つことができないでしょう」と告げた。

317年3月、劉粲は腹心の王平を通して劉乂に対し「詔によれば都で変事が起ころうとしております。武具を集めて備えられますように」と偽りの通達を送り、これを信じた劉乂が宮臣に命じて宮殿に武具を集めさせると、靳準・王平は劉乂が謀反を図ったとしてこれを劉聡に報告した。劉聡は大いに驚き「そのようなことがあるのか」と半信半疑だったが、王沈らが声を揃えて「臣らは久しくこのことを聞き知っておりましたが、陛下が信用されないことを恐れていたのです」と言うと、劉聡は遂に信じ、劉粲に命じて東宮を包囲させた。靳準は劉粲の命により、氐族・羌族の酋長10人余りを捕えて肉刑を加え、劉乂と共に反逆を謀ったとの嘘の自白を強要した。またこの時、靳準は普段から憎んでいた大臣および官属数十人を誅殺した。4月、劉乂は廃されて北部王に降格となった。間もなく劉粲の命により、靳準は刺客を放って劉乂を殺害した。

318年、劉聡が王沈の養女を左皇后に立てると、尚書令王鑒・中書監崔懿之らがこれを固く諫めた。劉聡は大怒し、劉粲に命じて彼らを捕らえて市に送った。刑の執行に際して崔懿之は王沈へ「靳準の容姿を見るに必ずや国の患いとなるだろう。また、汝も人を食らったからには、必ずや人が汝を食らうだろう」と言い放ったという。

靳準の乱[編集]

6月、劉聡が崩御すると劉粲が即位した。次女の靳月華は皇太后に立てられ、末娘の靳氏は皇后に立てられた。劉粲は日々歓楽に耽り、劉聡への哀傷の姿を見せなかったという。これを見た靳準は謀反を起こして政権を掌握する事を計画し、8月、二人の娘であった靳皇太后と靳皇后を通して、各地の皇族が帝を廃して弟の済南王劉驥を立てようとしているとして粛清するよう唆した。両靳氏が機会を見てこれを上奏したところ、劉粲はこれに同意し、太宰・上洛王劉景、太師・昌国公劉顗、大司馬・済南王劉驥、車騎大将軍・呉王劉逞、大司徒・斉王劉勱らを捕らえると、全員処刑した。政敵のいなくなった靳準は大将軍録尚書事に任じられ、酒に溺れて後宮に入り浸りとなっていた劉粲を差し置いて、政務・軍務問わず全ての朝政を靳準が取り仕切るようになった。

靳準は劉粲の命だと偽り、従弟の靳明車騎将軍に、靳康衛将軍に任じた。また靳準は金紫光禄大夫王延にも謀反の計画を伝えたが、王延は徳望ある老臣であったことから、これに従わずに朝廷へ報告すべく駆け込もうとした。靳康は彼を捕らえ、身柄を靳準のもとへ差し出した。靳準は時機を見計らって決起すると、まず光極殿に上り、甲士に命じて劉粲・劉元公父子を捕えさせ、劉粲父子の罪状を数え上げた上でこれを処刑した。靳準は劉氏を老若男女問わず全て東市に引き出して斬首し、永光・宣光の二陵(劉淵と劉聡の墓)を掘り返し、劉聡の屍を斬った上で宗廟を焼き払った。平陽では受刑者たちの慟哭する声が百里に渡って響いたという。靳準は大将軍・漢天王を名乗り、百官を任命した。

靳準は胡嵩という人物に対し「古来、胡人天子になった者などいない。伝国璽を汝に渡すので、これを晋に返すのだ」と言った。だが、胡嵩は靳準の命を受けなかったので、靳準はこれを誅殺した。靳準は東晋司州刺史李矩へ使者を派遣し「劉淵は屠各種の小醜であり、晋の乱れに乗じて天命を詐称し、二帝(懐帝愍帝)を虜庭(蛮族の土地)に幽没させました。今、私が兵を従え、梓宮(皇帝の棺)を運びます。この事を朝廷に上聞されますよう」と述べた。李矩が元帝に報告すると、元帝は太常韓胤などを派遣して梓宮を迎え入れさせた。漢の尚書北宮純らは靳準に反発し、旧臣を集めて東宮を守った。靳康がこれを攻略すると、彼らを皆殺しにした。靳準は王延を左光禄大夫に任じて同志に引き込もうとしたが、王延はこれを拒んで「貴様は逆賊である。我を殺すなら速やかに殺せ。そして、我が左目を西陽門に置くように。そうすれば相国(劉曜)がお前を滅ぼすのが見られるであろう。また、我が右目を建春門に置け。そうすれば大将軍(石勒)が入城するのを見られるであろう」と詰った。靳準は怒って王延を処刑した。

相国の劉曜が靳準の謀反を知ると、長安から平陽に向かった。大将軍の石勒も精鋭5万を率いて靳準討伐を掲げ、襄陵北原に駐軍した。靳準は石勒を攻撃したが、石勒は守りを固めて靳準の鋭気を削いだ。

10月、劉曜が河東の赤壁に至ると、皇帝の位に即いて大赦を下した。ただし、靳準一門は大赦から外された。北原に駐軍した石勒は平陽を攻撃し、巴賨族・氐族羌族羯族の人々が石勒に帰順した。石勒の動きに呼応して劉曜は征北将軍劉雅・鎮北将軍劉策汾陰に駐軍させ、石勒と共に靳準を討つよう命じた。

11月、靳準は侍中卜泰を派遣し、石勒に乗輿や御服を贈って和睦を請うた。しかし、石勒は卜泰を捕えると劉曜に送った。劉曜は卜泰へ「先帝(劉粲)は確かに大倫を乱した。司空(靳準)はただ伊尹や霍光に倣ってそれを誅しただけである。そのおかげで朕が即位できたので、司空には大功がある。もし朕を迎え入れるなら、今までの全てを許し、政事を任せるつもりだ。卿は朕のために城に帰り、朕の意思を伝えよ」と述べた。卜泰は平陽に帰ると靳準へ事の次第を報告した。しかし、靳準は劉氏の一族を皆殺しにしていたので、投降を躊躇った。

12月、左車騎将軍喬泰・右車騎将軍王騰衛将軍靳康らは、遂に靳準を見限って殺害し、尚書令靳明を新たな主君に立てた。靳明らは卜泰を劉曜の陣営に派遣すると、伝国璽を返上し、平陽の士女1万5000人を率いて帰順した。だが、劉曜は靳氏一族を許さず、老若男女問わず靳氏一族は皆殺しとなった。この靳準の乱をきっかけとして、漢は劉曜の前趙・石勒の後趙に分裂した。

脚注[編集]

  1. ^ 晋書』載記第2 劉聡載記

参考文献[編集]

  • 晋書』巻102 載記第2、巻103 載記第3、巻104 載記第4
  • 資治通鑑』巻89 - 巻90