大陸封鎖令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

大陸封鎖令(たいりくふうされい)は、フランス帝国とその同盟国の支配者になったナポレオン1世が、その当時産業革命中のイギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして1806年に発令した経済封鎖命令である。ベルリンで発令されたのでベルリン勅令(le décret de Berlin)とも呼ぶ。

経緯[編集]

1806年11月21日に発令されたが、フランス国民とフランスの同盟国との軋轢を生み、かえってナポレオンに対する敵愾心を強める結果となってしまった。フランスに従属した欧州諸国や北欧は大陸封鎖に参加を余儀なくされた。しかし大陸諸国は豊かな経済力をもつイギリスと通商ができなくなったため、経済的困窮を招くことになってしまった。この封鎖はある程度の成功を見たが、その同盟国は恩恵を受けることができず、不満や不平がのし掛かっていくこととなった。

イギリス側も決して無傷だったわけではない。次第に経済は不況となり、フランス側の私掠船が暗躍し、商船は略奪され、国内では国民の暴動が発生、国王ジョージ3世は精神に異常をきたし、首相スペンサー・パーシヴァルは暗殺された。また、逆にフランスを封じ込めるために海上封鎖に出たことで、当初中立を宣言していたアメリカ合衆国と利害が対立し、1812年に米英戦争が勃発した。「イギリス史上最も困難な局面」を迎えたのである。

大陸封鎖令は欧州でははなはだ人気がなく、反ナポレオン政策を取ったスウェーデンが拒否する。しかしナポレオンはロシア帝国をけしかけ、スウェーデンを屈服させて封鎖令に参加させる。だが離反国は後を絶たず、ポルトガルが協力を渋った。ゆえにナポレオンはイベリア半島への派兵を決断したが、そのためにスペインの政争に介入せざるを得なくなり、イベリア半島戦争の泥沼に巻き込まれていく。効果の上がらない大陸封鎖の実状を見て取ったロシア帝国は、1810年、大陸封鎖令を破りイギリスと通商を再開する。ナポレオン1世は法令を破ったロシアを罰しようとロシア遠征(1812年)を企てたが、ロシア側の焦土作戦などで大敗を喫し、没落を招く結果となった。

評価[編集]

大陸封鎖はもともと次のような矛盾をはらんでいた。

  1. これはイギリスに代わるフランス産業の大陸市場独占であり、軍事支配と絡んでフランスの従属政策への不満が強まる。
  2. イギリスほど機械化の進んでいないフランス産業は、イギリスに代わる役割を果たすことが出来ない。
  3. 大陸諸国家は貿易を基盤とするオランダやハンザ都市、農業国のロシア、プロイセン、イタリア、スペイン、工業の比較的発達した西南ドイツなど多様な国民経済を持ち、それらはイギリスとの貿易関係を抜きにしては存在できない。

総体的に見れば、1806年以降のナポレオンの戦争は全て大陸封鎖令に関わっている。つまりイギリスからの貨物の荷揚げを阻止しようとすれば、欧州諸国を力尽くでも大陸封鎖令に協力させねばならなくなり、この戦略にしたがってドイツローマイベリア半島ロシアと言った諸国に大陸軍による侵攻をかけることになったのである。ナポレオン戦争の一面にはこの様な経済的要因も絡み、単なるナポレオンによる欧州征服の野心のみで行なわれたわけではなかった。

結果ナポレオンはその論理的帰結として帝国の拡張に走らざるを得なくなり、大陸封鎖令とそれに伴うイギリスとの確執がナポレオンの没落の決定的な要因となったのである。

参考文献[編集]