第五次対仏大同盟

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第五次対仏大同盟(だいごじたいふつだいどうめい, Fifth Coalition, 1809年4月9日 - 1809年10月14日)は、ナポレオン1世フランス帝国による覇権に挑戦するため、オーストリア帝国イギリスが結成した同盟である。

同盟[編集]

1808年、ナポレオンの覇権は欧州の全域に及びつつあった。しかし、海上ではイギリスが依然として制海権を握り海上封鎖を続けていた。そしてまたスペインではフランスの統治が現地住民の反感を呼びゲリラが各地で決起していた。イギリスはアーサー・ウェルズリーを派遣してスペインの反乱勢力を支援させた。いわゆる半島戦争が開始されたのである。こうした陸海でのナポレオンのつまづきを見たオーストリア帝国は、1809年4月9日イギリスと第五次対仏大同盟を結成し、1805年のプレスブルクの和約で失った領土の奪還へと乗り出した。

第五次対仏大同盟に参加した国家は以下のとおりである。

1809年オーストリア戦役[編集]

アスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンに勝利したカール大公
ヴァグラムの戦いのナポレオン

エックミュールの戦い[編集]

アウステルリッツの戦いでの屈辱的敗北の後、オーストリアは再戦を期して軍制改革を実施した。カール大公が総司令官に就任し、フランス流の軍団編成を導入した。さらに、旧来の傭兵軍に加えて、ドイツ系住民を中心とする国民軍である「国防軍」(Landwehr)を創設した。国防軍からは15,000人が1809年の戦役に参加し、後には24万人の軍隊に成長する。1809年4月9日、カール大公率いる20万のオーストリア軍主力は、フランスの同盟国バイエルンへの侵攻を開始。同時にフェルディナント大公の軍団がワルシャワ公国へ、ヨハン大公の軍団がイタリアへ侵攻した。

フランス軍は事前にオーストリア軍の動員を察知していた。総参謀長ベルティエは、直ちにライン同盟駐留のダヴーウディノルフェーブルマッセナらの部隊を動員した。ナポレオン本人もパリを発して、4月18日には前線のインゴルシュタットに到着した。前線のフランス軍と同盟軍は18万に達したが、当時フランス軍の精鋭はスペインにあり、集結できたのは二線級の部隊であった。だがナポレオンはオーストリア軍の分散状況を見抜き、即座に反撃に転じた。

ナポレオンは主力の9万を率い、4月20日にアベンスベルクでオーストリア軍の前衛を突破。オーストリア軍右翼をダヴーに任せ、オーストリア軍左翼を追撃して南下。21日にランツフートでオーストリア軍左翼を破り、反転北上して、22日のエックミュールの戦い英語版でカール大公率いるオーストリア軍右翼を撃破した。カール大公はドナウ川の北岸に退却した。

アスペルン・エスリンクの戦い[編集]

同じ頃ポーランドでも、ポニャトフスキの率いるワルシャワ公国軍が、ラシンの戦い英語版(4月19日)でオーストリア軍に勝利した。ナポレオン率いるフランス軍主力はドナウ川南岸を東進し、5月13日にオーストリアの首都ウィーンに無血入城した。カール大公もオーストリア軍をドナウ川の対岸に集結させ、決戦の構えとなった。

5月18日から20日にかけて、フランス軍はドナウ川の中洲のロバウ島を占領して仮橋をかけ、対岸のアスペルンからエスリンクの一帯に橋頭堡を築いた。だがオーストリア軍の破壊工作によって仮橋がしばしば流され、十分な兵力を渡河させることができなかった。5月21日-22日、オーストリア軍は半渡のフランス軍に対して攻撃をかけ勝利を収めた。このアスペルン・エスリンクの戦いはナポレオン自身の指揮による初めての敗北となった。兵員の損害もさることながら、最も信頼する部下のランヌが戦死するという、ナポレオン自身にとって非常に辛い敗北であった。

ヴァグラムの戦い[編集]

ナポレオンはイタリア方面からのウジェーヌ軍団などの来着を待って、再び決戦を挑んだ。7月4日、暴風雨を衝いて夜間に前衛部隊がドナウ川を渡河し、5日夕刻までに一気に14万が渡河に成功した。7月5日から6日にかけて行われたヴァグラムの戦いで、フランス軍は多大な損害を出しながらもオーストリア軍に対して勝利を収めた。7月12日に休戦が成立し、オーストリアは再びフランスに屈服した。

この間にイギリスはネーデルラントワルヘレン島英語版とスペインに兵員を派遣していた。南北からフランスの切り崩しを狙ったのだが、オーストリアが早々に降伏したため、ネーデルラントのイギリス軍は目立った戦果を挙げることもなく撤退した。スペインのイギリス軍も、攻勢に出たもののすぐに頓挫したため、12月には大半が撤退した。

戦後処理[編集]

10月14日、シェーンブルンの和約が締結され、オーストリアは広大な領土を割譲させられた。さらに1810年にはオーストリア皇女マリー・ルイーズがフランスの皇后に迎えられた。このころナポレオンの覇権は、オランダハンブルクローマなどを併合したフランス帝国の他、支配下のイタリア王国、兄ジョゼフ・ボナパルトが王位にあるスペイン、弟ジェローム・ボナパルトが王位にあるヴェストファーレン王国、義弟のミュラが王位にあるナポリ、同盟国のスイス連邦、ライン同盟ワルシャワ公国に及び、ナポレオンの絶頂期と評される。

参考文献[編集]

  • 佐藤堅司(著), 『ナポレオンの政戦両略研究』, 愛宕書房, 1944