ロスチャイルド家

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ロスチャイルド家(ロートシルト家)の紋章。この紋章は1822年にオーストリア政府(ハプスブルク家)より、男爵の称号とともに授けられた。盾の中には5本の矢を持った手が描かれ、創始者の5人の息子が築いた5つの家系を象徴している。盾の下には、ロスチャイルド家の家訓であるConcordia, Integritas, Industria(調和、誠実、勤勉)という銘が刻まれている。[1]

ロスチャイルド家(Rothschild、「ロスチャイルド」は英語読み。ドイツ語読みは「ロートシルト」。フランス語読みは「ロチルド[2]。)は、ヨーロッパの財閥、貴族。

18世紀後半にフランクフルトゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身のマイアー・アムシェル・ロートシルトが銀行家として成功したことに始まり、彼の五人の息子がフランクフルト(長男アムシェル)、ウィーン(二男ザロモン)、ロンドン(三男ネイサン)、ナポリ(四男カール)、パリ(五男ジェームス)の五か所に分かれて銀行業を拡大させた。その後、フランクフルト家、ウィーン家、ナポリ家は絶えたが、ロンドン家とパリ家が現在まで残っており、銀行業を手掛けている。現在、ロスチャイルド家が営む事業は主にM&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングが中心である。

歴史[編集]

マイアー登場以前[編集]

Waddesdon Manor(英語) イギリスバッキンガムシャー。1889年建造。イギリスの分家によって建てられた別荘

ロートシルト家は、神聖ローマ帝国帝国自由都市フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で暮らすユダヤ人商人の家系である[3]

フランクフルト・ユダヤ人は1462年以来ゲットーに押し込められてきた。また法律・社会的に様々な制約を受け、職業は商品もしくは金銭を扱う仕事しか選べなかった[4][5]。ロートシルト家も代々商人の家柄だが、マイアーの代までは小商人に過ぎず、生活も貧しかった[3]

ファミリーネームはもともと「バウアー」もしくは「ハーン」と呼ばれていたが[6]、「ロートシルト(赤い表札)」[注釈 1]の付いた家で暮らすようになってからロートシルトと呼ばれるようになった。そこから引っ越した後もそのファミリーネームで呼ばれ続けた[7]。しかしフランクフルト・ユダヤ人が法的にファミリーネームを得たのはフランス占領下の1807年のことであり、それ以前のものはあくまで通称である[6]

ヘッセン・カッセル方伯の御用商人[編集]

Schloss Hinterleiten(ドイツ語) オーストリアの ニーダーエスターライヒ。1887年建造。オーストリアの分家によって建てられた別荘
Palais Freiherr Albert von Rothschild(英語) オーストリアのウィーン。1884年建造。オーストリアの分家によって建てられた邸宅

ロスチャイルド家を勃興させたのはマイアー・ロートシルト(1744-1812年)である。彼は1760年代からフランクフルトで古銭商を始め、やがてフランクフルト近くのハーナウの宮殿の主であるヘッセン=カッセル方伯家嫡男ヴィルヘルムを顧客に獲得し、1769年にはその宮廷御用商人に任じられた[8][9][10]

ヴィルヘルムは領内の若者を傭兵として鍛え上げ、植民地戦争の兵員を求めるイギリスに貸し出す傭兵業を営んでおり、その傭兵業の儲けでヨーロッパ随一の金持ちになっていた。小規模ながら両替商を兼業するようになっていたマイアーもヴィルヘルムの傭兵業に関わらせてもらい、イギリスで振り出された為替手形の一部を割引(現金化)する仕事を任されるようになった[11][12][13]。とはいえマイアーの担当額はわずかであった。ヴィルヘルムとしては交換比率が下がらないようなるべく多くの業者に自分の外国為替手形を扱わせたがっており、その一人がマイアーだったということに過ぎない。マイアーは基本的に1780年代末まで注目されるような人物ではなく、ヴィルヘルムにとってはもちろん[注釈 2]、フランクフルト・ゲットーの中においてさえそれほど有名人ではなかった。しかも1785年にはヴィルヘルムがヘッセン・カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となり、フランクフルトから離れたカッセルヴィルヘルムシェーヘ城ドイツ語版に移ってしまったため、一時マイアーとヴィルヘルム9世の関係が疎遠になるという危機も起こった[15]

一方、物品商の仕事の方はフランクフルトがイギリスの植民地産品や工業製品を集める一大集散地になっていたこともあって順調に推移し、1780年代にはマイアーはかなりの成功を収めていた[14]

やがてマイアーの息子たちが成長して父の仕事を手伝うようになり、長男アムシェルと二男ザロモンがヴィルヘルムシェーヘ城に頻繁に出入りするようになった。彼らはヴィルヘルム9世の宮廷の正規の金融機関である「ベートマン家ドイツ語版」や 「リュッペル・ウント・ハルニエル(Rüppell und Harnier)」などの大銀行を回って、彼らと気難しいヴィルヘルム9世の間の使者の役割を演じ、ヴィルヘルム9世から気に入られるようになった。そして1789年にはロスチャイルド家もヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名されるに至り、その対外借款の仕事に携われるようになった[16][17]。1795年頃からヴィルヘルム9世の大きな投資事業にも参加できる立場になる[18]

こうしてロスチャイルド家は1790年代に急速に躍進した[19]。その頃にはロートシルト家の収入は信用供与と貸付が主となっており、商人というより銀行家に転じていた。その活動範囲もドイツに留まらず、ヨーロッパ中へと広がっていった[20]

ナポレオン戦争[編集]

Hôtel Salomon de Rothschild(英語)フランスのパリ。1878年建造。フランスの分家によって建てられた邸宅
Villa Rothschild(ドイツ語) ドイツのフランクフルト近郊。1894年建造。ドイツの分家によって建てられた別荘。現在は高級ホテルとして使用されている
Villa Ephrussi de Rothschild(英語) フランスのコート・ダジュール。1912年建造。フランスの分家によって建てられた別荘

1789年フランスで発生したフランス革命を恐れたヨーロッパ諸国の君主たちはフランスに宣戦布告し、1792年から1815年までフランス革命戦争ナポレオン戦争が勃発した。だが自由主義をスローガンに掲げるフランス軍は征服地でユダヤ人解放政策を実施したため、ドイツ・ユダヤ人にとっては封建主義的束縛から解放されるチャンスとなった。ロスチャイルド家にとってもヘッセン・カッセル方伯の寵愛だけに依存した不安定な状態から脱却するきっかけになった[21]

戦争の混乱の中、ドイツでは綿製品が不足して価格が高騰した。これに目を付けたマイアーの三男ネイサン1799年からイギリス・マンチェスターに常駐し、産業革命で大量生産されていた綿製品を安く買い付けてドイツに送って莫大な利益を上げるようになった。その金を元手にネイサンは1804年からロンドンの金融街シティに移り、N・M・ロスチャイルド&サンズを創設して金融業を開始した[22][23]

1800年代にはヴィルヘルム9世への影響力も飛躍的に増大し、1803年にロスチャイルド家は宮中代理人の称号を得ている[24][25]

1806年ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がプロイセン侵攻のついでにヘッセンにも侵攻してきた。ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世。1803年にヘッセン選帝侯に叙された)は国外亡命を余儀なくされたが、この際に選帝侯の巨額の財産の管理権・事業権はロスチャイルド家に委託された。以降ロスチャイルド家はフランス当局の監視を巧みにかわしつつ、大陸中を駆け回って選帝侯の代わりに選帝侯の債権の回収にあたり、回収した金は選帝侯の許しを得て投資事業に転用し、莫大な利益を上げるようになった[26][27][28]

またフランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主カール・テオドール・フォン・ダールベルク大公、フランクフルトの郵便制度を独占しているカール・アレクサンダー・フォン・トゥーン・ウント・タクシスドイツ語版侯などと親密な関係を深めていき、独自の通商路を確保し、また情報面で優位に立ち、大きな成功に繋げていった[29]

ナポレオンは1806年に大陸封鎖令を出して支配下の国々に敵国イギリスとの貿易を禁じたが、これがロスチャイルド家にとっては更なるチャンスとなった。大陸封鎖令により大陸諸国ではコーヒー、砂糖、煙草、綿製品などイギリスやその植民地からの輸入に頼っていた商品の価格が高騰した。また逆にイギリスではこれらの商品の価格が市場の喪失により暴落した。そこでロンドンのネイサンはイギリスでこれらの商品を安く買って大陸へ密輸し、それを父や兄弟たちが大陸内で確立している通商ルートを使って大陸各国で売りさばくようになった。これによってロスチャイルド家は莫大な利益を上げられた上、物資不足にあえいでいた現地民からも大変に感謝された[30][31]

この独自の密輸ルートはイギリス政府からも頼りにされ、イギリス政府は反フランス同盟国に送る軍資金の輸送をネイサンに任せていた。パリに派遣された末弟ジェームズと連携して、イギリスの金塊を公然とフランス経由でイベリア半島で戦うイギリス軍司令官ウェリントン公爵のもとに送り届けたこともあった[32][33]

この時期にロスチャイルド家はフランクフルト・ユダヤ人の解放を推進する役割も果たした。「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったナポレオン法典を一般市民法としてフランクフルトに導入する際にフランクフルト大公ダールベルクはフランクフルト・ユダヤ人団体に44万グルデンを要求したが、そのほとんどをロスチャイルド家が建て替えて実現に漕ぎつけたのである(ナポレオン敗退後に自由都市の地位を取り戻したフランクフルト市によって取り消されてしまうが)[34][35]

マイアーの死去と五家の創設[編集]

Halton House(英語) イギリスのバッキンガムシャー。1883年建造。イギリスの分家によって建てられた別荘

1812年にマイアーは死去した。彼は遺言の中で5つの訓令を残した。1つはロートシルト銀行の重役は一族で占めること、1つは事業への参加は男子相続人のみにすること、1つは一族に過半数の反対がない限り宗家も分家も長男が継ぐこと、1つは婚姻はロートシルト一族内で行うこと、1つは事業内容の秘密厳守であった[36]

マイアーは何よりも一族の団結を望んでいた。ロートシルト家の家紋に刻まれた「協調(concordia)」もマイアーの遺訓であり、その精神は彼の5人の息子たち、長男アムシェル(1773-1855)、二男ザロモン(1774-1855)、三男ネイサン(1777-1836)、四男カール(1788-1855)、五男ジェームズ(1792-1868)にも受け継がれた[37][38]

父の遺訓に従ってフランクフルトの事業は長男アムシェルが全て継承し、他の4兄弟はそれぞれ別の国々で事業を開始することになった。ウィーンには二男ザロモンが1820年に移住した。ロンドンはすでに三男ネイサンが移住していた。ナポリは四男カールが1821年に移住した。パリは五男ジェームズがすでに移住していた[39]

五家は相互連絡を迅速に行えるよう情報伝達体制の強化に努めた。独自の駅伝網を確保し[40]伝書鳩も飼育して緊急時にはこれを活用した。またその手紙は機密保持のためヘブライ語を織り交ぜていた[41]。こうした素早い情報収集が可能となる体制作りがロスチャイルド家が他の銀行や商人に対して優位に立つことを可能としたといえる。ワーテルローの戦いの際にもロンドン家当主ネイサンはいち早くナポレオンの敗戦を知ったが、自分たちの情報収集の早さが他の投資家にも知られており、その動向が注目されていることを利用して、逆にイギリス公債を売って公債を暴落させた後、買いに転じてイギリス勝利のニュースがイギリス本国に伝わるとともに巨額の利益を上げることができた[42][43]

ウィーン体制下[編集]

フェリエール城(英語)セーヌ=エ=マルヌ県フェリエール=アン=ブリ。1854年建造。フランスの分家によって建てられた別荘。フランスにおいて19世紀の最も大きな別荘であり、30 km² の面積を占める
Kasteel de Haar(英語) オランダのハールザイレンス。元は12世紀に建てられた城だったが、ロスチャイルド家によって1892年から1912年にかけて再建された

ナポレオン敗退後、フランス革命以前の旧体制が復古し、フランスに領地を奪われた君主や貴族たちが領地を回復させた(ウィーン体制)。銀行業でも旧勢力が復古し、1815年11月のパリ条約に定められたフランスの賠償金の調達からロスチャイルド家は弾き出された[44]

ついで1818年10月の同盟軍のフランス撤兵と賠償金分配を話し合うアーヘン会議でもロスチャイルド家は弾き出されそうだったが、この時にジェームスがフランス公債を大量に買って一気に売り払うという圧力をかけたことが功を奏し、オーストリア帝国宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒから会議に招かれ、ザーロモンカルマンが名声を高めた。以降メッテルニヒとの関係が強まり、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられ、また五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章も与えられた[45]。以降ロスチャイルド家はその名前に貴族を示す「von(フォン)」や「de(ド)」を入れることになった[46]

この時期、ロスチャイルド家は鉄道分野には熱心な投資を行っている。ウィーン家のザロモンは1835年に皇帝の認可を得て鉄道会社を創設し、中欧の鉄道網整備に尽くした。フランクフルト家のアムシェルも中部ドイツ鉄道、バイエルン東鉄道、ライン川鉄道等の整備に尽くした。パリ家のジェームズもフランスや独立したばかりのベルギーの鉄道敷設に尽力したが、同じユダヤ系財閥のペレール兄弟フランス語版と競争になった[47]

帝政ロシアとの闘争とバクー油田[編集]

Palais Nathaniel Rothschild(ドイツ語)オーストリア のウィーン。1878年建造。オーストリアの分家によって建てられた邸宅

ロスチャイルド家はユダヤ人迫害を推進するロシア帝国とは敵対的立場を取った。 1854年のクリミア戦争ではロシアと敵対するイギリス・フランストルコ陣営を金銭面から支援した。英仏軍の軍事費を調達し、トルコにも巨額の借款を与えた[48]

また1904年の日露戦争では、初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドがニューヨークのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けたのを機に日本の最初の戦時公債の起債の下請けを行った。3回目と4回目の起債ではロンドンとパリのロスチャイルド家がそろって発行団となった[49]

一方でパリ家当主アルフォンスは1883年に財政困窮に陥ったロシア政府の公債発行に協力してやっており、その見返りとしてバクー油田の中でも最大級のバニト油田をロシア政府より与えられた。アルフォンスはバクー油田の開発にあたっていた科学者・企業家アルフレッド・ノーベルと協力して開発を進めた。また1914年にはロイヤル・ダッチ・シェル石油に油田を売却し、同社の大株主に転じた。自らの油田を売ってでもヨーロッパ石油産業の再編を進めることでロックフェラースタンダード石油がヨーロッパに進出してくるのを阻止する狙いがあった。また1917年にロシア革命が起こってツァーリ体制が崩壊し、ボルシェヴィキ政権が外国資産を全て接収したが、ロスチャイルド家はこの時に売却しておいたおかげでロシア革命による打撃を受けずにすんだ[50]

衰退[編集]

Rothschildschloss(ドイツ語) オーストリアのヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス。元は13世紀に建てられた中世の城だったが、1875年にオーストリアの分家によって取得された

19世紀後半の相次ぐ戦争と各国での国家主義の高揚により、衰退が始まった。この段階でもロンドン家とパリ家は繁栄していたが、フランクフルトの本家は発祥の地フランクフルトに固執して新しい金融の中心地ベルリンに移ろうとしなかったために衰退し、ウィーン家もハプスブルク家の没落とともに没落していった。ナポリ家に至っては危機的状況に陥っていた。初代マイヤーは「兄弟力を合わせるように」という遺訓を残しており、子孫たちもこれまでその遺訓を守って、5家協力してやってきたが、国家主義の高揚はその協力の維持を難しくしていた[51]1901年にフランクフルトの本家が断絶するとロスチャイルド家の協力関係はいよいよ希薄となっていった[52]

また電信技術の向上でこれまでロスチャイルド家の最大の武器だった素早い情報収集がもはや特別な物ではなくなってしまったこともある。そのためライバル財閥が次々と力をつけてきてロスチャイルド家の影響力は相対的に低下したのである[53]

1914年に勃発した第一次世界大戦はロスチャイルド家に更なる危機をもたらした。この戦争でロスチャイルド家は敵味方に引き裂かれてしまった。兵役年齢の者はそれぞれの祖国の軍隊に入隊して祖国のために戦った。ロンドン家はエヴェリン・アシル・ド・ロスチャイルドをパレスチナ戦線で失った。ロスチャイルド家の中で最も栄えていたロンドン家は、第一次世界大戦中の税制変更期に初代ロスチャイルド男爵ナサニエルとその弟二人が相次いで死去する不幸があったことで、その財産に莫大な相続税をかけられて衰退しはじめた。ロスチャイルド家の銀行は株式形態ではなく個人所有だったため相続税増税の直撃を被ったのである。19世紀に手に入れた豪邸を次々と手放すことを余儀なくされた。またロスチャイルド銀行の業務の大きな部分を占める公債発行が戦争のせいで危険な投資になってしまったこともロスチャイルド家にとっては厳しかった。第一次世界大戦後のロスチャイルド家はこれまで投資した事業を守るだけで精一杯という状況にまで陥っていった[54]

ナチスの脅威[編集]

Grüneburgschlößchen(ドイツ語) ドイツのフランクフルト。 1845年建造。 ドイツの分家によって建てられた邸宅。この建物は1944年に連合国軍の爆撃によって破壊された
Château de Montvillargenne(フランス語) フランスのオワーズ。1900年建造。フランスの分家によって建てられた邸宅

19世紀に栄華を誇ったロスチャイルド家も20世紀には衰退の一途をたどり、実際の財力より名前の威光ばかりが先行するイメージの存在と化していた[55]。しかし「国際金融ユダヤ人」を全ての悪の元凶とするナチス・ドイツにとってはそのイメージは反ユダヤ主義プロパガンダの格好の材料であり、ロスチャイルド家は徹底的に悪の黒幕扱いにされた。『ワーテルローの勝者 ロスチャイルド家(Rothschilds Aktien auf Waterloo)』(1936年)や『ロスチャイルド家』(1940年)といったロスチャイルド家を「世界支配をねらう金融権力」として描く反ユダヤ主義映画がドイツで公開された[56][57]

ドイツ国内のロスチャイルド家に由来する記念碑や名称もナチス政権誕生とともに次々と取り払われていった。ロスチャイルド並木通りはカロリング王朝並木通りに変えられた。ドイツ国内にあったロスチャイルド家所有の財団法人や慈善施設もアーリア化により政府に没収されるか二束三文で買い取られていった。フランクフルト家の最後の当主ヴィルヘルムドイツ語版の娘婿だったマクシミリアン・フォン・ゴールドシュミット=ロートシルトドイツ語版の財産も政府に没収された[58]

1938年にオーストリアがドイツに併合された際には、ウィーン・ロートシルト家の者はほとんどがイギリスへ亡命していたが、ルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵ドイツ語版のみがウィーンに残っており、併合とともにゲシュタポに逮捕された。彼は全財産の没収に同意する代わりに釈放されたが、すぐにアメリカへ亡命し、第二次世界大戦後もウィーンに戻らなかった。そのためウィーン家はこれをもって絶えた(戦後オーストリア政府はナチスが奪ったルイの財産をルイに返還しているが、ルイはその全額を寄付している)[59][60]

1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻でパリが陥落すると、パリ家の銀行や邸宅もナチスに接収された。またパリ家は美術品の収集で知られており、陥落直前に美術品の外国移送に励んだが、移送できなかったものは陥落後にヒトラーによって押収された。パリ家の人々の多くはイギリスへ亡命し、ロチルド家御曹司ギード・ゴール自由フランス軍に入隊した。自由フランス軍の財政は少なからずロスチャイルド家によって支えられていた[61][62]

ロンドン家は直接の被害を免れたが、1940年から1941年のイギリス本土空襲時には子供たちはワドスドン城ヘ疎開した。ドイツやオーストリアから逃れてきていた孤児たちも預かり、この城に一緒に収容している[63]。戦時中大陸にいて逃げ遅れ、ナチスの手にかかったロスチャイルド家の者が2人出た。フランス家のフィリップの妻エリザベート英語版とロンドン家の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの叔母にあたるアランカだった。前者はラーフェンスブリュック強制収容所、後者はブーヘンヴァルト強制収容所で落命している[64]

第二次世界大戦が終わった時、残ったロスチャイルド家はロンドン家とパリ家の二つだけとなった[65]。大戦の影響でロスチャイルド家の衰退は更に進んだ。ロンドン家もパリ家も収入が大きく落ち、出費は増える一方で更に多くの豪邸を売り払うことを余儀なくされた[66]

戦後復興[編集]

Spencer House(英語) イギリスの ロンドン。スペンサー伯爵家の代々の邸宅。現在、イギリスの分家が99年の契約でこの邸宅を借り、ロスチャイルド卿の営む投資事業会社RIT・キャピタル・パートナーズ英語版の本拠地として使用している

ロンドン家の戦後復興はロンドン家分家のアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドを中心にして行われた。ロンドン家本家の第3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルドとはN・M・ロスチャイルド&サンズの株を6:2という割合で配分しているため、分家のアンソニーが経営を主導する形になった[67]。第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの息子である第4代ロスチャイルド男爵ジェイコブはアンソニーの息子であるエヴェリンと経営方針が合わず、1980年にN・M・ロスチャイルド&サンズを退社してRIT・キャピタル・パートナーズ英語版を立ち上げている[68]

パリ家の戦後復興は1949年に正式に当主となったギー・ド・ロチルドを中心にして行われた。ド・ゴール将軍やジョルジュ・ポンピドゥーの協力を得てパリ・ロチルド家の再興に成功している。1981年に社会党党首フランソワ・ミッテランが大統領になった際に一時ロチルド銀行が国有化されたが、ミッテランの社会主義政策の失敗後、ギーの息子ダヴィド・ド・ロチルドの指導の下に再建され、今日にいたっている[69][70]

2003年にはロンドン家とパリ家の両銀行が統合されたロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設され、フランス家のダヴィドがその頭取に就任した[71]

現在[編集]

現在、ロスチャイルド家が営む主な金融グループは3つあり、それぞれ別れて事業を営んでいる。

一つ目はEdmond de Rothschild Groupである。Edmond de Rothschild Groupはスイスに本拠を置く金融グループであり、傘下に、スイスを中心に世界中で富裕層の資産運用(プライベート・バンキング)を行うBanque privée Edmond de Rothschildや、フランスを中心に世界中でワイナリーを営むCompagnie Vinicole Baron Edmond de Rothschildなどがある。グループの傘下企業の一つBanque privée Edmond de Rothschildスイス証券取引所に上場しており、2011年においてその総資産は140.2億スイスフランである。[72]

二つ目はThe Rothschild Groupである。The Rothschild Groupはフランスのパリに本拠を置くParis Orléansを金融持ち株会社とし、その傘下にフランスの投資銀行Rothschild & Cie Banqueやイギリスの投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズやスイスを中心に活動するプライベートバンクRothschild Bankなどをもつ。[73]ヨーロッパを中心に45カ国にオフィスを持ち、事業はM&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングが中心である。特にM&Aでは取り扱い件数がヨーロッパで一番多い。The Rothschild Groupの金融持ち株会社であるParis Orléansはパリ証券取引所に上場しており、2012年においてその総資産は89.2億ユーロである。[74]

Mentmore Towers(英語) イギリスのバッキンガムシャー。 1854年建造。イギリスの分家によって建てられた別荘

三つ目はRIT Capital Partnersである。RIT Capital Patnersは1980年に設立された、ロンドンのスペンサーハウスに本拠を置くInvestment Trustであり、アメリカやイギリスを中心として世界中の会社に投資を行っている。RIT Capital Partnersはイギリスで最大規模のInvestment Trustであり、イギリスのトップ5の一つに数えられている[75]。また、Rockefeller Financial Services社と資産運用事業で提携していることでも知られている[76]。RIT Capital Patnersはロンドン証券取引所に上場しており、2012年において総資産は22.1億ポンドである[77]。(Investment Trustはクローズド・エンド型の投資信託の種類の一つである。ETFと同様に株式市場で資金を集め、その資金をその投資会社の方針により、ヘッジファンドやプライベート・エクイティ・ファンドなど様々な商品に投資する。世界の中でも特にイギリスで発展している。)

なお、3つの金融グループはそれぞれの分野で傑出した業績を誇るが、それぞれの国においてより規模の大きな競合企業が存在する[78][79][75]

現在のロスチャイルド家を代表する人物として、Edmond de Rothschild Groupを統括するバンジャマンフランス語版、The Rothschild Groupを統括するダヴィド、RIT Capital Patnersを統括する第4代ロスチャイルド男爵ジェイコブ・ロスチャイルドらがいる。ロスチャイルド家の7代目の後継者は、ダヴィッドの息子、アレクサンドル・ド・ロチルドとなる予定である。

ロスチャイルド家とワイン[編集]

シャトー・ラフィット・ロートシルト(日本語) フランスのボルドー。ロスチャイルド家が営むシャトー(ぶどう園)の一つ。フランスのボルドー地方の五大シャトーの一つで、ここで作られるワインは高い格式を持つ
ムートン・カデのラベル

ボルドーの赤ワイン生産者として、最高の格付けを得ている「5大シャトー」と呼ばれるブドウ園のうち2つが、ロスチャイルド家の所有となっている。そのうちシャトー・ムートン・ロートシルトは、ネイサン・ロスチャイルドの三男ナサニエルが1853年に購入したものであり、シャトー・ラフィット・ロートシルトはマイヤー・ロスチャイルドの五男ジェームスが1868年に購入したものである。1855年の格付けではラフィットが1級の評価を得たものの、ムートンは2級に甘んじた。だが、ナサニエルの曾孫のフィリップの努力により、1973年、異例の格付け見直しによりムートンも1級の地位を獲得する。

その後もフィリップとその一族は、カリフォルニアの「オーパス・ワン」、チリの「アルマヴィーヴァ」などのワインを手がけ、いずれも高い評価を獲得している。

フィリップはシャトー・ムートンを最高級のワイン・ブランドとして確立させる一方、1930年代には庶民にも手軽に飲める高品質のワインブランド「ムートン・カデ」を創り出した。シャトー・ムートンの技術と経験で造られた新作ワインが手頃な値段で楽しめるとあって、ムートン・カデの需要は徐々に高まっていった。今日ではムートン・カデはフランスで最もよく飲まれているワインとなっている[80]

世界中の人に愛されているブランドでもあり、2004年には世界で1500万本販売された[81]。日本ではワイン専門店のみならずスーパーなどでも販売されており、日本人にとっても手軽に飲めるワインとなっている。


ロスチャイルド家系図[編集]

家祖と「五本の矢」[編集]

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マイアー・アムシェル
(1743-1812)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Amschel Mayer Rothschild.jpg
アムシェル・マイアー
(1773-1855)
フランクフルト家
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ザロモン・マイアー
(1774-1855)
ウィーン家
Nathan Rothschild.jpg
ネイサン・メイアー
(1777-1836)
ロンドン家
Carl Mayer Rothschild.jpg
カール・マイアー
(1788-1855)
ナポリ家
James de Rothschild.jpg
ジェームズ
(1792-1868)
パリ家

フランクフルト家(1901年閉鎖)[編集]

ウィーン家(1938年閉鎖)[編集]

ロンドン家[編集]

ナポリ家(1901年閉鎖)[編集]

パリ家[編集]

アメリカン・ロスチャイルド[編集]

彼らを公開されている系図から探し出すことは困難である。しかし、役職等から一族であることが推察できる。

他、英語版にも掲載されていない者が多数[82]

ロスチャイルドに関する著作[編集]

Ascott House(英語) イギリスのバッキンガムシャー 元は農家の家であったが、1873年にイギリスの分家によって取得されて増築され、ロスチャイルド家の別荘となった。広い敷地を持ち、その敷地面積は13 km² になる
  • ロスチャイルド家 世界を動かした金融王国 中木康夫 誠文堂新光社, 1960
  • ロスチャイルド ヨーロッパ金融界の謎の王国 ジャン・ブーヴィエ 井上隆一郎訳 河出書房新社 1969 世界の企業家
  • フレデリック・モートン『ロスチャイルド王国』高原富保訳、新潮選書、1975年
  • ギー・ド・ロスチャイルド『ロスチャイルド自伝』酒井傳六訳、新潮社、1990年
  • 広瀬隆『赤い楯 ロスチャイルドの謎』集英社、1991年 のち文庫
  • ロスチャイルド世界金権王朝 一極世界支配の最奥を抉る! ジョージ・アームストロング 馬野周二監訳 徳間書店, 1993.2.
  • デリク・ウィルソン『ロスチャイルド──富と権力の物語』本橋たまき訳、新潮文庫、1995年
  • 横山三四郎『ロスチャイルド家──ユダヤ国際財閥の興亡』講談社現代新書、1995年
  • ロスチャイルド自伝 実り豊かな人生 エドマンド・デ・ロスチャイルド 古川修訳. 中央公論新社 1999.10.
  • ロスチャイルド夫人の上流生活術 ナディーヌ・ロスチャイルド 伊藤緋紗子訳. PHP研究所, 2001.11.
  • ロスチャイルド家の上流恋愛作法 愛される女性たちの秘密 ナディーヌ・ロスチャイルド 鳥取絹子訳 ベストセラーズ, 2002.9.
  • ヨアヒム・クルツ『ロスチャイルド家と最高のワイン―名門金融一族の権力、富、歴史』瀬野文教訳、日本経済新聞出版社、2007年
  • ユースタス・マリンズ『世界権力構造の秘密』成甲書房、2007年
  • 世界最大のタブー『ロスチャイルドの密謀』ジョンコールマン博士+太田龍 著、成甲書房、2007年
  • 富の王国ロスチャイルド 池内紀 東洋経済新報社, 2008.12.

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「赤い盾」と訳す書もあるが、ドイツ語の「シルト」には男性名詞と中性名詞があり、男性名詞は「盾」だが、中性名詞は「表札」の意味である。ロートシルトのシルトは中性名詞の「表札」の意である[6]
  2. ^ マイアーが初めてヴィルヘルム9世の引見を受けられたのも1789年のことである[14]

出典[編集]

  1. ^ An historic motto of Rothschild family
  2. ^ 横山(1995) p.59
  3. ^ a b モートン(1975) p.22
  4. ^ ブーヴィエ(1969) p.15
  5. ^ クルツ(2007) p.21-22
  6. ^ a b c クルツ(2007) p.25
  7. ^ モートン(1975) p.23
  8. ^ クルツ(2007) p.27-28
  9. ^ モートン(1975) p.24-27
  10. ^ ブーヴィエ(1969) p.18-19
  11. ^ 横山(1995) p.60
  12. ^ クルツ(2007) p.34-35
  13. ^ モートン(1975) p.28-29
  14. ^ a b ブーヴィエ(1969) p.20
  15. ^ モートン(1975) p.29/33
  16. ^ モートン(1975) p.29-36
  17. ^ 横山(1995) p.61
  18. ^ クルツ(2007) p.35
  19. ^ モートン(1975) p.36
  20. ^ クルツ(2007) p.30-31
  21. ^ クルツ(2007) p.32/36
  22. ^ 横山(1995) p.62-63
  23. ^ 池内(2008) p.42/44
  24. ^ クルツ(2007) p.35-36
  25. ^ モートン(1975) p.38-39
  26. ^ クルツ(2007) p.33/36
  27. ^ モートン(1975) p.39-43
  28. ^ 小倉・大沢(1994) p.141-142
  29. ^ クルツ(2007) p.36-37
  30. ^ 横山(1995) p.65-66
  31. ^ モートン(1975) p.43
  32. ^ 横山(1995) p.67-68
  33. ^ モートン(1975) p.48-50
  34. ^ 大澤(1996) p.233/238
  35. ^ 小倉・大沢(1994) p.142
  36. ^ クルツ(2007) p.42
  37. ^ クルツ(2007) p.43
  38. ^ 横山(1995) p.75
  39. ^ 池内(2008) p.42-43
  40. ^ 横山(1995) p.72
  41. ^ 池内(2008) p.46-47
  42. ^ 横山(1995) p.68-70
  43. ^ モートン(1975) p.51-53
  44. ^ クルツ(2007) p.54
  45. ^ 横山(1995) p.74-75
  46. ^ クルツ(2007) p.80-81
  47. ^ 池内(2008) p.50/75-82
  48. ^ 横山(1995) p.95-96
  49. ^ 横山(1995) p.192-196
  50. ^ 横山(1995) p.111
  51. ^ 横山(1995) p.100-105/112-113
  52. ^ 池内(2008) p.146
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  56. ^ 池内(2008) p.146-147
  57. ^ クルツ(2007) p.131
  58. ^ クルツ(2007) p.132
  59. ^ 横山(1995) p.179-181
  60. ^ クルツ(2007) p.132-134
  61. ^ 池内(2008) p.156
  62. ^ 横山(1995) p.182
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  64. ^ クルツ(2007) p.138
  65. ^ 横山(1995) p.122
  66. ^ 池内(2008) p.167
  67. ^ 横山(1995) p.129-130
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  69. ^ 池内(2008) p.175-180
  70. ^ 横山(1995) p.141-145
  71. ^ クルツ(2007) p.152
  72. ^ Banque privée Edmond de Rothschild Annual report 2011”. edmond-de-rothschild.ch. 2012年7月閲覧。
  73. ^ Banking activities organisation chart of Rothschild”. Paris-orleans.com. 2011年7月15日閲覧。
  74. ^ Paris Orléans Annual report 2011/2012”. paris-orleans.com. 2012年9月11日閲覧。
  75. ^ a b Compare All UK Investment Trusts - Money.co.uk
  76. ^ Rothschilds buy into Rockefeller wealth business”. uk.reuters.com. 2012年7月19日閲覧。
  77. ^ RIT Capital Patners Annual report 2012”. ritcap.co.uk. 2012年7月19日閲覧。
  78. ^ Bloomberg Global Financial Advisory M&A Rankings
  79. ^ Swiss Banks Buck Secrecy Squeeze With $53 Billion of Inflows Bloomberg
  80. ^ ヨアヒム・クルツ著 『ロスチャイルド家と最高のワイン』 2007年 日本経済新聞社 256頁
  81. ^ Kiley, David, BusinessWeek. “Winning Back Joe Corkscrew”. 19, July, 2012閲覧。
  82. ^ 広瀬隆 『ジキル博士のハイドを探せ データベース全地球取材報告』 1988年4月 (ダイヤモンド社) 217頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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