1812年ロシア戦役

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サンクトペテルブルクカザン大聖堂モスクワ救世主ハリストス大聖堂にはナポレオンに対するロシアの勝利を記念して戦勝記念碑が建立されている。ペテルブルクのカザン大聖堂前広場で撮影。

1812年ロシア戦役: La Campagne de Russie menée par Napoléon en 1812, :Отечественная война)は、1812年に、ロシア帝国大陸封鎖令を守らないことを理由にフランス帝国ナポレオン1世がロシアに侵攻し、敗北、退却するまでの一連の歴史的事件のことである。ロシア語の呼称については下記参照。

1812年のナポレオン1世によるロシア帝国への侵攻はナポレオン戦争の転換点となった。この遠征はフランス帝国とその同盟軍からなる侵攻軍を当初の兵力から2%未満に激減させた。ロシア文化に与えた影響は、レフ・トルストイの『戦争と平和』や旧ソ連独ソ戦1941年 - 1945年)と同一視していたことに見られる。

戦争名称[編集]

1941年までこの戦争はロシアでは 祖国戦争:Отечественная война, Otechestvennaya Voyna)として知られ、1941年以降は1812年祖国戦争と呼ばれるようになった。旧ソ連政府が第二次世界大戦大祖国戦争独ソ戦争)の方を強調したためである。

ロシアではこの戦争を「1812年戦争」と呼ぶこともあるが、イギリスアメリカ合衆国では、「1812年戦争」といえば米英戦争を指す。

侵攻[編集]

抵抗軍[編集]

1812年6月、ヨーロッパ史上最大の691,500人からなるフランス帝国大陸軍 (La Grande Armée) はネマン川を渡り、モスクワに到達しようとしていた。

大陸軍は下記のように分かれていた。

加えて80,000の「国民防衛軍」がワルシャワ公国の国境の防衛のために召集された。ロシア国境の全フランス帝国軍も含めたこれらを以て、771,500人ほどがロシアに侵攻しようとしていた。他にフランス帝国には、イベリアで戦闘中の30万人とドイツとイタリアの20万人以上を超える兵力があった。これは、帝国に敵対する他の勢力の兵力を圧倒していた。

45万のフランス軍が遠征軍の大部分を形成し、同盟軍が残りを形成していた。オーストリアから派遣されたシュヴァルツェンベルクの部隊に加えて、およそ95,000人のポーランド兵、90,000人のドイツ兵(24,000人がバイエルン王国、20,000人がザクセン王国、20,000人がプロイセン王国、17,000がヴェストファーレン王国ライン同盟諸邦から数千)、25,000人のイタリア兵、12,000人のスイス兵、4,800人のスペイン兵、3,500人のクロアチア兵、2,000人ポルトガル兵がいた、さらに、オランダ、ベルギーからの派遣軍がいた。これらは、ナポレオンに倒され、帝国に再編された国々である。

最近の説によれば、当初のロシア軍の兵力はフランス軍より少なかったという。280,000人ほどのロシア兵がポーランド国境に展開していた(皇帝アレクサンドル1世はフランスの衛星国家ワルシャワ公国侵攻計画を準備していた)。戦争前夜の全ロシア陸軍はおよそ50万人であった(35 - 71万という説もある)。ここには主要な3個軍団が含まれていた。

こうした兵力で、ナポレオン軍とすぐに対峙できるロシア軍は、392,000人を数えた。さらに首都サンクトペテルブルクの治安維持は、スウェーデンオスマン帝国が行い、100,000人以上の兵力が使えることになった。こうした対処でロシア軍は規模を拡大させ、7万 - 8万いたコサック兵を含めなくても、9月までに兵力は900,000人程になった。

モスクワ進軍[編集]

1812年6月23日に侵攻は始まった。ナポレオンは作戦前にサンクトペテルブルクへ最後通牒を送っていたが回答を受け取ることはなく、ロシア領ポーランドへの進軍を命じた。当初ほとんど抵抗を受けずに、敵地に速やかに移動した。ロシア軍総司令官バルクライはバグラチオンの要請にも拘わらず、戦闘を拒否した。数回にわたって強固な防衛陣地構築を試みたが、その都度フランス軍の侵攻の速度が早くて準備が間に合わず、退却を余儀なくされた。これはしばしば焦土作戦の例として使われる。

8月に入りスモレンスクで戦闘が始まった(8月16日 - 18日)。大陸軍の兵力はここまで戦闘らしい戦闘を一度もしていなかったにもかかわらず、強行軍に耐えきれずに、飢え、疲労、逃亡などにより脱落する兵士が続出したことにより15万5千に激減していたが、決着はつかなかった。スモレンスクの戦闘後、バルクライは総司令官を解任され、8月20日ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフが後任に就任した。バルクライの作戦の欠点を誇張したにもかかわらず、クトゥーゾフはフランス軍との交戦で無益な犠牲をロシア軍にもたらすことをすぐに理解して、バルクライの手法の多くを継承した。防護陣をボロジノに布くことにし、9月7日にはボロジノの戦いが起こった。 ロシア軍は9月8日に退却を余儀なくされ、モスクワへの道を明け渡した。クトゥーゾフは市街からの撤退も命じた。

この時までにロシア軍は、モスクワ近郊の10万人(ボロジノで打撃を受けたクトゥーゾフ軍の残存兵力に部分的な増援が加わった)を含め、全軍で904,000人を数え、兵力は1812年の戦役における頂点に達した。

モスクワ制圧[編集]

モスクワのフランス軍

9月14日、ナポレオン軍はフョードル・ロストプーチン市長によって全てのライフラインの供給を止められた空のモスクワ市街に進軍した(ナポレオン自身は翌15日朝に入った)。この時大陸軍兵力は11万。敵の首都を(当時のロシアの実際の首都はサンクトペテルブルクであったが)攻略する際に目指している目的の古典的決まりをあてにすれば、ナポレオンはツァーリアレクサンドル1世がパクロンナヤ・ガラ(降伏の丘)で降伏を受諾すると期待していた。

しかし、ロシアの司令官は降伏しなかった。その代わり、モスクワで火災が起こり9月14日から18日(ロシアの旧暦では9月2日 - 6日)まで市街で猛威をふるった。モスクワは主要な建物は木造のため市街はほぼ全焼し、フランス軍が市内に留まるのを阻んだ(火災はロシア軍の焦土作戦の一環だったことが考えられている)。

3度に及ぶ和議提案も空しく、フランス軍は灰燼に帰したモスクワ市街で無為な時間を過ごした。さらにフランス軍をモスクワ市街から追い出そうとするロシア軍の展開を受け、10月19日、ナポレオンはモスクワからの退却を開始した。ナポレオンはモスクワ撤退の際、モルティエ将軍にクレムリンや公共建造物の爆破を命令したが、大雨とロシア兵の到着のため、3つの塔、城壁の一辺、兵器庫の一部の破壊にとどまった[1]

ナポレオンは後に「あれより2週間早くモスクワを発っていれば、タルティノ近郊に布陣するクトゥーゾフ軍を撃破できたであろう」と回顧している。

制圧から退却するまでの1ヶ月の間に兵力はさらに減少。退却時の兵力は10万になっていた。

退却[編集]

シャルル・ミナールの表。大陸軍の遠征中の兵力の推移。下の表は撤退時に記録した温度(レ氏)。-30°R = -37.5°C
「ナポレオンのモスクワからの退却」、アドルフ・ノーザン作(19世紀)

10月24日のマロヤロスラヴェツの戦いではフランス軍が辛勝したが、クトゥーゾフはフランス軍をスモレンスク街道経由の退却へと追い詰めることには成功した。スモレンスク街道はフランス軍がモスクワ遠征の往路に使用した道で、すでに両軍の戦いで焦土化しており、食糧補給は望めない状態であった。クトゥーゾフは南の脇道を塞いでフランス軍が別の経路を取れないようにし続けながら、再びパルチザン部隊を配置してフランス軍の輜重隊の弱い部分を絶えず攻撃した。コサック騎馬兵を含むロシア軽騎兵隊は、フランス部隊を襲撃し、阻み、孤立させた。

兵站は滞り、飼い葉が欠乏して馬の維持が難しくなり、馬のほとんどが餓死するか食料として飢えた兵士に殺された。馬がなくなったことでフランス騎兵は存続できなくなり、騎兵たちは徒歩で進軍することを余儀なくされた。 さらに馬の激減はカノン砲車両の廃棄につながり、それは砲兵隊・支援部隊の喪失を意味した。ロシアに多数の車両を置き去りにしたことは、ヨーロッパ大陸でのフランス軍の兵站にも後々大きな悪影響を与えた。

飢餓と疾病、厳寒で死傷者が出始めたため、脱走兵が急増した。殆どの脱走兵は捕虜になるか、ロシアの農民に殺された。1812年11月始めには飢えと凍傷、行軍による疲労で兵士と馬が死に始めた。さらにヴャジマ、クラスノイ、ポロツクでもロシア軍がフランス軍部隊を襲い大きな損害を出した。それにより11月3日には兵力は5万に減り、11月8日にスモレンスクに到着した時には3.5万に減った。11月6日、ナポレオンはマレーフランス語版将軍が10月23日にフランスでクーデターを起こしたことを知った。11月28日、ドニエプル川の支流ベレジナ川ポンツーン橋を仮設。この時クトゥーゾフは交戦の時機と判断し、大陸軍を攻撃。橋を渡り終えていなかったフランス軍部隊はロシア軍部隊に襲撃され多くの犠牲者が出た。この凄惨な戦いを「ベレジナ渡河作戦」と言う。この時兵力は3万に低下。

12月5日、ナポレオンはミュラ元帥に後事を託して橇で帰国した。ミュラは後にナポリ王国を守るためにナポレオンの義理の息子だったウジェーヌ・ド・ボアルネに部隊を任せて脱走した。

その後は大部隊の残存兵は激減し、1812年12月14日、ロシア領内から駆逐された。22000名の将兵が生き延びたに過ぎない。最終的に大陸軍は60万から5千まで減った。戦闘によるロシアの死傷者はフランス軍と大差ないが、戦線の通過で荒廃した地域の住民の死傷者は軍隊を上まわっている。全体としておよそ数百万人が死亡したと見られ、仏露で等分すると約100万人が殺された。フランス軍は30万人、ポーランド軍は7万人、イタリア軍は5万人、ドイツ軍は8万人、ロシア軍は恐らく45万人を失った。人命同様にフランスは馬20万頭と大砲1000門も失った。

ロシア語で「乞食」や「ペテン師」を意味するシャロムイジニク (ロシア語: шаромыжник) は、フランス語の cher ami (「親愛なる友」)に語源があり、尋常でない冬の寒さに兵士が地元住民に物乞いをしたことから来ている。

歴史的評価[編集]

冬宮の軍事ギャラリーに掲げられたロシアの英雄の肖像画

1812年にロシアがフランスに勝利したことは、ナポレオンのヨーロッパ制覇の野望に対する大打撃になった。1805年トラファルガーの海戦フランス海軍が撃破されたように、ロシア遠征はナポレオンをエルバ島へと流刑にする、ナポレオン戦争の転換点であった。ロシアにとって「祖国戦争(: Patriotic Warr、露:Отечественная война)」は19世紀のロシア人の愛国心に対して大きな影響を及ぼすことになる、「強化された民族主義」の象徴になった。ロシアの愛国(民族)主義運動の間接的結果は、デカブリストの乱に始まり、1917年2月革命で終わる、一連の革命へと繋がる国の近代化への強い要求であった。

ナポレオンはロシアで完膚なきまでに叩かれたわけではなかった。1年後、ドイツの覇権を争う一層大きな大遠征において、2万5千の同盟軍の支援を受けた40万のフランス軍を送り込んだ。1813年10月16日から19日ライプツィヒの戦いになってようやくナポレオンは敗北し、それでもなお1814年フランス戦役を継続した。

しかし、対ロシア戦争でナポレオンは無敵でないことが明らかになり、プロイセン民族主義者とロシア軍指揮官の要請でドイツ民族主義者がライン・プロイセン連合を通じて反乱を起こした。

ロシアの司令官たち[編集]

参考[編集]

  • 1812: Napoleon's Fatal March on Moscow, Adam Zamoyski, HarperCollins, 644 Pages. ISBN 0007123752
  • Blundering to Glory:Napoleon's Military Campaigns (2nd edition) Owen Connelly. 254 pages. ISBN 0842027807
  • エ・タルレ『奈翁モスクワ敗退記』昇曙夢(訳)、育生社、1939年
  • レオ・トルストイ『モスクワ遠征』外山卯三郎(訳)、肇書房、1942年
  • ダニレフスキイ『戦争叢書 モスクワ攻略戦史』(上下巻)国防研究会(訳)、中央公論社、1943年
  • クラウゼヴィッツ『ナポレオンのモスクワ遠征』外山卯三郎(訳)、原書房、1982年

脚注[編集]

  1. ^ ナイジェル・ニコルソン著「ナポレオン一八一二年」中公文庫

関連項目[編集]

外部リンク[編集]