コサック

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コサック・ママーイ。コサックの理想像。

コサック哥薩克ウクライナ語козак[1])は、ウクライナと南ロシアなどに生活していた軍事的共同体、またはその共同体の一員である。

概要[編集]

遊び中のコサック(ティモフィイ・カルィーンシクィイ、1786年)。

コサックの起源については不明な点が多い。15世紀後半にコサックは、ウクライナの中南部、「荒野」という草原地帯で発祥し、ドニプロ川の中流を中心とするザポロージャ地方に根拠地を築いた。16世紀にコサックの一部はドン川の下流に移住し、そこで新たな根拠地を創立した。それらのコサックはザポロージャ・コサック[2]ドン・コサック[3]と呼ばれ、コサック諸軍の中で最古軍であった。初期のコサックは、没落した欧州諸国の貴族遊牧民盗賊によって構成され、河川が豊かな土地を有する自治共同体を編成し、黒海アゾフ海の北岸地帯で略奪行為を行い、東欧におけるキリスト教の世界の先隊としてイスラムの諸勢力と戦った。

16世紀後半にコサックは隣国の保護を受け、正式な軍団として公認された。ウクライナのザポロージャ・コサックはポーランド・リトアニア共和国に属するようになり、ドン・コサックはロシア・ツァーリ国に依存するようになった。しかし、両国はコサックを軍事力として利用しながら、コサックの自治権を縮減してコサックの領地を自国にものにする政策を実行していたためにコサックはしばしば保護国に対して叛乱を繰り返した。

叛乱の中で特に規模が大きかったのは1648年フメリヌィーツィクィイの乱1670年ラージンの乱であった。後者はドン・コサックの失敗に終わり、ドン地帯はロシア領となった。それに対して、前者はウクライナにおけるザポロージャ・コサックの国家を誕生させ、ポーランド・リトアニア共和国の衰退を促した。コサックの国家は、独立を維持するためにロシアの保護を受けたが、ポーランド王国オスマン帝国クリミア・ハン国に対する盾となり、東欧におけるロシアの強国化に貢献した。

17世紀後半から18世紀にかけてロシアに対しドン・コサックは、ラージンの乱1670年 - 1671年)、ブラヴィンの乱ロシア語版英語版プガチョフの乱1773年 - 1775年)などを起こしたが、いずれもロシア軍によって鎮圧された結果、ドン・コサックは完全にロシアの体制に取り込まれた。一方、ザポロージャ・コサックは大北方戦争の際にロシアに反発したり、コサック国家の近代化によって自国存続を強く意識したりしていたので、18世紀末に「分離主義者」としてロシア帝国によって滅亡させられた。

19世紀に入ると、ロシアにおけるコサックは貴族・聖職者・農民・商人とならぶ階級の一つとなり、税金免除の引き換えに騎兵として常の兵役の義務が課された。ロシアはザポロージャ・コサックとドン・コサックをモデルに植民地化すべく地域において十数のコサック軍団を編成し、それらを国境防備や治安維持などのために活用した。コサック諸軍団の中に、ドン・コサックと並んで、カフカズ戦争ロシア・トルコ戦争に高名をあげたクバーニ・コサックの役割が大きかった。

1917年ロシア革命が勃発してロシア内戦が始まると、ウクライナドンクバーニにおいてコサック三国が独立を宣言した。三国はロシア白軍およびシベリアのコサック諸軍と共にロシアの共産党とその赤軍に抵抗したが、敗北した。1918年から1920年にかけてコサック階級は排除され、コサック諸軍は廃軍となった。内戦後、裕福なコサックの一部は欧米諸国へ逃亡したが、残されたコサックは共産党による弾圧の対象となった。ソ連政権はコサックの大部分とそれらの家族全員を死刑もしくは流刑し、ホロドモールによって餓死させた。そのため第二次世界大戦においてコサックの残党はドイツ軍に味方し、ソ連軍と戦った。ドイツの敗北とともに、コサックは共同体としての姿を消した。

ソ連崩壊後、ウクライナロシアの市民団体はコサックの復帰運動を行っている。現在、ウクライナ、ロシア、カザフスタンアメリカなどにおいて「コサック軍」と名のるいくつかの組織が存在している。組織の活動はコサック文化振興から軍事支援までの広い範囲にわたっている。なお、国のレベルでコサックの遺産を受け継いでいるのはウクライナである。コサックは当国の国歌において祖先として謳われ、国章や貨幣にも描かれ、国民的英雄として敬愛されている。

語源[編集]

ドニプロ川の河岸でのコサックの見張番。

「コサック」という日本語の単語は英語の「Cossack」の発音記号に書き換えたものであるが、英語の単語はフランス語の「Cosaque」から借用した外来語である。その外来語はウクライナ語の「козак」(コザーク)に由来している。しかし、「コザーク」の語源については定説はなく、以下ほどの仮説が存在する。

  • 「コザーク」はクリミア・タタール語などのテュルク語の「Qazaq」(カザーク)に由来し、「自由の人」・「冒険家]・「放浪者」を意味している[4]
  • 「コザーク」はクマン語英語版の「Cosac」(コザク)の言葉で、13世紀に作成されたクマン語の辞典『コーデクス・クマニクス』に見られ、「番」・「警備」を意味している[5]
  • 「コザーク」はクマン語とクリミア・タタール語に由来し、「自由の人」・「冒険家]・「放浪者」・「番人」・「盗賊」・「傭兵」などの多様な意味合いを持つ外来語である[6]

現在の研究史によって却下された仮説は次のようなものである。

  • 中世後期のポーランドの歴史学者によれば、「コザーク」は古代コサックの頭領であったコザークという人物の名前に由来している[7]
  • 近世のポーランドの学者によれば、「コザーク」は、ウクライナ語の「コザー」(山羊)に由来している。理由は、コサックが山羊のように身動きが軽くて素早いであること、[8] また、コサックが野生の山羊を狩猟していたこと[9]からであるという。

経緯[編集]

ウクライナ・コサック[編集]

回教徒の頸を串指しにしている凱旋のウクライナ・コサック(ティモフィイ・カルィーンシクィイ、1786年の画像)。

コサックは、本来は14世紀後半から現在のウクライナに当たる地域を治めていた自治集団のことであった。ウクライナ語の発音に近い表記は「コザーク」となる。一般に、最も有力だった「ザポロージャ・コザーク」が「ドニプロ・コサック」または「ウクライナ・コサック」の一つ集団として知られている。現在のウクライナの地域にあったコサック集団はそこにあった町や村の数だけあったと言え、それらが基本的には互いに独立して西欧における小国家(ドイツ地域の王国、公国などのような)と同じような小共同体を形成していた。

ウクライナはバトゥ率いるモンゴル帝国の襲来により中央集権国家キエフ・ルーシが崩壊した後、リトアニア大公国ポーランド王国モスクワ大公国等様々な周辺国によって支配されてきた経緯があるため、コサックもそれら様々な勢力に属し、或は独立を求めて反旗を翻してきた。ポーランドに対し叛乱を起こしたボフダン・フメリニツキー、ロシアに対して叛乱を起こしたイヴァン・マゼーパは特に有名である。しかしながら、ウクライナのロシア・ツァーリ国への併合によって、ウクライナのコサックの独立は失われた。

ロシア・コサック[編集]

ロシア・コサックは、ウクライナのコサックをモデルにロシア帝国によって編成された半農武装集団である。ロシア帝国のコサック兵は、アストラハンアムールクバーニテレクドンウラル英語版ザバイカルなどの特別軍管区に生活し、平時には農耕を行い、有事には軍務を行うことを条件に特権的な土地使用を認められた階級をなしていた。

なお、ロシア語では、コサックは「カザーク」と呼ばれる。ロシア・コサックは、しばしば異民族の富やツァーリからの恩賞を求めてアジアへと進出し、北・東アジアにおけるロシア植民地化政策に多く貢献した。ロシア革命とそれに続くロシア内戦の際には、コサック兵たちは反革命側の強大な軍事勢力を形成し、各地で赤軍と大規模な戦闘を繰り広げた。クバーニなどのコサックはツァーリの処刑後独立を宣言したが、こうした「独立政権」は旧ロシア帝国領内に無数に誕生した。

日露戦争[編集]

日露戦争中のコサック。

1904年に日露戦争が勃発すると、ロシア帝国の極東に駐屯するアムールザバイカルウスリ英語版シベリア英語版のコサック諸軍が動員された。1904年4月にザバイカル・コサックが戦線に出発し、それに続くシベリア・コサック師団(4連隊)、ウラル・コサック旅団(2連隊)、ウスリ・コサック連隊、クバーニ=テレク・コサック混合連隊も戦地に赴いた。さらに7月にオレンブルク・コサック英語版師団(4連隊)も加わった。コサックの諸部隊は、南満州での鴨緑江会戦遼陽会戦沙河会戦などに参加したが、ロシア軍の司令官に判断力が不足していたため、コサックの騎兵は力を発揮することができなかった。一方、ザバイカル・コサックの歩兵と砲兵は旅順防戦に参加し、二百三高地の防衛で活躍した。旅順防戦で活躍したロシア軍側の司令官ロマン・コンドラチェンコと大砲隊の指揮官ヴァスィーリ・ビールィイも、ウクライナ・コサックの家系である。

1904年9月に第4ドン・コサック師団(4連隊)が戦地に到着し、それに続く1905年4月にカフカス・コサック混合師団(クバーニ・コサックの2つの連隊と、テレク・コサックの2つの連隊)ならびに第2クバーニ歩兵連隊(6大隊)が満州についた。パウロー・ミーシチェンコ大将が率いるコサックの諸部隊は1904年12月に営口市を襲撃し、1905年1月に黒溝台会戦にも参加した。さらに、1905年2月にシベリア・コサックは17日にわたる奉天会戦にも戦った。5月から6月にかけて、ミーシチェンコ大将のウラル・ザバイカル・クバーニ・テレクのコサック混合部隊は日本軍の陣地の背後を襲撃して荒らしたが、戦況を変えることはできなかった。

コサックの滅亡[編集]

ドイツ国防軍のコサック部隊

ソビエト連邦は、コサックを反革命分子と見なし、スターリンも、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承した。それにより、440万人の70%、308万人が、戦死、処刑、流刑死で抹殺された。クバーニドンなどの地域で弾圧とホロドモールによって徹底的に抹殺した。弾圧を逃れたコサックの多くは海外に逃れた後に、第二次世界大戦においてドイツ軍に協力した。第二次大戦が終わると一部が欧米諸国へ逃亡するものの、ソ連軍に強制連行されるなどして過酷な運命を辿った。

その一方でソ連政府は、1936年に共産党に従順なコサックを中心に赤コサック軍として編成し始めたが、基準に合ったコサックは殆どいなかったので、内務人民委員部の士官や赤軍の兵士、そして非コサックであった町人や農民が赤コサック軍の多数を占めた。結果として、クバーニやドンなどでは従来のコサックの姿は殆ど消え、赤コサック軍の軍人が住居するようになった。

復帰の試み[編集]

1991年にソ連が崩壊し、ウクライナとロシアにおいて政治家や市民団体はコサックの復帰運動を開催した。

ロシア連邦で「ロシアの国土を広げ、それを守る愛国者」と見直しは進められ、プーチン政権におけるロシア軍の「愛国主義養成プログラム」では「コサックの歴史」の学習が軍の幹部養成学校では必須となった[10]。現在[いつ?] 、ロシアで自ら「コサック」と名乗っている人は300万人。プーチンとロシアを熱烈に支持している。チェチェンなどの紛争にも積極的に参加している[11]。ロシア正規軍への志願とは別に義勇兵として戦地に赴くことに彼らの特徴がある。

コサックの有名人[編集]

その他[編集]

コサックに付随するものとしては、以下のようなものがある。

関連項目[編集]

コサックの反乱

脚注[編集]

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  1. ^ コザークカザークコザックなどとも書かれる。(ウクライナ語: козак コザーク, 複数形はкозаки コザクィーポーランド語: kozak コザーク, 複数形はkozacy コザーツィロシア語казак カザーク, 複数形はказаки カザキー
  2. ^ いわゆるウクライナ・コサックリトアニア大公国ポーランド王国(後にポーランド・リトアニア共和国として一体化)、ロシア帝国によって支配されたウクライナという地域(主として現在のウクライナの辺り)に住んでいたコサック。
  3. ^ いわゆるロシアのコサックロシア帝国によって支配されたドンクバーニウラル極東の地域(現在の南部のロシアの辺り)に生活したコサック。
  4. ^ (ウクライナ語) Етимологічний словник української мови: в 7 т. (ウクライナ語源辞典。7巻) / ред. Л.К. Артемєва. - К.: Наукова думка, 1985. - Т.2. – 495 с.
  5. ^ (ウクライナ語) Грушевский М.С. Нариси історії українського народу (ウクライナ民族概略史). – К.: Либідь, 1990. – 400 с.Дорошенко Д.І. Нариси історії України: в 2 т. (ウクライナ概略史。2巻)– К.: Глобус, 1991. – Т.1 - 238 с.
  6. ^ (ウクライナ語) Україна – козацька держава (コサックの国ウクライナ)/ ред. Недяк В.В.; Наукові ред. Щербак В.О., Федорук О.К. – К.: Емма, 2004. – 1216 с.
  7. ^ (ポーランド語) Stryjkowski M. Kronika Polska Litewska, Zmudzka i Wszystkie Rusi. Georg. Osterberger, Królewiec. 1582.
  8. ^ (ポーランド語) Kronika Pawla Piaseckiego, biskupa przemyslskiego. Krakow, 1870.- p. 46.、
  9. ^ Twardowski S. Wojna domowa.— Calissii.— 1681.- p.2-3.
  10. ^ 「NHKスペシャル 揺れる大国 プーチンのロシア」2009年3月23日午後10時放送「プーチンの子どもたち」(日本放送協会製作)より
  11. ^ 「新シルクロード 激動の大地をゆく」2007年6月24日(日)午後9時 「荒野に響く声 祖国へ」 より

参考文献[編集]

  • (日本語) コサック / 阿部重雄著; 新装. 教育社, 1986.
  • (日本語) 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
  • (ウクライナ語) Голобуцький В. Запорозьке козацтво. — К., 1994.
  • (ウクライナ語) Грушевський М.С. Історія України-Руси. – Т. 4-10. – К., 1993-1999
  • (ウクライナ語) Рігельман О. І. Літописна оповідь про Малу Росію та її народ і козаків узагалі / Вст. ст., упор. та примітки П. М. Саса, В. О.Щербака. — К.: Либідь, 1994.
  • (ウクライナ語) Щербак В. О. Українське козацтво: формування соціального стану.— К., 2000.
  • (ウクライナ語) Яворницький Д.І. Історія запорозьких козаків. – Т. 1.-3. – К., 1990-1993
  • (ロシア語) Висковатов А. В. Историческое описание одежды и вооружения российских войск, с рисунками, составленное по высочайшему повелению: в 30 т.: в 60 кн. — Факсимильное издание 1841–1862 гг. — СПб.: Альфарет, 2007–2008.
  • (ロシア語) Донские казаки в прошлом и настоящем / под общ. редакцией Ю.Г. Волкова. Изд-во Ростовского университета, 1998.
  • (ロシア語) История казачества Азиатской России : в 3 т. / В.В. Алексеев ; Н.А. Миненко. - Екатеринбург, 1995.
  • (ロシア語) Таирова-Яковлева Т. Мазепа. - Москва: Молодая гвардия, 2007.
  • (英語) Cossack rebellions : social turmoil in the sixteenth-century Ukraine / Linda Gordon. State University of New York Press, 1983.
  • (英語) The Cossacks of the Ukraine / New York: AMS Press, 1985.
  • (英語) Cossacks in the German army, 1941-1945 / Samuel J. Newland. London, England; Portland, Or.: F. Cass, 1991.
  • (英語) The Cossacks : an illustrated history / John Ure. Overlook, 2002
  • (英語) The Cossacks / Shane O'Rourke. Manchester University Press, 2007.
  • (ドイツ語) Die Geschichte der Kosaken: wilder Osten 1500-1700 / Klaus J. Gröper. Bertelsmann, 1976.
  • (ドイツ語) Führer und Geführte bei den Zaporogser Kosaken : Struktur und Geschichte kosakischer Verbände im polnisch-litauischen Grenzland (1550-1648) / Carsten kumke. O. Harrassowitz, 1993.
  • (フランス語) Les Cosaques de l'Ukraine : rôle historique, représentations littéraires et artistiques : actes du 5e colloque international franco-ukrainien / textes réunis et présentés par Michel Cadot et Émile Kruba. Presses de la Sorbonne nouvelle, 1995.

外部リンク[編集]