蒋介石

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蒋 介石
Chiang Kai-shek Colour.jpg

任期 1948年5月20日1975年4月5日
副総統 李宗仁陳誠嚴家淦

任期 1943年8月1日1948年5月20日

任期 1928年10月10日1931年12月15日

任期 1932年3月6日1946年5月31日

任期 1938年4月1日1975年4月5日

出生 1887年10月31日
光緒13年9月15日)
清の旗 浙江省寧波府奉化県
死去 1975年4月5日(満87歳没)
中華民国の旗中華民国台北市
政党 Emblem of the Kuomintang.svg 中国国民党
配偶者 毛福梅 1901年-1921年
姚冶誠(妾) 1911年-1921年
陳潔如 1921年-1927年
宋美齢 1927年-1975年
署名 Chiang Kaishek signature.svg
蒋中正
繁体字 蔣中正
簡体字 蒋中正
蒋介石
繁体字 蔣介石
簡体字 蒋介石

蒋 介石(しょう かいせき、蔣介石1887年10月31日 - 1975年4月5日)は中華民国政治家軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統中国国民党永久総裁。国民革命軍中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、大陸支配を回復することなく没した。

名前[編集]

名は中正で、介石[1]。譜名(族譜上の名)は周泰、原名(幼名)は瑞元。学校では志清とも呼んだ[2]。日本・中国本土では蒋介石の呼び名で知られているが、台湾一帯では蒋中正(チアン・チョンチェン、蔣中正)の名称が一般的。

「介石」は最初は雑誌『軍声』上で筆名として使っていたが、後に字になった。

英語ではChiang Kai-shek(チアン・カイシェック)と呼ばれるが、Kai-shek は「介石」の広東語での発音に由来する。 欧米のメディアからは大元帥を意味するGeneralissimoとも呼ばれていた。

年譜[編集]

  • 1887年、奉化県(現奉化市)渓口鎮に生まれる。
  • 1902年、毛福梅(当時19歳)と結婚。
  • 1904年、奉化の鳳麓学堂や寧波の箭金学堂で学ぶ(1904年 - 1905年)。
  • 1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。
  • 1907年(明治40年)、渡日し東京振武学校へ留学する。
  • 1909年、大日本帝国陸軍に勤務。陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校( - 1911年)
  • 1910年、蒋経国誕生(1927年、毛福梅は出家、離縁する。1939年12月、日本軍の空襲で奉化県渓口鎮で死去)
  • 1911年 - 1912年辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角を現す。
  • 1923年、孫文の指示により、ソ連の軍制を視察。
  • 1924年広州黄埔軍官学校校長に就任。
  • 1926年7月1日、中国国民党・北洋軍閥等に対し北伐を開始。
  • 1927年民国16年)、宋美齢と結婚。
  • 1927年、上海クーデター中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。
  • 1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。
  • 1931年柳条湖事件満州事変が勃発。
  • 1932年満州国建国。中国は国際連盟に提訴。
  • 1933年塘沽停戦協定締結。
  • 1935年3月30日、中華民国特級上将に叙される。
  • 1936年、3月、西南旅行の途次、南京に立ち寄った松井石根大将と会談。
    • 12月、西安事件で軟禁される。この事件により対日・反共政策の見直しを迫られる。
宋美齢、アメリカ軍の准将スティルウェルとともに
カイロ会談でルーズベルトチャーチルとともに(1943年)
  • 1937年(民国26年)、7月盧溝橋事件を契機に、抗日を推し進める。
    • 12月、日本軍による首都南京の占領が不可避と判断し、四川省重慶へ遷都。
  • 1938年トラウトマン工作の吊り上げにより和平破綻。トラウトマン工作打ち切りで、泥沼化。
  • 1940年桐工作板垣征四郎と汪兆銘との会談が検討されたが、蒋は出席せず。
  • 1941年、7月に日本をABCD包囲陣で経済封鎖。11月にハルノートが出される。
    • 12月、日本が対英米と戦争状態になることで日米が第二次世界大戦に参戦。蒋介石は連合国共同宣言に署名し、中華民国が四大国の一員となる。
  • 1942年、スティルウェルが中国戦区連合国軍最高司令官・中国戦区参謀長に就任する。
  • 1943年繆斌と対日単独講和を検討。
  • 1944年、日本陸軍最大の攻勢大陸打通作戦によって蒋介石の国民党軍が大打撃を受ける。
    • 10月、スティルウェルを参謀長から解任する。
  • 1945年、抗日戦争(日中戦争)に終戦。毛沢東との交渉により双十協定を締結する。
  • 1946年国共内戦に突入する。
  • 1948年、中華民国の初代総統に就任(ただし反発を受け翌年辞任)
  • 1949年、国共内戦で敗北。首都南京を脱出し、重慶などを経て、12月に成都から、息子の経国とともに飛び立ち台湾へ到着。事実上台北への遷都を強いられる。
  • 1950年3月、再び総統に就任(第五任(第5期)まで務め任期中に死去)
  • 1969年、交通事故に遭って体調を崩し、この年を境に表舞台には出なくなる。
  • 1972年、6月に肺炎にかかり一時重篤な状態になったが持ち直した。しかし、これを期に以後は公の場に姿を現す事はなくなってしまった。
  • 1975年4月5日23時50分、死去。死因は心臓麻痺とも心臓病とも言われる。87歳没。任期中死亡のため副総統の厳家淦が後任総統に昇格。

生涯[編集]

革命運動との出会いと軍人への道[編集]

日本留学時の蒋介石
高田連隊時代

1887年10月31日清国浙江省奉化県渓口鎮にて生まれる。父は塩商人の蒋肇聡、母は王采玉。母親が教育熱心であったことから、蒋介石は6歳から私塾や家庭教師に習い、中国の古典を学んでいった。実家は裕福であったが、父は蒋が9歳のときに亡くなり、以後は母の手によって育てられた。当時の中国の封建的な社会において、母子家庭の暮らしは厳しいものであった。10歳から16歳にかけて生地にあった毛鳳美の塾で学び、1902年には毛鳳美の娘の毛福梅と結婚。1904年からは浙江省に設けられた新制の教育機関である鳳麓学堂で英語や数学を学び、その後寧波の箭金学堂で西洋法律を学んだ[4]

1905年の暮れには生家に戻り、1906年4月に日本へ渡る。この渡日の目的は東京振武学校で学ぶことであったが、保定陸軍速成学堂の関係者しか振武学校の入学を許可されていなかったので、目的を果たすことはできなかった。しかし蒋介石はこの渡日で、孫文率いる中国同盟会の一員で、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心であった陳其美と出会い、交友を深めた。中正紀念堂(蒋介石記念館)による「蒋公大事年表」はこの渡日を「公(蒋介石)参加革命運動之始」としている。また、日本のノンフィクション作家である保阪正康は、陳其美との交友が後に蒋介石が武力革命の実践者となることに大きな影響を与えたとする[5]

同年冬に帰国し、改めて保定軍官学校に入学して軍事教育を受ける。そして翌1907年7月、再び日本へ渡り、東京振武学校に留学した。2年間の教育課程を修めた後、蒋介石は日本の陸軍士官学校には入学せず、1910年より日本陸軍に勤務し、第13師団高田連隊(現在の新潟県上越市)の野戦砲兵隊の隊付将校として実習を受けた[6]。このときに経験した日本軍の兵営生活について蒋介石は、中国にあっても軍事教育の根幹にならなければならないと後に述懐したという[7]

1910年には蒋介石の人生に大きな影響を与えた二つの出来事があった。一つは3月に長男の蒋経国が誕生したことである。そしてもう一つは孫文との出会いである。6月、アメリカに渡っていた孫文は日本に移り、東京に入った。清国政府の要求で日本政府は孫文を2週間の猶予を与えて国外処分としたが、このとき蒋介石は東京に赴き、陳其美の門弟の立場で孫文との対面を果たしている。この対面で蒋介石は、自分も中国同盟会の一員で、革命には軍事面で貢献したいと孫文に表明したという[8]。この対面当時での孫文の蒋介石に対する印象は、「まちがいなく革命の実行者にはなるだろう」というもので、「革命の指導者」としての資質があるなどとは考えていなかった[9]

辛亥革命[編集]

1911年10月、辛亥革命が勃発すると蒋介石は帰国して革命に参加する。10月30日上海に着いた蒋は、その後陳其美と行動を共にする。陳は蒋に信頼を寄せており、杭州方面の革命軍である第五団の団長に任じた。蒋介石は杭州制圧のために軍勢を率いて向かったが、これが初陣ということで死を覚悟し、このとき実家の母、妻、そして長男に宛てて遺書を書き残している。11月4日から攻略戦を開始し、翌日には杭州を陥落せしめ、浙江省の独立を宣言した。

杭州攻略戦が開始された11月4日、上海では陳其美が蜂起に成功、陳は上海都督に就任した。そして蒋に軍事顧問の役割を与えた。蒋は陳の厚い信頼を得て、陳と義兄弟の契りを結ぶに至った。

11月22日から南京攻略戦が開始された。陳其美が陣頭指揮を執ったが、蒋介石は上海防衛を任されたため、攻略戦には参加していない。この頃の蒋介石は陳其美の護衛役を自負しており、陳の政敵である陶成章を暗殺するなどしている[10]

1912年1月1日、南京において中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統の地位に就いた。2月12日には宣統帝が退位し、清朝が崩壊した。同時に、孫文は臨時大総統の地位を北洋軍閥袁世凱に譲るなど、政局は大きく転換した。この時期の蒋介石は目立った行動を取っていないが、同年3月から12月まで日本に赴き、東京で言論活動を行った。中国同盟会の会員や在日華僑向けの軍事雑誌を出版していたが、その中で「軍政統一問題」を取り上げていた。蒋介石は、軍事と政治を統一するにはそれにふさわしい指導者が必要で、その指導者を持つことができるか否かが各民族に課せられた課題である、と説いていたのである[11]

第二革命の失敗と日本への亡命[編集]

中華民国初の国会選挙を控えた1912年8月25日、孫文率いる中国同盟会を中心に各政治結社が合流して国民党が結成された。翌年3月、国民党は国会選挙に圧勝したが、独裁を志向する袁世凱大総統は、3月20日、孫文に代わって国民党の実権を握り、議院内閣制を志向していた宋教仁を暗殺した。宋の暗殺により国民党での実権を掌握した孫文は、独裁を強める袁世凱に対抗して武装蜂起を試み、「第二革命」を起こした[12]。中華民国の閣僚の地位にあった陳其美も上海に戻った。このとき蒋介石はすでに日本から帰国し奉化県渓口鎮に戻っていたが、5月には上海に赴き、陳其美の下で国民党員となっていた。「第二革命」が勃発すると、陳は上海に在って討袁軍総司令と称し、蒋介石率いる第五団に命じて蜂起を企てたが、上海市内は政府軍に押さえられており、蒋が説得に当たったものの、第五団の大勢が政府軍についてしまったため、蜂起は失敗した。陳は地下に潜伏したが、蒋介石は日本に亡命した。そして、7月に勃発した「第二革命」自体も8月には失敗に終わり、孫文も日本へ亡命した。

孫文は日本を革命の根拠地とし、革命達成のための教育機関を設置した。このうち、日本人の退役将校の支援を受けた軍事専門家の養成機関「浩然廬」の教官に蒋介石が選ばれた。しかし、1913年12月1日に開校した浩然廬であったが、翌年6月、爆弾製造の授業中に爆破事故を起こしたために、日本の官憲によって解散処分となってしまった。

1914年7月8日、孫文は議会政党であった国民党を解体し、東京において中華革命党を結成、その総理(党首)に就任した。この党は議会制を否定する「革命党」であるとともに、孫文に絶対的忠誠を尽くす集団としての性格を帯びていた[13]。蒋介石の師である陳其美は党総務部長となって党の全ての実務を取り仕切り、孫文の右腕と目されるようになった。そして蒋は陳とともに入党して孫文に絶対の忠誠を誓った。まもなく、蒋介石は孫文に命じられて満州に向かい、現地の革命派軍人と交渉し、反袁世凱闘争と南方への軍事的進出を企てたが、これは情勢が許さず、不調に終わった。7月28日第一次世界大戦が起きると、蒋介石は中国から孫文に書簡を送り、大戦によって日本が東アジアで台頭し、それが結局袁世凱政権打倒につながるとの考えを示した[14]。そして、大戦によって東三省のロシア軍がヨーロッパ戦線に出動することを見越して、東三省での革命工作に乗り出そうとしたがこれも不調に終わり、結局日本へ戻った。9月からは、孫文の命を受けて革命党員に対する宣伝活動に携わるようになった。孫文は革命党員を中国に送り出し革命工作に従事させていたが、蒋介石は彼らに具体的な指令を発する職務を担ったのである。

帰国と陳其美の死[編集]

孫文率いる中華革命党は、秘密裏に中国国内で軍事組織を編成していった。革命軍は4つの軍で編成され、陳其美が東南軍司令官に、居正が東北軍司令官に、胡漢民が西南軍司令官に、于右任が西北軍司令官にそれぞれ任命された。孫文は1914年10月、東京で袁世凱政府打倒の宣言を発した。これに呼応した陳其美は同月、上海での軍事活動に率先して役割を果たすように蒋介石へ連絡してきた。蒋は直ちに上海へ赴き、陳とともに反袁活動に従事した。11月10日には「第二革命」のときに反政府活動を弾圧した上海鎮守使の鄭汝成の暗殺に成功。しかし、翌年12月の挙兵には失敗して、フランス租界での潜伏を余儀なくされた。

蒋介石は上海で知り合った二番目の夫人である姚治誠とフランス租界で潜伏生活を送った。蒋は酒もタバコも嗜まないストイックな人物とされるが[15]、この時期の蒋は地下活動にも似た厳しさから酒色に溺れることもあったという[16]。母の王采玉、妻の毛福梅、長男の蒋経国は渓口鎮の実家におり、蒋経国は1916年に地元の武嶺学校に進学していたが、毛福梅は仏門に興味を持つようになっていった。また、この時期に蒋介石は、自身と行動をともにしていた軍人の戴季陶と日本人女性との間に生まれた男子を引き取り、蒋緯国と名づけ、姚治誠のもとで養育している。

1916年5月18日、陳其美はフランス租界の山田純三郎邸において、北洋軍閥の張宗昌が放った刺客によって暗殺された。蒋介石はすぐに山田邸に駆けつけ、遺体をなでながら、体を震わせて泣いた。そして、山田邸に掲げられていた陳其美の筆による「丈夫不怕死 怕在事不成」の言葉を何度も口ずさんだという[17]。葬儀では、陳其美の遺志を継ぐという趣旨の追悼文を読み上げた。陳は生前、孫文に対して「蒋介石こそが自分の後継者である」と書簡を送っていた。保阪正康は陳の死によって孫文の蒋介石に対する見方が変わっていったとする[18]

陳其美が暗殺された1916年から、孫文に呼び出される1918年までの蒋介石の動向は、公式記録上では詳細ではない。しかし、この頃は上海にいて、陳其美が残したルートから青幇と交流を持ち、また証券取引所に出入りするなど、革命資金の調達に奔走していたとされる[19]

雌伏のとき[編集]

陳其美の死後まもない1916年6月6日、袁世凱が病没。北京政府では北洋軍閥内部の対立が発生し、各地で軍閥が割拠した。北京政府の実権を掌握したのは安徽派軍閥で国務総理(首相)に就任した段祺瑞であったが、段は中華民国臨時約法を破棄し、旧国会の回復に反対した。孫文は雲南広西軍閥と提携し、段に反対する旧国会議員とともに広州に入り、1917年9月、広東軍政府を樹立して大元帥に就任した[20]。かくして北京政府と広東軍政府の南北対立、いわゆる護法戦争が始まった。しかし、孫文は独自の軍事的基盤が脆弱で、広東軍政府は雲南・広西軍閥の唐継堯陸栄廷らによって左右された。ことに軍政府の軍事総代表となった陸栄廷は地盤の広西に孫文の影響力が拡大するのを恐れ、孫文の追放を図るようになった[21]。孫文は彼ら軍閥への対抗手段として、蒋介石を自分の膝下に招いたのである。

1918年3月2日、孫文からの電報を受け取った蒋介石は広東へと向かった。孫文は蒋を広東軍総参謀部作戦科主任に任命した。蒋は広東軍第一軍総司令の陳炯明と行動を共にし、孫文の軍事力を支えることとなった。その後、広東軍の一部部隊を率いて出陣し、北京政府軍と交戦した。5月、孫文は唐継堯や陸栄廷との対立に敗れ、上海に引退することになったが[22]、上海への途上で孫文は蒋と面会した。このとき蒋は交戦中であったが、蒋が部下と共に前線で戦い、率先して野砲を撃ち、照準を合わせたところへ的確に命中させていくのを見て、孫文は蒋介石の軍事的才能を評価した[23]。蒋介石は孫文が失脚したことを受けて7月に一度職を辞したが、陳炯明の度重なる招請によって、9月には復職した。参謀部勤務は1919年7月まで続いた。この間1918年9月から11月までは前線で北京政府軍との戦いを直接指揮したが、蒋介石の指揮や統率は広東軍にも北京政府軍にも注目された[24]。ただし、「有能な参謀。作戦立案に優れ、兵を率いて先頭で戦う軍人」としての評価を得たものの、それほど全国に名を知られたわけでなかった[25]。なお、1919年10月10日に中華革命党は中国国民党に改組しており、蒋介石もその党員になっている。

蒋介石は陳炯明の下で働き、将兵への教育を施した。しかし、孫文の思想を兵に語ろうとする蒋とそれを許さない陳との間で齟齬が生まれ、蒋は陳に不信感を抱くようになった。結局、蒋は陳の下を去り、上海に戻った。そして同じく上海にいた孫文の下に出入りをする一方、証券取引所で資金の調達に勤しむ生活へと戻ったのである。

1920年、上海に在った孫文は陳炯明に命じて権力奪還を図った。9月、陳炯明率いる広東軍は広州へ進攻した。しかし、雲南派、広西派の軍隊に苦戦し、予定よりも広州制圧が遅れてしまった。そこで蒋介石が陳炯明の下に派遣された。蒋介石はすぐさま作戦を練り上げ、自ら陣頭指揮に当たった。10月26日、広東軍は広州を制圧。孫文は11月に広州へ帰還し、第二次広東軍政府を樹立して再び大元帥に就任した[26]。蒋介石はしばらく陳炯明の下にいたが、陳が軍事戦略を独断で決めるようになり、さらには広東軍政府の他の部隊を軍事的に牽制するようになると、陳への不信感が増大し、ついには上海に去って孫文に陳に対する不信感を訴えると共に、実家の奉化県渓口鎮に戻ってしまった。この時期、胡漢民に書き送った手紙には、広東軍政府の政争に嫌気が差し、人類社会のためという大きな目標に向かって進みたいとの焦りが綴られている[27]

再び広東軍政府大元帥の地位に就いた孫文は北伐を目指すようになった。孫文は蒋介石に広東に来るように要請したが、蒋介石は断った。1921年1月、陳炯明は、孫文の意向に従い、全国統一を目指して進出していくので蒋介石に中央軍の司令官になってもらいたいという趣旨の手紙を蒋に送った。これを受け取った蒋は広東に赴き、孫文と面会して全国統一の方針を確認した。そして陳炯明らと作戦計画を討議したが、結局陳炯明には自己の基盤を固める意思しかないこと、他の幕僚が陳炯明への対抗意識しかもっていないことがわかると、蒋介石は失望して再び渓口鎮に戻った。また、蒋介石の理解者である胡漢民も広東を去った。蒋介石は革命への情熱が先行するあまり、陳炯明を信頼するなど現実に対して正確な理解を持たない孫文に対して不満を持つようになった[28]。3月には対日外交に頼る孫文の政策を批判し、国内の団結を勧める手紙を送ったが、孫文は蒋介石の諫言を受け入れなかった。

1921年5月、広東軍政府は改組されて「中華民国政府」と称し、孫文は中華民国非常大総統に就任した。このとき孫文は非常国会で北伐案が認められたことに興奮し、これを電報で上海にいた胡漢民や蒋介石に伝えた。胡漢民は上海から広東に向かったが、蒋介石は動かなかった。

6月14日、敬愛する母、王采玉が病没。苦労して自分を育ててくれた母に報いるために、蒋介石は渓口鎮での葬儀を盛大に行い、母を記念して生地に武嶺小学校を建設した。蒋介石は母を追悼する一文を遺しており、それには「哀れは母を喪うよりも哀れなるはない」とある[29]。孫文からは王采玉を弔うとともに、すぐに広東に戻ってきてほしいとの書簡が送られてきた。また、胡漢民や汪兆銘など孫文閥の広東政府の要人からも手紙や電報で催促された。仕方なく蒋介石は広東に出向いてみたものの、広東政府内部の対立や陸軍部長兼内務部長に就任していた陳炯明の態度に怒りを覚え、ごく短期間で上海や渓口鎮に戻り、母の供養と称してそこから動くことは少なくなっていった。11月23日には母の本葬が執り行われ、その墓碑銘には孫文が揮毫し、胡漢民や汪兆銘も碑文を記した。

母の本葬から間もなく蒋介石は三番目の夫人を迎える。上海の実業家の娘、陳潔如である。上海で蒋介石と暮らしていた姚治誠とは慰謝料を払って離縁となった[30]12月5日に結婚式を挙げた蒋介石は、その後孫文に忠実に従い、その北伐計画に積極的に携わるようになる。

孫文と共に[編集]

1922年に入ると孫文はますます北伐断行に逸るようになった。前年11月には桂林に大本営が設置されており、蒋介石も大本営に入るように要請を受けていた。1月18日、蒋介石は結婚まもない陳潔如を連れ、孫文と共に桂林に入った。すぐさま大本営で作戦会議が開かれ、蒋は湖北攻撃を主張した。これに対して胡漢民や許崇智李烈鈞などは江西を攻めるように主張し、論戦となった。蒋は強引に自説を押し通そうとした。結果、まず湖北を攻め、次に江西に進撃する妥協策が成立した。しかし、孫文が2月3日に出した北伐軍動員令では、李烈鈞が江西を、許崇智が湖南を攻めることになった。

だが、この北伐は実施されることなく終わった。陸軍部長の陳炯明が兵站や補給を妨害したためである。陳炯明は聯省自治主義者であった。すなわち陳は孫文と異なり、省自治を前提とした、各省の横の連合による地域統合型の国家建設を目指していたのである[31]。陳は武力統一を目指す孫文と激しく対立した。

蒋介石は改めて大本営で開かれた作戦会議で、北伐軍を広東に戻し、体勢を立て直してから江西に攻め入るべきだと主張した。この提案は受け入れられ、さらに蒋介石は北伐軍と陳炯明が衝突しないように調整に当たることとなった。4月12日に蒋介石が軍を率いて広東に入ると、陳炯明は孫文に辞表を提出し、配下の部隊を率いて逃亡してしまった。孫文は陳炯明を軍職からは解任したものの内務部長の職には留めた。この措置に反発した蒋介石は、またしても孫文に辞表を出し、そして陳炯明に「孫文の意向に従い、北伐軍を指揮せよ」との警告を発して上海へ戻ってしまった[32]

孫文はその後も北伐を準備したが、それに反対する陳炯明との対立も先鋭化していった。そこで孫文は、上海にいた蒋介石に来援を求める電報を送っている。しかし北伐軍が広東を出発すると、陳炯明は6月16日にクーデターを起こし、広州の総統府を砲撃した。孫文は側近たちと共に軍艦「楚豫」に逃亡、60数日にわたって陸上の陳炯明軍と交戦した。蒋介石は6月29日、孫文救援のために楚豫へ駆けつけ、48日間共に戦った。ここで蒋は孫文の厚い信頼を得ることに成功した[33]。だが戦況は不利で、蒋介石は孫文に香港への逃亡を進言、孫文と蒋はイギリスの軍艦に移って香港に向かい、そこから上海へ移った。

蒋介石は再び上海で無為の生活を送ることになった。ここでの生活では陳炯明の裏切りを非難する手紙を孫文の側近に送るか、証券取引所に出入りして投機に熱中するかであった[34]。こういった生活は1923年3月まで続いた。

広東政府を乗っ取った陳炯明は、北伐軍を率いていた許崇智など孫文傘下の軍に追い詰められていった。孫文は蒋介石を東路討賊軍参謀長に任命し、福建に派遣して軍を監理させようとした。しかし蒋は福建の司令部で許崇智と衝突してしまい、またもや上海へ帰ってしまった。このとき孫文は蒋介石の必ず他人と衝突する性格を案じる手紙を送り、蒋介石に役割を果たすように説いた[35]。そこで蒋は再び福建に戻った。しかし、すでに雲南・広西の討賊軍が陳炯明を追い詰めいており、蒋が大きな役割を果たすことは少なかった。結局、陳炯明は敗れて恵州に退き、12月15日に討賊軍が広州に入城。1923年3月、孫文が陸海軍大元帥に就任して第三次広東軍政府が成立した。新政府において、蒋介石は大元帥府大本営参謀長に任命された。

参謀長に就任した蒋介石は、陳炯明の残党や直隷派呉佩孚との戦いを指揮した。これらの戦いは、広東政府の財政難によって軍備の拡充が進んでいないこともあり、苦しいものであった。しかし蒋の軍事的能力は、孫文だけでなく後に蒋と対立することになる汪兆銘や胡漢民らにも高く評価された[36]

ソ連訪問と黄埔軍官学校校長就任[編集]

陳炯明によって政権を追われていた孫文は、1923年1月、ソビエト連邦の代表として中国を訪問していたアドリフ・ヨッフェと上海で会談し、「孫文=ヨッフェ宣言」を発表した。これは、中国における共産主義の可能性を排除しながらもソ連と提携し、連ソ・容共に基づく中国国民党と中国共産党の「合作」(国共合作)を正式に宣言するものであった[37]。その後、第三次広東軍政府を組織した孫文は、ソ連との更なる連携を求めて同年8月、ソ連に「孫逸仙博士代表団」を送った。中国に社会主義的思潮が勃興した1919年以降、ロシア語を学び、『共産党宣言』や『マルクス学説概要』などを読んでいた蒋介石は孫文の連ソ方針に賛同しており[38]、この代表団の一員としてソ連に渡ってソ連赤軍の軍制を視察することになった。

モスクワではレフ・トロツキーから赤軍の組織原理を学び[39]、ソ連の軍隊における軍事と思想教育の分離に関心を持ったという[40]。このソ連訪問は蒋介石にとって軍事面や政党の組織作りといった面では大いに参考となるものであったが、一方ではソ連への不信感を抱かせるものであった。11月25日のコミンテルンの席上、蒋が国民党を代表して行った演説に対して公然と批判された[41]。この演説で蒋は孫文の三民主義を語り中国革命の意義を説いたのだが、ソ連では孫文と三民主義に対する評価は決して高いものではなかったのである[42]。これに衝撃を受けた蒋はソ連への不信と共産党に対する警戒感を強くして中国に帰国していった。蒋が帰国したとき、国民党の改組が進んでおり、中国共産党員が国民党の中央執行委員に加わっていたり、コミンテルンの代表であるミハイル・ボロディンが国民党の最高顧問となっていたりしていた。これに怒った蒋はまたもや渓口鎮に引きこもってしまった。汪兆銘や廖仲愷、そして孫文からは広東に戻って視察報告をせよと何度も督促されたが、蒋は結局1923年の年末から翌年の正月にかけて故郷で過ごした。

1924年1月、広州において中国国民党第1回全国代表大会(党大会)が開催された。この党大会では国民政府の樹立が目標とされるとともに、その手段として「連ソ・容共・扶助工農」が改めて打ち出され[43]ソ連共産党の組織原理に基づいて、組織の改組が正式に実行された。党内には委員会制と民主集中制が導入され、中央執行委員会が最高意思決定機関として設置された。孫文が国民党総理として、存命中は自動的に中央執行委員会の長となることが保障されたが、その他の委員は選挙で選ばれることになった[44]。この第1期党中央執行委員会には国共合作によって共産党員も選出されており、後に中国共産党中央委員会主席中華人民共和国主席となり、蒋介石の終生のライバルとなる毛沢東も共産党籍を持ったまま国民党中央執行委員候補に選ばれている。一方、蒋介石は党大会に出席したものの、中央執行委員には選出されなかった。しかし、この党大会で国民党による政治指導を受けた革命軍すなわち国民党の党軍の組織と、その将校の教育機関である軍官学校の設立が決議され、蒋介石が軍官学校設立準備委員会委員長および陸軍軍官学校校長兼広東軍総司令部参謀長に任命された。

蒋介石はさっそく軍官学校の設立準備に取り掛かったが、設立資金の不足と党内事情に対する不満から二週間ほどで辞表を出し、廖仲愷に軍官学校の設立事業を託してまたもや上海に戻ってしまった。孫文もさすがに怒ったが再三にわたり蒋に復帰を要請し、蒋も結局これを受け入れた。この繰り返される辞職騒動は、蒋介石の「人的関係についての異常な鋭敏さ、事物に対する極端な好悪」、「すべてが軍隊のように、きちんとしていなければ承知できなかった」性格が大きく影響しているものとみられる[45]

黄埔軍官学校入学式後の国民党要人の記念撮影。左端が蒋介石、中央の椅子に腰掛ける人物が孫文。
黄埔軍官学校の生徒を閲兵する蒋介石。

紆余曲折はあったものの、かくして1924年5月3日、蒋介石は広州に設立された黄埔軍官学校の校長に就任し、6月10日に入学式を迎えた。蒋介石は新入生に対して三民主義に命をかける幹部の養成、軍の規律を説く講話を行った。黄埔軍官学校では、組織や訓練面ではソ連式が採用されたが、日常的な軍隊生活の規律は蒋介石の東京振武学校や新潟での日本陸軍第13師団での体験が基礎となっていた[46]。また、清朝末期の改革派大官で蒋介石が尊敬する曽国藩が説いた儒学的人生訓・処世訓も教育に反映されていた[47]。蒋介石は将校の教育に熱心に取り組む一方で兵士の養成にも力を注いだ。特に自分の出身地である浙江省を中心に兵士を募集していった。黄埔軍官学校で学んだ将校や兵士たちは後の北伐軍、中華民国軍の中核をなしていく。科挙時代の中国では自分が合格した試験の監督を生涯にわたって師匠と仰ぐ習慣があったが、黄埔軍官学校の卒業生もまた校長である蒋介石を特別な存在として仰いだ[48]。彼らとの師弟関係は、この後蒋介石にとって大きな政治的資源となっていくのである[49]

黄埔軍官学校はソ連の支援の下につくられたため、共産党員も教官となった。後に西安事件で監禁された蒋介石を説得して第二次国共合作を成立させ、中華人民共和国の建国後に国務院総理(首相)となった周恩来が政治部副主任(後、主任に昇格)に、中華人民共和国元帥となった葉剣英が教授部副主任に任命された[50]。黄埔軍官学校、正式名称を中国国民党陸軍軍官学校というこの士官学校では、国民党総理の孫文が唱える三民主義と同時にマルクス主義も教えられていたのである。この頃国民党内部では、共産党との合作を第一義に考える左派と共産党との対立姿勢を隠さない右派に分かれて対立が生じ始めていた。左派の代表格は汪兆銘であったが、右派の領袖として蒋介石が擬せられるようになっていった。黄埔軍官学校の校長として蒋介石は共産党員の教官とともに軍人の養成に当たらねばならない立場にあったが、黄埔軍官学校内部でも国民党と共産党の対立が芽生えていく。

1924年8月から10月にかけて商団事件が勃発した。これは孫文の広東政府が「赤化」したとして危機感を覚えたイギリスなどが、広東にあるイギリス系銀行の代表者である陳廉伯に働きかけ、商人団に武装させて広東政府の転覆を図ったものである。陳炯明の残党と手を結んだ商人団が武装蜂起するや、孫文は蒋介石に鎮圧を命じた。蒋介石は黄埔軍官学校の学生を中核とする国民党軍を直接率いて事件を鎮圧した。

商団事件の最中の9月、北京では第二次奉直戦争が発生し、これを契機と捉えた孫文は「北伐宣言」を発した。ところが、商団事件により出陣準備に手間取っていたため、第二次奉直戦争は収束してしまった。しかし、北京政府の実権を握った馮玉祥張作霖から善後策を協議したいとの招請を受け、孫文は北上することになった[51]。孫文はこの時、商人団の反乱など広東でのクーデターを危惧する側近に対し、「大丈夫だ。広東には腹心の蒋介石がいるから」と語ったという[52]11月12日に広東を船で出発した孫文は、北京への途上黄埔軍官学校を訪れ、蒋介石と面会した。孫文は蒋介石が短期間に黄埔軍官学校を充実させ、軍の育成が進んでいることを高く評価した。その上で今回の北上では広東に戻れないことを覚悟しているとも語った。蒋介石が「何故そのように弱気になっているのですか」と訝り尋ねると、孫文は「私の説いた三民主義は、この学校の学生たちに実行してもらいたい。私は死に場所を得ればそれでいい。黄埔軍官学校の教育を見て、彼らにこそ私の命を継いでもらいたいと思った」と語ったという[53]。孫文はこの後、香港・上海へと渡り、日本を経由して北京に入った。このときが蒋介石と孫文の今生の別れとなってしまった。

権力の掌握[編集]

1925年に入ると、陳炯明軍が勢力を挽回して軍事行動を活発化させるようになり、蒋介石はこれに対峙することになった。2月、陳炯明軍が広東に侵攻すると、蒋介石は国民党軍に出動命令を出し、北路・中路・南路の三軍に分かれて陳炯明軍の本拠地である東江に攻撃を開始した。いわゆる第一次東征である。東征軍は陳炯明軍を撃破していったが、なかでも黄埔軍官学校の出身者が中核を占める南路軍の活躍は目覚しく、黄埔軍官学校総教官の何応欽率いる第一教導団、教授部主任の王柏齢率いる第二教導団は、陳炯明軍を追い詰めていった。3月7日には広東省の大部分を制圧することに成功、陳炯明は香港へ逃亡した。この第一次東征で黄埔軍官学校の学生部隊が活躍したことに感銘した蒋介石は、北京に滞在している孫文の体調悪化を知らせてきた胡漢民に対して、学生たちの精神力を評価し、自己の教育の成果に喜ぶ内容の電報を送っている[54]。しかし、その喜びも束の間、1925年3月12日、孫文は北京において病没した。蒋介石が孫文死去の知らせを受け取ったのは3月21日、軍を率いて駐屯していた広東省興寧においてであった。蒋介石はすぐさま学生部隊を招集し、涙ながらに「三民主義による中国統一という孫大元帥の遺志を達成するのが我々に課せられた使命である」と訓示した[55]

孫文は生前の1924年4月に「国民政府建国大綱」を発表し、三民主義と五権憲法(国家権力を立法・行政・司法・監察・人事の五権に分立)に基づく中華民国の建設を軍政・訓政・憲政の三段階に分けて遂行する方針を示していた[56]。これに基づき、1925年7月、国民党は孫文亡き後の軍政府を解体し、国民党中央執行委員会が指導する中華民国国民政府(政権所在地から「広州国民政府」と呼ばれる)を成立させた[57]。国民政府は16人の委員からなる合議制で、政府主席兼軍事委員会主席には辛亥革命以前からの孫文の同志で国民党左派の領袖の汪兆銘が就任し、同じく孫文の側近であった胡漢民が外交部長、廖仲愷が財政部長の要職を占め、集団指導体制をとることになった。蒋介石は国民政府軍事委員会の委員に選出されたが、国民政府の最高指導部である常務委員会に列するほどの地位にはなかった。同年8月、黄埔軍官学校の出身者を基盤とする国民党軍は拡大・再編され、国民革命軍が編制された。編制当初、国民革命軍は五つの軍団で構成され、蒋介石は第一軍司令官に任命された。

8月20日、容共左派の重鎮で孫文の有力後継者とも目されていた[58]廖仲愷が暗殺された。国民党は事件の糾明のため、汪兆銘、許崇智、そして蒋介石を構成員とする調査委員会を組織した。刺客は逮捕されており、事件の糾明は容易であった。事件の背景として国民党の左傾化を嫌う勢力による左派勢力の粛清計画が浮かび上がったが、問題はその計画に胡漢民の従兄が関わっていたことであった。胡漢民自身がその計画に関与していたかどうかは不明だが、反共右派の代表者である胡には首謀者の嫌疑がかけられ、その政治的立場は極めて危ういものとなった。蒋介石は、長年の同志であった胡漢民を拘束したうえで、胡にソ連への出国を勧めた。かくして胡漢民はソ連へと去り、失脚した。この事件の余波はさらに続く。蒋介石は、軍事部長兼広東省長の許崇智に対して事件の責任をとるように要求、許は失脚を余儀なくされた[59]

左派の重鎮である廖仲愷は命を落とし、右派の代表である胡漢民、兵権を握る許崇智が政治の表舞台から姿を消した結果、蒋介石は台頭していく。10月、蒋介石は第二次東征を行って陳炯明の本拠地である恵州を陥落せしめ、広東省内に残る陳炯明軍の勢力を一掃し、広東の軍事的統一を実現した。この結果、軍事的功績を挙げた蒋介石の発言力は強まり、国民党・国民政府内に確固たる地位を確保することになった。この時期、国民党・国民政府内では左派と右派の政治闘争が続いていたが、連ソ容共に積極的な汪兆銘と、軍事的功績を挙げ右派の領袖として台頭してきた蒋介石が二大巨頭として存在し、これをボロディンらソ連の顧問団が支えるという体制となった[60]。翌1926年1月、第2回党大会が開かれ、黄埔軍官学校での教育で左派にも人脈を広げていた蒋介石は、国民政府主席の汪兆銘に次ぐ得票数で党中央執行委員会常務委員に選出され[61]、党内序列2位となった。2月1日には国民革命軍総監に就任した。

国民党内で確固たる地位を築きつつあった蒋介石は、孫文の遺志を継ぐべく早期に北伐を開始したいと考えていた。しかしながら、ソ連の軍事顧問団は時期尚早として反対した[62]。さらにソ連は広東国民政府だけでなく北京政府の馮玉祥への援助も並行して行っていた。また、中国共産党も労働者や農民政策の実施の不充分を理由に北伐は時期尚早だと反対した[63]。蒋介石はソ連の援助の必要性を痛感しており、ソ連との提携を排除したわけではないものの[64]、ソ連や中国共産党の動きをみて、蒋介石は不信感を募らせていった。ことに国共合作による中国共産党の勢力拡大は蒋介石にとって看過できるものではなかった。

権力を掌握した頃の蒋介石(1926年)

このような状況下で、1926年3月、中山艦事件が発生した。事件の概要は、共産党員が艦長を務める国民革命軍の砲艦「中山」が、軍総監の蒋介石の許可なく広州から軍官学校のある黄埔へ航行したため、蒋介石は「中山」の艦長を逮捕し、広州市内に戒厳令を布告して、ソ連の軍事顧問団の公邸や共産党が指導する広州の省港ストライキ委員会を包囲し、労働者糾察隊の武器を没収したというのものである[65]。事件の真相は不明だが、蒋介石はこの事件を利用して共産党やソ連の軍事顧問団を牽制した。党内の支持基盤が弱くソ連の代表団や共産党に支えられて政権を維持してきた汪兆銘は、自己の権力基盤が揺らいだことに動揺し、3月21日、病気療養を名目にフランスに出国して事実上失脚となった。かくして蒋介石は国民党の権力を掌握することに成功したのである[66]

国民党・国民政府における主導権を掌握した蒋介石は、さらに最高権力者としての地位を固めていく。4月16日、中国国民党中央執行委員・国民政府委員連席会議において、蒋介石は国民政府軍事委員会主席に選出された。5月に開催された第2期中国国民党中央執行委員会第2回全体会議(第2期2中全会)では、蒋は党中央組織部長に就任した。蒋はこの会議で「党務整理案」を通過させ、中国共産党員を中国国民党の訓令に絶対服従させることとし、国民党中央部長職から共産党員を排除した。さらに7月6日の臨時党大会において、蒋介石は中国国民党の最高職である党中央執行委員会常務委員会主席に就任した。党と軍の最高職を得た蒋介石は、孫文の後継者としての地位を確実なものとしたのである。

北伐敢行、中国統一[編集]

北伐の開始[編集]

国民革命軍を率いる蒋介石(1926年)

革命拠点である広東から北伐革命軍を組織して北上し、その過程で地方割拠の軍閥勢力を駆逐しながら最終的には北京政府を打倒して中国を統一し、南京に国民党政権を樹立する。これが孫文の追い求めた夢であった[67]。孫文の後継者を自負する蒋介石は、孫文の遺志を果たすべく北伐に乗り出す。

北京政府直隷派の呉佩孚が湖南省に進出を図ると、1926年5月、蒋介石は北伐先遣隊を湖南省に派遣し、呉佩孚と対峙していた省長代理の唐生智を支援した。唐生智軍と連携した北伐先遣隊は湖南省に橋頭堡を確保した。唐生智は国民政府に帰順し、その軍は国民革命軍に編入された。

6月5日、蒋介石は国民革命軍総司令に就任する。そして7月1日、北伐宣言および国民革命軍動員令を発した。北伐に参加する国民革命軍は全8軍25師団で編制され、総兵力は約10万であった。国民革命軍の中核は黄埔軍官学校出身の将校・兵士であったが、黄埔軍官学校での教育で精鋭部隊を拡充するのは短期間では限界があり、蒋介石直系の第一軍以外の軍団は、政治工作によって国民政府に帰順した雲南や広西の李宗仁(第七軍)、湖南の唐生智(第八軍)などの西南軍閥諸軍を吸収・改編したものであった。国民革命軍は北伐開始にあたり、非国民党系の部隊を多く抱かざるを得ず[68]、蒋介石は総司令として各軍の統率に手腕が問われることになる。7月9日、北伐誓師の儀式を挙行し、北伐敢行を誓った。このとき蒋介石は居並ぶ将兵に対し、「今や北洋軍閥と帝国主義者が我々を包囲している。国民革命の精神を集中し、総理の遺志を完成せんときである」「我が将士よ!諸君は同徳同心、恥辱を忘れてはならぬ。辛苦を厭うな、死を惜しむな、生を偸むな、壮烈なる死は偸生よりもはるかに光栄である。この国家と人民を守るのは実に我が将士である」[69]、と演説し鼓舞した。かくして蒋介石率いる国民革命軍は北伐に出陣した。

国民革命軍は湖南の呉佩孚、江西孫伝芳の軍勢を各個撃破し、破竹の勢いを見せた。湖南・湖北戦線では、北伐軍は7月11日に湖南省の省都長沙を支配下に置き、8月には湖南省全域を制圧した。さらに湖北省に進出し、辛亥革命記念日である10月10日には革命の勃発地である武漢を占領した。これにより湖南・湖北における呉佩孚の勢力は壊滅し、呉は河南に退いた。かくして湖南・湖北の地は国民革命軍の支配するところとなった。続く主戦地となった江西では、蒋介石自ら作戦指揮を執った。蒋介石は、総司令としての威信と精鋭部隊を養成してきた自負にかけて、この戦いに敗れるわけにはいかなかった。省都南昌の攻防戦では孫伝芳軍に苦戦を強いられ、1万人以上の死傷者を出したものの、蒋介石直系の第一軍と李宗仁率いる第七軍の奮戦により11月7日には南昌を占領、江西省から孫伝芳の勢力は一掃され、かの地もまた国民革命軍の支配に置かれた[70]。蒋介石は南昌に総司令部を置き、さらに攻勢に出る。12月には福建省も国民革命軍の支配下に入った。北方では馮玉祥が国民革命軍への帰順を表明し、11月下旬には陝西省を支配下に置いた。

北伐軍の快進撃は、国民革命軍を「我が軍」と呼ぶ民衆の支持なくしてはあり得なかった[71]。一つの地域が解放されると、農民・労働者・学生たちが沿道で国民党の党旗である「青天白日旗」を打ち振った[72]。蒋介石は南昌に総司令部を構えると「各省人民に決起を促す」という声明を発表し、北伐軍への支持と協力を訴えたが[73]、国民革命軍の支配下に入った湖南・湖北では、広東で養成されていた農民運動家を中心に農民協会が結成され、農民の武装化を進め、北伐の側面支援だけでなく、地主・土豪との激しい対立を繰り広げるようになった。農民協会の会員は国民革命軍の北上に呼応する形で激増し、1926年末には湖南省だけで約160万人に増加した[74]。これは国民革命軍にとって大きな援軍となった。他方、上海など都市部の自治運動も国民党の政治工作により反軍閥色を強めていき、北伐軍を支援した。

国民革命軍の快進撃によって蒋介石の威信は高まるばかりであった。

左派との対決[編集]

武漢占領を受けて広州の国民党中央は国民政府と党中央の武漢移転を決定し、1927年1月1日、国民政府は武漢に遷都した(武漢国民政府)。国民党右派の要人は蒋介石とともに北伐に参加し、南昌の総司令部に滞在していたため、武漢国民政府の要職の多くは左派勢力で占められた。蒋介石の権勢拡大に危機感を覚えた左派の陳友仁(国民政府外交部長)、徐謙(国民政府司法部長)、孫科(孫文の長男で国民政府交通部長)らは、ボロディンと結び、蒋介石から権力を剥奪しようとする。武漢遷都直前の前年12月、先んじて武漢に入った彼らは、国民党中央と国民政府の臨時連席会議を組織して今後この会議が最高職権を行使することを宣言した。そして、1月3日、臨時連席会議は3月に国民党第2期3中全会を武漢で開催することを決議した。この3中全会の決議で蒋介石の権限を縛ろうというのが左派の計画であった[75]。さらに左派は領袖の汪兆銘をフランスから呼び戻して権力を強化しようとする。汪を国民政府主席に復職させて蒋介石を牽制しようというのである。

蒋介石は南昌の総司令部で軍事作戦を指揮し、武漢の国民政府に合流しようとはしなかった。蒋からすれば武漢国民政府は共産党に乗っ取られた政権に見えたのである[76]。蒋介石は党の規約にない武漢の臨時連席会議の正統性は認められないとし、南昌に留まっていた党中央執行委員たちと党中央政治会議を招集、党中央と政府は暫時南昌に留め置くこと、第2期3中全会は南昌で開催することを決定した[77]。中国国民党中央委員会執行委員会主席・国民政府軍事委員会主席・国民革命軍総司令である蒋介石が総司令部を構える南昌には、国民政府主席代理の譚延闓、国民党中央執行委員会常務委員会主席代理の張静江がいて、南昌の党中央政治会議は組織的正統性を有していた。しかし、武漢側の工作により南昌の党中央執行委員の多くは武漢に赴いたため、南昌側の正統性は揺らぎ、武漢側が優位となった[78]。北伐の軍事作戦中ということもあり、武漢側との決裂を避けたい蒋介石は、武漢訪問や汪兆銘の復職に賛同するなど妥協を図った。しかしながら蒋介石は軍権を握っており、江西や広東など共産党・左派の影響が強い地方の党部を自派へ転換していくなど、左派との対決に備えていった。

結局第2期3中全会は3月に武漢で開催され、党中央執行委員会常務委員会主席職の廃止と国民革命軍総司令の権限縮小、集団指導体制の確立などが決議された。これにより蒋介石の権限は掣肘を加えられることになった。さらに3中全会では党・政府の要職に国民党左派や共産党員が就くことが決議され、労工部長や農政部長など、労働問題や土地問題といった共産党が重視する問題を扱う閣僚には共産党員が就任することになった。共産党員の閣僚就任はこれが初めてのことであった。そして、汪兆銘の国民政府主席復職と、党中央執行委員会常務委員会の首席委員・党中央組織部長就任も決定された。

こうしたなか、北伐軍は3月22日に上海、24日に南京に入城した。4月12日、蒋介石は何千に及ぶ共産主義者の容疑を持つ者たちへの迅速な攻撃を開始(上海クーデター)。彼は胡漢民を含む保守の同志の支持を受けて国民政府を南京に設立した。国民党から共産主義者は排除、ソビエトからの顧問は追放され、このことが国共内戦開始につながる。汪兆銘の国民政府(武漢政府)は大衆に支持されず、軍事的にも弱体であり、まもなく蒋介石と地元広西の軍閥李宗仁に取って代わられ、結局汪兆銘と彼の左派グループは蒋介石に降伏し、南京政府に参加した。

北伐の完遂[編集]

蒋介石は国民革命軍を4つの集団軍に再編し、北伐を再開した。北伐軍は1928年6月8日、北京に入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。北京に到達すると蒋介石は孫文の遺体に敬意を表し、首都南京に運ばせ、壮大な霊廟(中山陵)で祭った。そして12月には満州軍閥張学良が蒋介石政府に忠誠を誓約し、中国の再統一は成った。

蒋介石は、孫文の後継者としての彼自身の立場を確立するために演出を行った。1927年12月1日、蒋介石は浙江財閥宋嘉樹(宋耀如、チャーリー宋)の娘宋美齢(孫文の妻・宋慶齢の妹)と上海で結婚し、孫文の義理の兄弟となった。蒋介石は以前にも宋慶齢に求婚したが即座に断られている[79]

日中戦争[編集]

宋美齢とシェンノートとともに

中国共産党とは、いわゆる「上海クーデター」以降敵対関係にあった。1931年に関東軍による満州事変が勃発し、蒋介石は国共内戦があったために建国された満州国を黙認した[80]。蒋介石はそのまま積極的に抵抗せず、国共内戦を優先した。日本の外交官の広田弘毅有田八郎川越茂からは、日中共同で防共協定の締結を提案されたが蒋介石はこれを受け入れず、西安事件で日中の防共協定は破綻になった。

1937年に起きた盧溝橋事件で日中戦争が始まり、第二次上海事変で全面戦争に突入し、日本軍の侵攻についても「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内臓疾患」と例え、当初は国共内戦での勝利を優先していた。しかし、西安事件により第二次国共合作を強いられ、ドイツ流に精鋭化された国民党軍が戦った、上海の四行倉庫での攻防戦は、租界を持つ欧米諸国につぶさに目撃されたが、各国の対日経済制裁を引き出すまでには至らなかった。

しかし妻の宋美齢を経由して親中派として知られたフランクリン・D・ルーズベルト大統領をはじめとするアメリカ政府上層部に働き掛けた結果、5月1日にアメリカのルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートを中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして雇い、「アメリカ合衆国義勇軍」という名目でアメリカからの軍事支援を受けることに成功した。

戦争は1938年に入ると更に激しさを増し、日本軍による海上閉鎖と航空機による爆撃により中華民国軍の重要な貿易港であったポルトガルマカオが事実上日本軍の手に渡った。日本軍はさらに中国沿岸の港を全て閉鎖し、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の閉鎖に成功した。首都の南京が陥落したため内陸部の 重慶に首都を移動させ抵抗を続けていたが、海上補給路を断たれた後の補給はフランス領インドシナ(=「仏印」、現ベトナムラオスカンボジア)、やイギリスビルマタイ王国などから陸路と空路で細々と得ることしか出来なくなってしまった。(この蒋介石政権を支援する「援蒋ルート(仏印ルート)」を切断するため、日本軍はのちに北部仏印進駐を実施した)。

1939年に入り日本軍の作戦範囲は小規模となったが、その間国民党軍は友好関係にあったソ連製の航空機により日本軍の航空機に僅かに損害を与えていた。しかし爆撃機主体の攻撃だったことや、1940年の秋ごろから投入してきた日本軍の新型機零式艦上戦闘機の投入により、アメリカからの軍事支援を受けて増強されたはずの中国空軍の形勢は一気に不利になり、殆どの戦線で活動を停止させられるまでに至った。その後も日本軍の中国進出は更に進み、最終的には中国大陸全土の実に1/3まで占領されてしまう。さらに国民党政府の臨時首都としていた重慶にも次第に日本軍の圧力が高まりつつあった。


1941年12月に日本がイギリスやアメリカ、オランダなどとの間に開戦した後は、イギリス軍やアメリカ軍がアジア太平洋地域の各戦線において日本軍に対して敗北を続け、自国の武器の生産で手一杯な上に、補給線の確保もままならなかった事もあり、アメリカからの支援が急速に縮小した。このため蒋介石が日本と休戦協定・単独講和を結ぶ事で抗日戦を断念して連合国の戦線から脱落するという観測がもたれたことから、これを危惧したアメリカ合衆国大統領のルーズベルトは蒋介石を、1943年11月22日に行われたカイロ会談に招き、イギリス首相ウィンストン・チャーチルとともに「カイロ宣言」を発表するなど「連合国の1国の指導者」として扱った。実際に呂秀蓮副総統も「1943年のカイロ会議は当時のルーズベルト大統領が中国と日本が単独講和をし、蒋介石・元総統が講和を安易に受け入れるのを避け、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還させるためのものであった」と述べている[81]。宋美齢はこの会議に通訳として参加したほか、さらにアメリカ政府からの招待を受けてアメリカに渡り、連邦議会で中華民国への支援を訴えるなど蒋介石のスポークスマンとして振る舞った。

なおこの段階で蒋介石夫妻は自国の戦局についてルーズベルトには明かしておらず、ルーズベルトも中国戦線の実態を認識していなかった。しかし期待とは裏腹に中華民国は開戦以来から対日戦に劣勢であり、またアメリカの度重なる要請にもかかわらず中国共産党軍との連携にも消極的であり、ともすれば国共内戦が再発しかねない状態であった。また1942年の日本軍がビルマの援蒋ルートを遮断させた事により米英からの軍事支援はヒマラヤ越えのみとなり装備・物資とも不足に陥っており[82]、ようやく各地で英米軍が持ち直して来た1943年の中盤になっても戦局は不利であった。

カイロ会談後の12月6日にルーズベルトは中華民国へ派遣されている外交官やジョセフ・スティルウェルから、次に日本軍に攻勢されれば国民党政府が倒壊すると冷水を浴びせられ、スティルウェルは中国本土からアメリカ軍の日本本土への空襲は日本陸軍の猛烈な反撃を招くと共に日本軍の内陸部侵攻を招くとして、中国本土からの空襲計画に反対した。カイロ宣言は翌年の日本陸軍の大攻勢である大陸打通作戦につながった。この日本軍の攻勢により中華民国軍は単独での対日戦線を維持することがほとんど不可能な状態に陥ったが[要出典]この時期にすでにアメリカの軍事戦略は中国大陸を反攻拠点とする当初の計画から、マリアナ・フィリピン経由での日本攻略に変更されていた[要出典]

ルーズベルトにはこの時点で蒋介石政府やカイロ宣言の政治的効果についての戦術的誤算があり、大陸打通作戦以後、連合国の重要会議であるヤルタ会談ポツダム会談に蒋介石が招かれる事はなくなった。1944年に大陸打通作戦で圧倒的に戦局が不利。昭和19年7月22日、小磯内閣が誕生した。このように全面敗北に向かって押し流される中で、小磯首相は、重慶政府との和平を最優先課題とするにことに切り替えて、緒方の線と、自らの人脈で確認した「繆斌(みょうひん)工作」の独自外交をに踏み切ったのである[83]

国共内戦と二・二八事件[編集]

日本が敗戦した1945年8月以降は、イギリスやアメリカ、フランス、ソ連と並んで中華民国が第二次世界大戦の戦勝国、及び国際連合常任理事国となり、蒋介石も連合国の1国の指導者として扱われることとなる。

同時に再び中国共産党との間で国共内戦が勃発するものの、この年に新たにアメリカ大統領となったハリー・トルーマンは、前大統領のルーズベルトとうって変わって蒋介石及び中国国民党への援助に消極的となる。なおこの背景にはアメリカ政府内に入り込んだソ連や中国共産党側のスパイの活動があったと言われている。これと反対にソ連は中国共産党への支援を活発化させていったため、次第に劣勢に追い込まれていくことになる。

また1947年2月27日に、台北市で行われた抗議デモに対して憲兵隊が発砲し、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧しするという二・二八事件が起きた。その後蒋介石は台湾全土に戒厳令を敷き、以降白色テロによる支配を行うこととなる。なお蒋介石は1948年に中華民国の初代総統に就任するが、反発を受け1949年に辞任した。

台湾へ[編集]

台湾での蒋介石(1966年10月10日)

同年に中国共産党に敗北し首都南京を脱出し、重慶などを経て、12月に成都から、息子の経国とともに飛び立ち台湾島台北に遷都することになる(台北は臨時首都)。1950年3月に再び総統に就任し、アメリカからの全面的協力を受けて大陸反攻を目指すこととなる。しかし同年に香港植民地を抱えるイギリスが中国共産党が建国した中華人民共和国を承認したほか、朝鮮戦争への国連軍側としての参戦をアメリカから拒否されるなどの逆風を受けた。

これ以降もアメリカとは冷戦下における同盟国として強固な関係を保ち続けたが、1971年7月にリチャード・ニクソン大統領が、中華人民共和国と和解し、「中国を代表する国家」として承認することで、冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、ヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官を、秘密裡にパキスタンイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。またこれには、ベトナム戦争に早期に決着をつけるとともに、アメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンは、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムもけん制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあったと言われている。

この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国の周恩来首相と会談。その後の記者会見で、「近日中にニクソン大統領が中華人民共和国の北京を訪問する」と発表し、世界を驚愕させた。その後ニクソンは1972年2月21日にエアフォース・ワンで北京を訪問、毛沢東と釣魚台で会談し、中華人民共和国との国交樹立への道筋を作った。しかし、中華民国との断交など解決しなければいけない懸案が多かったことから、アメリカと中華人民共和国の間の国交樹立は、ジミー・カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。

さらに1971年11月には中華民国の国連追放を提起した「アルバニア決議」が可決されてしまう。中華人民共和国が国連に中華民国の追放を最初に提起したのは1949年11月18日で、以後「中国代表権問題」と呼ばれ、長らく提議されては否決され続けてきた。転機となったのはベトナム戦争が泥沼化し、アメリカが北ベトナムとの停戦交渉を進める中で中華人民共和国の協力が必要となったためである。

アメリカはベトナム戦争終結に向けた中華人民共和国の協力を得るため、国連常任理事国の継承は合意したが、中華民国の国連追放までは考えていなかった。しかしこの事を事前にアメリカから伝えられた蒋介石は激怒し、アメリカや日本の説得を無視してしまい、最終的に中華民国の自主的な国連脱退と西側諸国との国交断絶を招いてしまった。さらに経済発展を続ける中華民国との国交継続を願う諸国は多かったが、「台湾と国交断絶しない場合は、中華人民共和国から国交断絶する」などの外交選択やそれに伴う経済的不利益、さらには国連での拒否権発動をちらつかせるなど有形無形の外交圧力を加えたため、中華民国は国際社会でほぼ孤立することとなった。

その後1972年6月に肺炎にかかり一時重篤な状態になったが持ち直した。しかし、これを期に以後は公の場に姿を現す事はなくなってしまった。しかし1975年に死去するまで総統の地位にあり、死後は総統の座を息子で行政院長蒋経国が継いだ。

蒋介石の歴史的評価[編集]

宋美齢とともに台湾を訪問する蒋介石

蒋介石の歴史的な評価については、日中戦争を戦い抜き、台湾に移ってからも強力な指導力で中国共産党と対峙した中華民国の指導者として賞される面と、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったという独裁者としての面がある。

なお蒋介石と毛沢東に会ったアメリカの外交官は、座り方に注目して両者の違いを見極めようとした。背筋を伸ばし、気品を備えた蒋介石に対しゆったりと温和であった毛沢東を比べている。

台湾[編集]

戒厳令時代には、中華民国の指導者、そして「中国4000年の道徳の体現者」として尊敬の対象とされ、蒋介石の銅像が中華民国のあちこちにあった。さらに台湾の学校には孫文と蒋介石の肖像画が必ず飾られていた。切手等には蒋介石にかかわるものが必ずある。さらに蒋介石は台湾の高雄に澄清湖(チョンチンフー)という観光スポットを作った。これは中国大陸にある西湖を真似たものだといわれている。そこには中興塔をはじめ八つの見所がある。

実務的な貢献としては大陸から撤退するにあたって大量の美術品[84]、巨額の金銀やドル紙幣、料理人を含めた優秀な人材を運び込んだ。このことが後に中華人民共和国における文化大革命時の美術品の組織的破壊から守ることとなった上、インフラ整備や経済発展の原動力となったという説もある。また、戦後の台湾島一帯は、冷戦下においてアメリカと強い関係を持つ蒋介石が統治したため、共産主義者の手に落ちなかったと主張する人もいる。

蒋介石と宋美齢

しかし一方では、二・二八事件における数々の虐殺行為や、戒厳令を敷き、白色テロによる支配を行ったため、「アメリカは、日本には原爆を落としたが、台湾には蒋介石を落とした」として、(特に本省人の間には)根強い拒否反応を持つ者が多い。また、蒋介石が本省人知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止[85]したために、台湾経済の発展は大きく後退したとの説もある(台北二二八紀念館の資料等)。また、蒋介石が「反攻大陸」のことを第一に考えたためアメリカや日本などの説得を無視して、国際連合を脱退してしまった。そのため、台湾は現在の様な国際的に国家としては承認されない状況に陥ってしまったと考える者は少なくない。そのため息子の蒋経国などと比べると本省人の間では評価が低い。陳水扁前総統が「二二八の元凶は蒋介石」と言明したが外省人はすぐに反対しており、馬英九総統は「現在の外省人は事件に直接関与したわけではない。二二八の原罪を背負う必要はない」と言って、本省人を憤慨させた。

戴国煇は「(蒋介石は)政治的にも軍事的にも戦術家としては一流であったが、戦略家の器ではなかった」と評し、後継者を息子の経国に指名したことを「毛沢東は周恩来を信じられたが、蒋介石は息子以外誰も信じることができなかった。陽明学の信徒としての限界ではないか」としている。

日本[編集]

[86]蒋介石を日本亡命中に庇護していた犬養毅頭山満とともに(1929年)

蒋介石は、日本の高田の砲兵学校で軍事教育を受け、日本に亡命した際には日本政財界による支援で清朝打倒に奔走する他、宋美齢との結婚式を日本で挙げることを希望していたなど、その後敵味方に分かれて戦うことになった日本と、生涯に渡り深い関係を持っていた。

1927年、蒋介石率いる国民革命軍が南京に入城すると、革命軍の一部が日・英・米などの領事館を襲撃するという事件(南京事件)が起きた。英米の軍隊がこの行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた(幣原平和協調外交)。しかしこの政策は裏目に出て、むしろ中国側が日本を侮るようになってしまった。この事件は主に中国軍兵士によるものであるが、日本においては「蒋介石の侮日政策」として知られるようになる[87]

蒋介石は日本軍との戦いには消極的で、むしろ中国共産党を警戒していた。しかし張学良による西安事件が起こり、共産党と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦う事となった。その当時の自身の日記では一転して日本を「倭寇」と表記し終始蔑んでいた。

日本の敗戦後は、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称して日本兵の中国大陸からの復員に最大限の便を図った。これは当時中国に駐留する日本軍が強力で、戦争中の国民政府軍が兵力は日本軍を上回っていたにもかかわらず連戦連敗であったため、なるべく刺激せずに穏便に撤退させたかったというのが真相のようである。但し、この撤退については後述するように蒋介石を好意的に評価する日本人もいる。 蒋介石が、8月15日に行なった終戦演説で対日抗戦に勝利したことを宣言した一方で次のように国民に訴えた。

「わが中国の同胞は、『旧悪を念わず』と『人に善を為す』ということがわが民族伝統の高く貴い徳性であることを知らなければなりません。われわれは一貫して、日本人民を敵とせず、ただ日本の横暴非道な武力をもちいる軍閥のみを敵と考えると明言してきました。今日、敵軍はわれわれ同盟国が共同してうち倒しました。彼らが投降の条項をすべて忠実に実行するように、われわれが厳格に督励することは言うまでもありません。但し、われわれは報復してはならず、まして無辜の人民に汚辱を加えてはなりません。彼らが自らの誤りと罪悪から抜け出すことができるように、彼らがナチス的軍閥によって愚弄され、駆り立てられたことに、われわれは、慈愛をもって接するのみであります。もし、かっての敵が行なった暴行に対して暴行をもって答え、これまでの彼らの優越感に対して奴隷的屈辱をもって答えるなら、仇討ちは、仇討ちを呼び、永遠に終ることはありません。これはわれわれの仁義の戦いの目的とするところでは、けっしてありません。これはわれわれ軍民同胞一人一人が、今日にあってとくに留意すべきことであります」

日本に関するエピソードにはほかに以下のようなものがある。

  • 連合軍が日本を分割占領することや天皇制廃止には消極的だった。日本のことを熟知していた蒋介石は、ルーズベルト大統領からしばしば意見を求められている。「日本の起こした戦争の主犯者は日本軍閥であるから、日本の国体問題に対しては戦後の日本国民自身が解決すべきであると考える」と述べている(日本の占領政策に関するルーズベルトとの手紙のやりとり)。
  • 終戦時に中国大陸にいた日本人の数は、軍人120万人、民間人80~90万人で、復員・引揚には数年を要すると言われていたが、蒋介石の便宜により10ヶ月で復員・引揚を完了させている。しかし、BC級戦犯として、多くの日本軍人を処刑したのも蒋介石の率いる中国国民党政府であった。
  • カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表し連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった[88]。もっとも、蒋介石は、戦後の国共内戦の勃発を予想しており、兵力を日本占領に割くことをためらっていたという説もある。兵力の不足は、台湾の占領が漸く10月になってからであったことや、陳儀長官と共に台湾へ渡った中国軍のレベルが低かったことなどからも十分想像できる。
  • 文化や習俗の面で、非常に日本を尊敬していた。寒い冬の朝でも冷たい水で顔を洗う(貧しかった幼少期蒋介石は冷水で顔を洗っていたが、一般的に中国人にはこのような習慣はない)日本人の話を聞いて、感心したという。また、明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を明治神宮へ公式参拝させている[89]
  • 上記の冷水で顔を洗う習慣を耐寒と合理的側面(顔を洗うための湯を沸かす時間と燃料の節約)から中国の軍事教練に取り入れようと考え、総統職についてからも宿舎などを抜き打ちで視察して風紀が乱れていないかを細かくチェックすることを好んだなど日本式の教育方針に影響を受けていた。しかし体罰教育だけには不快感を示し、面子を大事にする中国人を教育するにあたって不適当であるとして導入を避けた。
  • 第二次大戦中に、日本軍が拉孟騰越で連合軍の大軍[90]を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて玉砕したことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している[91]
  • 戦後、台湾へ移ってからは、富田直亮少将を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府はこれを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蒋介石は白団による教育訓練を断固推進した。1949年10月、中国人民解放軍が金門島等へ大挙侵攻を図った際は、旧日本軍の根本博中将[92]らが国府軍を作戦指導し、人民解放軍を完膚なきまでに撃破している[93]金門砲戦)。台湾には米国から正式な軍事顧問団も派遣されたが、蒋介石があえて旧日本軍将校を頼りにしたのは、楊氏によれば「物量が頼りの米軍方式ではなく、劣勢の兵力でいかに優勢な軍に勝つかという日本軍の作戦が上策だった」からと言われている。

日本の保守派の蒋介石観の変遷[編集]

戦後、日本の歴代政権は中華民国を反共陣営の一員として、また国連の常任理事国として修好に努めていたが、日本と中華人民共和国の間に国交樹立の機運が高まると中国国民党は危機感を強め、日本の保守メディアに急接近し様々な宣伝活動を行うようになった。代表例としてサンケイ新聞による蒋介石秘録の連載、國民新聞による反中国共産党パンフレットの発行、マスコミ総合研究所の雑誌アジア・レポートの発行。そのような中で「以徳報怨」は多くの自民党政治家や保守言論人がこの言葉を引用し蒋介石礼賛を行った。

しかし1990年代半ば、中華民国の民主化が進み、「台湾独立派」の政党が誕生すると、蒋介石の後継である「ひとつの中国」を標榜する国民党は、むしろ親中共派的な位置に立つ事となった。日本国内において活動する台湾独立運動家たちが、敵の敵は味方、反中国の観点から日本の保守派に接近した。独立派の代表的人物である金美齢がコーディネートしたとされる漫画家小林よしのりの『台湾論』が成功を収め、日本の若者に対しても蒋介石=悪玉論が広まった。黄文雄の著作にいたっては蒋介石は共産主義者であったかのような記述も垣間見られるようになった。

日中戦争における日本の立場を肯定する立場の言論人も、中華民国側に非がある理由として、蒋介石の「侮日政策」をあげつらうようになった。蒋介石を高く評価する理由のひとつである「以徳報怨」も、日本軍に対抗出来ない状況による窮余の策である事が指摘されるようになった。それに引き摺られる形でかつて蒋介石を礼賛していた産経新聞や保守言論人も蒋介石に否定的な意見を述べるようになっている。

このような現況に対し、平沼赳夫は2008年1月28日にマスコミ総合研究所の会合で、「蒋介石が日本の天皇制を守ってくれた」と擁護し、「日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の政治家が中華民国を訪れた時は蒋介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなった」との批判を行った。また、小林よしのりの著作にも、蒋介石を「単純な悪玉」としてあげつらうことには否定的と見られる記述がある。

2009年12月23日日本李登輝友の会が主催した日台共栄の夕べに出席した自民党青嵐会出身の森喜朗が、金美齢の面前で「日本が今日あるのは蒋介石のおかげであり、日本人は蒋介石に感謝しなくてはならない」とのスピーチを行った。

2013年に刊行された『蒋介石の密使 辻政信』(渡辺望 祥伝社新書)では、保守派的見地から蒋介石に関しての従来の好意的な見解を全面否定する説が提示されている。本書によれば蒋介石は自身の日記に昭和天皇のことを「倭王」と軽蔑的表現で記載するなど精神的にはまったくの反日・侮日家であり、その反日的姿勢は南京事件などで日本をジェノサイド国家にでっちあげようとしたことで明白だという。また終戦時の「以徳報怨」演説にみられる親日主義的態度も、アメリカに見捨てられつつあった蒋介石が敗戦日本を「新たな同盟国」として抱き込むための苦し紛れの策略であったとしている。また2005年に公開されたCIA機密文書で判明した、蒋介石が辻政信ら旧日本軍将校を敗戦時にエージェントとして抱き込み、敗戦日本に送り込んだ事実などについても本書で厳しく指弾されている。

中国大陸[編集]

蒋介石とは大陸で内戦を戦い、中華民国が台湾へ移った後も海峡を挟んで長らく対立していたため、その評判はすこぶる悪かった。しかし、中国国民党の台湾化が進み、民主進歩党などの野党が結成され、台湾独立運動が盛んになってくると、蒋介石の役割が再評価され始めた。これは、生前の蒋介石が「反攻大陸」を国是とし、共産党とは別の立場から「一つの中国」を主張していたため、蒋介石の評価を高めることによって「台湾独立」を牽制する狙いがあると見られている。

人物[編集]

  • 陽明学の信奉者だった。
  • 戦後にGHQが安岡正篤を戦犯に指定しようとした際に、蒋介石が反対したとも言われている。
  • 遺されている小物や衣服、写真を見てわかるとおり、公式の場で特注の軍服などを着用していたものの、プライベートでは派手好きな妻と反対に非常に質素な生活を好み、静養地でも読書に耽っていたり、妻と茶などを楽しむ程度だった。
  • 総統に就任してからも、毎朝5時に起床し、朝食までの時間を漢書を主とした読書などといった勉強の為にあてるなど、普段から規則正しい生活を送り続け、終生生真面目さを失わなかったと伝えられている。
  • 第一次国共合作の頃は、「赤い将軍」として共産主義を礼賛していたが、欧米の圧力や浙江財閥との関係により、「上海クーデター」以降は反共主義者となり、日中戦争勃発の前は抗日闘争よりも共産党を弾圧する政策を優先した[94]。また、スターリンは、毛沢東よりも蒋介石を高く評価していた[95]と言われ、毛と中国共産党を犠牲にしても蒋介石を通じて、中華民国を赤化させるつもりであったという説もある。実際、西安事件の際は、毛沢東は蒋介石の処刑を主張したというが、スターリンは許可しなかった。蒋介石の息子である蒋経国は、実質的な人質としてモスクワへ留学している。
  • 辛亥革命前後に青幇に加入し杜月笙とは義兄弟の関係であり[96]上海クーデターの際には青幇の協力を得て共産党員の大量殺害を行なった。その後も青幇の麻薬資金が蒋介石の経済的基盤となる。杜月笙の墓地には蒋介石揮毫による「義節聿昭」の牌がある。
  • 戦後、台湾を訪れた蒋介石は日月潭の風景を特に気に入っており、別荘を建てて26年の間で100回以上もこの地を訪れ、また湖畔に住む先住民サオ族の伝統舞踊を好み援助を惜しまなかった。だが、舞踏団を国共内戦での兵士の慰問に派遣したり、現地人の一人毛信孝を「酋長」と称して宣伝の対称にする(本来、サオ族に酋長の伝統はない)など、本来の風習とはかけ離れたものであった。また当初、儀式の中で現地の人間が洋服を着ているのを見て、「何故蛮族が服を着ているのか」と尋ね、以降、蒋介石の前で儀式を行う際は伝統衣装で行うよう定められた。現地住民の一人はその時のことを回想し「蒋介石は心が曲がっているとしか思えない」と語っている[97]

蒋介石と個人崇拝[編集]

国民党政権下の頃の天安門広場

北伐後、国民政府と自身の権力を括弧たるものにするべく、蒋介石は自身への個人崇拝を目的とするプロパガンダ活動を徹底的に行った。毛沢東が政権を握る前の中国では紫禁城天安門を始め[98]、公共の場から自宅まで至る所に蒋介石の肖像画が飾られており[99][100][101]、台湾でも近年までそうしたプロパガンダ活動が根強く残っていた。こうしたプロパガンダの中では、特に前述の質素な私生活が強調され、他の軍高官らとの差別化をはかった[102]

また、国内のムスリムに対しては蒋介石の権力を正当化させるように向けた内容のクルアーンハディースを出版した[103] 。ムスリムであった軍高官の馬麟は、インタビューにて蒋介石に対し「高い敬愛と揺ぎ無い忠誠心を持っている」と語っている[104]

栄典[編集]

勲章
勲刀

蒋介石にちなんだ事物[編集]

台湾[編集]

  • 中正紀念堂 - 蒋介石を記念し、彼の没後に台北市中心部に作られた記念館。
  • 中正国際空港 - 桃園県にある台湾最大の国際空港で、英語では蒋介石の英語表記Chiang Kai-shekの略をとりCKS Airport と呼ばれた。
  • 中正路 - 中華民国の一般的な道路の名前。おおむね都市の中核的な路線にその名が振られる。
  • 介寿路 - 総統府と台北城東門との間を結ぶ道路の名前。介寿とは「蒋介石の長寿を祈念する」という意味。1996年、凱達格蘭大道に改称されたが、地方では今でも見受けられる。
  • 国立中正大学 - 蒋介石を記念して南台湾に設置した国立総合型研究大学。
  • 台北市立中正国中台北市立介寿国中 - 市内で大変有名な中学校である。
  • 慈湖紀念雕塑公園 - 中華民国の民主化に伴い、次々と撤去され始めた蒋介石像を収集して展示している公園。蒋介石の遺体が安置された慈湖にある。現在も台湾全土から集められ、その数は200体近くに上ると言われている。
  • 紙幣 - 没後の1980年から、台湾元の高額紙幣に蒋介石の肖像が使われてきた。
    • 李登輝政権末期から準備され、政権交代後の2000年以降発行された現行設計の紙幣でも、高額紙幣では科学技術・教育・スポーツを象徴する絵柄に取って代わられたものの、5券種中4番目にあたる200元紙幣に描かれている。ただし、日本の2000円札同様、市中での流通量は極めて少ない。なお、10元、5元、1元硬貨にも蒋介石が描かれている。

日本国内[編集]

  • 箱根彫刻の森美術館中正堂 - 箱根 彫刻の森美術館内にある。蒋介石からの恩義を日本の青年が未来永劫忘れないことを目的としてフジサンケイグループによって建てられた。
  • 中正神社 - 蒋介石が、日本が敗戦した際に寛大な処置を取り、復員に便宜を図ったことなどを讃えるため建立(愛知県幸田町)。
  • 蒋介石頌徳碑 - 横浜市内の伊勢山皇大神宮内生誕100年記念に建立、傍に 統一教会幹部の助野健太郎による由緒書きがある。
  • 中正堂会館 - 日華文化協会が入居している(港区南麻布、1968年竣工)。
  • 以徳報怨之碑 - 千葉県いすみ市岬町江場土、1985年4月建立。
  • 胸像 - 千葉県市川市中山の法華経寺境内に、1972年岸信介・佐藤栄作兄弟と親しかった132世武井日進上人が建立。
  • 湯島聖堂 - 「有教無類」の碑がある。

著作邦訳[編集]

  • 『百千万民衆に訴ふ』(村田孜郎訳、河出書房、1937年)
  • 『抗戦支那の経済建設』(民尉主編、東亜研究所第三部訳、東亜研究所、1941年)
  • 『中国の命運』(波多野乾一訳、日本評論社、1946年)
  • 『暴を以て暴に報ゆる勿れ』(山田礼三訳、白揚社、1947年)
  • 『敵か味方か 蒋介石總統の對日言論』(東亞出版社編訳、東亞出版社、1952年)
  • 『中国のなかのソ連 蒋介石回顧録』(毎日新聞外信部訳、毎日新聞社、1957年)
  • 『敵か?友か? 中国と日本の問題検討』西内雅解題、国民新聞社、1972年)
  • 『蒋介石名言集』1 - 2(秦孝儀編訳、ケイザイ春秋社、1973 - 74年)
  • 『蒋介石書簡集 1912 - 1946』(丁秋潔・宋平編、鈴木博訳、みすず書房、2000年)

家系図[編集]

 
 
蒋肇聡
 
王采玉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蒋介石
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
毛福梅
 
 
姚冶誠
 
 
陳潔如
 
 
宋美齢
 
 
 
 
 
戴季陶
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蒋方良
 
蒋経国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
章亜若
 
蒋緯国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蒋孝文
 
蒋孝章
 
蒋孝武
 
蒋孝勇
 
方智怡
 
章孝慈
 
蒋孝厳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蒋友柏
 
林姮怡
 
蒋友常
 
蒋友青
 

脚注[編集]

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  1. ^ 京大東洋史辞典編纂会『新編東洋史辞典』(東京創元社、1980年)、407ページ、「蒋介石」の項目。保阪(1999年)、11ページ。菊池(2005年)、386ページ。
  2. ^ 保阪(1999年)、11ページ。
  3. ^ 上海に上陸した際、行われた記者会見で「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語っている。(前掲「知性」山浦貫一述『森格』)
  4. ^ 保阪(1999年)、13 - 14ページ。
  5. ^ 保阪(1999年)、19ページ。
  6. ^ 石川(2010年)、15ページ。
  7. ^ 保阪(1999年)、24ページ。
  8. ^ 保阪(1999年)、26ページ。
  9. ^ 保阪(1999年)、26ページ。
  10. ^ 保阪(1999年)、34 - 35ページ。
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参考文献[編集]

  • 蒋介石秘録取材班『蒋介石秘録』全15巻(産経新聞社、1975年 - 1977年)
  • 蒋介石秘録取材班『蒋介石秘録 ― 日中関係八十年の証言 ― 』上下(産経新聞社、1985年)
  • 保坂正康『蒋介石』(文藝春秋社文春新書〉、1999年)
  • 横山宏章『中華民国 ― 賢人支配の善政主義 ― 』(中央公論社中公新書〉、1997年)
  • 菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』〈中国の歴史10〉(講談社、2005年)
  • 川島真『近代国家への模索 1894 - 1925』〈シリーズ中国現代史2〉(岩波書店岩波新書〉、2010年)
  • 石川禎浩『革命とナショナリズム 1925 - 1945』〈シリーズ中国現代史3〉(岩波書店〈岩波新書〉、2010年)
  • 黄仁宇『蒋介石 マクロヒストリー史観から読む蒋介石日記』(北村稔ほか訳、東方書店、1997年)
  • 黄文雄『蒋介石神話の嘘 ― 中国と台湾を支配した独裁者の虚像と実像』(明成社、2008年)
  • 渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』(祥伝社新書、2013年)

関連文献[編集]

  • 馮玉祥『我が義弟・蒋介石 その虚像と実像』(牧田英二訳、長崎出版、1976年)
  • 楊逸舟『蒋介石評伝』(共栄書房、1979 - 83年)
  • 家近亮子『蒋介石と南京国民政府 中国国民党の権力浸透に関する分析』(慶應義塾大学出版会、2002年)
  • 関榮次『蒋介石が愛した日本』(PHP研究所PHP新書〉、2011年)
  • 黄自進『蒋介石と日本 友と敵のはざまで』(武田ランダムハウスジャパン、2011年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


中華民国の旗 中華民国
先代:
李宗仁
(代理)
総統
1950年3月 - 1975年4月
次代:
厳家淦
先代:
設置
総統
1948年5月 - 1949年1月
次代:
李宗仁
(代理)
中華民国の旗 中華民国国民政府
先代:
林森
国民政府主席
1943年8月 - 1948年5月
次代:
中華民国総統に移行
先代:
宋子文
行政院長(代理)
1947年3月 - 1947年4月
次代:
張群
先代:
孔祥熙
行政院長
1939年11月 - 1945年6月
1944年12月より宋子文が代理)
次代:
宋子文
先代:
王纉緒
四川省政府主席
1939年9月 - 1940年11月
次代:
張群
先代:
汪兆銘
行政院長
1935年12月 - 1938年1月
次代:
孔祥熙
先代:
設置
軍事委員会委員長
1932年3月 - 1946年5月
次代:
廃止
先代:
朱培徳
参謀本部参謀総長
1932年3月 - 1935年12月
次代:
程潜
先代:
宋子文
行政院長
1930年12月 - 1931年12月
次代:
陳銘枢
先代:
譚延闓
国民政府主席
1928年10月 - 1931年12月
次代:
林森
先代:
集団指導制:汪兆銘ら5名
南京国民政府常務委員
1928年1月 - 1928年2月
(集団指導制:汪兆銘譚延闓
胡漢民蔡元培李烈鈞于右任
孫科林森
次代:
集団指導制:譚延闓ら5名
Emblem of the Kuomintang.svg 中国国民党
先代:
設置
総裁
1938年4月 - 1975年4月
次代:
蒋経国
(中央委員会主席)
先代:
設置
中央執行委員会主席
1931年 - 1938年
次代:
総裁に移行