龍皇昇

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龍皇昇 Sumo pictogram.svg
Ryuo 2008.jpg
場所入りする龍皇関
基礎情報
四股名 龍皇 昇
本名 エルヘモチリーン・サンチルボルド
Эрхэм-Очирын Санчирболд
愛称 サンチル
生年月日 1983年3月11日(31歳)
出身 モンゴル国ウランバートル市
身長 176cm
体重 148kg
所属部屋 宮城野部屋
得意技 突き、押し
成績
現在の番付 引退
最高位 西前頭8枚目
生涯戦歴 340勝322敗11休(80場所)
幕内戦歴 23勝37敗(4場所)
データ
初土俵 2000年3月場所
入幕 2007年5月場所
引退 2013年7月場所
趣味 パソコン
備考
2013年7月19日現在

龍皇 昇(りゅうおう のぼる、1983年3月11日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋に所属していた元大相撲力士。本名はエルヘモチリーン・サンチルボルドモンゴル語キリル文字表記:Эрхэм-Очирын Санчирболдラテン文字転写Erkhem-Ochiryn Sanchirbold)、愛称はサンチル。身長176cm、体重148kg、血液型はAB型、趣味はパソコン。得意手は突き、押し。最高位は西前頭8枚目(2007年7月場所)。

略歴[編集]

姉が日本に留学しており旭鷲山を知っていたことから宮城野部屋を紹介され[1]、ウランバートル市立第77高校を3年生で中退して1999年10月に来日し、2000年3月場所において初土俵を踏んだ。順調に出世して、2002年11月場所に幕下昇進を果たした。その後一気に幕下上位まで昇進したが、2003年11月場所の場所前の稽古で拳を負傷してしまい、その11月場所を全休して幕下下位まで陥落した。以降は幕下上位まで番付を戻したものの一進一退が続き、1年入門が遅い同部屋所属の白鵬に番付で大きく水を開けられてしまった。

2006年3月場所にそれまでの自己最高位となる西幕下3枚目の位置で4勝3敗と勝ち越し、翌5月場所でも西幕下筆頭の位置で4勝3敗と勝ち越しを決め、翌7月場所において新十両へ昇進した。モンゴル出身では10人目、外国人では16人目の関取である。2007年3月場所に東十両3枚目の位置で9勝6敗と勝ち越しを決め、翌5月場所において新入幕を果たした。

新入幕となった2007年5月場所では序盤から好調で11日目に勝ち越しを決めて、勝利すれば敢闘賞が決定していた千秋楽で敗れたために三賞受賞は逃したものの、10勝5敗という好成績を挙げた。翌7月場所では5勝10敗と振るわず、続く9月場所でも3勝12敗と大敗し、翌11月場所では十両へ陥落した。2008年3月場所において再入幕を果たしたものの、その3月場所でも5勝10敗と大敗して、翌5月場所では再び十両へ陥落した。その後も調子が上がらず、同年11月場所では西十両11枚目の位置で4勝11敗と大敗し、翌2009年1月場所において幕下へ陥落した。以降は関取に戻ることはなく、三段目に在位していた2013年7月場所13日目に現役引退を表明した。同年9月1日に両国国技館において断髪式が行われた。今後は妻子と共にアメリカへ移住して英語を学び、将来的には母国で法律関係の職に就く意向だという[2]

多彩な技で勝負するモンゴル出身力士が多い中では珍しく、本人は突き押しを得意としていた。新入幕を果たした2007年5月場所の大相撲中継の新入幕インタビューでも「モンゴル出身ですが、押し相撲です」と自己紹介した。幕内では白鵬の横綱土俵入りで露払いを務めていた。2007年6月1日に明治神宮で行われた白鵬の新横綱奉納土俵入りでも露払いを務めた。

略歴[編集]

  • 2000年3月場所 - 初土俵
  • 2006年7月場所 - 新十両
  • 2007年5月場所 - 新入幕
  • 2013年7月場所 - 引退

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:340勝322敗11休(80場所)
  • 幕内成績:23勝37敗(4場所)
  • 十両成績:81勝84敗(11場所)

場所別成績[編集]

                                      

龍皇昇[3]
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
2000年
(平成12年)
x (前相撲) 東 序ノ口 #13
4–3
 
西 序二段 #134
6–1
 
西 序二段 #54
4–3
 
西 序二段 #29
5–2
 
2001年
(平成13年)
西 三段目 #94
4–3
 
東 三段目 #77
4–3
 
東 三段目 #60
3–4
 
東 三段目 #73
5–2
 
東 三段目 #41
4–3
 
西 三段目 #27
3–4
 
2002年
(平成14年)
西 三段目 #45
4–3
 
西 三段目 #30
3–4
 
東 三段目 #52
5–2
 
東 三段目 #27
5–2
 
東 三段目 #3
4–3
 
西 幕下 #51
5–2
 
2003年
(平成15年)
西 幕下 #33
6–1
 
東 幕下 #13
2–5
 
西 幕下 #30
2–5
 
西 幕下 #44
5–2
 
西 幕下 #26
5–2
 
西 幕下 #15
0–0–7
 
2004年
(平成16年)
西 幕下 #55
5–2
 
東 幕下 #34
5–2
 
東 幕下 #22
4–3
 
東 幕下 #17
5–2
 
東 幕下 #10
4–3
 
西 幕下 #6
3–4
 
2005年
(平成17年)
西 幕下 #10
4–3
 
西 幕下 #8
2–5
 
東 幕下 #18
4–3
 
東 幕下 #13
3–4
 
東 幕下 #17
4–3
 
西 幕下 #14
4–3
 
2006年
(平成18年)
東 幕下 #9
5–2
 
西 幕下 #3
4–3
 
西 幕下 #1
4–3
 
西 十両 #14
9–6
 
西 十両 #8
8–7
 
西 十両 #6
7–8
 
2007年
(平成19年)
東 十両 #7
8–7
 
東 十両 #3
9–6
 
東 前頭 #14
10–5
 
西 前頭 #8
5–10
 
東 前頭 #13
3–12
 
西 十両 #5
8–7
 
2008年
(平成20年)
西 十両 #2
8–7
 
西 前頭 #16
5–10
 
西 十両 #5
5–10
 
西 十両 #11
8–7
 
西 十両 #9
7–8
 
西 十両 #10
4–11
 
2009年
(平成21年)
東 幕下 #4
1–2–4
 
東 幕下 #26
3–4
 
東 幕下 #35
2–5
 
東 幕下 #51
4–3
 
東 幕下 #43
4–3
 
西 幕下 #35
5–2
 
2010年
(平成22年)
西 幕下 #24
2–5
 
西 幕下 #38
6–1
 
東 幕下 #14
3–4
 
西 幕下 #25
2–5
 
西 幕下 #40
5–2
 
東 幕下 #26
4–3
 
2011年
(平成23年)
西 幕下 #22
3–4
 
八百長問題
により中止
西 幕下 #31
4–3
 
西 幕下 #16
2–5
 
西 幕下 #28
4–3
 
東 幕下 #23
4–3
 
2012年
(平成24年)
西 幕下 #18
1–6
 
西 幕下 #40
5–2
 
西 幕下 #30
3–4
 
東 幕下 #37
4–3
 
西 幕下 #30
5–2
 
西 幕下 #18
2–5
 
2013年
(平成25年)
東 幕下 #28
3–4
 
東 幕下 #35
2–5
 
東 三段目 #2
3–4
 
東 三段目 #14
引退
2–5–0
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

人物像[編集]

同部屋の弟弟子である白鵬が順調に番付を上げて行く一方で自らは低迷していた時は、「どうして同じ物を食べているのに…」と思っていた。稽古場でも白鵬に歯が立たなくなり、悔しさのあまりに稽古場の羽目板を強打して負傷したりもしている。しかし両者は私生活では非常に仲が良く、稽古が終わってからもよくボウリングやカラオケに行っていたという。誕生日も同じ3月11日(龍皇は白鵬の2歳年上)で、白鵬が結婚するまでは宮城野部屋ではいつも両者の誕生日パーティーを同時に開いていた。

師匠である宮城野親方(元幕内・竹葉山)は、自身が年寄・15代熊ヶ谷を襲名していた当時に著した著書『白鵬 「山」を越える男』(主婦と生活社、2010年)において、「もし宮城野部屋に龍皇がいなかったら、白鵬はモンゴルへ帰っていたかもしれない」と龍皇に対して深い感謝の意を表している。白鵬も「龍皇は僕の恩人ですよ。妻以上に何でも相談できる心強い兄弟子です。彼がいなかったら、マジで横綱になってなかったかもしれないね」と語り、2013年7月場所の優勝インタビューでも引退する龍皇について話していた。龍皇の断髪式における会見では涙を流して「寂しい。(龍皇は)ライバルであり友人だった。(龍皇がいなかったら)私はここにいない」と龍皇への深い感謝の意を表した。また、龍皇の断髪式の後に宮城野親方と白鵬はこれまでの感謝の意を込めて、2007年5月場所に敢闘賞の候補に挙がりながらも受賞を逃していた本人に対して手製の三賞トロフィーを授与している。

2010年9月場所11日目(2010年9月22日)において、白鵬の付け人を務める龍皇が、白鵬が待機している東支度部屋から反対側の西支度部屋へ往来していたことが判明し、日本相撲協会は翌9月23日に龍皇および(当時の)師匠の11代宮城野(元十両・金親)と15代熊ヶ谷(当時)の両親方に対して厳重注意を行った。力士や付け人が東西の支度部屋を往来することは八百長などの誤解を招きかねないとして禁止されている。龍皇は「猛虎浪関と食事の予定があり、携帯電話がつながらなかったので西支度部屋に行って話をした」と説明し、「(往来禁止は)知らなかった。反省している」と話した[4]。白鵬からも「何してるんだ!」と注意されたという。

改名歴[編集]

  • 龍皇 昇(りゅうおう のぼる)2000年3月場所 - 2013年7月場所
部屋の岩崎マネージャー(元幕下・岩海)が、港龍にちなんだ皇龍を考えた後で語呂が良い「龍皇」にし、下の名は昇龍のようにと「昇」と名付けた。

脚注[編集]

  1. ^ 当初は高島部屋へ入門する予定だったが、既に高島部屋には旭天鵬の弟である不動山が在籍していて、外国人力士2人の面倒を見るのは大変だという高島親方(元関脇・高望山)の意向から、宮城野部屋へ龍皇の所属の受け入れを依頼し、宮城野部屋がそれを引き受けたという経緯がある。
  2. ^ "龍皇が断髪式 白鵬が涙で感謝デイリースポーツ 2013年9月2日記事
  3. ^ Rikishi in Juryo and Makunouchi” (English). szumo.hu. 2007年6月7日閲覧。
  4. ^ "<大相撲>付け人の幕下・龍皇が反対側の支度部屋に入る" 毎日新聞 2010年9月23日記事

関連項目[編集]

外部リンク[編集]