チェコ軍団

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チェコ軍団の記念碑(プラハ、パラツキー広場)
ウラジオストクのチェコ軍団(1918年

チェコ軍団(チェコぐんだん、チェコ語:Československé legie)とは、第一次世界大戦中にロシア帝国オーストリア・ハンガリー帝国軍のチェコ人及びスロバキア人捕虜から編成した軍団級部隊。正式名称は、第1チェコスロバキア軍団1-й Чехословацкий корпус)。

ロシア革命後、ボリシェヴィキに対して蜂起し、日本を含む列国はチェコ軍団の救出を口実にロシア内戦に干渉した。

概要[編集]

チェコ人部隊の編成は、第一次世界大戦の最初の月である1914年8月には既に始まっていた。同年9月、捕虜から将校34人、下士官・兵921人から成るチェコ義勇隊Чешская дружина)が編成され、義勇隊指揮官にはロシア人のロトツキー大佐が任命された。10月末、義勇隊は第3軍の編成下において南西戦線に送られた。1915年3月、スロバキア人とチェコ人捕虜が義勇隊に編入され始めた。

南西戦線司令部は、義勇隊を高く評価し、連隊への昇格を勧告した。義勇隊の総数は2,090人まで増加し、1915年12月27日、第1チェコスロバキア狙撃連隊1-й Чехословацкий стрелковый полк)に改称された。1916年夏、2個連隊、約5千人から成るチェコスロバキア狙撃旅団Чехословацкая стрелковая бригада)が編成され、トロヤノフ大佐が旅団長となった。1917年7月のガリツィア攻勢において、チェコスロバキア旅団は、ゾボロヴァ地区の戦線を突破し、3千人以上の捕虜を獲得した。この功績に対して、旅団長は少将級とされた。

旅団は師団に昇格し、1917年秋、2個師団、3万9千人から成る第1チェコスロバキア軍団が編成された。第2軍団の編成も計画されており、ロシア革命時には6万~8万人のチェコ人、スロバキア人がいたと推定されている。

ロシア革命[編集]

十月革命後の1918年3月3日ボリシェヴィキブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和した。チェコ軍団は、チェコスロバキア独立のために、シベリアを経由してウラジオストクに向かい、アメリカ経由の海路で西部戦線に渡ることが決められたが、1918年3月半ばに至るまでウクライナにおいてドイツ軍、オーストリア軍と戦闘を継続せざるを得なかった。

1918年3月26日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員会議は、チェコスロバキア国民会議ロシア支部と条約を締結し、チェコ軍団将兵が武装解除して、民間人としてウラジオストクに移動することを許可した。

1918年4月5日、ウラジオストクにおいてロシア軍の軍服を着た強盗が2人の日本人を殺害したため、日本軍の2個中隊が市内に進駐した。ウラジーミル・レーニンは、これを大規模な干渉の始まりと見て、チェコ軍団の移動停止を命令した。4月10日、ウラジオストク当局は日本軍の増派がないことを報告し、12日、レーニンは停止命令を取り消した。しかしながら、この数日間の遅滞は、チェコ軍団将兵に強い不満を引き起こしていた。

1918年5月の時点で、ウラジオストクには1万4千人が既に到着し、ノヴォ・ニコラエフスク(現ノヴォシビルスク)には4千人、チェリャビンスクには8千人、ペンザには8千人のチェコ軍団将兵がいた。

蜂起[編集]

旧ソ連の公式説によれば、チェコ軍団の蜂起は、1918年5月14日、チェリャビンスク駅において、チェコスロバキア兵とハンガリー兵間の乱闘が原因とされている。チェリャビンスクのボリシェヴィキ当局は、乱闘に関わったチェコスロバキア人を逮捕したが、チェコスロバキア兵は、武力で同志を奪還し、赤衛隊を武装解除し、市内の武器庫を奪取した。

しかしながら、大事にまでは発展せず和平協定が締結されたが、ボリシェヴィキ中央はチェコ軍団の即時武装解除と武装兵の射殺を指示。この際、武装兵が1人でも見つかれば部隊全員を逮捕するように指示された。5月26日、レフ・トロツキーはチェコ軍団を反乱軍と宣言して攻撃を指示した。

当時、チェコ軍団司令官はパリ所在の軍務経験が無いトマーシュ・マサリク教授に交代していたために、現地での指揮者がいない状態だった(ロシア帝国崩壊後チェコ軍団は形式上フランス陸軍に編成されていた)。そのため、チェコ軍団は大きく4つのグループに分かれていた。

これら4大グループの他、更にシュヴェツ中尉(後に大佐、第1チェコスロバキア師団長)、ヤン・スィロヴィ中尉(後に将軍、チェコスロバキア軍団長)、ロシア人のウシャコフ中佐(1918年6月に戦死)が率いるグループが存在した。

ボリシェヴィキとの戦闘[編集]

ボリシェヴィキによって殺戮されたチェコ軍団員

蜂起当初、チェコ軍団は、西方のボリシェヴィキに対して戦おうとはせず、経路上の都市を占領した(5月26日チェリャビンスク、27日マリインスク、28日ニジネウジンスク、29日カンスク、ペンザスイズラニ、31日ペトロパヴロフスク、トムスク、6月2日クルガン)。

欧州への移動のため、ウラジオストクに集結していたチェコ軍団主力は、ペンザ、チェリャビンスクのグループを見殺しにはできず、各々合流のために移動し始めた。6月7日、シベリア・グループはオムスクを占領し、ガイダ部隊と合流した。ペンザ・グループは、サマラウファ(7月5日)を経由してチェリャビンスクに向かった。

8月始め、赤軍東部戦線司令官イオアキム・ヴァツェチスは、3倍もの数的優勢(5個軍)をもってチェコ軍団を攻撃したが、戦果を上げられなかった。8月6日、ステパノフ大尉指揮下の第1チェコスロバキア連隊は、東部戦線本部所在地であるカザンを占領した。この際、同市にあった金塊が鹵獲され、全露暫定政府に手渡された。

9月1日、シベリア・グループとウラジオストク・グループが接触を確立した。

フランスの介入[編集]

1918年8月、ボリシェヴィキ体制の除去を望んでいたフランス政府は、チェコ軍団の行動の統制に乗り出した。これまでに、ドイツ・ボリシェヴィキに対する東部戦線開設の任務を帯びて、ピエール・ジャネン将軍がシベリアに派遣されていた。しかしながら、ジャネンは12月になって初めてオムスクまで辿り着けた。

1918年10月、独墺の敗北が明らかになると、チェコ軍団将兵は早期帰国を望むようになった。いくつかの部隊は、戦線を離れ、東に向かう列車に乗り込んだ。このような状況下、10月25日、第1チェコスロバキア師団長ヨゼフ・シュヴェツ大佐は自決した。10月28日、チェコスロバキアが独立し、11月始め、チェコ軍団はウファ及びチェリャビンスクから撤収し始めた。

11月、ジャネン将軍は、在シベリア連合軍総司令官となったが、どの干渉国の部隊も指揮下に入らず、配下部隊はウラジオストクの1個中隊のみで、名目上のものに過ぎなかった。そこで、ジャネンは、コルチャーク軍を支援すると共に、チェコ軍団の掌握に乗り出した。クレマンソー首相がチェコスロバキア政府に対して圧力をかけ、1919年1月27日、ノヴォ・ニコラエフスカ(ノヴォロシースク)からイルクーツクまでのシベリア鉄道沿線がチェコ軍団の担当地域とされ、フランスはチェコ軍団を更に1年近くロシアに留めることに成功した。これに対して、6月、チェコ軍団内で反乱が発生したが鎮圧された。チェコ軍団将兵の撤退は、1919年12月になって初めて行われ始めた。

1920年1月、ジャネン将軍は、コルチャークをボリシェヴィキ側に引き渡すようにチェコ軍団に命令した。

第一次世界大戦からロシア内戦にかけて、チェコ軍団は、4千人以上を失った。この際、ボリシェヴィキ側に寝返ったのは、218人に過ぎない。

チェコ軍団参加者[編集]

関連項目[編集]