露仏同盟

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フランスの雑誌「Le Petit Journal」1893年10月号の表紙。ロシアとフランスの国旗を交えるイラストで、露仏同盟を報じている。

露仏同盟(ろふつどうめい)とは、フランスロシアの間で成立した軍事同盟。1891年より両国の交渉が公然化し、最終的には1894年に締結された。ドイツオーストリアイタリアによって構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うことが定められた。

背景[編集]

1890年、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体制参照)、この年より親政を行う皇帝ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。そのため、1887年より継続していた独露再保障条約が更新されないことになり、ロシアは新たな同盟相手を必要としていた。また、国内の近代化推進のためにも外資導入が必要であり、フランスとの同盟樹立は経済的観点からもメリットがあった。一方、フランス側としてもビスマルク外交時代の孤立から脱することは望ましいことであったため、両国の交渉が進められていった。

その後の展開[編集]

仮想敵を三国同盟に設定した同盟とはいえ、同盟の成立当初においては露仏同盟と三国同盟が必ずしも戦争に至るような対立関係にあったわけではない。日清戦争後の三国干渉(1895年)をロシア・フランス・ドイツが行ったように、各国ごとの国益によっては連携する余地も存在していた。むしろ、同盟成立当初においてロシア・フランスの両国にとって懸案だったのはイギリスであった。ロシアにとっては中央アジア・イランなどでの南下政策の妨げであり、フランスにとってはいわゆる「アフリカ横断政策」の妨げとなっていたのが3C政策をとるイギリスだったからである。

しかし、ヴィルヘルム2世は世界政策(新航路政策)を掲げ、艦隊法の制定以降イギリスとの建艦競争に突入した上、中東進出(いわゆる「3B政策」)を企図してロシアとの関係も悪化させた。その結果、露仏同盟は対独同盟としての性格を強め、のちの英仏協商英露協商と結びついて対独包囲網の一角を担うことになった。

ロシアはこの同盟を前提としてフランスからの投資を受けることになった。1891年より建設に着手するシベリア鉄道も、この時のフランス資本によるところが大きい。もっとも、この時期における投資の多くはロシア革命によって社会主義政権が成立すると回収不能になった。

関連項目[編集]